第62話
第62話
昼食を終えて、片付けを手伝って。
「--あ!」
ルードヴィッヒが思わず上げた声は、大皿がゴトリと床に落ちる重い音を消してはくれなかった。
場所は飛行船内の炊事場で、ルードヴィッヒはジュエルが洗った皿をタオルで拭いて棚に戻す手伝い中で。
そっとしゃがんで大皿をひろい、そっと立ち上がって恐る恐るジュエルに顔を向ける。
すると自分より年下の高飛車な少女が冷えきった眼差しで睨み付けてくるから、小さな声で「すまない」と謝罪をしてから大皿を渡した。
「…まったく、あなたって本当に不器用ですわね」
落とした大皿を再び水洗いしながら小言を呟くジュエルは、洗い終わった後にすかさず大皿を拭くために手を差し出したルードヴィッヒを完全に無視した。
「グラスでなかったことが幸いしましたわね。大皿ならしっかりとしているから割れる心配があまりありませんもの」
「…悪かった」
「そろそろ言葉でなく動作で示してくださいませんこと?謝罪さえ口にしていれば割ったことが白紙に戻るとでも?」
「……」
口調はきつくぐさりと刺さるが、言い返そうにも何倍にもなって返ってくるので、ルードヴィッヒは溜め息すら押し殺してげんなりと俯いた。
事実なのだから仕方ないと自分自身に言い聞かせようとしてみても、理不尽じゃないかと思う部分も多々ある。
ルードヴィッヒに食後の片付けを手伝うよう命じたのはコウェルズだ。
男四人分の食事の用意をしてくれるのはダニエルとジュエルで、ダニエルはまだしもジュエルだけの時に負担はかけさせられないと手伝いを命じられたのだが、今までそんなことをしたことがなかったルードヴィッヒは毎回のように手伝いどころかジュエルの仕事を増やした。
一番の被害者はガラス製の皿やグラスだが、つるりと手から落とす度に鬼のひと睨みをもらうルードヴィッヒもある意味では被害者ではなかろうか。
不馴れなのだから多目に見てほしいと願ってもジュエルには届かず、それどころか昨夜の時点でコウェルズに「手伝いは不用」と半ばキレながら直訴されるほどだ。
それでもコウェルズはまあまあとジュエルをあやしてルードヴィッヒの手伝いを続けさせるものだから、まだ二日目の昼だというのにルードヴィッヒの胃は荒れそうになっていた。
ジュエルはミス以外では手伝いに感謝してくれるし、わからないことはわかるまで丁寧に教えてくれるが、それももはや冷めきった言葉であるために嫌味にしか聞こえない。
早く明日になればいいのに。
ラムタルに到着さえすれば手伝いからは解放されるはずだから静かに明日を待つ状態だ。
狭すぎるわけではないが飛行船内では武術の訓練もろくに行えず、柔軟程度しか身体を動かせないストレスも溜まっている。
不貞腐れながら手にしたタオルを所在なげにたたんだり広げたりを繰り返していれば、ジュエルが大皿を棚に戻す後ろ姿が見えて。
小さな身体でちょこまかと動く姿は小動物のようだが、庇護欲が沸かないのはその性格を熟知しているからだ。
これがもしミュズなら。
そう考えてみたが、たった数時間だけしか側にいられなかった彼女もなかなか性格がきつかったことを思い出してとうとう溜め息が出てしまった。
「あら、不満なら手伝いは不用でしてよ。武術訓練でもなさってくださいませ」
耳聡く溜め息を聞き付けるジュエルの冷めた口調に肝が冷えた。
「いや、今のはそういう訳ではなくて…」
「嫌味に取るのはよしてくださいませ。あなたにはあなたのするべきことがあるのですから。炊事場にはコウェルズ様は来られませんし、ここで簡単な訓練を行えばよろしいでしょう?あなたの手伝いが無ければ私も早々に終わりますし」
「あ…そう」
少しはルードヴィッヒを思いやってくれているのかと思ったが、最後の言葉は不要だった。
「訓練といえば、お兄様が仰ってましたわ」
「え?」
手にしたタオルを机に起きながら武術訓練でもしていろとの有りがたいお言葉を素直に受け取ろうとしていた矢先に、ジュエルが思い出すように天井に目を向けながら呟いた。
ジュエルに兄は二人いるが、王族付きであるミシェルの方で間違いないだろう。
「あなたの武術の型稽古、あなたのお父様譲りで素晴らしいけれど、まだまだ硬いって」
「…ミシェル殿が?」
「ええ」
つたないと指摘されるならまだしも硬いと言われるとは思っておらず、受け入れがたい助言に眉間に皺が寄った。
