第62話


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 ひどい頭痛と吐き気に苛まれて宝物庫から逃げ出したニコルが安寧を求めた先は、王城を抜けた森の中だった。
 明け方にも訪れた場所。ここに来たいと思って足を動かしたわけではないが。
 ただあの場所から逃げたかっただけで、何も考えられはしなかった。
 エルザとの話し合いをきちんと行わなければならないことはわかっている。わかってはいるが、今のニコルを完全に否定する姿勢でいる相手にどう話せばいいかわからなくなる。
 エルザだけでなく、かつて共にエルザを守った仲間達もがニコルを気狂いのようにあつかったのだから。
 今のニコルがおかしいのだと。
 疲れて正常な判断が出来ていない。だからエルザに別れを告げたのだと。
 疲れていることは確かだが、別れには訳がある。
 それをわかってもらわなければならないと考えると、頭痛がさらに酷くなるようだった。
 何をしても治まりそうにない痛む頭を押さえながら、胸を圧迫する吐き気と共にふらふらと森をさ迷う。
 ニコルについてきた小鳥はすぐそばを飛びながら気遣うようにニコルを窺い、空を飛ぶ軽い羽ばたきの音だけが静かな森に響いて消えた。
 明け方とは違う昼の空気がわずかに吐き気を消してくれるが、頭痛までは消えはしない。
 圧迫するような痛みを堪えながら、王城を離れていく。
 このまま消え去ることができればよかったのに、王城にはアリアが捕らえられたままなのだ。
 アリア。大切な妹で、愛しい女。
 彼女を置いて一人で城を去るなどニコルには出来ない。
 アリアを思い焦がれる胸が吐き気を微かに緩和してくれるが、和らいだ分だけ浅ましい劣情への自己嫌悪に苛まれた。
 もし父のことがなければ、身代わりだったとしても最終的にはエルザを愛せたのだろうか。
 考えても結末などわからないのに思考を働かせて、また頭が痛んで。
 振り払うように歩みを進めた先で、
「---…」
 人の気配に、ニコルは息をひそめた。
 目前に広がる光景。身を隠した木々の先は思い入れの強い泉で、そこに薄茶の長い髪が日の光を浴びて輝きながら揺れている。
--誰だ?
 薄茶色の髪はエル・フェアリアによくある髪の色だが、その色は同時に魔力を持たないことを意味している。
 エル・フェアリアには在り来たりで、しかし魔力を持つ貴族達の集まる王城内では珍しい色。
 この森は王城敷地外とはいえ、あまりの規模の大きさに市民達の立ち入りは少ない場所なのだ。
 離れていてもわかるほど手入れされた艶を帯びた髪の持ち主に気付かれないようにその場を離れようとしたが、妙な親近感に足は動かなくなった。
 今まで離れていた小鳥も人の気配に気付いたようにニコルの肩に戻り、共に息をひそめて静かに近付いていく。
 ニコルからは背中しか見えないが身体のラインは女の形をしており、服飾もシンプルながら仕立ての良い衣服だ。
 城下に住む市民ならば良家の娘なのだろう。
 しかしその娘が顔を向けた瞬間にニコルの心臓は強く跳ねた。
 娘がニコルに気付いたわけではない。まるで何かを探すように泉の周りを不安げに見渡しただけだ。
 だがその顔を忘れるはずがなかった。
 以前ニコルが媚薬香を嗅がされた時に世話になった、遊廓の。
--テューラ
 その名前は泉が湧き満ちるように胸に溢れる。
 彼女との最初の出会いでニコルはアリアへの思いに気付かされ、二度目の再会はガブリエルの登場で不安な思いをさせた。
 ガブリエルから逃がす為に生体魔具に乗せ、その夜に御礼の手紙を受け取って。
 テューラとはそこで縁が切れたものだと思っていたのに。
 テューラは泉の周辺を何度も見回しながら、やがてとある場所にしゃがみこんだ。
 その場所はニコルにとって最も重要な場所だった。
 アリアから届く手紙を大切に隠していた場所に、なぜテューラが。
