第65話
第65話
悪夢の世界から抜け出せないまま時間ばかりが過ぎていく。身体はどろりと溶けたように力が入らなくて、足を動かしている感覚さえなかった。
でも自分は廊下を進んでいる。
いつもは側にいるはずの護衛も付けずに、音も気配もなくさまよう。
あの人に会う為に。
エルザを愛しているはずの人は、何かに取り憑かれてしまったかのようにエルザに別れを告げてしまった。
それが本心などでないとわかっている。
だってニコルがそんなこと言うはずがないから。
愛し合っているのだから。
夜の城内を、彼を探して幽鬼のように進んでいく。
いったいどこにいるのだろう?
ずっとエルザの傍にいてくれるはずのニコルは。
今はただアリアに貸しているだけなのだから。
ほんのわずかの間だけ。妹であるアリアの安全を手に入れるまでの間だけ。
ああ…でも。
--やっぱりニコル様、格好良いよね
どこからか聞こえてきた言葉に神経が集中する
声は下の階から。恐らくは侍女達が生活する区画からだろう。
足元に目をやって、意識をそこだけに集中させて。
--でもガブリエル様と恋仲だったのでしょう?
床に飲み込まれながら進んでいけば、不穏な言葉に怒りが湧き上がった。
--それが、どうも恋仲ではなかったみたいよ。ガブリエル様が一方的に思ってただけみたい。それでこっぴどくふられたんだって
--そうなの?
--そう聞いたわよ。でもそう聞けば納得だわ。ニコル様がガブリエル様を選ぶなんて思えないもの。あんな性格の悪い人を選ぶとしたら、相当お金に困っているか藍都の地位目当てでしょ?その点ニコル様は平民出とはいえ王族付きに任命された騎士だからお金は持ってるし、あの妹は治癒魔術師なんだから地位も確立されたも同然。お父様達に反対されて諦めようと思ってたけど、やっぱり狙っていくわ
どこかの部屋に到着してみれば、まだうら若い侍女二人がヒソヒソと話しを続けていて。
--でもどうやって近付くおつもり?今は治癒魔術師の護衛で駆け回っているのでしょう?エルザ様付きだった頃は王城程度だったかもしれないけど…
--それが、ファントムの件でニコル様だけ別任務を与えられて、今はあの妹から離れて宝物庫に缶詰めらしいの。時間を見繕えば充分に可能性があるわ!きっとお疲れでしょうし、色々と癒してあげないとね。今日も宝物庫にいるはずだし
わざとらしく下品に胸元を強調してみせる侍女に、もう一人の侍女もクスクスと微笑んでいる。
こんな女にニコルがなびくはずがないとわかっていても、不愉快でたまらなかった。
--あなた、それで新調した下着に着替えてましたの?てっきり今から仕事なのだと思ってましたわ
--仕事だったんだけど下位の子に代わってもらったわ。外周第一棟の夜の食堂なんて滅多に王族付きに会えないもの。働くだけ無駄よ。あーあ。せめて内周棟付きになれてたらなぁ
--ほんと。今の侍女長に代わってから人選が下手になりましたわよね。中位の中でも上の位の私達が未だに外周勤めなのですから
ペラペラと不平不満をこぼしながら懸命に薄い胸を盛っていく侍女を網膜に焼き付けて、エルザは拳を強く握りしめた。
はだけた侍女の制服。胸元にうっすらと完成した谷間にわざと見えるように工夫した下着。
そんな浅ましい姿でニコルを籠絡しようというのか。
小狡い女。ニコルの心が傾ぐはずもないのはわかっているが、行動に移そうとしているだけで許せなかった。
--よし!出来たわ!
--報告待ってますわね
--任せて。絶対に良いところまで行ってみせるから
それ以上は聞いていられなかった。
だから。
--きゃあ!?
--なに!?
