第65話
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彼女が何をニコルに伝えたかったのか。
気づかないほど馬鹿なつもりなどない。
闇色のエレッテ。ファントムがニコルより優先した儚い娘は、ニコルの母が別にいると告げたのだから。
その意味を無理矢理頭の隅に押しやって考えないようにしていただけなのだ。
考えないようにしていた理由はいくつかあって、そのうちのひとつはアリアに繋がっていた。
大切な妹なのだ。それが、血の繋がりなどないと思ってしまったら、ニコルの欲情は溢れ出して止まらなくなってしまう。
アリアの為にも、一人の女でなく妹として愛したいと強く思う気持ちだけが母への考えを遮断し続けた。なのに。
アリアが知っているというのなら。
ニコルと血の繋がりなどないことをアリアが知っているのなら。
--受け入れてくれるのではないか?
その浅ましい願望が離れて消えない。
まだ朝の早い時間帯。隣の部屋にいるだろうアリアを思いながら自室を出たニコルが目にしたのは、静かにこちらを見つめてくるセクトルの姿だった。
「早いな。ガウェに起こされたか?」
セクトルが護衛に立っていたことは今のニコルには有り難かった。
立っていたのがミシェルなら組んでいる相手はモーティシアになるし、もしレイトルだったなら目すら合わせられなかっただろうから。
小柄なセクトルは近付くニコルを見上げてきながら、相方のトリッシュは事務作業に就いているとも教えてくれる。
「…アリアは起きてるか?話があるんだ」
「まあ、この時間ならもう起きてると思うが…ちょっと待ってろ」
セクトルは深く追求することもなく扉を叩き、アリアに向けてニコルが話をしたいと願っていることを告げてくれた。そしてそのすぐ後に室内からバタバタとせわしない足音が響き、セクトルが開けるより先にアリアが「兄さん!」と叫びながら扉を思い切り押し開けてきた。
間一髪でセクトルはぶつからずに逃げたが、口元を引きつらせて軽く冷や汗を浮かべる。
「…アリア、こういう場合は出てこずに中から入室許可だ」
「あ…すみません…」
慌てるアリアに軽く注意をしてから、セクトルはニコルに中に入るよう促してくれる。
アリアもすぐに身を引いて室内に呼んでくれるから、ニコルは口を重く閉ざしたままアリアの香りで溢れた部屋へと足を踏み入れた。
扉は気を使ったセクトルが締めてくれて、室内でアリアと立ち尽くして。
「…どうしたの?何かあったの?」
先に口を開いたアリアは、困惑を隠しきれないままの笑顔を向けながらニコルをソファーまで押してくれた。
しかしここでゆっくりとくつろぐつもりはない。
「…大事な話がある…母さんのことだ」
深い闇の底に沈んでいくような声。
ニコルの言葉にアリアの身体が強張ったのは、見間違いではないだろう。
「…母さんのことを知る人がいるんだ。その人に言われた……俺は」
「兄さん…」
まるで聞きたくないとでも言うように。
ニコルの言葉を止めるアリアが、そっとニコルの腕の中に身体を預けてくる。だがそれが間違いであると気付くのはすぐだった。
ふらりと意識が遠のいて身体が傾ぐ感覚を味わいながら、アリアに身体を支えられてソファーに促される。
アリアがニコルに身体を預けたのではない。ニコルの身体が倒れそうになったことに気付いたアリアが助けてくれたのだ。
「…落ちついて…兄さん」
「……知ってたのか?」
身体の力が無情に消えていく。
自分はここまで家族という繋がりに守られていたのだと思えるほどに。
アリアはソファーに座るニコルの足元に身を落として、苦しそうな眼差しで見上げてくるところだった。
「…お前は知ってたのか?…俺が…」
その先は言えない。口にできない。でもアリアの苦しげな表情が、強張る肩が、事実を物語る。
「父さんが亡くなる前にね…教えてくれた」
少し青ざめた唇が紡ぐ真実に、また意識が遠のいた。
聴覚に異変が起きたように、アリアの声が遠くで微かに響く。
氷の海に突き落とされたように身動きが取れなくなる。
「でも…それでも家族だって…言ってくれたんだよ」
その言葉は、ニコルが王族であるという事実ではなく、血の繋がりがない事実を知るということを示していた。
遠くに響くままのアリアの声が涙に飲まれていく。
霞もうとする視界を懸命に押さえつけてアリアを見つめれば、溢れた涙が愛しい頬を悲しく濡らしているところだった。