身体の柔らかさには自信があるのだ。
仲間達と戯れに行う柔軟でも、ルードヴィッヒの身体が最も柔らかかった。なのに。
「えっと…何て言ってらしたかしら」
ルードヴィッヒの不服の表情にも気付かずにジュエルは慕う兄の言葉を思い出し。
「たしか、生かしきれてないって」
「…生かしきれてない?」
「そう言ってましたわ。せっかく柔らかい身体を持っているのに無意識に制御しているみたいに硬くなっている、と」
それはいったいどういう意味なのか。
王城でルードヴィッヒにギリギリまで武術訓練を行ってくれた総隊長のアドルフは実践型の人間であった為か型の動作にはあまり助言をくれなかったが。
「制御していると言われても、私は制御しているつもりは無いが」
「私に聞かれてもわかりませんわ。武術など行った試しがありませんもの」
ミシェルの助言を介してくれるジュエルもよく理解できていない様子で、ルードヴィッヒはさらに首をかしげることしかできなかった。
無意識に制御しているとは。
今までそんなことを考えたことのなかったルードヴィッヒにとって、想定外の言葉は混乱しか招かない。
「あなた、自分の動きを鏡で見たことは?」
「…何のことだ?」
「武術の型ですわ!自分の型の動きを自分で見たことありませんの?」
恐らくジュエル自身の言葉だろう助言も、ルードヴィッヒには理解できないものだった。
鏡で自分の動きを見るなど、考えたこともない。
「私はありますわよ。舞踏のお稽古の時に、鏡越しに自分の姿を確認しますの!」
「舞踏って…武術と一緒にしないでくれないか?」
「身体を使うのですから似たようなものですわ!文句を言う前に試してみてはいかが!!」
武術と舞踏をひとくくりにされてルードヴィッヒは眉をひそめたが、ジュエルも譲らなかった。
鏡といっても炊事場には存在せず、代わりとばかりに大きな窓の前にルードヴィッヒの身体を押し進めて。
窓にうつる自分はおぼろげで、うまく動作を確認できそうもない。
それに窓ばかりに目を向けていたら型など行えないだろうに。
そして何より。
「…どうしましたの?訓練を始めればよろしいでしょう?」
ワクワクと好奇心に溢れた眼差しを向けてくれるところを悪いが、
「…この炊事場の狭さでは、型稽古は出来ないよ」
「えー!?」
せっかくの好意を無下にするようで胸が少し痛んだが、訓練場と比べればこの炊事場は身動きの取れない檻そのものだった。
不満そうに頬を膨らませて肩を落とすジュエルに苦笑しながら、もう一度窓に映るおぼろげな自分を見て。
「--あ、でも…」
ふと思い出せたのは、奇跡に近いだろう。
「なんですの?」
キョトンと首をかしげるジュエルも、もしかしたら知っているかもしれない。
「以前行った必須訓練で、施設内での戦闘訓練があったんだ」
それは約三ヶ月ほど前に行われた、ルードヴィッヒ達若騎士が王族付き候補に選ばれるきっかけになった騎士団内の訓練だった。
「外周棟内で行った訓練なんだが…訓練場と違ってとても戦い辛かった」
広い訓練場では自由に動くことが可能で、しかしそのぶん無駄な動作も増えて動きが大作りになると教えられた。
外周棟内でルードヴィッヒが感じた狭さは、この炊事場にも同じことが言える気がした。
いかに小さな動きで巨大な力を発揮するか。
型にも似たことが言えると教えられた。
型は武術の動きを凝縮した戦闘の縮図なのだ。
「…ルードヴィッヒ様?」
考え込むルードヴィッヒに、ジュエルがそっと近付き。
「--わ!?」
「--きゃあ!!」
二人の悲鳴は飛行船が強く震えると同時に重なった。
轟音のような振動と共に飛行船が大きく揺らぎ、ルードヴィッヒとジュエルも体勢を崩して床に投げ出されるように落ちる。
何が起きたかわからないままルードヴィッヒは覆い被さるようにジュエルの上に崩れて
「----っ…」
視界という名の世界がすさまじい早さで駆け抜け、気付けばルードヴィッヒが下になり、ジュエルを庇うように抱き寄せていた。
今。
「…何、が?」
混乱する頭は整理がつかず、重要な何かがどこかに逃れようとする。
その大切な何かを逃がさないように感覚の端を握りしめて、ジュエルを抱き寄せたままルードヴィッヒは上体を起こした。
「だ、大丈夫ですの!?」
