第63話


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 ラムタル国土上空を進む飛行船内にエル・フェアリアの王子はいない。
 それが、コウェルズ達の最後の話し合いの内容だった。
「今ここにいるのは上位貴族紫都出身であり武術試合出場者のルートヴィッヒ・ラシェルスコット・サード殿、上位貴族藍都出身の侍女ジュエル・ガードナーロッド・アルウィナお嬢様、未だに記録を塗り替えられず史上を貫くジャック・サンシャイン・レフト殿、ダニエル・サンシャイン・ライト殿。そして私は誰でしょうか?」
“王子ではない”コウェルズに問いかけられてグッと一瞬言葉に詰まるのはルートヴィッヒだ。ジュエル達三人の緊張した雰囲気を肌で感じながら口にする、本来王子であるはずの彼の設定は、
「…エテルネル・アルクス・ゴールド。ジュエルに仕える中位貴族アルクス家の次男で、剣術試合の出場者、で…す」
「はい固い。やり直してください、ルートヴィッヒ殿」
 エル・フェアリア最上の存在に改まられて、ルートヴィッヒの体がさらに固く強張った。
 飛行船から降りればコウェルズは当分存在しなくなる。代わりに現れるのは五人の中で一番立場の下となる青年、エテルネル。という設定なのだが、ジャックやダニエルはすぐに設定に慣れ、ジュエルですらも気持ちを切り替えてコウェルズを昔から自分に仕える青年と扱えるよう心がけているというのに、ルートヴィッヒだけは真面目でまだまだ若く融通のきかない性格が災いしてコウェルズをエテルネルとして扱えないでいた。
「…困るなぁ、ルートヴィッヒ。船を降りたらどこで何を聞かれるかわからないんだよ?私がコウェルズであることは“その時”まで隠しておきたいんだから、君も協力してくれないと」
「…も、申し訳ございません」
「やり直し。固い。おかしい。私はジュエルが幼い頃から彼女に仕える設定だから、君とも昔馴染みなんだからね」
「ぐっ…わ、わかっか」
「~~~っっ!!」
 わかった、と軽い口調を懸命に使おうとして結局噛んでしまうルートヴィッヒに、笑い上戸であるコウェルズが耐えきれず吹き出してしまうのはある意味で当然の結果だった。
「はいはい、落ち着けエテルネル」
 顔を真っ赤にするルートヴィッヒは放置して、コウェルズをエテルネルと簡単に呼びながらも背中をさすり、呆れながらも身を案じるのはジャックだ。
「まぁ身を隠すにしても、正体をバラしているも同然の名前ですがね…バレたらどうするおつもりですか?」
 コウェルズの設定上の名前にため息をつくのはダニエルだ。
 エテルネル・アルクス・ゴールド。
 それはコウェルズの本名から使用しているのだから。
 エル・フェアリア王家の血を引く彼の本名はコウェルズ・アルクスゴールド・エル・フェアリア・エテルネル。その長い名前からコウェルズとエル・フェアリアを抜き取ったにすぎない安直な名前など、気付く者も必ず出てくるだろうが、コウェルズはその点にはあまり重視していない様子だった。
「気付く者は優秀な者だからご褒美を用意しないといけないね。何にしようか?」
「…面白がらないでください。騒ぎになればこちらに不利なのですよ」
「大丈夫だよ。どのみち試合になれば私の面は確実にバレるんだからね。ラムタル側にはもうバレてるようなものだし、最近交流のあったイリュエノッドにもバレるだろうね。この二国は穏便に見守っていてくれるさ。後の国は…私が幼い頃に会った程度だから平気だよたぶん」
 どこか見つかることを期待するような面白がる様子に、ジャックとダニエルがため息しか出てこないとばかりに同時に盛大につき、ジュエルは不安げな様子でルートヴィッヒとコウェルズを何度も交互に見つめる。
 いくつもの国から集まるのは武術剣術それぞれ一人ずつというだけではない。出場者を優勝させる為に多くの付き添いが訪れるのだ。たかが出場者二人の為だけに百人を送り出す国まであるのだから。
 それに比べてエル・フェアリアは二人の出場者のための付き添いはたった三人。
 ラムタルを侮っていると多くのものが思うだろう。
 だがその密度は他国の百人でも足りないほどに濃い。
