第61話


-----

 小鳥と共に森の泉から王城へと戻ったニコルが向かったのは宝物庫だった。
 朝食を抜いたのは単に空腹ではなかったというだけで、小鳥はアリアの元へ戻るよう一度は飛ばしたのになぜかニコルの側から離れようとせずに旋回して戻ってきた。
 小鳥の労るような仕草を前に、そこまでわかりやすく憔悴しているのかと自分自身に半ば呆れて。
 宝物庫の特殊な扉を開けて、中に入る。
 もはや見慣れた宝物庫内の価値ある品々に特別な感慨が生まれるわけもなく、ニコルにとってはガラクタでしかないそれらに一切の興味を持たず最奥に向かった。
 現在のニコルの職場も同然となった最奥の歴史文献に囲まれた長テーブルに触れながら、心を無理矢理落ち着かせるようにため息を付く。
 ほどよく散らかり始めているテーブル上の書類を簡単に纏めて、またため息を付いて。
 調べるよう命じられたロスト・ロード暗殺の件はもはや頭打ち状態で、これ以上の情報など手に入らないところまで来ているのだ。
 44年前のロスト・ロード王子暗殺。
 暗殺の首謀者は王妃であるという記述だけだった文献を片手に、ニコルは当時を生きた者達の話をかき集めて真実に近付いた。
 暗殺の首謀者は王妃ではなく当時の王だろうこと、実行に移したのは魔術兵団で、暗殺場所は地下の幽棲の間であること。
 幽棲の間というエル・フェアリア王家の血を引く者達には恐ろしすぎる場所には、何かが、誰かがいる。
 ロスト・ロードはそこで暗殺されそうになり、
 運を味方に付けたのか、ファントムとして逃げおおせた。
 現状ではこれ以上調べることは困難だ。
 だが不可能でない事実がニコルを苦しめる。
 ひとつは、自分が魔術兵団入りを果たし、真実を手に入れること。もうひとつは、捕らえたエレッテから話を聞くこと。
 前者についてはコウェルズ自ら切り捨ててくれたが、当時を知る方法であるにはあるのだ。
 だがもう、嫌だ。
 父を知りたかった。
 しかし今はもう父のことなど考えたくもない。
 自分の身を守る為にも、もうこの件からは降りたかった。
 難しく考えず、調べられるだけで構わないとコウェルズは口にしたが、その言葉を鵜呑みにしてもいいだろうか。
 わからないが。
 迷うのは、まだ自分の中に深く父がいるからなのだろう。
 幼少期から待ち続けた生みの父親をそう簡単に切り離せないのは、圧倒的な魅力を備え持つ存在だったからだ。
 息子だからという理由だけで、ファントムにとって自分は特別なのだと思っていた。
 現実は残酷だっだが。
「…なあ、もう終わらせてもいい頃だよな」
 肩に留まる小鳥に任務の終了を問うても、返ってくるのは小さな鳴き声だけだ。
 資料は纏めて、文献は戻して。
 宝物庫の入口に人の気配を感じたのは、最後の文献を書棚に戻した時のことだった。
 朝の早すぎるというわけではないが、本格的に行動するにはまだ余裕のある時間。
 誰だと気配を探れば、ピリ、と刺すような気配の懐かしさが染み渡る。
「--ニコル、いるか?」
 遠くから聞こえてくる声に、ニコルは半ば無意識に移動して声の主の姿を見た。
 年老いてなお重く深い気配。ニコルにとって尊敬に値する人物の最たる存在であるその人は。
「…クルーガー団長」
 呟きは鼻につまり、まるで泣き声のようにかすれた。
「そこか」
「あ、そちらに向かいます」
「いや、気にするな」
 クルーガーはニコルのいる際奥に足を運ぼうとするから慌てて向かおうとしたが、低く落ちついた声で制されてしまった。
 命令というわけではないが素直に応じて、クルーガーが到着する数秒の間の静寂に背筋を伸ばして。
「…昨夜のことはイストワールから聞いている」
 ようやく到着したクルーガーがまず口にしたのは、昨夜のニコルとエルザの別れ話の件だった。
