第56話
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空中庭園でラムタルまで戻ったパージャを待っていたのは、愛しい少女との久しぶりの再会よりも先に痛い報復だった。
「--お前っ!!」
右肩と腰に深手を負いベッドに寝かされていたパージャに、入室したウインドが鬼のような形相で掴みかかる。
胸ぐらを掴まれ引きずり起こされて、未だに真新しい痛みと共に血を流す傷口に更なる激痛が走った。
むち打ちのように強く頭が揺れて首筋にもビキリと痛みが。
「---っ」
「やめてよ!!」
痛みに歯を食い縛ると同時に、ウインドよりも後に入室したミュズが金切り声のように甲高い声を発しながらウインドに掴みかかり、殴り付ける。
「うっせぇ離せ!!絶対に許さねえ!!」
パージャは苦痛に身をよじることしかできず、ウインドに突き飛ばされたミュズが尻餅をつくのを助けることも叶わなかった。
「やめなさいウインド!」
「よくもエレッテだけ置き去りにしやがって!!ぶち殺してやる!!」
「ウインド!」
パージャの治療に当たってくれていたガイアもウインドを咎めてくれるが、その程度でウインドの怒りが収まるはずがない。
パージャはウインドの大切な恋人を敵陣に置き去りにしてきたのだから。
エレッテ。パージャにとっても大切な仲間の娘を。
ミュズは近くにいたガイアに起こされて、痛みに少し眉をひそめながらもウインドを睨み付けている。
だがその視線はすぐに、パージャからゆるやかに流れ落ちて衣服ごしにベッドのシーツを汚す血に向けられた。
血を流すパージャ。その姿はミュズの中で過去の恐怖を呼び起こすはずで。
血の気を引かせるミュズから目を逸らして。
「…悪かった」
無意識のように弱々しくこぼれた謝罪に、ウインドの怒りはさらに燃え盛った。
「謝ってすむ問題かよクソ野郎!!」
再び掴みかかられ、糸の切れた操り人形のようにパージャの頭がまた揺れる。
言葉は肩と腰のあまりの痛みに潰れるように消された。
「ウインド!パージャはあなたと同じ傷を負っているのよ!」
「それが何だってんだよ!エレッテは捕まってんだぞ!?こいつの傷なんか知るかよ!!」
固まるミュズを残してガイアがウインドの腕を引く。同時にファントムが入室して。
「お前が捕まりゃよかったんだ!!」
ウインドの怒りにミュズが言葉にならない様子を見せながら掴みかかろうとして、ファントムが静かにミュズを止めた。
ファントムは今入室したばかりだというのに、まるで最初から全てを見ていたかのように冷静だ。
「パージャの負った傷はお前の受けた傷よりも強い術式だ。下手に動かすな」
他者を物のようにしか扱わないファントムが、パージャを心配するような言葉を聞かせる。
驚くのはパージャとガイアだが、頭に血が上るウインドには癪に障る言葉でしかなく。
「はあ?なに今さら仲間ぶってんだよ!俺らのことなんか手駒程度にしか考えてない分際でよぉ!!」
ガイアの腕を振り払いながら、ウインドはファントムに盾突く。同時にミュズもファントムを強く睨み付けながら身体を振ってその手から逃れた。
二人分の怒りの眼差し。
ウインドは全ての怒りをパージャからファントムに移すように、ミュズもパージャに苦痛を与える元凶がファントムであるかのように。
しかしファントムがその怒りに動じるはずもなく、冷めたように二人を流したままガイアに視線を合わせた。
「当分はパージャの傷の治療に専念しろ。私はこの術式を調べる」
ガイアに命じるのは治らない深手を負ったパージャの治療で、さらに自分も動くと告げて。
この呪いそのもののような傷を、ファントムが自らと。
「…できんの?」
思いの外に弱々しいかすれ声で訊ねれば、ファントムは面白がる様子もなく真面目な眼差しをパージャに向けてくれた。
こんなファントムなど、パージャは初めて目にする。まるで本当に仲間だと思ってくれているかのような。
だがパージャは覚えている。
ファントムがエル・フェアリアでの魔術兵団との戦闘で何をしたかを。
治まらない連続する痛みに苛まれるパージャに、ファントムは術式をかけたのだ。
痛みを忘れさせる為に自我を消され、パージャは憎しみだけに囚われた狂った戦士と化した。
その術式が消えれば、鞭打った身体はさらに痛みに悲鳴を上げていた。
あの戦闘さえ無ければ、パージャはもう少し身体の自由があっただろう。
もどかしい思いに苛まれれば、ファントムはなおも口を開き。
「ウインドの受けた術式は不完全故に解読が出来なかったまでだ。完成した術式なら解くことも可能だろう。それが出来たなら、お前達の傷も治るはずだ」
終わらない責め苦を終わらせてくれるかもしれない。
そんな希望じみた言葉を聞かされたら、パージャもウインドも黙ることしかできなくて。
パージャは今まで自分が生きて歩かされた道筋から、他者の嘘には気付ける目を持っている。