 下位貴族とはいえ大会において伝説と呼ばれるジャックとダニエルの双子を知らない戦士がいるはずもなく、虹の七家に連なる出自のジュエルは小国の姫などより地位は高い。
 ジュエルの地位が高いとなればジュエルの家よりも上位にあるルートヴィッヒは言わずとも知れており、そしてコウェルズはエル・フェアリア最上の存在だ。
 たかが五人組でありながら、あまりにも気高い。
 ただコウェルズは“その時”まで身分を隠しはするが、コウェルズ抜きの四人でも充分お釣りは来るだろう。
 それに設定上エテルネルは長くジュエルに仕えているのだから、虹の藍都と深く繋がりを持つ存在を無下にするものはいないはずだ。頭の回らない者は仕方無いが。
「いいかいルードヴィッヒ。私達は大会出場だけが目的で来ているんじゃないんだ。ラムタルにはリーンがいる可能性が高い。君には大会に集中してもらうが、リーンを捜索する私達の枷になってもらっては困るんだよ」
「も、申し訳ございません…」
「…君に固くなるなと言う方が酷だってことくらいわかっているよ…でも頼む」
 なるべく穏便にと柔らかな口調だったコウェルズの声色に、厳しい鋭さが宿る。
 それは苛ついているわけではなく、真摯であるが故の厳しさであると若者達には届かない程度で。
 息を飲むのはルードヴィッヒだけでなくジュエルも同時だった。
「…私はリーンをエル・フェアリアに連れ戻したい。大切な妹を五年も救えずにいたんだ。今もどういう扱いを受けているかわからない状況でのうのうとしていたくない。君が人選ミスだなんて私は一切思ってはいないよ。だからリーンの為に心を決めてほしい。私は騎士達に気さくに話しかけられて打ち首を命じるような王族だったかい?」
 放たれた言葉は強すぎるほどに周りの者達を信頼している様子を見せた。
 できるはずだ、と。
 それがルードヴィッヒを信じてのことなのか、コウェルズの自信なのかわからないが、わからないからこそ考えることをやめて、ルードヴィッヒは言葉の表面だけを信じて頷いた。
 気さくで飾らない王子であることは他国でも有名で、コウェルズが王族付きに怒られている様子もよく目にされている。
「…よ、よろしく頼みます…エテルネル殿…」
 ルードヴィッヒがコウェルズ相手に妥協できるギリギリラインの口調に、一番最初に笑ってしまったのは笑い上戸のコウェルズではなくダニエルだった。
 ふふ、と、まるで親であるかのような微笑みにルードヴィッヒの頬がわずかに赤くなるが、それを恥じる様子はもう見えない。
「まぁ一応歳上騎士設定だから、それくらいの言葉遣いが妥当なのかな?」
「ヘマしそうになったら頭叩いてでも誤魔化しますよ」
「そうしてあげて」
 ルードヴィッヒのことだ。どこかでボロは出そうになるだろう。だがフォローはするというジャックの強い宣言に、上司であるスカイに何度も頭を叩かれてきたルードヴィッヒはぴくりと頬を引きつらせた。
「ジャックの拳はスカイ以上だから、これは引き締めていかないとね」
 ルードヴィッヒの緊張に気づいたコウェルズも面白がるようにクスクスと笑うから、気を引き締め直すように背筋を正して。
「…ルードヴィッヒも大丈夫だろうからもう一度本題に戻ろうか」
 空気を改めるようにコウェルズが全員を見渡し、一度だけ窓の外に目線を向けてからまた視線を戻す。
 上空とはいえすでにラムタルの領土内にいる。何も起きなければいいと願う者はいないはずだ。この船に乗る精鋭五人は、何かを起こさなければならない立場なのだから。
「ラムタルに到着しても最初からリーン捜索のために動かなくていい。大会終了まで約十日。くどいようだけどルードヴィッヒは大会に集中して。ジュエルも私達の側に」
 何度も確かめ合った内容。だというのに最後の話し合いというだけで緊張が増す。
 コウェルズは少し硬くなったルードヴィッヒとジュエルに目を向けてから、次に双子の騎士達に目を向けた。こちらは流石のもので真剣な眼差しながら少しの恐れも抱いてはいない。
 その手でリーンを救うことに全神経を注いでいるのだろう。
 かつてリーン姫付きとして長く側にいたというのに守りきれなかった二人でなければ、ここまでの集中力は見せられなかったはずだ。
