第56話
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城中どこを歩いてみても、昨日闇市で起きたファントムとの戦闘など存在しなかったかのように日常化した風景が広がっていた。
それはコウェルズが関係者達に箝口令を敷いたことも理由だろうが。
「……」
王城中庭の一角を当て処なく歩きながら、ニコルは定まらない焦点に気づき頭を振る。
朝方にアリアに手紙を見せてから、時間はあまり経過してはいない。
大切な人をまた一人失った。
たとえ血が繋がっていなかったとしても、村長はアリアを大切にしてくれたのだから。
アリアは泣きじゃくり、譲られた小鳥もアリアに寄り添い。
その場にいられなくて、ニコルは逃げた。
側にいてやればよかったのかもしれない。抱きしめて慰めてやれば。
しかしニコルは、その役をわざとレイトルに譲った。
昨日のようにニコルでなければアリアを癒せないわけではないのだ。だから。
自分の中に存在するアリアへの歪んだ思いを伝え教えたレイトルに、アリアを託すと。
そう暗に告げて、逃げた。
アリアの部屋の扉を閉める瞬間に目に映ったのは、レイトルに泣きすがるアリアで。
これでいいと諦めるように。
ニコルはアリアにとって兄なのだから。
兄で、家族で、
『何の価値もない』
「---っ」
思い出す彼の言葉に、ニコルは強く拳を握り締める。
彼の。
ファントムの。
父の言葉に。
父にとってニコルは、何の価値もない存在だった。
--だったらなんで会いに来た
幼いニコルがいる辺境の村へ。
--放置すればいいだろ
会いに来ず、名乗ることもせず。
ニコルに家族の絆などという曖昧ですぐに切れてしまう不確かなものを与えずに。
捨てたままでいてくれたならよかったのに。
苛立ちが腸を煮えくりかえらせる。
そしで同量の虚しさが溢れ、ニコルは握り締めていた拳から力を抜いた。
違う。
抜いたのではなく、抜けたのか。
いつの間にか。
何もかもが、馬鹿らしくて。
自分という何の価値もない存在程度が苛立ちを覚えることが間抜けすぎて。
空虚に身を委ねるように、日の光の下を当て処なく進んでいく。
まだ登りきらない太陽の陽射しは明るいのに弱く、風の寒さが染み始める。
その風の中に微かな水気を感じて、ニコルは今日のどこかで雨が降るのだと漠然と思い至った。
もう一度空を見上げても、あまり雲は見られないが。
--雨は降る
そう確信すると同時に、ニコルは背後に覚えのある気配が近付いてくることに気付いた。
この慣れた気配は間違えようもなく。
「ニコル!」
振り向くと同時に聞こえてきたエルザの声に、心に影が広がった。
日溜まりのような笑顔を浮かべて近付かれるごとに、深く強い影が。
駆け寄るエルザの後ろには今の護衛番だろうセシルとクラークがいたが、彼らはエルザの向かう先にいたニコルに気付くと、まるで気を使うかのように身を引いて隠れてしまう。
「…エルザ様…おはようございます」
二人きりだというのに、言葉は自然と他人行儀な敬語になって。
「おはようございます!…もうお体は大丈夫ですの?」
エルザはするりとニコルの片腕に身を寄せると、潤む瞳を向けてきた。
昨日負傷して戻ったニコルを心配しながらも、恋をしているのだと一目でわかる表情を。
その美しい姿から、ニコルは静かに目を逸らした。
「…ニコル?」
「御心配には及びません…周りの目がありますので、どうか離れてください」
ニコルの変化に気付いたのか、エルザは悲しむように眉をひそめる。だがその姿に心苦しさを感じることはもうなく、ニコルはエルザの身体を自分から離した。
「ニコル…どうしましたの?」
昨日と今日と。
エルザはニコルの突然の変化に付いてこれずに不安に身をよじる。
「…失礼します」
「待ってくださいませ!!」
エルザを放置して立ち去ろうとすれば、先ほどと同じ腕にまたすがられた。
「何がありましたの?仰ってください…こんなの…ニコルらしくありませんわ!」
すがられて、今のニコルを否定されて。
