第63話
第63話
昨日のことを覚えているか?
胸の奥深くで自問するルードウィッヒは、部屋の壁に掛けられている鏡に写し出された自分を見つめた後に胸の奥深くで否定した。
鏡の中の自分は魔具で作られた細工の細やかな装飾品に彩られて、まるでか弱い少女のようだ。
ガウェに切り揃えてもらったお陰で以前と違い髪は短くなってはいるが、それだけでは男になど見えないほどに、自分は弱々しい。
髪飾りも、ピアスも、何もかもがルードウィッヒの見た目から力強さを消してしまっているのだ。
以前ならば“これは魔具訓練なのだ”と自分に自信を持ってきた。しかし何が発端だったかいつの間にか自分を飾ることを止めていて、大会の為の訓練をすればするほど魔具で飾らないことに慣れていったのに。
昨日、立っていられないほどの震動がジュエルごとルートヴィッヒを襲い、ジュエルをかばって下敷きとなった。
ルードヴィッヒが下敷きになるなど有り得ない状況だったのに、だ。
激しい震動に襲われた時、ルードヴィッヒは確かにジュエルに覆い被さるように倒れた。
その後に自分が下敷きになるまでの一瞬に何かがあった。
動いたのは自分だ。無意識ではあったが身体が最善の動きをした。今にも消えてしまいそうな感覚を何とか強い意志で押さえつけてはいるが、
「---っ…」
その後ルードヴィッヒの身体をまさぐった大きな手が、ルードヴィッヒが思い出したい感覚を遮断してしまう。
ジュエルをかばったルードヴィッヒの身体は剣武大会に出場する為の重要な身体で、その身体に傷がついていないかを調べる為にジャックが触れて調べてきたのだ。
指先から腹部に至るまで、すべてを調べられた。
その手が。
「なん…でだ」
その手が怖かった。
痛みを押さえるように両手で頭を掴む。
ジャックがルードヴィッヒの身体に触れたことは必要なことだったのに、かつてのおぞましい記憶が邪魔をして恐怖でしかなかった。
まだルードヴィッヒが今以上に未熟だった頃、たった一人の少女を守ることもできずに絶体絶命に陥り、少年趣味の敵に身体をまさぐられた。
死を覚悟させられた状況で素肌に、それも誰にも触れさせないような箇所に指を這わされて。
屈辱と恐怖と混乱が限界を越えたがゆえの魔力の暴発がルードヴィッヒの命を救いはしたが、変わりに全身は変質者の血に濡れた。
はだけた衣服の内側にぬるりと入り込んだ生暖かな血がルードヴィッヒを隅々まで汚すような感触。
忘れていたはずの感覚が、たかがジャックに身体を検査されただけで思い出してしまったのだ。そしてその感覚は、なぜか魔具で自分を包んでいると微かに落ち着いた。
違和感はまだ身体に強く残ってはいるが、それでも細やかな装飾の魔具が自分自身の力だという安心感が働くのか。
わからない。
昨日ジュエルをかばった際の感覚をどうにか思い出したくてそちらに意識を向けたいのだが、恐怖は無情にもルードヴィッヒを苛み邪魔をするのだ。
考えろ、と心で自分を叱責する。
無駄な恐怖など邪魔でしかない。今は大会に頭を全て向けろと。
「…なぜだっ」
しかし恐怖なんかいらないと自分の中から省こうとしても、どうしても震えがとまらなくて。
自暴自棄になりそうな、過去の恐怖に押し潰されそうな、どうしようもない、無様な--
「--ルードヴィッヒ…」
突然室内に響いた幼い声が、深い闇に押し潰されそうだったルードヴィッヒの意識を浮上させた。
「…あの…ノックして呼んでも返事がありませんでしたので…」
声の方へと目を向ければ扉の前にジュエルが立っており、普段は生意気なほどの勝ち気な眼差しは不安げに揺れていた。
彼女のこんな表情を見るのはハイドランジア家での一件以来か。
侍女としての優秀な顔ではない年相応の少女の表情をしたジュエルは、ルードヴィッヒの様子に数秒足踏みした後に意を決したように側に近付いてきた。
黙り込むルードヴィッヒには長く感じる短い時間。
側に来たジュエルはキュッと固く閉ざしていた唇を開いて、吐息を震わせた。
「…もうじきラムタルに到着しますので、最後の話し合いをしたいとコウェルズ様がお呼びです」
落ち着いた静かな声に聞こえるが、ジュエルと行動を共にし続けたルードヴィッヒには普段通りに見えて普段とは全く異なる様子が手に取るようにわかった。
勝ち気で傲慢なジュエルはここにはいない。
いるのは情けないほどに弱々しく声を震わせる少女だけだ。
いや。
ルードヴィッヒがそう思いたいだけか。
自分自身があまりにも頼りないから、自分よりも弱いはずのジュエルを弱く見たいのだ。
そう気付いてしまえば、醜態ばかりで見苦しい自分の情けなさに強く唇を噛むことしかできなかった。
なぜこうもうまくいかない。
早く強くなりたいのに。
ジュエルと目が合わせられない状況で俯くルードヴィッヒに、
「昨日は…ごめんなさい」
ジュエルの謝罪は不可思議な音として耳に響いた。