 ガウェは、彼はもはや別次元にある為に双子やコウェルズ達と同じ場所に立つことが出来ないが。
「ジャック、ダニエル。君達も二、三日は深くは動かないように。ラムタルを誤魔化すことは出来ないが、他国の目もある。特に君達は目立つからね。その後から適度に自由に動こう」
 にっこりと普段通りの笑みを浮かべるコウェルズとは裏腹に、双子の表情は強い眼差しがぶれることはなかった。
「あとリーン捜索に次いで重要なことは…ルードヴィッヒ、何だかわかるね?」
 ふいに言葉を振られてルードヴィッヒは言葉に詰まったが、すぐにちらりとジュエルに目を向けてから、喉が固まったかのように硬さを強く残した声のまま口を開いた。
「…ジュエルの身の安全の確保、です」
 緊張の方が強いが真摯な意志強さで。
 ルードヴィッヒの答えにコウェルズは「上出来だ」と微笑む。
 ルードヴィッヒの大会出場は大切なことだ。
 だがジュエルの身には代えられない。
 ルードヴィッヒの答えにジュエルが少し罰か悪そうに眉をひそめたが、不安も拭えないのだろう。声を上げることはなかった。
 私など、と反論しようとするジュエルをコウェルズ達が何度諌めたことか。
 ジュエルはまだ女の身であるが故の大会の恐怖を知らないのだ。とはいえ大会で女が一人でいることがどれほど恐ろしいことか、こんこんと諭し続けすぎたかもしれないとはルードヴィッヒ以外の三人が思いはしたが、重要であるからこそ過大に伝えていることを過ちだとは思ってはいない。特にジュエルは幼いのだから。
「みんな役目を理解した事だし、まあ安心かな。あとはそうだね…ラムタルでの態度だけど、私達の基本の表向きの姿は“なかなか自由なエル・フェアリア人”でいこうか。ほんと大国に生まれてよかったよ。そこそこ自由に動いても事あるごとに咎められることはないだろうからね」
 重要なのはそのくらいだろうか。後はラムタルの規律に従い、強く目をつけられないようにする程度。
「どこまで動けるかはわからない。だけど必ず進展させるよ。こちらも持てるカードは全て持ってきているんだ。大会も、リーン捜索も、素晴らしい結果を残そう」
 普段通りの気さくな口調。しかしあまりにも絶対的な命令に聞こえた。
「さて最終調節もこれくらいだから、後は気ままに到着を待とうか。地面も近くなっているから、ラムタル王城も見えるんじゃないか?」
 じきに到着してしまう。その事実が怖くあり、同時に身体が高ぶりから震えるような感覚。
 武者震いはこの場にいる全員が体験した。
 さあ、始まるよ、と。
 コウェルズの言葉を皮切りにして、最初にジュエルが無邪気に扉に駆け寄る。
 それも計算された事であると知るのも五人だけだ。
 ジュエルの後ろにはルードヴィッヒが近付き、コウェルズ達は後ろ姿を見守り。
「ラムタル王城が見えます。上空には絡繰りが数台。こちらに向かっています」
 無邪気な姿とは真逆なジュエルの冷静な口調。
 近付く異国の魔力の波動に、コウェルズ達も窓辺に身を寄せた。
 窓から見える人間を乗せた絡繰りの鳥の数は五機あり、騎乗する者達も一目で猛者とわかる者達ばかりだった。
 ラムタル王城に近付くコウェルズ達を乗せた飛行船を囲んで誘導するように進み、少しずつ大きくなっていく王城に一番窓に近い場所にいたジュエルとルードヴィッヒが息を飲む。
 二人はラムタル王城はおろかラムタル国に訪れたこともないのだから当然だろう。
 鉄とレンガ作りの多いエル・フェアリアと、絡繰りを重視したラムタルはまるで世界が違うのだから。
 一見しただけなら細かな装飾を彫った木の優しい作りを中心にした建築物に見えはする。しかしその城は動いていた。
 エル・フェアリアの王城上空を気ままに浮かんでいる自我を持った生物である天空塔とは全く異なる、魔力で動かされている絡繰りの巨大な城。
 自分達の暮らしてきた世界とあまりにも異なる世界観に、感嘆のため息をこぼしながら見入るルードヴィッヒとジュエルは、自分たちの役目を忘れてしまったかのようにも見えるほどだ。