 そうだろうとは薄々勘づきはしていたが、改めて切り出されて心臓は跳ねた。
 何も言えずに黙り込むニコルはクルーガーの目も見ることができずに俯き、肩に留まる小鳥が心配するように嘴で頬を撫でてくれる。
「…男と女のことだ。こうなることも仕方ないだろう」
 クルーガーは別れを選ぶニコルを否定せずにいてくれて、その姿勢は昨夜のイストワールと同様でありがたかった。
 だが、だからといって全てが丸く収まるわけではない。
「…姫は」
 エルザの名前を口にせず訊ねれば、少し重いため息がややしてから耳に届いた。
「エルザ様ならお前が去った後にすぐ目覚めたそうだ…だがまだ話せる状況ではない。しばらくは距離を置きなさい。エルザ様が落ち着かれてから、改めて話し合えばいい」
 涙は続いているということか。
 クルーガーの説明にニコルが安堵したのは、しばらくはエルザに会わなくて済むという点のみだった。
 それはわずかな時間だろうが、ニコルにとっても必要な時間になる。
「ひとつ聞くが」
 ニコルの安堵の表情に気づいたかのように言葉を続けるクルーガーは、ニコルが顔を上げるまで続きを待ち、
「お前が昨夜エルザ様に別れを切り出したのは、コウェルズ様が発たれたからか?」
 ニコルにとって元凶にも等しい人物の一人である王子の名を告げる。
 コウェルズが居なくなる時を見越して、エルザに別れを。
 そこまで考えていたわけではない。ニコルの限界とコウェルズの出立が重なっただけだ。
 そうだと思いたいが。
「…わかりません」
 もしかしたら、無意識にコウェルズが居なくなる時を見計らっていたのかもしれない。
 自分の考えなどわからないまま呟いた返答に対するクルーガーの言葉に続きはなく、代わりに小鳥が乗る肩の反対側に手を置かれた。
「…調べるよう命じられた暗殺の件も、もう充分だろう。しばらく休むといい。後の細かな所はミモザ様が引き継いでくださる」
 これ以上は調べる必要はないと、他人の、それも上官の口から告げられることがこれほど気を楽にしてくれるとは。
「…ありがとうございます。では、最後の報告書を纏めてからミモザ様にお渡しします」
 これでようやく終われるのか。
 枷が外されるような身の軽さを心で感じて、小さなため息が漏れて--
 肩の小鳥が飛び上がるのと、宝物庫の扉が開かれるのは、同時のことだった。
 ニコルとクルーガーが飛び離れた小鳥から宝物庫の扉へと目を移せば、
「…失礼いたします」
 宝物庫に足を踏み込むのは、かつてのニコルの同僚達だった。
 エルザを守る為の精鋭。
 昨夜エルザの護衛についていたサイラスと、今朝からの護衛なのだろうセシルとクラークが。そして三人に守られるように宝物庫内に入る頭ひとつ小さな姫にニコルの全身が冷えて硬直した。
「…お前達、なぜエルザ様をここに」
 固まるニコルに代わるようにクルーガーが語気を少し荒らげるが、エルザを連れた彼らは隠しきれない怒りをニコルに向け続けていた。
「イストワールの命令があったはずだ。エルザ様を連れて戻るんだ」
「ニコルに話があるのです」
 代表するように口を開いてクルーガーの命令をはね除けるのはサイラスで、昨夜を目の当たりにしたがゆえの苛立ちが最も強い様子を見せる。
 王族付きは血の気が多い者達ばかりだとは知っているが、ここまでとは。
 言葉を無くすニコルの側にエルザを連れた三人はすぐに近付き、クルーガーが守るように間に入って。
「…クルーガー団長、どうかエルザ様とニコルに話をさせてください」
「今の混乱した状況で話し合えるはずがないだろう。エルザ様を寝室で休ませるんだ」
「頭がおかしいのはニコルの方です!!」
 激昂はクラークのもので、殺気立つ三人の射竦めるような視線がニコルに向けられる。
 その間に守られたエルザは、頬に涙の筋を残して瞼を泣き腫らした状態のまま、すがるような眼差しをニコルへと向けた。
