第62話


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「--申し訳ございませんが…」
 彼を否定する静かな声は、その後に何が起こるかわからない恐怖に微かに震えていた。
 まだ容姿に幼さを残す青年は自分自身の震えに気付きながらも懸命に任務を全うしようとし、その隣に立つ似た容姿の娘が警戒と緊張を両者に向ける。
 二人の若者。世にも珍しい癒術騎士。
 若すぎる双子。
 ファントムは自身が入室しようとしていた部屋への経路を阻む二人に口角だけの笑みを向けた。
 あまりに冷たい微笑にラムタルの癒術騎士であるアダムとイヴはさらに緊張に身を固め、アダムが妹を庇うように手にした槍を握る腕に力を込める。
 立派に役目を果たす勇敢な騎士達だ。しかしファントムの目には強者に怯える幼子にしか見えず、滑稽な姿が次第に不憫に思えた。
「リーンの様子はどうだ?」
 問いかけにまず返ってくるのは沈黙で、重い鉛を口に含まされたようにアダムとイヴは互いを見遣る。
「…少しずつではありますが、確実に回復されております」
「ですが完全に回復されるまでは誰にも会わせるなとの命令を受けておりますので…」
 充分な沈黙の後にようやく開かれた双子の唇は、ファントムの質問よりも主であるバインドの命令を優先させた。
 顔色を窺うように微かに見上げてくる二人の緊張は、バインドが激昂したことがまだ尾を引いている証拠だろう。
 数日前、リーンとルクレスティードが今後どのようにファントムの力になるのかという会話をバインドは聞いてしまった。
 バインドは五年間土中に埋められたリーンの今後は、ただ穏やかなものだと思っていたのだろう。
 凄まじい苦痛を味わったのだから、もうこれ以上は苦しむ必要など無いと。
 しかし現実は無情で、リーンにはまだ役目が残っている。
 バインドはそれを知り、怒りに任せて呼びつけたファントムに掴みかかった。
 普段の落ち着きを忘れて、ただ幼いリーンを思って。
 双子はバインドの後ろで、自分達には向けられていない怒りに身をすくめていた。
 いくら自分達には向けられなかった怒りだとしても、主の怒りは若い双子にとって避けたい感情のはずだ。
 避けたいから、何がなんでも主の言いつけを全うする。ファントムの正体を知っていようとも。
 ファントムも元よりリーンに会えるなどとは思ってはいなかった。
 会う必要などないのだから当然だろう。
『--リーン』
 会わずとも会話は可能で、ファントムは扉ごしに脳内で呼びかける。
 そうすれば網膜にリーンの視界がファントムの目に映る世界と重なり、不思議な闇の情景は静かに広がった。
『父上…』
 そして脳裏に響く幼くも大人びた声に、リーンが眠りについていないと悟る。
『まさか父上が捨て駒の為だけにわざわざ出向くとはな』
『お前の完全でない魔力では、私の元まで思念を飛ばすのは不可能だからな』
 ファントムがわざわざリーンの匿われた部屋の側に訪れたのは、バインドの命令により部屋に魔力の防御壁が築かれた為だった。
 目には見えない壁は他の魔力の介入を許さない。
 そんな努力もファントムの膨大な魔力を前にすれば赤子も同然だったが、不完全であるリーンには十二分すぎる力で。
 ファントムの声はリーンには届くがその逆ができない為に、ファントムはわざわざ足を運んだのだ。
 まだ役に立つ我が子の為に、わざわざ。
『容態はどうだ?』
 気遣うように問えば、返されるのは嘲笑だった。
『問いたいのは容態ではなく“私がいつ動けるのか”であろう?』
 ひとしきり嘲られて、冷めた言葉が響いて。
『なに、あれを籠絡するならば完全に体が癒えるよりも不完全な体で庇護欲を掻き立てた方がよいだろう。バインド王の幼い束縛には辟易しておる。今すぐ向かえと命じるならば喜んであれの元に向かおうぞ』
 言葉の端に宿る微かな苛立ちに、今度はファントムが微笑む番だった。
 献身的に看病をしてくれる大国の王の寵愛を幼い束縛などと。
 しかしその幼い束縛のおかげでファントムがわざわざ足を運ぶことになったのだ。
 結局は無意味だったとしても、バインドの行為はファントム達に無駄な時間を使わせた。
『お前がここを離れるのは大会が終わった後になる。それまではせいぜい大人しく振る舞っていろ』
『言われずとも』
 リーンの準備が整っているならば後は時期を待つだけだ。