怒りを爆発させる。
国の宝であるエルザの目の前でニコルを籠絡しようとした罰を。
侍女達の部屋に暴風が荒れ狂い、部屋中の物が投げ出される。
侍女達の悲鳴は最高潮に達し、異変を聞きつけて外にいた別の侍女が二人の部屋の扉を開けた--
「--エルザ様!!起きてくださいませ!!」
突然の衝撃に目を覚ませば、見知った顔が不安に歪みながらエルザの身体を揺らしていた。
「……ビ、アンカ?」
眠っていたせいでかすれた声で呼ぶ名は信頼できる侍女長のビアンカで、彼女の後ろには護衛部隊長のイストワールの姿もあった。
「…どうしてここに?」
夢うつつの区別が付かずに問えば、エルザの目覚めに安堵しながらビアンカが少し離れた。
「うなされている声が聞こえましたので、失礼とは知りながら入室させていただきました」
ご無礼をお許しください、と頭を下げるビアンカにエルザは微かに首を傾げて。
「…では夢でしたのね。…よかった」
「嫌な夢でも?」
ビアンカの隣に訪れるイストワールが問うてくるので夢の内容を思い出そうとしたが、嫌な夢であることは確かなのに内容は一切思い出せなかった。
どんな夢だったか。
エルザが不快と思う夢だったはずなのに。
「…思い出せませんわ…何だったのでしょう。怖い夢?だったのでしょうね」
身体が冷えきるのを感じて自分自身を抱きしめれば、ビアンカがそっと肩にブランケットをかけてくれる。
「暖かい飲み物をご用意いたしますわ。それともいっそのこと入浴されますか?気持ちも落ち着きますわ」
「…ありがとう。そうしようかしら。お風呂から出たら少しだけでいいから果実酒をお願い。野いちごのものはあるかしら」
「すぐにご用意いたします」
エルザの為に迅速に動いてくれるビアンカが去るのを眺めれば、イストワールが心配そうな眼差しのままでいることに気付く。
「…眠ったおかげで少し冷静になれましたわ。先ほどはごめんなさい」
エルザの謝罪が悪夢の件でないことくらいイストワールにはお見通しだろう。
酷い一日だったのだから。
昨日なのか一昨日なのか夜の闇のせいで時間の間隔が曖昧だが、ニコルに別れを告げられてひたすら泣きじゃくり続けたはずだ。部屋に連れられて、目の前に広がる全てに弱い力で当たり散らした。
途中で姉のミモザが来てくれた気がするが、それすら曖昧なのだ。
「…ゆっくりお休みください。入浴されている間に部屋に香も焚かせていただきますから」
「…おねがいします」
何から何まで優しい世界。
エルザの為に、皆が心を遣ってくれる。
でも、ただ一人だけはエルザを突き放したままだ。
「…ニコルは?」
問えば、まるで禁句を口にしたかのようにイストワールは凍りついた。
でも知りたいのだ。エルザと別れようとしているニコルが今どこにいるのか。
「…宝物庫にいらっしゃるの?」
どうしてだか宝物庫にだけはいてほしくなくて、不安を消す為に両手を合わせて握り締めながら切実に訊ねれば、イストワールは先に首を横に振ってくれた。
「宝物庫にはもういませんよ。ニコルも随分と疲れている様子でしたから本格的に長い休みを取らせています。ファントムの調査もニコルが出来る範囲はすでに頭打ちでしたから、ミモザ様に引き継ぎを済ませたら数日は何の任務も与えません。治癒魔術師護衛部隊長のモーティシア殿と話して、ニコルが落ち着いた頃合いでアリア嬢の護衛に戻すつもりです」
長々と説明されてそのほとんどはエルザの耳を通り抜けたが、彼が今宝物庫にいないという事実だけは今のエルザをとても落ち着かせてくれた。
「…気持ちが落ち着けば…きっとニコルもいつものニコルに戻りますわよね」
安心したくて同意が欲しかったのに、なぜかイストワールは言葉を返してはくれなかった。しかしそれを気にするよりも先にビアンカが戻ってきて、エルザを入浴の為に寝室から隣の部屋へ連れ出してくれる。
エルザだけの入浴場に繋がるその小さな部屋でドレスと下着を脱がされれば、露わになる自分の裸体に一抹の不安がよぎった。
はたしてこの身体は魅力的なのだろうか。あまり見目に頓着してこなかったエルザにはわからない不安。
体のラインなど気にした事などないが、男性はその辺りを見る傾向もあると侍女達がいつだか話していたような気がする。
泣きじゃくったせいで目元は赤らみ腫れているが、身体にまで涙の変化があるわけではない。
「…ねえ、ビアンカ」
「どうされました?」
いつもは数人で行う用意を一人で機敏にこなしているビアンカの動きを止める事に少し躊躇したが、決心して彼女に自分の身体を見せるように両腕を広げた。
「…私は、男性から魅力的に思われるような身体をしていますか?」