「ニコル…」
 かすれた、弱々しい声。
 それだけで庇護欲を掻き立てられて、三人の怒りがさらに強くなる。
「エルザ様、どうかお戻りを。しばらくはお休みください」
 ニコルに向けられる視線を代わりにクルーガーが間に入ることで遮ってくれるが、気配までは遮られはしなかった。
「ニコルと話をさせてください…」
 この場から逃れたくなるような、エルザの泣き声。
 胸が圧迫されて、言葉が気管に引っ掛かるような感覚。
 ニコルは無意識に足を引き、それはエルザの目にも届いてしまう。
 拒絶されたと思ったのだろう。エルザの瞳からさらに涙が溢れて流れた。
 ニコルの行動は拒絶で間違いないのだが。
「ニコル…どうしてですの?」
 震える弱々しい声が突き刺さる。
 涙を止めるつもりもなくなったエルザは鼻に詰まる悲しい声で切実に問いかけるから、クルーガーの背中でその姿が見えないとしてもニコルは視線を床に落とした。
「…別れるなんて…愛していないなんて嘘ですよね?…疲れていらっしゃるのでしょう?」
 昨夜の言葉は嘘だと、そう信じていると暗に告げるように。
 疲れているだけならよかったのに。
 疲れているだけなら、それだけならここまで自分が苦しむことも、エルザを苦しめることもなかった。
「お前達、エルザ様を部屋に戻さないなら懲罰を与えることになるぞ」
「なぜですか!!」
 話を遮るクルーガーの脅しは、三人の騎士達の反感を見事に買った。
「エルザ様は心身共に休養が必要だ。ニコルとの話し合いは後に回せ」
「ニコルの馬鹿な言葉を撤回させることこそが何よりもエルザ様の為でしょう!」
 クルーガーの言葉に批判を被せるセシルに、クラークとサイラスも同意する。
 エルザを落ち着かせる為に何が最善なのか。
 騎士達はよくわかっているのだ。
 休養など時間の無駄でしかない。今のエルザに必要なのは、ニコルからの愛の言葉だけなのだと。
 だが、馬鹿な言葉だなどと勝手に言い切られてしまう理由はどこにある。
「お前達、いい加減に--」
 なおもニコルの盾となってくれるクルーガーをニコルは自ら留めた。
 言葉を止めるクルーガーの前に出て、俯いていた状況からまず仲間達に目を向ける。
 自分自身の顔など見えないから、どれほど虚ろな眼差しを向けてしまったかはわからない。だが最も気性の激しいクラークを黙らせる程度には、ニコルの闇は可視化されている様子だった。
 ぐっと言葉に詰まる三人から目を離して、エルザと視線を合わせる。
 すがるような眼差しはまだニコルを信じている証拠だ。
 疲れているだけだと。そう言い直して、愛していると告げてと。
 ニコルの愛を信じて疑わないのは、エルザが恋愛に対して純粋すぎるからで。そしてそうと知りながら偽りの愛を語ってしまったニコルにも確かに非があって。
「……」
 見つめ合った時間は数秒ほどだろうか。
 先に逸らしたのはニコルで、
「…別れてくれ」
 逸らした目の代わりになるのは飾らない単純な言葉だ。
 静寂は一瞬で終わり、クラーク達の怒りが宝物庫を一気に圧迫する
 そのわずかに早く。
「--どうして!!」
 絶叫じみた甲高い叫びと共に、エルザがニコルにすがりついた。
「至らないところがあるなら直しますわ!!あなたに嫌われるなんて、生きていけません!!」
 弱い力でニコルにすがり、エルザにはニコルが全てだと全身で叫んでくる。
 ニコルが初めてエルザを抱いて愛を囁いた場所で、今度は終わりを告げるのだから。
「お願いです!理由をおっしゃってください!」
 理由を。
 求めるのは当然なのだろう。
 訳も話さず別れられるなど思ってはいない。だが当事者以外もいる中でどこまで話せるのか。
 父のことも、アリアのことも。
 王家の血のしがらみも、何もかも。
 迷って、言葉に詰まって。