 リーンが動き始めれば、ファントムの計画は今までで一番大きく前進することになる。
 長い時間をかけて張り巡らせた蜘蛛の糸。かかった獲物達をようやく回収に向かえる。
 ようやくだ。
 ようやく、あと少しで。
 ファントムの願いは叶う--
『--奥方には話したのか?』
 感慨に浸るファントムの頭を冷やしたのは、たったそれだけの言葉だった。
『…何度も忠告したであろう。奥方には早く最後の我が子の真実を伝えておけと。でなければ、手遅れになろうぞ』
 全てを見透かした声で、リーンはファントムの精神を逆撫でする。
『…黙っていろ』
『あの奥方は父上の暴力の下で無理矢理女であることを強いられているだけだ。奥方は女であることより母親であることを望んでいる。それがわからぬほど愚かではなかろう』
『黙っていろと言ったんだ』
 ファントムの苛立つ気配は、声は聞こえていないないはずの眼前のアダムとイヴの肩をびくりと震わせた。
『…エル・フェアリアの男達の執着には呆れるわ』
 しかし苛立ちを向けられたリーンの方は少し口を閉じはしたが気にも留めていない様子で、ため息まで聞こえてくるように呆れてみせる。
『父上。これはおぬしの娘として、彼の流れに浸された者としての最後の忠告だ。奥方には早く』
『お前の関与する領域ではない』
 忠告は受け取らず。
 苛立ちを消し去ることもせずに、ファントムはその身を翻してリーンのいる部屋に、アダムとイヴに背中を向けた。
 忠告など受ける必要はないと。
 リーンはファントムの思うままの動きを見せるが、この忠告に関しては苛立ちしか生まれなかった。
 ファントムが隠す最後の子の名を妻に、ガイアに話してやれという忠告を。
 ガイアが産んだニコルとルクレスティード。エル・フェアリア故王妃クリスタルに産ませたリーン。そして“彼女”に産ませた最後の一人。
 それが誰なのか知るのは今のところ、ファントムとリーンと、嘘の通じない彼だけだろう。
 子供に執着するガイアは、最初こそ知ることを恐れたが、次第に強く最後の子を知りたがるようになった。
 時にはファントムに噛みついてでも聞きだそうとするガイアに何度鞭を振るい、術をかけ直したか。
 愛しい妻だ。傷つけたいわけではない。それでも言うことを聞かないなら鞭を振るうことは必然だった。
 ガイアの幼少期からそうしてきたように。
 リーンの部屋から離れるファントムが向かうのはラムタル王城の上階で、誰にも合うことなくたどり着く上階の露台に出ると、目には見えない上空の空中庭園に目を向けた。
 バインド王が設計したが、あまりに莫大な魔力を消費する為に見送られた巨大な飛行船、空中庭園。製作不可能と言われたそれはファントムの魔力を前にいともたやすく実現し、ファントムの所有物となった。
 その見返りとしてファントムはバインドに力を貸し、ラムタル前王とその政権下に準ずる者達の粛清は迅速に行われたのだ。
 それ以降も、今に至るまでバインドはうまい具合にファントムの為に動いてくれてはいる。
 しかしリーンの今後を知り、どうなるか。
 上空を見上げるファントムは静かに己を魔力で包み、微かな浮遊感を感じた後に一歩足を前に出した。
 たったそれだけで、視界は激変し、露台にいたはずの体は空中庭園のデッキを進んでいた。
 驚くほどではない慣れた感覚を気にも留めずに空中庭園内に入り、豪奢な通路を堂々と進んでいく。
 その途中にはエル・フェアリアでつい最近拾ったソリッドとアエルに与えた部屋もあったが、ファントムは二人の部屋の前を素通りしてさらに奥へと向かった。
 空っぽのエレッテの部屋も通りすぎ、途中で無邪気にじゃれてきたルクレスティードには頭をひと撫でしてから外で遊んでいろと告げて。
 ファントムが向かったのは、負傷したパージャのいる部屋だった。
 数日前の戦闘で治らない傷を負ったパージャ。ガイアに連日の治癒を任せているその部屋に入れば、いつものように室内には献身的に傷口を見るガイアと横たわるパージャ、そしてパージャのベッドにうずくまるミュズの姿があった。
「…ロード」
 ファントムの真の名を呼ぶガイアが不安そうな眼差しを向けてくるのは、それだけパージャの容態が思わしくないことを告げている。
 パージャと同じ治らない傷を幼少期のウインドも受けたが、ウインドとパージャの傷の違いは術式の完成度だった。