 その無邪気とも取れる様子に窓の外の最も近い場所にいた絡繰りに騎乗する者が微笑む姿が見えて、コウェルズもジャックやダニエルと目を見合わせて苦笑を浮かべる。
 初めての他国だから今は仕方ないと目を瞑っていることも、まだまだ幼い二人にはわからないだろう。
 やがて飛行船は減速と降下を始め、地上の人の数が見えたのだろう、ジュエルが少し怯えるように身を縮こまらせて一歩下がる。
「ほら、もう到着なんですから、引き締めてください」
 王子コウェルズの声で、貴族の若者エテルネルになりきって。
 その言葉を合図にするように、ルードヴィッヒも表情を固く険しいものにして窓から離れた。
 扉に近付くのはジャックで、完全な着地を待つ。
 快適な空の旅はヴァルツが鼻高々に自慢したように飛行船がラムタル自慢の逸品であることを告げており、着地に不愉快な揺れを全く感じさせなかった。
 明るい時間だというのに外が異様に静まり返っている様子も手に取るように伝わってくるが、誰もその点に関しては動じはしない。エル・フェアリアの名を背負うのだから当然の注目なのだと。
 飛行船が完全に制止すると同時に扉が開き、最初にラムタルの地を踏んだのはジャックだった。
 その後をジャックにエスコートされるようにジュエルが降り、次にルードヴィッヒ、コウェルズ、最後にダニエルの順で降り立つ。
 そこはラムタル王城内の巨大な訓練用グラウンドで、飛行船は計ったかのように中央を陣取っていた。
 他の国の戦士達と付き添いの者達もエル・フェアリア陣営の到着を鋭い目つきで見守り、警戒と緊張の空気がビリビリと容赦無く全身を覆ってくる。
「懐かしい空気だな」
「ああ」
 ジャックとダニエルはその空気を心地良さそうに吸い込み、緊張の様子を見せるルードヴィッヒとジュエルに「すぐに慣れるさ」と笑みを見せた。
「--エル・フェアリア代表と付き添いの皆様ですね。お待ちしておりました」
 近付く気配は近寄りがたい上品さを醸し出す美しい佇まいのラムタルの若い侍女で、流暢なエル・フェアリアの言語に周りから一方的に送られてくる緊張感がわずかに緩和されてくれる。
『お招きいただき感謝します。此度の大会は大国ラムタルが開催国なのですから、どうぞ母国語をお話しください。我々もラムタルの言語には慣れ親しんでいるつもりですので通訳も不要です』
 侍女に温和な笑みを浮かべてラムタル語を丁寧に口にするのはダニエルで、慣習に従うように侍女はゆっくりとお辞儀をした。
『お気遣いまことにありがとうございます。それでは性急ではございますが大会出場者様のお名前をお聞かせ願えますか?』
 侍女もその一連の流れは当然のことであるかのように母国語に戻り、手にしていた名簿用紙を確認してルードヴィッヒとコウェルズを目にする。
 ジャックとダニエルが出場者でないことを理解した目線だったが、今に至るまで彼女はいっさいジュエルに目を向けておらず、幼いとはいえジュエルが敏感に何かを察知して微かに眉をひそめて唇を尖らせた。
 もちろんその様子をエテルネルであるコウェルズが見逃すことはしない。
『私はエテルネル・アルクス・ゴールド。剣術試合に出場させていただきます。こちらがルードヴィッヒ・ラシェルスコット・サード。武術試合に出場されます。そちらの用紙に記されているとは思いますがルードヴィッヒ殿はエル・フェアリアでも地位の高い紫都ラシェルスコット家のご子息でいらっしゃいますので、失礼とは思いますが粗相のないようお願いいたします』
 そこまで言う必要はないだろう情報に侍女はプライドを傷付けられたのか不愉快そうな目線をコウェルズに向けるが、コウェルズの言葉はそこでは終わらなかった。
『そしてあなたが先程から全く目に映そうとされていないこちらのお方は、ただの付き添いの侍女などではなく上位七家からお預かりした藍都ガードナーロッド家のご令嬢、ジュエル・ガードナーロッド・アルウィナ様です。長くお嬢様にお使えしてきた身としましては…どうぞ姿勢を改めていただきたいものですね』
 本気で怒りを露わにするような下手をせずとも喧嘩腰のコウェルズの口調に、それよりも侍女はジュエルの出自に頬を青ざめさせた。