幼少期に見続けた、ニコルの胸を締め付けるアリアの泣き顔。
愛しくて苦しくて見ていられなくて。
すがるように、アリアを抱きしめた。
「泣かないで…兄さん」
弱い力で抱きしめ返されて、ようやく自分の視界の霞の理由にも気付いて。
「……愛してる」
思わず呟いてしまった隠すべき言葉に。
「…私もだよ…兄さん」
アリアは残酷なまでに優しく、どこまでも自分達が家族であることを教えてくれた。
虚しくて胸が締め付けられるのに、手放したくないほどの優しい温もりに包まれていく。
何度も自分の中で決意してきたアリアへの思いは、何度も揺れて欲情へと傾こうとしてきた。
その優柔不断な気持ちが、ようやくするりと落ち着いてくれた気がした。
アリアは大切な妹だ。守るべき、最愛の家族だと。
「今…王城に、俺の母親を知ってるらしい奴がいるんだ…母親のことだけじゃない。親父のことも」
「…ととさんのことも?」
「ああ」
アリアを抱きしめたまま囁き、そっとその身体を離して。
その正体が何であれ彼は、ファントムはニコルの父親というだけではないのだ。アリアにとっても大切な父親でもあるのだから。
「…一緒に聞きに行こう…大事な話になるから」
アリアだけをいつまでも知らぬ世界に置いてはおけない。
知られることを怖がってもいられない。
「…そこで、俺を知ってほしい」
父の正体を。自分の正体を。
含ませた言葉の深い意味が何も知らないアリアに伝わるはずもなく、首を傾げられたから少しだけ微笑みながらまた抱きしめた。
「…何があったって、お前は俺の世界一大事な妹だ」
「…私だって…一番大切な兄さんだよ」
お互い頬を泣き濡らしながらクスクスと笑い合うのだから、なかなか滑稽で、でもとても愛おしかった。
『ーーニコル』
不思議な響きを聞かせるフレイムローズの声が響いたのはひとしきり笑い合った後だ。
聞き慣れた声にすぐにフレイムローズだと気付けたが、なぜ彼がここにいるのかと不思議になる。しかしすぐに理由はわかった。
外に出た小鳥の為にアリアが開けていたのだろう窓から、見慣れた魔眼蝶がパタパタと羽を揺らしながら部屋に侵入していたのだ。
「…何かあったのか?」
フレイムローズが守るエレッテの元にはガウェが向かったはずなのにと警戒しながら小声で尋ねれば、魔眼蝶もそろりと近付いてきて。
『俺とガウェの魔力で別の結界を張ってあの子を外に出したんだ。あの部屋だと話を聞かれるだろうから…だから、俺についてきて』
あの強力な結界の中から気付かれずにエレッテを出したというのか。ガウェの力でも魔術師たちの結界の前では微々たるもののはずで、ならばフレイムローズの力がそれほとまでに凄まじいということか。
「…悪い」
フレイムローズの行動がニコルの為なのかエレッテの為なのかはわからなかったが、小さな謝罪をフレイムローズは魔眼蝶の羽を揺らして受け止めてくれた。
『早くしないと気づかれちゃうから、外にいるから、二人で来てね』
「ああ。すぐに行く」
魔眼蝶は再び窓から外に出ると、姿を見られないよう霞ませながら地上へと舞い降りていった。
「…誰に会いに行くの?」
結界だのと物々しい言葉にアリアが警戒するが、今は気にしていられるほどの時間はない。
いくらフレイムローズの力とはいえ、長くエレッテの不在を誤魔化せるものでもないだろうから。
「来てくれ…大事な話だ。ここでは出来ない」
アリアの手を取って扉へ向かい、セクトルを待たずに扉を開ける。
「次の護衛は誰だ?」
セクトルより早く口を開けば、仲の良い友は突然のことに目を丸くしてから独り言のように口を開いた。
「…モーティシア達だ」
「なら言っといてくれ。俺の任務が昨日落ち着いて数日休暇をもらったから、今日はアリアと二人で一日ゆっくりするってな」
我ながらさらりと言葉が出てくれたものだと感心して、セクトルが不思議そうなまま頷くのを見届けて。
「急で悪い」
「失礼します」
アリアと揃って外へ向かう足は、不自然と怪しまれないか心配なほど早くなってしまっていた。
まだ薄暗い時間帯の為か、幸いなことに他の騎士と会うこともなく兵舎の外に出れば、見慣れた魔眼蝶が再びふわりと現れて言葉を発することなく誘うように進んでいく。
「…兄さん」
何かがおかしいとはアリアも悟っているのだろう。まだ涙に濡れているまつ毛を震わせながら不安そうな声で見上げてくるから、安心させる言葉の代わりにくしゃりと力強く頭を撫でてやった。