 ウインドは治らない頭の傷を目にうるさい派手な柄のバンダナで隠しているが、ガイアの力と特殊な塗り薬で何とか痛みと流血を押さえている。
 押さえられているのは単に癒えぬ傷をつけるための術式が不完全だったからという理由で、しかし不完全ゆえに解術方法も見つからなかった。
 そしてパージャは完成された術式を練り込まれた短剣で腰と肩を傷つけられ、完成されたがゆえに今も新しい痛みと傷口に終わらない苦痛を味わっている。
 耐えがたい苦痛だろう。
 普通ならば出血多量ですでに死ねているものを、不死の体がそれを許さない。
 苦しむパージャに、ファントムは解術を約束した。
 実際に口だけではなく解術の為に動きもしている。
 しかし、わからない点がひとつだけ存在して。
「…ガイア、来なさい」
 先ほどの怒りを押さえて静かに命じれば、ガイアは治癒の手を止めてすぐにファントムの元に近付いた。
 その後ろ姿をミュズが顔を上げて見つめ、やつれて虚ろな眼差しが恨みを告げるようにファントムにも向けられる。
 不気味な視線を放置してガイアと共に部屋を離れ、すぐ向かいの空いた部屋に入った。
「パージャの容態は安定しないわ。眠っている時ですら痛みに苦しんでいるの…傷も新しいままよ」
 不安な口調でパージャの容態を報告するガイアを安心させるように頬を撫でて、見上げてくる闇色の藍の瞳を覗く。
「こちらも時間がかかりそうだ…呪いの原点になるものが見つからない」
 呪いの。
 パージャとウインドを傷付けた術式の本体にも近い呪いの原因が、どれだけ探っても見つからなかったのだ。
 呪いとはそれぞれだが、多くが恨み憎しみに通じる。しかしパージャ達を苦しめる術式の呪いは、どれだけ探ろうとも恨みや憎しみの波動が見付からなかった。
 その代わりとなる何かは確かに存在する。しかしそれがわからない。
「ウインドが受けた不完全な術式に比べれば見やすいものだが…根本が別の感情で作られているらしい」
「別の?」
 ただの術式でなく、術式に組み込まれた呪いというだけでも厄介だというのに。
「引き続き調べはするが、お前はあまり根を詰めるな。死にはしないのだからな」
「ロード!!」
 薄情な言葉に避難の眼差しが向けられたが、ガイアはすぐに唇を強く閉じて俯いた。
 話を聞いてもらえないと悟るとすぐに諦めるのはいつも通りで、悲しそうな表情が消え始めていた苛立ちを再び浮かび上がらせる。
「…ミュズを連れて城に降りていろ」
 怒りを潰すように低く呟いた言葉にガイアは素直に従い、ファントムから離れて部屋を出ていく。
 数秒後に聞こえてくるのはパージャから離れることを嫌がり叫ぶミュズの罵声で、誰にも聞こえはしないため息をついてから、ファントムも向かいの部屋へと戻った。
 開けられていた扉からは案の定といえる光景が広がり、ファントムが訪れた途端にベッドにしがみついていたミュズが先程より激しく睨み付けてきた。
 パージャの横たわるベッドのシーツを強く掴んで凄まじい怒りを浮かべる姿に、年相応の幼さは微塵も見つからない。
「…あんたさぁ…もうちょい上手く、言葉選べないわけ?」
 痛みを堪えながらも何とか身を起こして軽口を叩くのはパージャで、彼が起きた途端にミュズは怒りを切り捨てて心配そうにパージャにすりよった。
「…ミュズ、ガイアと共に城に向かえ。お前に命じているのはウインドのサポートと大会での仕事だ」
 表情の読み取れないパージャを無視して、ガイアの代わりに改めて命じて。
「…いや」
「行け」
「嫌だあぁぁっ!!」
 凄まじい絶叫。同時にミュズにすり寄られていたパージャが全身に響く痛みに強く苦しんだ。
「絶対に嫌!!嫌!嫌!嫌っ!!」
 気でも狂ったように首を振り嫌がるミュズと、ミュズに揺さぶられる度に痛みに苦しむパージャ。
「ミュズ!パージャから離れなさい!」
 あまりの出来事にガイアがミュズをパージャから離そうとするが、ミュズがその腕から逃れて部屋の隅に移動する方が早かった。
 まるで逃げ場を無くしたように震えて怯えて、ミュズの様子のおかしさにパージャが痛みとは違う苦痛の表情を浮かべる。
「いやっ…きらい!!」
 カタカタと身体を震わせる様子は先ほどまでの憎しみの姿からは想像もつかないほどで、その変貌ぶりにガイアは固まり、パージャも不可解だという表情を浮かべてみせた。そして不可解な表情をそのままに、パージャがファントムに向き直ってくる。
 ミュズに何をした?