 大会出場者の名前や出自などは簡単に用紙に記されているのだろうが、付き添い人達まで全て記されているわけではないはずだ。
 せめて男女の数その程度。裏で何が起こるかわからないほど女性には危険な大会に、外交に関わるほどの娘が訪れると考える方が少ないだろう。
 それでもエル・フェアリアはありえないほどの少数派遣なのだ。危害が加えられないようにする為にも名前を聞くだけで相手がひるむほどのジュエルの存在は重要だった。
 コウェルズの言動はジュエルに長く仕えたという設定のエテルネルとしての言葉だけでなく、ジュエルという存在そのものを早々に他の者達に知らせる為にも必要なものなのだ。
『大変失礼いたしました。もしよろしければ特別な警護を用意いたしますが』
 侍女はすぐさまジュエルに頭を深く下げると、尋ねながらもすぐに行動しようと腕に巻きつけていた不思議な装飾の絡繰りを取り外す。
 それを制したのは穏やかな姿勢を崩さないダニエルだ。
『不要です。彼女には我々から離れないよう強く命じていますし、彼女自身魔力訓練を受けているので簡単に屈することはありませんからね』
 きついコウェルズの口調から一変したダニエルの穏やかさに侍女がホッと胸を撫で下ろす。
『それでは何かございましたらすぐにおっしゃってくださいませ。ラムタルの威信にかけても藍都の姫君を危険に晒すわけにはまいりませんので。では先にお部屋と各種施設の案内をさせていただきます』
 調子を取り戻す侍女の合図で後方に待機していた他の侍女や兵士たちが近付き、コウェルズ達に目礼を行ってから飛行船内に足を踏み入れていく。
『お荷物は全て用意した部屋に運んでおきますのでご安心ください。飛行船の魔力献上者の方は…』
『私です』
『では少量で構いませんので魔力の譲渡を私に行ってください。少量あれば飛行船を小型に戻すことが可能ですので。その後は小型飛行船が自ら魔力を嗅ぎ分けて自力でエテルネル様の側に戻ります』
 飛行船を大型犬に戻すということなのだろうが、小型という言葉にコウェルズは堪えきれずに苦笑いを少し浮かべてしまった。
『…あの?よろしいでしょうか?』
『ええ。わかりました』
 ほっそりとした手をそっと差し出してくる侍女に自分の手のひらを乗せる。その間にコウェルズが指示せずとも、ジャックとダニエルは静かに行動に移していた。
『では送ります』
 コウェルズの魔力が僅かにだけラムタルの侍女に渡る、その瞬間に侍女の身体は戸惑いを隠せないかのように強く跳ね、同時にコウェルズは侍女の手を掴んで自分に引き寄せた。
 何が起こったのか、わからないのは侍女だけだろう。
 ルードヴィッヒとジュエルは不安げに辺りを見渡したが、運良く誰の目にも侍女が倒れそうになっただけのように映ったようだ。
 周りから見ればエル・フェアリアの青年が侍女を引き寄せて庇っただけだが、その真実は違う。
『---っっ』
『少し静かに…』
 階級だけでなくラムタルでの家の位も高い侍女であることは想定していた。そうならばコウェルズの魔力に直接触れれば、それが“エテルネル”という青年でなく誰なのか気付くことは可能だろう。
 エル・フェアリアの王家の魔力は他とはあまりにも違いすぎるのだ。
『…この事はラムタル内でも秘匿されているだろうが、上層部やバインド国王の耳には入れられている』
『ですが、申し訳ございませんが訳あってのお忍びなのです。黙っていてくれますね?』
 コウェルズから侍女を離しながら、ジャックとダニエルは低い声で囲み囁いた。
 それが誰であるのかは告げはしないが、この状況で気付いていない方がおかしいだろう。
『…ラムタル国マオット家の第四女、イリュシーと申します。何かございましたら私をお呼びくださいませ』
『…マオット家ですか。ジュエル様には及びませんが高貴な家柄のご令嬢だったのですね。先ほどの非礼をお許しください。滞在中はよろしくお願いします』
 コウェルズでありながらエテルネルとして。
 ジャック達に離された手をわざわざ握り直してイリュシーに狙いを定めるように微笑むコウェルズに、まだうら若い娘が頬を染めないわけがなく。
『…エテルネル殿、悪戯もほどほどに』