その目を以てしても嘘と真実を図れなかった唯一の存在がファントムなのだ。
今回もパージャとウインドを黙らせるだけの言葉かもしれないが、身体と心が本能でファントムを信じようとする。
それが、ファントムが他者を惹き付ける力の一つなのだろう。
言葉を口にするだけで力を宿らせる不思議な魅力。
そしてその言葉で自分の子供すら踊らせ浮かれさせ、情け容赦なく叩きのめすのだ。
パージャが完全に口を閉じれば、気にするかのようにミュズが近くに寄ってくれた。
不安に瞳を揺らしながら、肩と腰の傷に目を向け、目を逸らし。
「…それで、エレッテはいつ助けに行くんだよ」
不安な様子を見せるミュズの姿に何かを触発されたかのように、パージャと同じように口を閉じていたウインドがファントムに訊ねる。
エレッテはウインドへの思いをようやく自覚できたところだというのに。
まだ魔術兵団にハイドランジア家が襲われる前、エレッテはウインドに伝達鳥を飛ばしていた。
短文の手紙の為だけに優秀な伝達鳥を借りていたのだ。飛ばしてから二日経ったはずだが伝達鳥はもう届いているのだろうか。
ウインドは治る可能性を示された自分の傷よりもエレッテの安否を気にして、
「エレッテには魔眼をつけた。あれの力に守られていればひとまずは安全だ」
「魔眼だって敵だろうが!!」
素直に聞き入れられない安全理由に激昂しながらファントムに掴みかかる。
魔眼を宿したフレイムローズ。その力の凄まじさはパージャも知るところだが、ウインドは接触も少なかった為に知らないのだ。
「魔眼は王家に忠実だ。何を犠牲にしてもエレッテを守るだろう。育て上げた者でさえこうなるとは思わなかったほどにな」
「…何を根拠に言ってんだよ」
いくらファントムの言葉だったとしても、一度二度会った程度の自分より貧弱そうなフレイムローズを信じろなど、ウインドには不可能だろう。
「…エレッテを助けに行く」
案の定呟かれた言葉に、ファントムはまず溜め息で返した。そして。
「お前に命じているのは大会の出場だ」
無意味なことをしてくれるなと。
「うるせぇ!!俺に指図すんな!!」
「魔眼に保護を止めるよう命じようか?」
「っ…」
苛立ちを爆発させながら部屋を後にしようとしたウインドを止めたのは、エレッテの安全を消し去るもので。
「魔眼の保護が無くなったと気付けば…ありとあらゆる方法でエレッテに我々の居場所を吐かせようとするはずだ。あちらにも優秀な者達は多いからな。エレッテが何に怯えるか、すぐに気付くだろう」
魔眼の保護が無くなれば。
エレッテが何に怯えるのか。
捕らえられている時点で既にエレッテの周りにはエレッテが怯える男の存在がちらついているというのに。
パージャが短期間の間に垣間見たエル・フェアリア王城はどこにも疚しい箇所など存在しないかのように見えたが、そんなものは有り得ない。
エレッテにファントム達の居場所を吐かせる為なら、それが最も有効だと気付いたら、コウェルズ王子はいとも簡単に命じてエレッテを犯させるだろう。
あの王子ならそれが出来る。
コウェルズの内側に確かに存在する床冷えするような冷徹さは、ファントムによく似ていたから。
膨大な人々の上に立つ者なら、そんな影の箇所も持ち合わせなければならないだろう。
先導者として、指揮官として、
王として。
そしてその闇の姿を、最初から存在しないかのように上手く隠すのだ。
「っ…クソが!!」
ウインドも無意識にそれを理解したかのように強く壁を殴り付け、壁伝いに離れた場所に設置された棚を大きく揺らす。
そして今度こそ出ていくウインドを、ファントムは止めはしなかった。
苛立てば苛立つほどウインドの力は増す。いくらエレッテからの手紙があろうが、今のウインドの精神緩和材とはならないだろう。
むしろエレッテの健気な手紙にさらに怒りは溢れかえる。
もしもこの現状すらファントムの手の内なのだとしたら。
そう考えてしまう頭を否定しようとしても、ファントムという存在を思えば否定など出来ない。
そのファントムは次に、パージャから離れないミュズを見下すように視線を落とした。
「…お前もウインドの側にいろ。サポートを命じたはずだ」
「いや!」
間髪入れずに拒絶するミュズは引き剥がされまいとするかのようにパージャにすがり付き、その弱々しい腕で傷に更なる痛みを与えた。
「っ…」
パージャは痛みに表情をひきつらせるが、すがり付いてパージャの腹に顔を埋めるミュズにその苦痛は見えはせず。
「パージャのそばにいる!!…パージャをこんな酷い目にあわせて…あんたなんか!!」
「お前がいることでパージャの傷の治療が遅れるぞ」
「そんなことない!パージャから離れないから!」
貧弱な身体のどこにそれほどの力があるのか訊ねたくなるほどの声量で、ミュズは背後のファントムを見ることもせずに責める。
ファントムなど見たくないと全身で告げて、パージャの傍にいてくれようと。