 そう問うてくるような眼差しだ。
 ミュズの方は小声で「嫌だ」と繰り返し続けていて、ようやく我に返るガイアがそっと歩み寄ってミュズに触れて。
「…行きましょう。大丈夫だから」
 上辺だけの言葉にミュズはようやく従い立ち上がるが、素直に聞き入れたわけでないことは一目瞭然だった。
 ぶつぶつと微かすぎる呟きはもはや聞き取り不可能で、廃人のように虚ろなまま、ふらつく身体をガイアに支えられながら部屋を出ていく。
 出ていき、扉が閉められて。
 その後すぐに響いてきたのは、子供じみたひどい泣き声だった。
 ミュズの年齢は14歳と来年成人を迎えるはずだというのに、突然の泣き声は物心がつく前の幼児のようだ。
 完全に心が壊れてしまっている。
 壊したのはファントムであり、そしてファントムを取り巻く全ての流れだ。
 その中にはもちろんパージャも含まれていて。
「…ミュズに何をさせるつもりだ」
 痛みを噛み殺した低く激しい怒りの声は、パージャの腹の奥底から響いていた。
「役立たずのお前の代わりをさせるまでだ」
「ふざけるな--」
 叫び、痛みに苦しみ。
 苦痛に身をよじりながら、それでもパージャはベッドから這いずり出て、しかし願い叶わずファントムにまで辿り着けずに、毛の長い真っ赤な絨毯の上にうずくまった。
「ミュズを…巻き込むな」
 うずくまりながら、なおも顔を上げて。
 掠れる声を空気に殺されながらもミュズを守ろうとする様は滑稽にしか映らなかった。
 たかが小娘の為に。
 しかしたかが小娘たった一人に全てをかけて執着する姿は、どれほど憎もうがエル・フェアリアの男であることを物語る。
 パージャも、ウインドも。
 例外なくファントムもだ。
「どう動くかはお前次第だ」
 ファントムのヒントに、パージャが眉をひそめる。
「…何だよ…それ」
「ミュズを最初に巻き込んだのはお前だろう」
「っ…」
 返す言葉を無くすパージャにさらに追い討ちをかけるのは、何も好んでのことではない。
「お前がミュズの産まれた村に長居さえしていなければ、ミュズは両親を、村の者達を亡くすことはなかった」
 歯を食い縛って俯くパージャの拳に力が加わっていくのは、事実を否定できないからだろう。
 ミュズの産まれた村がミュズを残して跡形もなく滅びたのは、パージャがその村に居座り続けたからだ。
 魔術兵団に追われている身でありながら、平穏を望んだ罪。
 ファントムがようやくパージャを見つけ出した時、パージャの全身の皮は魔術兵団のナイナーダに剥がされた後だった。
 集落は村人の遺体ごと焼き尽くされ、パージャをおびき出す為にミュズだけが生き残されて。
「お前とミュズはもはや一心同体。お前が動けないなら、お前の代わりをミュズにさせるのは当然だろう」
「ふざけるなっ!!俺がエル・フェアリアに戻された時から、あんたはミュズに何かさせる為に動かしてたんだろ!!」
 普段は口達者なパージャが、それだけを言う為に全身を使い痛みを堪えなければならないとは。
「…否定はしない。だが全て、お前が先回りして回収すればいいだけの話しだ」
「俺を使うためにミュズを巻き込むな!」
 渾身の力を振り絞り叫ぶパージャのうずくまる場所に足を運び、ファントムは腕一本でパージャを引きずり起こしてベッドに投げ捨てる。
 衝撃が治らない深い傷に響いたのかパージャの表情が激しい痛みに引きつるが、欠片も気に留めなかった。
「お前が何をするべきなのか、よく考えることだな」
 ミュズへの命令はミュズにしか出来ないことだ。しかしファントムの狙いはそこにはない。
 いまだに苦痛に苛まれているパージャに背を向けて部屋を出ようとして。
「…待て…」
 一瞬だが、パージャから発せられた魔力の渦がファントムの足を絡めて止めた。
 たった一瞬だけしか魔力を出せなかった。
 パージャの魔力は仲間内ではファントムの次に上質で、高度な生体魔具をも簡単に出現させるというのに、今はあまりにもずさんな魔力しか出せないほどに弱っていると改めて知らされる。
 振り返ってやれば、憎しみに染まる眼差しだけは一人前だった。
「ミュズに何かあってみろ…」
 そして全ての原動力を憎しみに注いで。
「あんたの大事なもんを壊すことくらい…簡単な--」
 パージャの言葉が最後まで続けられることはなかった。
 久しく体験していなかった衝動。
 パージャの言葉が終わるより先に噴出したファントムの激情は、パージャへと伸ばした腕の先から重すぎる魔力として放たれていた。
 たった一瞬でパージャの姿が黒く染まり、それが失せた時にはもうパージャの意識は完全に消えていた。
 たとえファントムを殺せなくても、ファントムの大切なものを壊すことくらい。
 たしかにパージャならば容易だからだ。
「…させるものか」
 全てはファントムの思惑通りに進んでいる。しかし人が絡む以上、完全に順風満帆とはいかないのだ。
 その事実に改めて苛立ちを覚えながら、ファントムは今度こそ部屋を後にした。

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