 気配を消すことに集中していた足は、いつの間にか無意識のように彼女の元に向かっていた。
 自分でも気付かず気配を殺したまま近付いて、そして、
「--そこで何をしてるんだ」
「っきゃああああ!!」
 声をかけた瞬間に発せられた悲鳴は、驚いたからというだけでは説明として不充分なほどの代物だった。
 あまりに甲高い悲鳴に一帯の鳥達が逃げ、翼を打つ音と木の葉のざわめきが響く。
「な、え?…え、なんで?」
 テューラにとっても思いもよらない登場だったのだろう。ニコルの中にある彼女のイメージは凛と優雅な姿なのだが、化けの皮を剥がされたように慌てた様子を見せた。
「…ニコル、様?」
 腰を抜かしてしまったのか、尻餅をつくように地面に座り込んでニコルを見上げてくる。
「悪い。驚かせたな」
 動けないまま固まるテューラの元に近付いて片手を差し出せば、少し戸惑いを見せてから手を取ってくれた。
 軽い力で腕を引いてテューラを立たせれば、彼女の方から遠慮するように手は離される。
「お、お久しぶりです…以前は助けていただいて感謝しております…ありがとうございました」
 まだ緊張が強いが高級遊女としての品位を見せてくるから、思わず苦い笑みを浮かべて。
「普通でいい…普段通りでいてくれないか?」
 飾らなくていいとは以前にも告げたが、今日は以前より言葉が重い。
 テューラに気楽さを求めたのは、自分が楽でいたいからだと自覚できるほどだ。
「…何か」
 そして男の表情を見ることに長けたテューラも、すぐに何かを察して。
「…なにか、あった?」
 丁寧に語ろうとする言葉を飲み込みわざわざ言い直して、優しい眼差しで見上げてくれた。
「…いや。何もない」
 見つめられる視線から逃れるように目を逸らせば同じように視線を外してくれたらしく、妙な緊張はほどけるように消えていく。
 それがニコルを思っての行動かはわからないが、テューラはとある場所に向かいゆっくりとしゃがみこんだ。
 とあるの木の、根がうまい具合に盛り上がった場所に。
 そこはニコルがこの森で最も尊く扱う場所だ。
「…そっちこそ、何かあったのか?」
 テューラはその根に隠された場所をひと撫ですると、すぐに立ち上がって普段通りの笑みを浮かべた。
「別に?何もないわ」
 いたって普段通りの自然な様子だが、木の根に守られた神聖な場所を知っているニコルにとってはあまりにも不自然すぎる。
 ここまで自分を律して表情を隠せるのだから、脱帽するしかなかった。
 そして気付く。
 ニコルの後を引き継ぐように木の根の下を大切に使ってくれていた人物がテューラだと。
「ここってあんまり人が来ないでしょ?だから穴場だったの。ひと休みしたい時に丁度良くて」
 わざわざ泉の縁にしゃがみ直して水面に触れて、冷たくて気持ちがいいと笑みを浮かべる。
 ニコルに隠したいのは、その場所が大切だからだと信じていいだろうか。
「あ、待って!!」
 信じたくて、ニコルは水面のテューラを無視して木の根に向かった。
 慌てるテューラが駆けるよりも早く到着すれば、後から女らしい弱い力で腕にすがられる。
「…この場所、使ってたのはお前だったんだな」
 不安な眼差しを向けてくるテューラにポツリと呟いて、片膝をついて土をなぞる。
 テューラはなにも話さず固まるから、そのまま労るように土を掘り起こして布にくるまれた木箱を取り出した。
 明け方にニコルが一度掘り起こして布を外してしまったものだ。
 恐らくテューラは、木箱が何者かに見つかってしまった形跡に気付いて慌てた。そして慌てる間にニコルが訪れて、ニコルの目をこの場所から離そうとしたのだ。
 ニコルが先に気付き、ニコルの言葉にテューラも悟り。
「…あなただったのね」
 ニコルと同じ言葉。
 ニコルの大切な場所を使っていたテューラと、テューラの大切な木箱を掘り起こしてしまったニコルと。
「…返して」