慌てて離れるジュエルが心配するのはルードヴィッヒの頭や背中側で、打ち付けた箇所を心配するように何度もさすってくれる。
「…平気だ」
どこも痛くはない。
それよりも今は、この奇妙な“感覚”を離すわけにはいかなかった。
「…ルードヴィッヒ様?」
ジュエルの半泣きの声がすぐ近くから響くのに、なぜ遠くに感じるのか。
いや、今はそんなことを気にしたくはない。
今は、この不思議な感覚が-
「--大丈夫か!?」
突然扉が強く開かれて、雪崩のようにコウェルズ達が炊事場に足を踏み入れてきた。
「コウェルズ様!ルードヴィッヒ様が私を庇って床に!!」
「怪我は?」
「わかりません!」
コウェルズ達が近付く気配も、今のルードヴィッヒには別次元で起きている出来事のようだった。
「すまない。あの揺れは飛行船を動かしてみようとした結果なんだ」
なぜ飛行船が大きく傾いだのかを謝罪と共に教えてくれるコウェルズが、先ほどのジュエルのようにルードヴィッヒの体に触れて怪我を探してくれる。
「コウェルズ様、我々にお任せください」
「立てるか?ルードヴィッヒ」
ダニエルにそっと腕を引かれ、ジャックに身体を調べられる。
ルードヴィッヒの身体は大会に出場するために大切なものなのだ。
「平気です。どこも痛くありません」
不思議な感覚に繋がる糸口を忘れなように脳裏に繋ぎ止めながら身体に異変はないと告げるが、ジャックの検査は終わらなかった。
腕を曲げられ、足を曲げられ、念入りに筋肉に痛みが走らないか調べられる。
そして最後に胸元にジャックの手が滑り--
「っ!?」
勢いをつけて手は離れた。
驚いた目でルードヴィッヒを見てくるのは、ジャックの手を切り落とす勢いで振り払ったのがルードヴィッヒ自身だからで。
「…ぁ…すみませ…」
掠れた謝罪は途中で喉にはりついた。
気持ちの悪さが胃の辺りから全身に満ちたからだ。
パンと音が鳴るほどの強さで口元を押さえ、後ずさる。
思い出すのは、屈辱と、血の味。
なぜ今さら、あの日のことを。
忘れたと思っていたのに。
「…部屋で休んでくるといい」
ルードヴィッヒの異変に気付くのはコウェルズで、大国の王子はルードヴィッヒただ一人に気遣うような眼差しをくれた。
言葉に甘えて、頷くこともせずに逃げるように炊事場を出る。
最後に視界に入ったジュエルの心配するような表情からも逃げて、ルードヴィッヒは口元を押さえたまま駆け足で寝室に入った。
四台のベッドが並ぶ中で、自分に宛がわれたベッドの前にしゃがんで突っ伏して。
「っ…」
気持ち悪い。
吐き気を何とかこらえ、苛んでくる過去を何とか振り払おうと足掻いた。
心配してくれたが故とはわかりながらも、ジャックの大きな手はルードヴィッヒにトラウマを思い出させた。
ミュズと初めて出会い、戦闘で敗北して身体をまさぐられ、魔力の暴発から人を殺めた過去。
口の中に広がる血の味はなぜだ。
身体をまさぐられているような気味の悪さはなぜだ。
言葉にならないほどの苦痛に苛まれたルードヴィッヒがとった身を守る術は、魔力の発動だった。
自分を彩るように、魔具の装飾を産み出していく。
細やかな髪飾り、鎖で繋がれたピアス、見事なブレスレット。いずれもルードヴィッヒが魔具の発動練習の為だけに産み出したはずの代物。
それらは髪を切る以前を思い出させるようにルードヴィッヒを飾り、ルードヴィッヒの心に安心を与えてくれた。
「--ハ、ァ…」
微かな息を吐いて、口元の手を離して。
まだ動悸が酷く、混乱が続いている。
それでも落ち着き始めた精神に、ルードヴィッヒはようやく顔を上げた。
顔を上げた先には窓があって、先ほどと同じようにルードヴィッヒの顔がおぼろげに写り込んで。
写り込む自分自身を、言葉もなく見つめる。
それは以前の自分だ。
レイトルから魔具訓練の方法を教えてもらってから、少しずつ増やしながら自分を彩り続けた姿。
魔具訓練のはずなのに、なぜこうまで落ち着くのだ。
わからない。
わからないが。
「……」
落ち着きを取り戻し、深く呼吸を繰り返して。
女のような容姿に、魔具とはいえ装飾はよく栄えた。
ルードヴィッヒそのものを隠すように、魔力の結晶は安定を与えてくれたのだ。
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