第64話
第64話
「今頃は妹君がラムタルに到着している頃ではないですか?」
エル・フェアリアの広い中庭を進むミシェルに静かに問いかけるのは、隣を歩くモーティシアしかいなかった。
エル・フェアリアでは朝日の顔を出す時間ではあるが、ラムタルでは昼を過ぎたくらいだろうか。
大切な末の妹を心配しないはずがないのだが、何やら生ぬるい眼差しで見つめてくる様子は癪に障る。
騎士であるミシェルと魔術師であるモーティシアには今まで接点など存在しなかったが、アリアが王城に訪れてからというもの、暗躍という形での接点が深くなった気がするのは考えすぎではないだろう。
上質な魔力を持つミシェルがアリアに思いを抱いている事実は、アリアと夫候補達を結ばせる役目を担ったモーティシアにとって最高条件なのだ。
事あるごとにミシェルとアリアを近付けようと画策し、上への報告も抜かりないのだろう。
今の今までだって、モーティシアはアリアの警護の任務に当たると同時にミシェルとアリアを近付けさせようと躍起になっていたのだから。
「…ジュエルにはコウェルズ様達が付いている。不安を煽りたいのか?」
「まさか」
わずかに棘を含ませても、いつもさらりと流されて。
「あなたは私が嫌いなようですね」
不満そうな新たな問いかけには冷めた眼差しと共に鼻で笑い返した。
「嫌いなわけじゃないさ。単に鬱陶しいというだけでな」
「…そちらの方が嫌な気分ですよ。まったく、何をそこまで鬱陶しがるのか理解できませんね」
本気なのか冗談なのか。分かるわけがないのだが、ミシェルは中庭の一角で立ち止まると物思いにふけるようにアリア達のいる兵舎内周棟に目をむけた。
今はアリアと共にレイトルもいるはずだ。もちろんレイトルと組んでいるアクセルもいるだろうが。
「あなたが早々に動いてくれさえすれば、こちらも急かしはしないのですがね」
先ほどの棘を倍にして返してくるかのようなモーティシアの声色に、今度は苦笑をこぼす。
「お前には自分の意思はないのか?」
「あった所で何になります?」
モーティシアはただ国の為だけに動く。国に命じられたから、国の宝である治癒魔術師に最適な夫をあてがわせたいのだ。それは理解するが、分かり合えることはないだろう感覚だった。
ミシェルにはミシェルの動き方というものがあるのだから。
アリアを手に入れる為に。そして自分の中に宿るガードナーロッドの悪癖の欲望を昇華する為に。
「あなたがまどろっこしく動いている間に、レイトルが先に進んでしまったらどうするおつもりですか」
「…それは残念だったな」
ため息をこぼすモーティシアに、滲み出る欲望を消すことなく笑いかけてやる。
心地良い冷たさの風を感じながら、それ以上に冷めた口調で。
「…?」
怪訝そうに眉をひそめるモーティシアは、まだその変化には気付いていなかったらしい。
微かで、しかし確かなアリアの変化を。
「アリアはもうレイトル殿に惹かれている」
確かに感じたアリアの変化。熱を帯びた恥じらいの眼差しはレイトルただ一人に向けられたものだった。
その事実に、モーティシアは目を見開いて固まってしまう。
時間にすれば数秒程度だろうが、頭の回転の早いモーティシアを知る者からすれば長すぎる時間だと思うはずだ。
「…まさか。あの子は男社会に強引に入れられて、慣れてきたとはいっても、まだ村で無理矢理強姦されそうになった事実を引きずっているはずです。それに元婚約者に裏切られた事も」
否定の言葉は、そう思いたいからか。
「彼女は強い。それを知らないお前ではないだろう」
アリアという娘のたくましい精神力を。
言葉に詰まるモーティシアは見慣れないがゆえに見ていて面白い。
しかし眉間に深く刻まれ始める皺は今後について危険な思考を巡らせていることを物語り、それはミシェルにとって喜ばしいものではなかった。