 しかしテューラはニコルにとってこの場所がどれほど大切な場所かを知らないから、警戒するように身をこわばらせてくる。
 差し出してくる手も乱暴なもので、まるで盗人扱いだった。
「…取らねぇよ。ここを先に使ってたのは俺なんだからな」
「え?」
 土にまみれた布ごしの木箱をテューラの手のひらの上に置いて、腰の辺りで土を払いながら立ち上がる。
「何かを隠すには丁度いい場所だったろ。ここは」
 言葉の意味をいまいち理解できていないテューラをそのままに、目線を木箱に移す。
「大事なもんを隠すには打って付けだ」
 彼女にとってどれほど大切なものが中に入ってるかは知らないが、ニコルにとってのアリアからの大切な手紙と同じくらい重要であるだろうと。
 混乱した眼差しで見上げてくるテューラに力の抜けた笑みを返して、ニコルは警戒の薄まる彼女の手の中にある木箱を撫でた。
「数年前までだけどな…俺もこの場所に、妹からの大事な手紙を隠してたんだ。王城には敵ばかりだったからな」
 なぜこの場所のことを知っているのか。説明すれば、テューラの警戒は完全に消え去った。
「あなたが、ここを?」
「ああ。いつから使ってるか知らないが、隠しやすい場所だろ」
 上手く育った木の根に守られた土の空間。
 何も知らないものからすれば、その場所は他の木の盛り上がった太い根と何ら変わりないはずだ。
 ここを使用していたニコルは敵ではない。
 そうようやく認識してくれて、テューラがクスリと力を抜くように微笑んだ。
「さっきここに来たら誰かに掘り起こされたみたいな跡があるし、布の巻き方も私の巻き方と違うから、怖くなってたの」
 テューラは片手を胸元に伸ばすと、ネックレスの先についた鍵をニコルに見せてくれた。
 ニコルが巻き直した布をほどき、硬く施錠された鍵穴に鍵を入れて回す。
 カチャ、と小さく響いて開けられた木箱の中身は、何枚もの紙の束だった。
「…私も、ここに家族からの手紙を隠してたの…一緒ね」
 少し寂しそうに微笑んで、紙の束を優しく撫でて。
「なんでここに隠してたんだ?」
「…わからない?女の世界も、嫌がらせまみれなのよ?」
 笑みに少し影を含ませるテューラにゾクリと背筋が軽く粟立つ。
 国の保護下に置かれた高級遊女達の間にさえ人間同士の絡み合いがあるという生々しさを改めて思い知らされた。
 華やかな女達というだけで、そんな汚さとは無縁だと無意識に思ってしまっていたのだろう。
「私、これでも遊郭世界じゃ有名な方なの。いろんな意味でね」
 木箱の蓋を落として再び鍵をかけ、丁寧に布でくるんで土の中に再び戻す。
 軽く土を盛ればそれだけでそこに木箱が隠されているなどわからなくなり、汚れた手を洗う為にテューラはまた泉に近付いてしゃがんだ。
「…聞いてもいいか?」
 何があったのか。
 好奇心はなかった。何も考えず口からこぼれた言葉に、自分でも驚くほどだ。
 だが撤回はせず、テューラも嫌な顔はしなかった。
「…じゃあ、ご飯食べながら少し話さない?ここで食べようと思って果物持ってきてるの。あんまり量はないけど」
 少しだけ移動して、籠に入ったブドウを見せてくれて。
 いいのか?と言葉の変わりに困惑した眼差しを向ければ、なぜか靴を脱いで改めて水辺に座り直したテューラにポンポンと片手で隣を示された。
 流されるままに隣に座れば、次にテューラが取った行動に唖然と口を開けてしまう。
「あーっ、冷たーい!!」
 初冬の寒さに震え始めるこの季節に、こともあろうにテューラは素足を泉に浸したのだ。
 大胆に衣服を膝の上まで捲って、パシャパシャと白く細い足を元気に跳ねさせて。
「っ…馬鹿か!?風邪引くぞ!!」
 夏と勘違いしているのかと思い止めさせようとしたが、テューラは完全に遊女の仮面を外した元気な笑顔を浮かべるばかりだった。
「風邪引きたくてやってるの!邪魔しないでー!!」
 ニコルとの間にブドウの入った篭を置いて、無邪気に季節違いを楽しんで。ひとしきり足をばたつかせてから、ようやくニコルに顔を向けてくれた。