いったいどこにエレッテを連れて行ったというのか。
それはニコルにもわからなかったので無言のまま王城の敷地内を進めば、到着した場所はニコル達が秘密の訓練場として使用している空の下の空間だった。
歩み慣れたその道のりにまさかとは思っていたが、ガウェとエレッテ、そして護衛蝶と名付けられた赤子ほどもある魔眼蝶の姿を見つけて思わず眉をひそめてしまう。
「こんな場所でーー」
見つかったらどうする。
そう続けようとした言葉が消えてしまったのは、ニコルとアリアが一定の距離にまで近付いた瞬間に術式が発動し、結界が貼られた為だった。
突然の空気の変化に不慣れなアリアは身を強張らせてニコルに身を寄せてくる。安心させる為に肩を抱いて唇を強く閉ざしながら歩みを再開すれば、ガウェと二人で気まずかったのだろう、エレッテが安堵するように表情を緩めるのがわかった。
そして。
「…ガウェさん…その服…」
アリアはガウェの腕にかかるそれに気付いて、信じられないとでもいうように声を霞ませる。
「…ああ…理由も言わず勝手に持ち出して悪かった」
それは、アリアが泣きじゃくる原因となった、アリアにとっては無くしたはずの大切な礼装で。
ガウェの手から返されて、アリアは震えながらも自分の礼装を広げ、そして無事であった事実にまた涙をこぼしながら強く抱きしめた。
まるで母が子を思うように礼装を抱きしめるから、申し訳なさからニコルの胸も締め付けられて。
「…ファントムのことを調べる為に、どうしても礼装が必要だった。お前にも知られるわけにはいかなかったんだ…悪かった」
ニコルの礼装は自室に置き去りにされているだろう。今ここにあるアリアの礼装にだけアリアと同じ謝罪を告げながら、ニコルは俯きそうになる視線を何とかこらえ続けた。
「兄さん?」
なぜファントムの名がここで出てくるのか。そして見知らぬ娘は誰なのか。礼装を抱きしめたまま困惑と不安に身をひそめるアリアにきちんとした説明をする役割を持つのは、ニコル以外には有り得ない。
俯くな。逃げるな。父に何を言い放たれようが、自分がどういう存在であろうが、今はアリアだけを思って。
「…親父は……親父が、ファントムだ」
真実を告げる為の、そして真実を知る為の最初の言葉に、アリアは時が止まってしまったかのように呼吸も忘れて固まった。
矢継ぎ早には話せない。そこまでの情報をニコルは持ってはいないし、アリアを置いて言葉だけを並べるわけにもいかないのだから。
「…どういう…こと?」
アリアにとってファントムは姫を攫っただけでなく多くの騎士達を負傷させ、死者も出した存在だ。リーン姫を救い出したのだと功績を讃えてみたとしても、負傷者全員の傷を時間をかけて治したアリアは、彼らが痛みに苦しめられながら仲間達の死に悲痛な涙を流したことを知っている。
「親父は昔、何かしらの呪いを身体に受けたらしい。その呪いを解く為に各国に散らばったエル・フェアリアの古代の宝具を集めていたんだ…俺はその途中で生まれて…母さん達に預けられたんだろう」
ファントムにとってニコルは無価値な存在だから。邪魔だから捨てられたとは言えないまま。
「そんなの…信じられないよ…」
今まで父だと慕っていた人の正体が世界中に名前を知られた盗賊だなどと。
信じられるわけがない。
否定するために首を小さく左右に振りながら、アリアは苦しそうに表情を強張らせた。
「…礼装を勝手に持ち出したのは、親父がくれたものだからだ。礼装の情報の中に親父のことも記されてるかもしれない。だから調べるために持ち出したんだ…不安にさせて本当に悪かった」
「だからって…なんで勝手に持ってっちゃったの?…なんで言ってくれなかったのよ…」
身体を震わせながら、ニコル達の勝手を責めながら。
アリアの為に全てを話すと決めたのに、自分が何者であるのかを知られたくない胸の内が喉を捻り潰そうとする。その様子を見かねたのかガウェが代わりに言葉を続けようとするから、それだけはダメだとニコルは視線だけでガウェを止めた。
伝える勇気がどこから生まれてくるのかなどわからない。でもアリアの為にと、自身を奮い立たせて。
「…隠してたのは、親父がファントムだからってだけじゃないんだ」
力を無くそうとする声を振り絞って、睨みつけるように、すがるようにアリアを見つめて。
「親父は…エル・フェアリアの王族なんだ」