だから。
「…この時を待っていた、と言えば?」
呟きは低く強く。
不機嫌なまま首を傾げるモーティシアに、ミシェルはようやく自分が動く手筈が整ったのだと知らせてやった。
「…仰る意味が…少しわかりませんね」
「あっははははははははははっ!!」
少しと来るか。
しかし彼なら何かしら察してしまえるのだろう。
今まで何度もモーティシアには発破をかけられてきた。それをかわし続けたミシェルの言葉は、自分には自分の動き方があるというものだ。
その時が来たのだとわかったのだろう。
「…しかし納得は出来ませんね。遅すぎます…仮に本当にアリアがレイトルに好意を抱いたとして、なぜ今がその時だと言うのです?」
遅すぎる。確かに普通の頭ならそうだろう。
「…まさか横取りがお好みとでも?」
もしアリアがレイトルに思いを伝えてしまったら、ミシェルの今後の動きは許されるものではなくなってくる。
特にアリアにはニコルという敵に回したくない強力な番犬がいるのだ。
アリアとレイトルが恋仲になったとして、それをミシェルが引っ掻き回すというのならニコルは激昂するだろう。
ただでさえ不安定な精神状態にあるニコルを、彼の絶対核に近いアリアで揺さぶりたくはない。
「…私は国から治癒魔術師の今後を任されているのです。理解していただけているなら何をするつもりなのか話してください。わたしが貴方の敵に回ることは有り得ないのですからね」
「ふ…随分と物騒な味方だな」
「大国が味方なのです。何かご不満でも?」
「ありはしないさ」
自分の地位も、エル・フェアリアという味方も。
充分すぎて最高だ。
「教えてやるさ。アリアが彼を…レイトル殿を愛するこの時を待っていたんだからな」
愛しい娘と優秀な後輩。
だが同時に、この上なく憎い女とこの世で最も疎ましい男。
「以前、私に尋ねたな。私が初めてアリアと出会ったのはいつなのかと」
「…ええ」
「私がアリアを見つけたのはアリアが王城に来た頃じゃない。随分と前だ。もう調べているのだろう?」
国の情報網は恐ろしい。
どうでもよい存在のことまで調べはしないが、国にとって重要な存在の動向はつぶさに調べられてしまうのだから。
藍都ガードナーロッド家の出自であり上質な魔力を持つミシェルは、当然重要な存在に位置付けられる。
モーティシアはその動向を調べて気付いたのだろう。
「…七年前…アリアが元婚約者と出会う前…そして、ニコルがガブリエル嬢を酷く突き放した後」
口を開くモーティシアの眉間にもう深い皺は存在しない。
代わりに浮かぶ冷や汗が強い緊張を教えてくれた。
「少し違うな。最初の出会いは八年前。再開が七年前だ」
訂正も少しで済んだ辺りが侮れない。
「私が初めて出会ったアリアはまだ11歳。今のジュエルより若かったというのに成人したてに見えた。随分と大人びた少女だったよ。そしてその時にはアリアが治癒魔術師だとも気付いていた」
静かに語り始める懐かしい過去。当時はミシェルも20歳とまだまだ未熟な自分を謳歌する歳だった。
「しかし彼女はそのことを覚えていない」
「……」
「私は覚えているというのにな…寂しいものだ」
ミシェルの記憶には深く色付いたまま残っているというのに、アリアは。
彼女はミシェルを思い出さない。
だから、愛おしいのにこの上なく憎い。
「…あなたはアリアを傷付けたいのですか?」
モーティシアの声に宿る微かな怒りは、治癒魔術師という特殊な存在を大切に思う魔術師団員であると同時に、可愛い後輩を思う者として当然なものなのだろう。初めて彼の人間味を見た気がした。そんな顔も出来るのではないか。
「…好き好んで傷付けたいわけではないさ。ただ、私の受けた心の痛みを少しでもいいから理解してほしいだけだ」
「その為にレイトルを使うおつもりで?」
その為に、彼を?