「明日ね、嫌な常連さんの予約が入っちゃったから休みたいの。風邪引いちゃったら仕事しちゃ駄目だから、風邪引きたいのよ」
 高級遊女でありながら、仕事の放棄を口にする。
 風邪を引きたい理由を聞けば確かに薄手な衣服だと思ったが、ここまでするとはいったいどれほど嫌われた客だというのだ。
「結婚してくれって毎回しつこいの。断っても“どうしてどうして”って鬱陶しいし」
 ニコルの興味に気付いたのだろう。説明をくれるが、言葉には鋭いとげがあった。
「…結婚…身請けされたら遊郭から足を洗えるんだろ?」
「私には借金なんてないわ。そもそも借金の形じゃなくて口減らしの為に遊女になったんだから」
 ぱちゃ、と片足を水面から出して、また沈ませる。
「私は私の意思でいつでも遊郭から出られるの。売られたせいで誰かの力が必要な子とは形態が少し違うのよ。だから身請けしてやるって上から来られると腹立つの」
 ニコルの知らない世界をつらつらと話されて、疑問が浮かぶ。
「…自力で辞められるなら、なんで辞めないんだ?」
 それは純粋な疑問だった。
 しかしわずかに地雷を踏んでしまったのか、テューラの気配が強張る。
 思わず言葉をつまらせてしまうが、不機嫌になるということはなかった。
「…人を探してるの」
「…人?」
「ええ…私と同じくらいの年齢の女の子よ。その子を楼主が探してて、私は見つかるのを待ってる…もう十年以上もね」
 思い詰めるような口調。
 どこか後悔の色を秘めたその声は今までのどんな女の声よりも美しく、闇に包まれている気がした。
「辞めたくても辞められない子達からしたら気に入らないわよね。いつでも辞められて、こんなふうに嫌な客が来るときは風邪引いて休むような遊女が店の看板の一人なんだから」
「…嫌がらせって、同じ遊廓の?」
「そ。全員が全員ってわけじゃないけどね。私は古参だから表向きはみんなすりよってくるし。でもこっちが気を抜いたら、軽い嫌がらせはしてくるかな。裏表なく接してくれるのはマリオンだけよ」
 上手く話題を変えられた気がしたが、ニコルが脳裏に思い出すのは以前テューラと共にガブリエルから逃がした小柄な遊女だった。
 モーティシアに気があるらしく何度も訊ねてきた、裏表がないというよりも距離感を計らない娘。
「本当は今日一緒にここに来る予定だったんだけど、あの子に急なお客さんが入っちゃって。マリオンも看板の一人だから」
「…彼女は借金からか?それとも口減らし?」
「マリオンは確か借金よ。元々は紫都でわりとお金持ってた平民の家の子らしいんだけど、親の仕事が失敗して借金が出来たからこの世界に。でももう借金はチャラになってるわ」
「…そこまで話していいのか?」
「平気よ。隠す必要無いって自分で公言してるし、言っていいよってお墨付きだし。ちょっとほかの子達とは感覚が違うのよね」
 それははたしてお墨付きなのかとも思うが、賢いテューラがそう言うのだから平気なのだろう。
「借金が無くなる最後のお客さんがモーティシア様だったらしくて、相性も良かったとかで運命感じてるみたいなの…モーティシア様ってマリオンのことどう思ってるの?」
 問われて、首をかしげて。
 モーティシアの口からマリオンの名前が出たことは無いのだ。ニコルも話題にしたことがないので、モーティシアがマリオンをどう思っているかは不明だった。そもそも女関係の話を聞いたこともない。
 そしてニコルの態度からテューラも何かを察して。
「…前に、会いに来るって約束してるみたいだから、一度お店に来るように言ってもらえない?恋人がいるとか適当な嘘でいいからマリオンがモーティシア様を諦められるように。そうじゃないと、あの子ずっと夢を見たままこの世界から離れないわ」
 夢を見たまま。
 恋をする娘の姿はそのままエルザと被るものがあり、ニコルは数秒俯いてから、ようやく「わかった」と小さく返した。