「…え?」
「昨日から様子がおかしいから…どこか痛むのでしょう?…私をかばってくださったから」
足元を見ていた視線を上げれば、こちらに真剣な眼差しを向けるジュエルの瞳いっぱいに涙が浮かんでいた。
しかし意地でもこぼすまいと強く眉間に皺を刻んでおり、泣いているのと変わらないほどに赤くなっている鼻に心臓はびくりと跳ねた。
「あなたの身体の方が大切ですのよ!私なんか…放っておけばよろしかったのです…」
ルードヴィッヒの身体は大会に出場しなければならない大切なものだから、ジュエルなど、と。
そんなことを言われても。
「…女の子一人守れないような人間に騎士は務まらない。それに…どこも痛めてなんかいないから…安心してくれ」
声はかすれてはいたがしっかりと出てくれた。
以前は守れなかった。
パージャがルードヴィッヒを信じてミュズを託してくれたのに。
ハイドランジア家でもだ。
ルードヴィッヒは自我を失ったまま襲ってきたハイドランジア主人に対して、自分の身を盾にしてジュエルに覆い被さることしかできなかった。
たったそれだけしか出来なかったのだ。
その程度なら誰にでも出来る。
選ばれた騎士でなくても。
それでは駄目なのだ。ルードヴィッヒは騎士なのだから。騎士として、大切なものを守らねばならない。
少女一人くらい簡単に守れないと。
「…私なら本当に平気だから」
小さな声にジュエルはすがるように見つめてくるが、数秒すれば視線は逸らされてしまった。
負い目に感じているというのだろうか。ジュエルには何の落ち度も無いというのに。
無駄な時間が流れようとするからどうにかしたいのに、結局経験の浅いルードヴィッヒはジュエルにどう言葉をかけるべきなのか、答えなどわかりはしなかった。
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行っておいで、と。
ジュエルを促したのは、見ていられないほどに痛ましい表情をしていたからだ。
辛そうに唇を尖らせる藍都の末娘がコウェルズの大切な妹姫達と被って見えたのは偶然ではないだろう。
コウェルズはルードヴィッヒとジュエルがいる部屋の扉近くに背中を預けて立ち、吐息と変わらないほどの小さな溜め息をついた。
王家の血を引く者とそうでない者という確実な違いはあれど、ジュエルとコウェルズ達には遠すぎない血の繋がりがあるのだから。
コウェルズ達の父親であるデルグ前王の母は藍都の女だった。
歴代の王妃達を調べれば上位七家出自の娘は存在するのでコウェルズ達の祖母が藍都の女であることは何らおかしいことではないが、虹の藍を強く宿して生まれたコレーがジュエルと年が近いという事実もジュエルと妹姫達をコウェルズの中で結びつけたのだろう。
普段の勝ち気なジュエルの様子ならば何も感じはしないが、痛ましい表情は微かではあるが胸を締めつける。
「コウェルズ様、大方の用意は済みました」
「ルードヴィッヒの様子はいかがですか?」
物思いにふけるように静かに待っていたコウェルズに近付きながら話しかけるのはジャックとダニエルしかおらず、二人はコウェルズからの無言の合図にすぐ声を殺した。
「今はジュエルに任せている所だよ。どうなるかは…まあ想像通りになるかな」
「…ジュエル嬢では強張りをほどけない、と」
「ほどけるほどの仲でもないからね」
まだ幼いルードヴィッヒとジュエルは単なる幼馴染みでしなかい。城の者達は行動を共にする二人を見て可愛らしい恋人だと微笑んでいたが、現状二人が恋仲になることはまず無いだろう。
ルードヴィッヒはパージャの妹だという少女に、ジュエルはレイトルに思いを抱いているのだから。
その思いが消えて二人が繋がれば、とは国の願いでもあるが。
魔力の質の良い二人は年齢も近いこともあり上層部達が婚姻を強く押しているのだ。
それゆえにルードヴィッヒはアリアの夫候補から外されたのだから。
コウェルズも普段ならば国の思惑通り二人を繋がらせようと動くが、今日ばかりはコウェルズ個人としてジュエルをルードヴィッヒの元に向かわせてしまった。
ジュエルは可愛い妹達ではないというのに。
これも女の涙の成せる技なのか。
少女というだけでも庇護欲はそそられるというのに。
それとも不安定なまま残してしまったミモザに対する悔やみをジュエルで晴らそうとでもしているのか。
再び小さな溜め息をついてから、コウェルズは扉の小さな窓から見えるルードヴィッヒ達から目を離して双子の騎士に視線を移した。
ジャックとダニエル。よく似ているが、細部にはやはり違いのある二人。
「ルードヴィッヒ殿のあの髪飾りの魔具は…以前説明されたものでしょうか?」
口を開いたのがジャックであると気付ける程度にはコウェルズは二人をよく知っている。
「そうだよ。見事な髪飾りに仕上がっているだろう」