それは
「違う」
そんな事の為にレイトルに先を譲ったわけではない。
「…厄介な性格なのは構いませんが…あなたが何をするつもりなのか…状況によっては私はあなたの存在をアリアから離すことを上に進言しますよ」
釘を刺されて、先ほど以上の大笑いを返す。
「下位貴族ごときが」
そして侮辱を。
スッと冷めていくモーティシアの冷徹な表情も、ミシェルの本質を揺るがすことはなかった。
「言っただろう。私はこの時を待っていたんだ。邪魔などさせない…アリアは手に入れるさ。何をしてでもな」
「…レイトルには何の恨みが?」
「復讐のように言ってくれるな…」
モーティシアが敵に回るか否か。それは大した問題ではないだろう。上層部はモーティシア以上に非情なのだから。いくらモーティシアがミシェルを夫候補から外した方が良いと進言したとしても、ミシェルがアリアを望むならば国はモーティシアを切る。
幸いなことにミシェル以上の魔力の持ち主達はアリアを迎えるつもりがないのだから。
だが、なぜか今は話したい気持ちだった。
ミシェルの奥深くに宿る、レイトルに対する疎ましさを。
レイトルに引き裂かれたプライドを。
大切な妹の。
「…ジュエルの想い人を知っているか?」
唐突な問いかけだが、モーティシアの脳内を軽く混乱させるには充分だろう。
難しい問いではない。そしてその問いだけで全てが理解できるはずだ。
案の定モーティシアの表情はみるみるうちに呆れを感じていることを隠さないものに変化していった。
あまりにも身勝手で、単純で、馬鹿らしい。
しかしそれはどうしようもないことだと割り切れないほどにミシェルの心を引き裂いたのだ。
「ジュエル嬢はいつまでもあなたの加護を必要とする幼子ではありません。彼女の歳なら恋も当然のものでしょう。あなたほどの男がそんな事もわからないほど幼稚だったとは考えたくもありませんね」
辛辣な言葉は甘んじて受けとめる。ミシェル自身、ジュエルの美しい成長は喜ばしい事のはずなのだ。
醜いガードナーロッド家の血に染まらない純真な少女。大切な妹の清らかさを守る為に何度も醜い家族達と衝突を繰り返してきた。ミシェルにはジュエルをただ一人で守ってきたという誇りがある。
ミシェルの手で無垢なジュエルは悪癖に染まらずに済んだのだと。
その無垢な少女の心が他人に向いたと気づいてしまった時、ミシェルの心に凄まじい勢いで燃え盛った怒りは歴代のガードナーロッド家の悪癖を代表するかのようだった。
ジュエルがレイトルに恋をした。たったそれだけのことで。
人が人として成長する過程に恋は切り離せないものだと理解している。ジュエルがいつか自分ではなく恋しいと感じる男を胸に抱くこともわかっていた。
それが人としての当たり前の成長なのだから。
そして、もしその時が来てしまったら、きっと寂しいと感じてしまうのだろうと、その程度にしか考えていなかった。実際は激しい嫉妬に胸を焼かれたのだが。
「ジュエルもいつか誰かを愛するのだとわかっていた。ガブリエルがニコル殿に思いを抱いた時も、私は私なりに応援したのだからな。ジュエルが恋をしても、同じように応援してやれるものだと思っていたんだ」
ガブリエルは結局ニコルには相手にされなかったが、その時と同じようにジュエルの恋路も支えてやれると思っていたのだ。
「私自身、愚かだとわかっている。ジュエルを女として見ているわけじゃない。大切な妹なんだからな…大切すぎたというだけで」
大切だからこそ。
「…ジュエルの想い人に選ばれた彼が疎ましい」
守り続けてきた妹の心を奪われてしまった。
唯一の救いは、レイトルがジュエルを愛していないという事だけだ。
その事実は、いつか必ずジュエルがミシェルの元に戻るのだと教えてくれるから。
「…レイトルとは言いませんが、ジュエル嬢に恋人ができてしまったらどうするつもりですか?そうでなくても、いつか彼女も結婚する時が来る---」
モーティシアの言葉は最後まで紡がれなかった。
まるで喉を閉められたかのように言葉をなくして緊張の糸を張り巡らせるのは、ミシェルがその発言を許さなかったからだ。
眼力だけで人が殺せるなら、今頃モーティシアはこの世界に別れを告げていただろう。
動揺する眼差しがミシェルから離れない。蛇に睨まれた蛙のように。
だがいつまでもそのままでいられるはずもなく、落ち着く為に深呼吸をしたのはミシェルだった。
怒りを無理矢理押さえつけて、冷静さを取り戻して。
「…ジュエルがいずれ誰かのものになることくらいわかっている。私もその頃までにはもう少し大人になっているだろう」
まだまだ自分は未熟なのだと。
「だがレイトル殿だけは許せないんだ。勝手だとわかっているがな。まだ私の手から離れる必要のないジュエルの心を奪った、その償いをしてもらうだけだ。…安心しろ。命まで奪うつもりはない」
深い憎しみが、激しい嫉妬心がレイトルの存在を頭から潰してしまえと命じてくる中で、どこまで理性を保てるのかわからないが。
「…いずれあなたを義兄と呼ばなければならない男が不憫でなりませんよ」
いずれ。
いつか。
「遠い未来の話だな」
そんな未来も、未来を受け入れられる度量も、一生来なければいいのに。
「…私を糞ガキと笑ってみるか?」
冗談で問うたというのに、
「とっくに心の中で笑っていましたよ」
冷めた言葉で、呆れた眼差しをぶつけながら。
まるで言葉の通じない相手とのコミュニケーションを諦めたかのように先を進み始めるモーティシアの後について歩きながら、遠い地に向かってしまった妹を思い空を見上げた。
大切な妹。
大切すぎたジュエルという存在。
アリアがミシェルを覚えてくれていなかったから。そしてジュエルがレイトルに思いを抱いてしまったから。
ミシェルの身勝手な悪意がこれほどまでに暗く重く育ってしまったのだ。
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