「よかった…ありがと」
 マリオンを心配しているのか、ほっと胸を撫で下ろすテューラの肩から力が抜ける。
「ブドウ、気兼ねなく貰ってね。半分あなたのだから。皮ごと食べられるわ」
 進められると同時に、小鳥も篭の中に降りてブドウの粒をつつき始めた。
「おい」
「いいわよ。その子にもあげる。あなたも食べてみて。美味しいの買ったから」
 空腹ではないが進められるままにひとつを外し、口に含む。
 ピンと張った皮は瑞々しく弾け、濃厚な甘さが口の中に広がった。
 味わう為に堪能してから、飲み込んで。
「はい。これに種を出せばいいわ」
 手渡された高価な懐紙に首を傾げてしまう。
 テューラもニコルの様子に少し固まり。
「…種は?」
「…食った」
「うそでしょ!?」
 突然の驚きの声に、目を見開いてしまった。
「なんで飲むのよ。種は蒔くもので食べ物じゃないでしょ…」
 テューラの声が驚きから呆れに変わっていく。
「…昔からの癖が抜けないんだ。面倒だから種も食ってた」
 身体に悪いわけでもないから、と。
「そんなことしてたらおへそから芽が出てくるわよ」
「…いや、出ねぇよ」
「出るわよ!」
「出てたら俺もう死んでるだろうが」
 子供が迷信を信じるような諭し方に失笑がこぼれ、笑われたテューラは顔を少し赤くしてニコルの腹に手を伸ばしてくる。
「生えてるわよ!おへそどこ!?」
「お前なぁ…一回俺の身体見てるんだから、生えてないことくらいわかるだろ」
 へそを探す細い手首を掴んで離して、二人同時に目を合わせたまま数秒固まってしまう。
「…そうだったわね」
 先に我を取り戻したのはテューラの方で、先ほどとは理由の違う赤を頬に現した。
「…種飲んだらおへそから芽が出るって子供の頃に親に言われて、ずっと信じてたみたい」
 言い訳のようにもごもごと口を動かして、テューラもブドウを口に入れて咀嚼し、飲み込む。
 種を出しはしなかった。
「…飲んだのか?」
「…芽が出ないなら出さなくても害じゃないんでしょ?」
 どこか投げやりな態度は、先ほどの微かな照れなど最初から存在しないかのようで。
「親にまた言われるんじゃないか?」
「…二度と言われないわ」
 さらりと流すにはどこか引っ掛かる言葉に、ニコルはじっとテューラを見つめてしまう。
 テューラの方はニコルの視線に気付いている様子は無く。
「…ひと月くらい前の豪雨で、あたしの故郷、ぜんぶ流されちゃったみたいなの」
「…豪雨?」
「ええ。国はファントム対策に追われてたから…知らないでしょ。村がひとつ丸々消え去ったなんて」
 投げやりで、どこか責めるような口調。
 その言葉の意味に気付いた時、ニコルの胸は潰されるように強く痛んだ。
 村がひとつ丸々。そこに住んでいた人々もろとも。
 だから、テューラは“二度と言われない”と。
「…悪い」
 返事はなかった。
 痛ましい静寂に包まれて、時間だけが緩やかに過ぎていく。
 テューラは泉に浸した足をゆるゆると遊ばせながら、いくつかのブドウを食べて、種を出すことはしなかった。
 いたたまれない空気に、忘れていた頭痛がじくりと蘇る。
 泉を見ながら頭を押さえていれば、ふいに視線を感じた。
「…痛むの?」
 視線の主はテューラしかおらず、そっと伸ばされた指先が頭ではなく後ろの首筋に延びる。
 ニコルが夢の中で何度も女に首を絞められてきた場所だ。だがテューラの指先に恐怖は反応しなかった。
「…冷えてはないけど、だいぶ凝ってる。このせいね」
 テューラは弱い力でニコルの首筋を何度か揉んで、状況を理解したように泉から足を出してニコルの背後に回った。
「何だよ」
「揉んだげる。頭いたいの、ここがすごい凝ってるからってのもあるだろうし。前見てて」
 言いながら弱いが心地良い力加減で按摩が始まり、ニコルは驚きながらも言われた通りに前を向いた。