エルザが口にする男などニコル以外にいるはずもない。
ビアンカは躊躇うように手を止めてしまったが、すぐに「私は女ですが」と前置きをしてから普段通りの冷静さを見せてくれた。
「女の私達からみても、エルザ様のお身体はとても美しく魅力的ですよ。他の娘達もいつも羨ましがっていますから」
その言葉が事実なのかお世辞なのか。わかったことはビアンカの言葉だけではエルザに突然芽生えた身体の不安を消し去ることはできないということだった。
「さあ、身体が冷えてしまいますからどうぞ中へ」
促されて、大人しく湯船に身を委ねる。
花の蜜の芳しい香りに全身を包まれながら、心地よい暖かさに満ちながら。
それでも不安は拭えなくて。
「…少し、一人にしてくださいませ」
願いはすぐに聞き届けられてビアンカが退室し、甘く静かな世界でエルザは目を閉じながら全ての不安に身を震わせた。
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明け方近く、王都の自宅から王城の自室に戻ってきたガウェが目にしたものは、疲れ切ったようにだらけながら出窓に身を預けて外を眺めるニコルだった。
その手には以前盗み出したアリアの礼装が握られており、礼装に施された刺繍を解読する為にガウェが貸し出した本も数冊重ねられている。
闇市を任されているガウェにとって礼装の件は調べたくても手が足りない状況だった為に、ニコルが知ることを恐れず調べていることには安堵した。
「…何かわかったか?」
徹夜明けの朝の早すぎる時間のせいで声に力が宿らないが、それはニコルも同じらしく、疲れ切った顔を向けられる。
「……何も聞いてないんだな」
しかしニコルの返答は質問に答えたものではなく、ガウェは部屋の扉を閉め、手にしていた荷物を自分のベッドに置きながら声もなく眉をひそめた。
そのままニコルに近付けば、ニコルはアリアの礼装は大切に扱っているが、自身の礼装に関しては足蹴にするほどぞんざいで。
「俺はコウェルズ様から、闇市側からファントムを調べるように言われている。お前が何を気にしているかなんて知るはずないだろう」
ニコルの不満など興味も無いと言い切ってやれば、返されるのは力無い渇いた笑みで、
「…エルザ様に別れ話をしたんだ。向こうは聞く耳持たないがな」
今現在城内で何が起きているのかを冷めきった表情で語られて、目を見開き息を飲み込んだ。
どういう意味なのかを理解するより先に身体はニコルの腕を掴んでこちらに引っ張り上げる。それが苛立ちからだと気付いたのはすぐ後だった。
しかしその苛立ちも、ニコルの表情を前に困惑に変わる。
「…何があった…」
老いたように見えるほど疲れきっているニコル。この男がエルザをぞんざいに扱うはずがないと思いたいのに、走馬灯のようにあらゆる出来事が一気に降りかかりすぎて何があってもおかしくないと気付いたのだ。
それでもニコルはエルザを愛してはいなかったか。
「…言ってくれ」
エルザの件が本当ならじきにガウェの耳にも届けられるだろう。ガウェもまだエルザの姫付きに身を置くのだから、別任務で離れているとはいえ情報は届けられる。その情報を、ニコルでない者の口からは聞けない気がした。
それ以外の者たちから聞けば、どれほどエルザが傷付いているかを懇々と話されてしまうから。そうなれば、長くエルザを守ってきたガウェもニコルを恨まずにはいられなくなるから。
ニコルを掴んでいた手を離して、彼の正面に立ち位置を変えて。
「……愛せないんだ」
ぽろりと溢れた言葉。あまりに乾きすぎた言葉には感情など何ひとつ存在してはいない。
「親父…ファントムのことも、コウェルズ様が俺を捕らえておこうとすることも、周りの思惑も…エルザ様の思いも」
ぽつりぽつりと言葉を選ぶように話す姿はまるで言葉すら忘れてしまったかのようであまりにも痛ましい。
「何もかも無理なんだって気付いた…今じゃエルザ様と話さなきゃいけないって思うだけで震えがくる…」
それは完膚なきまでの拒絶だった。
ニコルの言葉が嘘でないことは彼が持つアリアの礼装が小刻みに震えている様子からも信じられて。
「……ファントムの調査はもういいと終わりを貰えたんだ。だからこっちに手を出してるが…なかなか進まないな」
気晴らしと嫌なことを忘れる為に礼装に没頭しようとしたのだろう。しかし脱力感はそのさらに上を行っていたのだ。
休め、という言葉も今のニコルには無駄だろう。
きっと何も手にせず休めば、つらいことばかり思い出して精神がさらにやられてしまうから。リーンを失ったガウェのように。