「たしかに見事ではありますが」
「違和感…はありますね」
豪奢というわけではないが細やかな髪飾り達。
それを纏うのが女に間違えられるとはいえ立派な男であるルードヴィッヒなのだから違和感は拭えない。
「ルードヴィッヒが魔具の殻に閉じ籠る間は…彼の劇的な変化は見られないだろうね。ファントムとの戦闘の一件で少しは成長したように見えていたんだけど」
溜め息と共に視線を自分の組んだ腕へと落とす。
人とはどうしてこうまで上手く歯車に回されてくれないのか。
「いったい何があって自分を魔具で飾るようになったのですか?暴漢との戦闘の後に、自身を高める為にレイトル殿から教わった魔具訓練方法で飾り始めたとは聞いていますが…」
昨日の一件から、さすがに様子がおかしすぎる、と。
ジャックの言葉にダニエルも真摯な眼差しでコウェルズを見据えてきたので、再々度微かな溜め息をついてからコウェルズは扉の小さな窓ごしにルードヴィッヒを見つめてから、彼に何があってこうなってしまったのかを脳内で簡単に整理した。
報告は全てガウェから聞いているが、コウェルズが目の当たりにしたわけではない。
「…パージャという侵入者がまだ騎士として城内にいた頃に、パージャを殺そうと画策した前黄都領主の命を受けた男達が城外でパージャの妹君と、共にいたルードヴィッヒを捕らえようとしたことは話したよね?」
「はい」
「ルードヴィッヒがパージャの妹君をかばって戦闘になり、からがら勝利したと話したけど…本当はルードヴィッヒの惨敗さ」
改めて語る真実に息を飲んだのはどちらか。
「パージャは妹君をルードヴィッヒに託して、自分の命を狙う男達を50人ほど全て殺した。その間ルードヴィッヒは妹君を連れて逃げ回り続けたそうだが最終的には捕まってしまったらしくてね。ルードヴィッヒなりに知恵を絞って遊郭に手助けを願い、遊女に扮して逃げ続けていた時だそうだ」
「…女装…ですか。それが原因で魔具の髪飾りを?」
「もう少しややこしいかな…ルードヴィッヒを捕らえた男の一人に少年趣味があったらしい。ルードヴィッヒは捕らえられた状況のまま、反撃も何も出来ないまま好き勝手に身体をまさぐられた。女の姿のままでね…ああ、最後まではされていないそうだよ。そうなる前にルードヴィッヒの魔力が暴発したからね」
さらりと告げるには、酷な内容だろう。
成人を迎えているとはいえルードヴィッヒはたかが16年生きた程度のまだまだ考えの甘い若者なのだ。
その彼の身に起きた出来事は、同情などという言葉では片付けられない。
「ルードヴィッヒは負けた。手も足も出なかったそうだ。生き残れたのはルードヴィッヒが魔力の暴発を起こしたがゆえの偶然で、ルードヴィッヒ自身がその事実に深く傷付いている」
騎士でありながら、毎日を訓練に投じていながら。
「…それは」
二人は言葉を探すように視線を泳がせるが、すぐに諦めたように静かにルードヴィッヒ達のいる扉へと視線を固定した。
「一種のトランス状態に近いんだろうね。魔具訓練は自分の力を高めてくれる。同時にあの装飾は…ルードヴィッヒの寿命を長らえさせたきっかけでもある自身の見た目をさらに彩る飾り」
女の子のような見た目。その容姿が、ルードヴィッヒが暴漢にすぐに殺されることを防いだ。
おぞましい記憶と共に。
生きていたのだから万々歳だ。ルードヴィッヒの潜在能力は高いのだから。だが生の代償も大きかった。
「ルードヴィッヒ自身が気付いて覚醒することが今回彼を大会に出場させる目的だ。ルードヴィッヒの力を引き出し、騎士としてさらに強くさせる…あの魔具の装飾だけが心残りだね」
たかが魔具の装飾と言い切るにはルードヴィッヒの精神安定剤として深く根付いてしまったもの。
トラウマの具現化と言っても過言ではないほどの。
「ハイドランジア家の一件で治まったように見えたけど…どうにかしないとね」
到着すれば大会開始まで時間はない。
それまでに魔具の装飾を、トラウマを克服させなければ。
そのトラウマこそがルードヴィッヒの潜在能力を押さえつけているのだから。
安定剤などでなく。
「…ジュエルの方も頭打ちの様子だ。ラムタル到着も近いから最後の打ち合わせをしておこう」
扉の向こうにいる幼い二人の動きが完全に止まった様子に気付き、コウェルズは組んでいた腕を離して扉に向き直った。
数秒ほど俯いてから扉を軽く叩いて。
入るよ、と扉を開けながら告げれば、二人はすぐさま姿勢を正してコウェルズに一礼した。
「…やあ。じきにラムタルに到着するから、ここで最後の確認をしようか」
とにもかくにも時間は待ってはくれない。
ルードヴィッヒの細やかな髪飾りに目を向けながら、コウェルズは多くの問題を押し留めて普段通りの気さくな笑みを浮かべた。
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