「…嫌な緊張とかでストレスがかかると、首筋ってギュッと固まっちゃったりするの。それって頭痛にも繋がるのよ。あなたすっごい硬くなってるから、ずっと頭が痛いんじゃない?」
 優しく揉みながら、先ほどの嫌な沈黙を忘れるかのように話しかけてくれる。
「頭痛っていつから?」
「…騎士になってからだな」
「へえ。騎士様も大変なのね」
 精神的なものだとばかり思っていたから緩和方法などわからなかった頭痛が、揉みほぐされて少し楽になる。
「あなたたぶん力むクセあるはずだから、意識して身体の力抜いてみてね。あと寝る前とかに首とか肩とか自分で回したりしてほぐしてあげて。ずっと続ければ少しずつマシになるはずよ」
「…本当か?」
「やらないよりマシじゃない?たまにお客さんの身体を揉むけど、一、二を争えるくらい凝ってるわよ。後はなるべくストレスかからないように…それは無理か」
 騎士である以上ついて回る。そう宣言されて、改めて自分の居場所について考えて。
「…地方兵の時の方が楽だったな…城は…息がつまる」
 仲間がいて馬鹿なことも出来る。だがそれだけが王城ではない。
「…お城での生活って華やかなイメージなんだけどなぁ」
「妬みや嫉妬なら平民とは変わらないだろうな…国が絡めばよけいに面倒だ」
「難しいのね。憧れてたから、ちょっとショックかも」
 体重をかけてなお弱い力で懸命に揉んでくれながら、華やかな世界への憧れを口にして。
「でも…王城には恋人さんがいるんでしょ?」
 問われて、呼吸を忘れた。
「…どうしたの?」
 ニコルはテューラを抱いた時、朦朧とする意識の中でテューラにアリアを重ねたのだ。
 テューラはそのまま、ニコルの恋人はアリアだと今も思っているのだろう。
「…ニコル様?」
 首筋に添えられたテューラの手を取り、按摩を止めさせる。
「…アリアは恋人じゃない」
 恋人ではない。強調するように強く告げて、自分を律して。
「…妹だ」
 欲情を向けてはならない娘だと。
 自分に言い聞かせる為に、テューラを巻き込んだ。
「…妹さん?」
「ああ。それ以上のことは何もない…だから、忘れてくれ」
 以前呟いた事実を無かったことに。
 願いがどこまで通じるかはわからないが、テューラの醸す雰囲気が少しだけ和らいだ気がして。
「…あまり気にすることないわよ。あなたは強すぎる媚薬香を嗅がされたんだから。そういう時って、自分でも思いがけないくらい支離滅裂なことを口走っちゃうものよ」
 優しく言われて素直に聞き入れられるくらいならここまで悩みはしない。
 それでもテューラの思いやりは心地好かった。
「そろそろ手、離して。もう少し揉みたい」
「いや、もう充分だ。楽になった…助かった」
 肩が軽くなった事実に少し驚きながら、掴んでいた手をそっと離す。
「…いつまでここにいるんだ?」
「いつまでって…食べてゆっくりしたら帰ろうと思ってたからあんまり時間は考えてないわ」
「そうか…起こさなくていいから気にせずゆっくりしててくれ」
 テューラの予定を聞いて、堂々と横になって。
「ちょっと、ここで寝る気?風邪引くわよ?」
「風邪引けたら任務をサボるさ…今なら安眠できそうだから、寝かせてくれ」
 肩が楽になって、頭痛から解放されて。
 今ならゆっくりと休める気がして早々に目をつむるニコルの頭上から聞こえてきたのは、呆れるような溜め息だった。
「自分の部屋に戻った方が休めると思うよ?」
「…城は…どこも安まらねぇよ」
 眠れなかった反動か、急激な睡魔に自分の呟きも遠くなる。
 アリアの手紙を守ってくれたこの場所で、傍にいるのはテューラと小鳥だけで。
「あなたの主人は大変ね」
 テューラが小鳥に話しかける声を聞きながら、ニコルは両親の間に挟まれて安心して眠っていた子供の頃に戻ったかのような感覚に満たされながら、意識を夢の中に流していった。

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