あまりにも早すぎる別れ。エルザが納得などできないことは容易に知れた。そして誰も彼もがエルザの味方をすることも。
ガウェですら、今のニコルを見ていなければエルザの不運を怒りニコルを責めたはずだから。
ニコルがエルザを愛せないというなら、もう二度と愛することなど無いのだろう。
エルザにはあまりにも可哀想なことだが。
何年も思い続けてようやく実った恋が無情なほどあっけなく終わるのだから。
「アリアの礼装はなんとなく掴めたんだ…メディウム家を示す模様、父さんと母さんの名前、住んでいた場所は“凍てつく冬に沈む亡国”だと…でも俺のはいまいちよくわからない」
無理矢理話題を逸らすのは、本当にエルザのことを忘れたいからだろう。
「俺が今までどこで何をしてきたか、気持ち悪いぐらい全部あてはまってる。親父は俺がどう生きてきたか知ってるんだ。嫌味なくらい、俺が隠しておきたいことばかり記されてる……でも」
そこで言葉が途切れる。その代わりに、足蹴にしていた自身の礼装を、ニコルはさらに踏み抜いた。
何度も何度も、戦闘を考慮して頑丈に作られている出窓が壊れてしまいそうなほどに強く。
「…嫌味かよっ……父さんのことも母さんのことも何も記してやがらない…アリアの礼装にはこと細かに記してあるのに」
大切に手にしていたアリアの礼装にさえ憎しみで握り潰すほどの恨みをぶつけて、怒りに声を震わせて。
「……あの女がわけのわからないことを言ってたんだ」
未だ怒りを残しながら語られる第三者に、ガウェはニコルの足元から彼の礼装を掴んでから、女に関する質問の代わりに視線だけを向けた。
「…エレッテだ。ファントムの仲間の、捕らえてる女」
闇の黄を宿した娘が今も有力な情報を口にしていないことは聞いている。そしてフレイムローズがファントムの命令で彼女の護衛についていることも。
「前に会いに行った時に、わけのわからないことを言われたんだ…まるで俺の母親が別にいるみたいなことをな」
鼻で笑いながら、だが縋るような。
ニコルが家族という繋がりに縛られていることは随分前から知っていたことだが、今の状況は縛られているなどという概念のさらに上にあるようでおぞましくも感じてしまう。
「…なあ、なんで俺の礼装には家族のことが何も書かれていないんだと思う?」
「……俺に分かるわけがないだろう」
尋ねられても他人なのだから分かるはずもないのに。
返答に自嘲の笑みを浮かべるニコルを見やってから、ガウェは足蹴にされてよれた礼装を開いた。
ガウェ達上位貴族が纏うほど豪華な布が使われているが、生地に妙な違和感がある。
ガウェが慣れ親しんだ肌触りではないのだ。
機械的すぎるほどに精密なその生地に首を傾げながらニコルが資料として積んでいた本を見てみるが、どれもこれも刺繍が示す情報に関するものばかりた。
「…おい、生地の情報は見たか?」
「……生地?」
「礼装を調べるなら刺繍だけ見ればいいんじゃないと言っただろう。生地を見ればどこで作られたものかがわかる…これは恐らくエル・フェアリアで織られたものじゃない」
ガウェの予想が正しければ、この生地の精密さはただ一国しか存在しないのだ。
絡繰りに長けた大国ラムタルでしか。そしてこれはエレッテから有力な情報が手に入る手がかりでもあった。
「礼装は作り上げる国や土地の生地を使うことが習わしだ。それだけでも重要な意味がある…おそらくファントムは調べられることも理解しながらこの礼装をお前達に渡したはずだ。親のことが書かれていないなら知っている者に聞きに行けばいい」
知りたいのだろう、なら、と。
だが。
「…あの女のところにはもう行かない」
俯き力なく呟くニコルにカッとなり胸ぐらを掴む。
「親に縋りたいのはお前だろう!その女はファントムがラムタルにいることを示す重要な証拠になる!!お前の聞き方次第でリーン様がラムタルに囚われていることが確実になるんだ!!」
ニコルの為なのではない。リーンの為に、そしてガウェの為に。この手がかりを手放すわけにはいかないのだ。
ラムタル国の大会出場者が闇色の青であることは発覚したとしても、それだけではそこにファントムがいることには繋がらないのだから。
「放っといてくれ!もうあんな親父と関わりたくないんだ!!」
「なら何故礼装を調べた!!知りたいからだろう!!父親のことでなく、母親のことが!!」
縋るための拠り所を、存在意義を。
喉が裂けるほどの怒声を間近で受けたニコルの表情が強張る。
それが怒声を受けたことでなく核心を突かれたからだと、次第に意味を帯び始めたニコルの表情が語っていた。
ガウェの存在意義がリーンであることと、ニコルの家族への思いは同じなのだから。