「…あなたを愛せないと気付きました」
 何も考えられずに頭の中が空になると同時に、根本は口をついて出た。
 エルザが凍りつくのがわかる。
 エルザだけではない。その後ろに待機するクラーク達も。
「愛そうと思いました…ですが、無理でした」
 エルザには昨夜告げた言葉をもう一度。
「私は最初から…あなたを愛してはいません」
 最初から。
 昨夜、愛してなどいないと告げられたエルザはその後すぐに気を失った。
 だが今日は気を保ったままニコルを見上げ続けている。
 瞳に力はないが、それでも。
「…信じません」
 エルザの真実はニコルに抱かれた記憶だけだと。
「信じませんわ…愛していると言ってくださいましたもの…」
 ぶつぶつと独り言のような言葉。
「ここで…」
 この場所で。
 確かにニコルは口にした。
 偽りの愛を。
 だがニコルにとっては偽りだったとしても、エルザには真実なのだ。
「--他に好きな方が出来ましたの?」
 弱々しかった声は突然強さを増した。
 ニコルにすがる手の強さは変わらない。瞳の儚さも変わらない。ただ声だけが突然。
「っ…」
 言葉に詰まるのは、ニコルの胸にアリアが宿るからで、その微かな動揺を、エルザは見逃さなかった。
「…誰ですの?」
 視線を逸らしても、エルザの眼差しは離れてくれない。
 まるで強すぎる魔力に舐められるような感触。
「いい加減にしてくれ…」
 エルザから垂れ流される王家の魔力に、真っ先に耐えられなくなったのはニコルだった。
 強すぎる力に身体が苦痛を訴えたわけではない。
 今のニコルにとって、父と無理矢理結びつけられる王家の血こそが耐えがたい苦痛になっているからだ。
 エルザの肩を掴んで、自分から強く引き剥がして。
「…エルザ様…あんたは国に使われてるだけなんだ」
 目を見開くエルザに、どろどろとしたエル・フェアリアの闇の部分を。
「俺をエル・フェアリアに押さえ込む為だけに、あんたの俺への思いが使われただけなんだよ」
 ニコルという特殊な血を逃がさない為だけに。
「あんたを愛そうとしたさ…でも無理だった。あんたの存在そのものが、俺にとっては枷なんだ」
 完全な自由が欲しいわけではない。だが、エル・フェアリアはニコルを縛りすぎた。
「親父のことも、アリアのことも…俺にとってエル・フェアリアは…最悪の場所なんだ」
 平和と謳われるエル・フェアリアの影と共にニコルは生きてきた。その影のより強く濃くなる中心部に、これ以上苦しめられたくない。
「…クルーガー団長…もし俺がエル・フェアリアを出たいと言ったら…許してくれますか?」
 引き剥がしたエルザをクラーク達の場所に放って、ニコルは後ろに立つクルーガーに向き直る。
 クルーガーは口を開かない。
 エルザを大切にかばったクラーク達三人も、ニコルの話す意味を理解できずに困惑した表情を浮かべていた。
 クルーガーが答えられないことくらいわかっていた。だというのに試すように問うた自分に力無く笑い。
「俺はもう、この国に関わりたくないんです…」
 あまりにも虚ろな声。
 エルザの視線も、クラーク達の視線も、全てが困惑に満ちた気がして。
 気持ち悪くなって、ニコルは込み上げる吐き気を堪えるように口元を手で覆った。
「…すみません…外に」
 頭痛と吐き気と。
 逃げるように宝物庫の扉に向かうニコルを誰も止めずにいてくれて、ただ一羽、離れたところにいた小鳥だけが寄り添うようにニコルの肩に戻ってきてくれた。

-----

「--お待たせいたしました」
 モーティシアがそう呼びかけた相手は、王城上階、第五姫フェントの私室の壁に立ち護衛任務に当たっていたミシェルだった。
 時刻は昼前か。ミシェルと視線を交わし合いアリアに目を向ければ、今日最後の任務であるフェントの眼球回りの癒しを行う真剣な姿が映る。