普段のパージャなら天にも上る気持ちになれた抱擁だろう。だが今は、治まらない真新しい痛みにさらに上乗せされた激痛が精神力ごと削ろうとするようで。
「ミュズ…ロードの言う通りにして」
「いやだ!!」
ガイアがそっとミュズを離そうとするが、その手すら振り払われた。
パージャでなければミュズを落ち着かせることは出来ないのかと思うが、
「…俺なら平気だよ」
「どこがよ!!全然平気じゃないでしょ!!もう絶対にどこにも行かせないから!!エル・フェアリアなんか!!あんなところっ…あんなっ!!」
今のミュズは、パージャの言葉すら聞き入れてはくれない。
言葉も出ないほど感情が昂りすぎた様子で酷い引き付けのように泣きじゃくり始める。パージャのそばだけに居場所があるかのように。
「必ず術式を解読してやる」
「うるさい黙れぇっ!!」
今のミュズには何を言おうがネガティブにしかならないだろう。癇癪を最大限に発揮して、全ての音を遮断しようとする。
まだウインドの方が冷静に見えるほどだった。
ミュズは頭のネジが飛んでいる。
最初にそう口にしたのはウインドだ。
確かにそうだろう。
これがただの癇癪ならそうは思わないが、ミュズの原動力となる根底にはエル・フェアリアへの憎しみが深く根付き満開に花開かせているのだから。
その憎しみの原動力を表すかのように、
「…ならお前に解読が出来るのか?」
ファントムの言葉に、ミュズの癇癪は突然止まった。
壊れた機械のように、一瞬で殺されたかのように、突然。
「私に任せていろ。パージャは大切な仲間だ…苦しめたままにするはずがないだろう」
ファントムを信じるわけではない。だがミュズは知っているのだ。自分の憎しみを晴らす為には誰の声を聞けば確実なのかを。パージャからわずかに頭を離して見上げるミュズの眼差しをファントムは見下したまま受けて。
「お前に出来ないことを私がやってやろう。パージャの傷もウインドの傷も治してやる。エレッテも、必ず無傷でこちらに戻るさ」
また癇癪を起こすか、それとも不気味な沈黙を続けるか。
恐らく後者だとパージャが直感的に感じたのは、長くミュズだけを愛し続けたからだ。
パージャが悲惨な傷を負ったせいで、ミュズの中にある限界点は既に突破してしまったことだろう。
泣いているうちは癇癪だろうが無事なのだ。
しかしそれを越えたのだから、今は。
「お前はお前に出来ることをしていろ。大会には…エル・フェアリアの騎士達も来るのだからな」
エル・フェアリア。
ミュズが最も憎む存在が。
まるで他者を操るように、ファントムの低い声は耳に心地好かった。
「エル・フェアリアの騎士達はウインドを探るだろう。お前はそれを止めるんだ。お前が憎むエル・フェアリアの邪魔を存分にしてやれ」
ファントムが手を伸ばし、大きな手のひらで小さなミュズの頭を撫でる。
小生意気な愛玩動物にそうするように、絶対的な力で押さえつけるように。
そうすれば、ミュズはあれほど強くすがっていたパージャから手を離して。
--駄目だ
このままミュズを行かせてはいけない。
パージャの本能がミュズを救えと警告を発するからパージャもミュズに手を伸ばしたのに、少しの身動ぎだけで真新しい激痛に苦しめられて。
「お前の憎しみの量だけ、存分にな…やり方は教えただろう?」
苦しむ間に、ミュズはふわりと立ち上がってしまった。
普段ならすぐにミュズを掴まえられるのに、痛みが呪いのように邪魔をする。
「さあ、行け」
犬に命じるかのような声だった。
ファントムの言葉に素直に従うミュズが、覚束ない足でパージャから離れて部屋を出ていく。
ガイアですらミュズを微かも止められないまま。
虚ろな背中。
立ち去るミュズは、一切パージャを見ようとしなかった。
「…あんた…ミュズに何を教えたわけ?」
ミュズのことはよくわかっている。だからこそ今のミュズの異常にもすぐに気付けるのだ。
癇癪を越えた。不気味な沈黙すら越えていた。
ファントムはいったいミュズに何を教えたというのだ。
パージャのいない間に。
パージャの目が届かない間に。
「知る必要は無い。しばらくは休んでいろ」
パージャとガイアとファントム。
二人の眼差しが一人に向かう。
ひとつは痛みの中に怒りを灯して、もうひとつは困惑のまま。
「ミュズに変なことさせてみろ…あんたを殺してやるからな」
死なない身体だろうが、何度だって殺してやる。
パージャの存在意義の全てを以て。
心に深く刻み込むように告げる殺意を、ファントムは先ほどの真摯な様子も忘れて嘲笑うように口元を吊り上げて笑い飛ばすから。
「あんたの殺し方くらい…とっくにわかってんだよ」
口から出任せでもなんでもなく、パージャはファントムを殺せる唯一の方法があることを告げた。
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