「知ることが怖いなどと言わせないぞ。お前は知りたいはずだ。だから礼装から手を離さないんだろう」
憎しみながらも大切に。
今も握り締めるアリアの礼装も奪って開いて。
ふと違和感を感じたのは、アリアの礼装の胸元、心臓に近い位置に施された刺繍のひとつだった。
「….おい、刺繍の意味は全て調べたのか?」
心臓という最も重要な位置に、不可解な意味の刺繍が施されていたのだ。
「いや、全部は…」
その返答だけでニコルが胸部を確認していないことがわかり、ガウェは積まれた本の一冊を手にしてページを開いていった。
胸部には今現在の自分を記すことが多いのだが、アリアの礼装の胸部はアリアが治癒魔術師、あるいはメディウム家であるという印ではなかったのだ。
もっと別の、しかも数種類の刺繍を使った文字に見立てたもの。
ガウェが資料なく読み取れた意味は“知る者”というそれだけだった。
何を知るのか、気持ちが急いでページを開く手が焦る。
「おい、ガウェ?」
ニコルは訳がわからないと言うように困惑したままだが、黙っていろと睨みつければ大人しく口を閉じた。
そして見つけ出すのは、何ら重要な意味のある刺繍ではなく。
「…“彼の出自を知る者”?」
誰の出自を、誰が知るのか。
「…どういう意味だ?」
眉をひそめるニコルが、しかし何かを悟ったようにガウェからアリアの礼装を取り戻した。
大切そうに胸元の刺繍を撫でて、吐息を震わせて。
アリアの礼装なのだから“知る者”はアリアでしか有り得ないのだ。そして礼装が示す“彼”は。
「…アリアは、俺が何なのか知ってる?」
対の礼装。
ガウェとニコルが二人とも理解したと同時に、ニコルは礼装を手にしたまま立ち上がり外に向かおうとした。
「待て!アリアには国の護衛が付けられているんだぞ!!」
アリアがもし全てを知っているとしても、まだニコルの出自は秘匿されているのだ。慌てて止めるガウェに、しかしニコルは異様に冷静な様子を見せた。
「…アリアが本当に知ってるなら…俺はもう…我慢なんか…」
見せかけの冷静だと、長くニコルと行動を共にしていたからこそ気付くことができたが。
動揺すらねじ伏せられて冷静に見えるだけなのだ。
「…落ち着け。まだお前の出自を王城中に知られるわけにはいかないんだ…新しい王が…コウェルズ様が王位を手にするまではな」
でなければ、王城は、国はひどく混乱してしまう。
「それはお前も望まないはずだ」
国に絡め取られたくはないと望むなら落ち着け、と。
「………悪い」
そしてニコルもそのことに気付いたように深く息を吐きながら冷静さを取り戻して。
「…ひとまずはアリアのことは置いておくぞ。捕らえた女から話を聞くことが先だ」
まずはファントムの居場所を突き止める。しかしニコルはしばらく俯いた後に「いや」と否定した。
「アリアも連れて行く」
その否定がエレッテから話を聞くことに対して拒絶したのではないと続ける。
「…正気か?」
「ああ…お前はファントムの…リーン様の居場所を知りたいだけだろうが…俺とアリアにとっては大事な家族に関することなんだ」
これだけは譲れないとでも言うかのように、ニコルの瞳に力がわずかに宿る。
「モーティシアがアリアの側にいないようにしたい」
「アリアの護衛部隊長か…確かにあの男は裏がありそうだな」
何度か見かけたことがあるモーティシアは、穏やかな佇まいの中に気を許すことのできない雰囲気を強く醸し出していた。
「俺はフレイムローズにあの女に会わせるよう言ってくる。お前は隙を見てアリアを連れてこい…礼装は俺があの女の部屋に持って行く」
「……わかった」
今後の動きを決めながら、短い言葉だけで互いの動きを理解して。
ニコルは手にしていたアリアの礼装をガウェに託して、静かに部屋を後にした。
ようやく日が昇り始める時間帯。
ガウェは窓から明るみ始めた空を見上げながら、近付きつつあるリーンとの再会を信じて拳を握り締めた。
--リーンはじきに戻る。お前の元にな--
それは、ファントムに囁かれた罠のような言葉だ。
甘い蜜のような魅力で、リーンが帰ってくるのだと教えてくれたのだ。
それからはいつでも戻って来られるように王城のリーンの部屋の清掃を行き届かせ、彼女が愛した花を取り寄せて生けさせることを侍女に頼んでいた。
いつでも。でも早く。
ファントムの言葉の全てを信じていいのかわからないが、ニコルがあれほどまで家族に執着するほどの魅力が確かに存在することは認めざるを得なかった。
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