その言葉だけで、自分が何者であるかを伝える。
見つめる先にいるアリアは、人形のように身動きを忘れて風に髪だけをなびかせていた。
アリアの中のニコルという存在に新しい肩書きが加わったのだ。
大切な兄。
そこに、エル・フェアリア王家の人間という重く冷たい肩書きがのしかかった。
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「にーちゃ」
まだ舌ったらずだった頃の記憶ばかりを思い出すのは、幼い妹を置き去りにしたまま故郷に二度と戻らなかったからだ。
ニコルを兄と呼んでくれる幼いアリアのことは、アリアが生まれた頃から知っている。
ニコルもまだ幼い頃に、母がお腹を痛めて産んだ女の子。その時ばかりは、両親を好いていない村の者達も総出で出産の手助けをしてくれた。
冬という名の氷に閉じ込められる土地で、赤子の多くは冬を越せずに天に帰ってしまう中で、アリアはすくすくと育ってくれた。
その年に村で冬を越せた赤子はアリアだけだったはずだ。
毎晩毎晩、アリアを中心にして家族で眠った。
夜泣きをするたびに、生きているのだと安心できた。
たまに訪れるニコルの父は、初めて目にしたアリアに何を思っただろう。自分からは一切触れようとしなかったことだけは覚えている。だがそれはニコルに対しても同じで、彼はいつだって、ニコルから歩み寄らなければ頭に触れてはくれなかったのだ。
極寒の土地はアリアが生き延びることを許し、健やかに成長したアリアはいつもニコルの後についてこようとした。
どこへ行くにも、何をするにも。
それが嬉しかったのは、幼いニコルの遊び相手もアリアしかいなかったからだろう。
両親の手伝いをしながら、村長夫婦の手伝いをしながら、両親の邪魔にならないようアリアの子守をしながら。
数名いた年の近い村の子供達はニコルを毛嫌いしていたから。
何をさせても十二分の結果を出すニコルは、彼らにとって不愉快な腫れ物だったのだろう。
彼らの苛立ちは時折アリアに向かおうとしたから、その度に力に任せて彼らを容赦無く追い払った。そうすることで両親達がさらに阻害されることをまだ知らない年齢だった。
そうやって自分が両親と村の隔たりをさらに深いものにしていると知らないままさらに成長して、年齢を誤魔化せるほどになってから両親の反対を押し切り小さな兵団に入り込んだ。
そこでもニコルは十二分の働きを見せた。
実力も、見た目でも。
何もかもに恵まれたそれらが特別なニコルに与えられるべき力であるなど知らないまま。それらの力が何であるのかなど知らないまま。
生まれ持ったものだったから、違和感などわからなかったのだ。
自分の父が何者なのかなど知らなかった。
自分が何者かなど知らなかった。
何者かなどと考えもしなかった。
考える必要も無かったはずだからだ。
非凡だなどとわかるはずもなかった。
周りとの違いなど。
もし自分が何者であるのか早々に違和感を感じていれば、母を亡くさずに済んだのだろう。アリアと父を置いて村を出ることもなかったのだろう。
間接的にではあってもニコルの力が母を殺した。父を殺した。アリアを苦しめた。
それらの力が、彼から分け与えられたこの国で最も尊い力だなどと知らなかったから。
知っていたなら平穏を選んだのに。
知らないまま放置したせいで、ニコルの運命は大きな流れに呑まれてしまった。
ニコルだけでなく、アリアをも巻き込みながら。
抗えないほどの渦の中心に引きずり込まれたまま、それに気付かないまま、運命は中心核へとニコルを誘った。
そこはエル・フェアリア。
そしてニコルは王家の人。
帰るべくして誘われたのかも知れない。
だが知っていたなら戻らなかった。
エル・フェアリアになど。
王族が住まうべく造られた美しき地獄になど。
こんな場所だと知っていたなら。
「兄さん」
舌ったらずだった幼い声は、一欠片だけでも美貌を知らしめるほどの華に溢れた女の声に様変わりしてニコルを呼ぶ。
懐かしい過去。
戻れないのだとその声がニコルに告げる。
血の繋がらない、大切な妹。
彼女の両親を奪ったのはニコルであり、そしてニコルの血に満ちる運命なのだ。
だから、何があっても守り通す。
アリアはニコルにとって、この世界で他の誰を差し置いてでも幸せになるべき尊い存在なのだから。
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