『あはは、すみません。ではイリュシー嬢、案内をお願いします』
 飛行船内に入った者達の荷物の運び出しと同時に清掃に取り掛かった様子を眺めて、一同が広い訓練場から離れるために歩き始める。
 イリュシーも普段の調子を取り戻さんと施設の説明を始めてくれるが、周りから送られてくる緊張の眼差しや張り詰めた空気の圧に、説明された内容は五人の耳にはあまり届かなかった。
 緊張だけならまだ仕方ないが、大会に出場するのだろう各国の戦士達の眼差しはギラギラと燃えて完全な敵視と化しており、その威圧感を直接受けるルードヴィッヒが自分の魔具で飾られた見た目を恥じるように俯く。
「…そのうち慣れるさ」
「心地良く感じられたなら万々歳だよ」
 まだまだ未熟なルードヴィッヒを母国語で励ますジャックとダニエルを後ろにしながら、コウェルズはジュエルと並んでイリュシーの後に続いて。
「お嬢様は堂々としたものですね」
「…ほ、褒め言葉として受け取っておきますわ」
 ジュエルも緊張した様子を見せるが、こちらはまだルードヴィッヒが直接受けている敵視を向けられていない為か緊張の度合いは低い。
 コウェルズを慣れ親しんだエテルネルとして接する様子にはまだ硬さが残るが、緊張に打ち消されて上手い具合におさまっている。
 ジュエルは年齢に似合わず冷静な方なので、一人になる事以外で不安要素はほとんど見当たらない。
 コウェルズはその点に関してだけ安堵しながら改めて周りを見渡し、鋭い眼差しで睨みつけてくる多くの異国の戦士達を挑発するように涼やかな笑みを返し続けた。
 誰もかれもがエル・フェアリアに興味を持つ。それは毎年好成績を収め、最も優勝回数が多いことも理由のひとつだろう。
 敵視の眼差しが戦いへの純粋な意欲から来ることが見てわかるから高揚感を感じるほどだ。中には野心や卑屈な眼差しを向ける者もいるが。
 そんな眼差しの津波が押し寄せる中で。
「---」
 一際暗く冷たく突き刺さる視線にコウェルズは思わず背筋を凍らせてそちらに目を向けた。
「…どうされましたの?」
 方向はジュエルのさらに後ろ。
 コウェルズの視線に緊張が宿ったことに気付いたジュエルに不安げに問いかけられるが、返す言葉は見つからなかった。
 彼がいたからだ。
 闇色に染まる青を宿した、目に痛い柄のバンダナを頭に巻いた、ラムタルの神官衣を纏う青年。
 コウェルズ達が探すファントムの仲間の突然の登場に息を飲む。
 遠すぎて側に向かうことができない距離のもどかしさよりも、彼がコウェルズに向けてくる静かな殺意の眼差しに嫌な既視感を覚えた。
 その眼差しはエル・フェアリアに捕らえているエレッテそのものだったからだ。
 コウェルズを通してエル・フェアリアの全てを恨むような底の知れない憎しみ。
「っ…」
 コウェルズが言葉に詰まる間に、彼はするりと背中を向けて去ってしまった。
 後に憎しみの闇だけが残るような。
 違う。
 憎しみが確実に残されていた。
 その青年に目を奪われた為に気付かなかったが、幼さを強く残す少女が青年と同じ眼差しでコウェルズを見つめ続けていたのだ。
 短く切られた薄桃色の髪は優しい色合いだというのに、少女の眼差しはあまりにも冷たかった。
 青年と同等か、それ以上か。
 誰だ--
 そう思うより先に、少女がコウェルズに向けていた視線を離し、音もなく消滅するように青年の去った方向へと消えてしまった。
 ラムタルの侍女に支給される制服の残像だけを残して消えてしまった少女が、なぜか頭から離れなくなった。
 あの青年よりも、エレッテよりも、コウェルズを深く憎しむような眼差しだったから。
「…どうしました?エテルネル」
 後ろからダニエルにも問いかけられる。立ち止まっていたのだと気付いたのもその時だった。
「…いや、なんでもない…気にしないでください」
 ようやく見つけた手がかりの青年よりも、あの少女が。
 歩みを再開するコウェルズは、もはや周りの敵視の視線を完全に忘れてしまうほどにあの少女の存在に意識を奪われてしまっていた。

第63話 終
 
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