昨日実父に存在を否定されたよりも緩い否定。
「…まだ本調子でないだけです。ここは人目につきますので、どうか」
父親のことは考えないようにと身を引くのに、引いた距離だけ近付かれた。
「本調子でないのならきちんと休んでください!…私はいつでもあなたのすぐ傍におりますから」
優しいエルザはニコルの異変を不調からだと素直に受け取り、昨夜くれた言葉をまた与えてくれる。
実父から存在を否定されたニコルがエルザには必要だからと。
それはなんて優しくて、重い言葉なのだろうか。
昨夜もそうだった。暖かいはずの言葉が重い鎖のように感じて、紛い物の愛だったとしても思いを寄せていたはずのエルザが今は視線も合わせたくないほど辛い存在で。
そしてそれはエルザが悪いわけではなくて。
どうしようもないほどニコルを絡めとる王家の鎖が巻き付いて、無垢なエルザすらも枷に変えてしまったのだ。
--俺は…
彼女を愛せない。
はっきりと気付いたのは昨日だ。
だって、無理だ。
ニコルの心が追い付かないのだから。
「…ありがとうございます。お言葉に甘えて、少し休ませていただきます」
エルザの休めという言葉だけを素直に受け入れれば、エルザもようやく微笑みを浮かべる。
近すぎる距離で懸命に見上げながら、エルザは自分がニコルの力になれたのだと嬉しそうに頬を染めるのだ。
「お兄様にも私から伝えておきますわ。しばらく休ませてくださるように」
「よろしくお願いします」
昨日負傷したとしても、今のニコルに外傷は無いのだ。
ニコルに与えられた任務はロスト・ロード暗殺についてだったので、任務を行えないものでもない。それでも父のことを考えずにすむのなら、その休息はありがたかった。
コウェルズは変わらずニコルに暗殺の件を任せてくるだろうからなおのこと。
せめてニコルの心に少しでも余裕が出来るまで。
「…無理はしないでくださいませ」
最後だと言うように、エルザがまたわずかに身をすり寄せてきた。
きゅっと弱い力でニコルの腕の服を掴んで、潤む瞳で見上げてきて。
ニコルからの愛を信じて疑わない仕草の先に求めるのは恋人からの抱擁だろうが。
「…エルザ様、どうか人目を」
ニコルは明るい空の下であることを理由に抱擁を拒絶した。
場所は中庭ではあるが、人目にはつきにくい場所だ。それでも。
「…そうでしたわね。ごめんなさい」
エルザも素直に謝罪をくれて、掴んでいた手を名残惜しげに離して。
「また、元気になったら会いに来てくださいませ!」
せめて約束をしてと、エルザは右手の小指を立てる。
それは以前エルザがニコルに教えてくれた約束をする時の合図だった。
エルザはオデットから教えられたらしい、小指同士を絡める約束。
エルザの小指にはニコルが贈った指輪が輝き、ニコルも頭の中を空にしながら小指を合わせる。
会いに来て。
会いに行くよ。
甘いはずの恋人達の約束。
絡まる小指は数秒で離れて、エルザもまた頬を染めながらニコルから離れていった。
恥ずかしがるように、来た時と同じく駆け足で。
エルザが戻ってきたことに気付いたセシルとクラークも、ニコルに意味深な眼差しを向けてからエルザと共に去っていく。
再び一人に戻れば、まるで新たな枷を取り付けられたかのように絡めた小指が重く痛んだ。
その指を見つめながら、ニコルは込み上げる虚しさに無意識に笑みを浮かべた。
笑うしかないとでもいうような虚しすぎる笑みを。
エルザはただニコルを愛しているだけだというのに、その愛が重い。
エル・フェアリアの姫という理由だけで。
ニコルへの恋心を兄に駒として使われた可哀想な姫。
--いつまで偽り続けるつもりだ?
エルザの笑顔を思い浮かべながら、ニコルは自問する。
偽りだろうが愛そうと最初は決めた。
だが無理だと気付いた。
ニコルの心が、もはやエルザを愛せない。
なら早く夢から覚ましてやるべきなのだろう。
重く感じ始めた愛から逃れる為に、
優しいエルザが受けるだろう傷を軽く済ませる為に。
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