 生まれつき視力の弱いフェントは、ファントムとエル・フェアリアとの繋がりを調べる過程で子供ながらの行きすぎた行動に出てしまい、さらに視力を悪くした。
 アリアの治癒魔術では疲労を癒すことはできても視力を取り戻すことはできない。それでもフェントの目を癒してくれと頼んだのはコウェルズだ。
 コウェルズがラムタルにてフェントの新しい眼鏡を貰うことにはなっていたが、それも気休めにしかならないだろう。
 それでも、フェントが視力の悪化から躓き軽い打撲を負った小さな事故は、コウェルズやその場にいたミモザからすれば大きすぎる衝撃だったことだろう。
 自分達が妹姫に調査を頼んだ結果の災厄なのだから。
 アリアがフェントの眼球回りを癒す日課がたとえパフォーマンスだったとしても、それで王族達の気が済むなら充分だ。
 それにしても。
「…フェント様と並べると圧巻ですね」
 モーティシアが感心するように呟いたのは、アリアとフェントのすぐそばに寝そべる、本物のように滑らかな絡繰りの獅子のことだった。
 少し離れた場所から見ても圧迫するような存在感があり、フェントとアリアを足してもまだ絡繰りの方が大きいだろう。
「ミモザ様にはあれが五体用意されているが、図体ばかりでないことを願いたいものだ」
 ミシェルも小声で絡繰りについての評価を口にするが、辛口に聞こえてしまうのは気のせいではないだろう。
 一昨日の夜に魔術兵団に襲われかけた事を聞かされたのだから、元々ミモザ姫付きであるミシェルには気が気ではないはずだ。
 コレーの悪夢だったと真実を隠した事件は、王族付き達に魔術兵団に対する怒りを植え付けた。
 そして同時にラムタル国の技術に対する嫉妬も。
 姫を守る精鋭の騎士団以外の力を借り、さらにその力は他国のものなのだから。
「それで、なぜ護衛任務から離れたんだ?」
 ラムタルの絡繰り技術に傾いていたモーティシアの頭は、ミシェルの不機嫌そうな問いかけにより引き戻された。
 モーティシアは朝からミシェルと共にアリアの護衛任務につく予定だったが、離れた理由はいくつかある。
「アクセルの事が少し心配でしたからね。様子を見に行ってたんです」
 ひとつは奇妙な術式を練り込まれた短剣の解読を任されたアクセルの件。
「わざわざ護衛任務時間に向かう必要は無いはずだ」
「まあまあ、もちろんそれだけではありませんよ。アリアの今後の治癒任務を円滑に進める為の準備や話し合いもありますから」
 さらりとミシェルの不機嫌な気配を流してみても、鋭い眼差しがさらに鋭くなるだけで納得はしてもらえなかった。
「何の為にトリッシュ殿がいるんだ」
「夜に頑張ってくれたんです。彼も休ませないといけませんから」
「休む前にもう少し動かすことくらい容易だろう」
 小声で話し合うには苛立ちが勝るミシェルの様子に、モーティシアは絡繰りの件を話す前からミシェルが苛立っていたことをようやく悟った。
「…仕方ありませんね。正直に話しましょう。少しでもいいから、あなたとアリアの二人の時間が欲しかったんですよ」
 治癒を行うアリアを眺めながら、フェント姫付きの騎士達には聞こえないほどに掠れた小声で。
 ミシェルとアリアを二人にさせる為に。
 本音を漏らせば、返ってくるのは苛立ちが微かに減った溜め息だ。
「無理矢理機会を作るようなことはやめろと以前も言ったはずだ。私には私のやり方がある」
「そうは言われましても、悠長にしていられる時間がないのですよ」
 ミシェルの反論に、ぴしゃりと強く言い聞かせるように。
「アリアに強い魔力を持つ者をあてがうよう命じられていますからね。だというのにアリアが選ぼうとしているのは魔力皆無のレイトルです。私は焦っているんですよ」
 溜め息をこぼしたいのは自分の方だと肩を落としてみても、ミシェルも納得してくれそうにはなかった。
「まったく…あなたの意図が掴めませんよ。あなたほどの男なら、ものの数秒でアリアを手に入れられるでしょう。なぜのんびりとしているのですか」
 こうしている間にも、アリアとレイトルは着実に距離を縮めていくはずだ。
 ニコルという壁が消えてくれた今こそ勝負どころだというのに、ミシェルは動きを見せようとはしなかった。
 ミシェルが望めば国はミシェルの味方になる。だというのになぜ早々にアリアを手に入れようとしないのだ。
「あなたのやり方とやらを聞かせていただけませんか。でなければ国は私をすっ飛ばしてアリアの獲得に動きますよ」
 コウェルズ王子や高官達に直々に命じられた重要な任務も、動きがないならモーティシアは切り捨てられる。
 そうなればアリアは警戒するはずだ。
「私がいない場合のアリア獲得がどういう動きになるか、少し考えればわかるでしょう」
「…レイトル殿は確実に王城から離されるな」
「それを狙っているのですか?」
「まさか。彼は騎士団に必要な男だ」
 恋敵であるはずのレイトルの騎士としての手腕を最大限に認めて、ミシェルが不機嫌な様子を陰らせて微かに笑った。
 それはミシェルの裏の顔と呼ぶに相応しい闇のような笑みで。
「…あなたの考えは本当に読めませんね」
「簡単に読ませるはずがないだろう。とにかく、アリアを手に入れる為の行動なら進めているから放っておいてくれ。上にもそう伝えておけばいい」
「どんな悪巧みかは知りませんが、せいぜい大切な妹君に気付かれて嫌われませんように願っていますよ」
 介入するなと言い切るミシェルの揚げ足を取るように彼の大切な存在を示せば、ミシェルの動きはわずかに止まった。
 ミシェルが末の妹であるジュエルを溺愛していることは周知の事実なのだ。そのジュエルは最近アリアと仲良くなった。
 まだ子供であるジュエルに何重にも被せられていた藍都ガードナーロッドの傲慢な血が取り除かれて姿を見せたのは、侍女としても血筋としても優秀な一人の娘だ。
 悟く賢く、アリアとも良好な関係を築いている。
 ミシェルはジュエルには良い兄を演じ続けているので、もし化けの皮が剥がれたミシェルをジュエルが見てしまったらどうなるのか。
「ジュエル嬢の恋慕う相手もレイトルなのですから、あなたがうまく動いて二人の仲を取りもってもいいでしょうに」
 やれやれとまた溜め息をついて、複雑にからむ人間模様に思考を割いて。
「…ジュエルは妙に自分の意思で動きたがるようになったからな。私が手伝っても“一人でできる”と怒られるだけだ」
 その辺りもうまくいかないものだな、と。
「…何にしても、アリアを手に入れたいならとっとと動いてくださいね。でなければ、別の男を見つけなければいけないのですから」
 他の夫候補が動いてくれない中でようやくミシェルという人材がアリアに目を向けたというのに、そのミシェルまで上手く働かないなど拍子抜けどころの話ではない。
「モーティシア殿も治癒魔術師の魔力を後世に残すための候補に上げられていなかったか?」
 訊ねられた純粋な質問には、無言を返して。
「そういえば、こちらに来る前にエルザ様を見かけましたよ」
 話題を逸らす為に思い出したのは、騎士達に寄り添われたエルザ姫のやつれたような姿だ。
「何があったかは知りませんが、泣かれたご様子でした」
「…エルザ様が?」
「はい」
 何があったのかなどわからないが。
「--目の周りに違和感ありませんか?」
 ようやく室内に響くのは大きな渦の中心にいながらも何も知らないアリアの朗らかな声で、モーティシアとミシェルは治癒の終わりに気付いて姿勢を改めた。
 エルザ姫に何があったかはわからないが、今は護衛対象に目を向けなければならない。
「隊長としての責務があるはずだ。アリアの護衛に立つ時間はきちんと任務をこなせ」
「わかりましたよ。妙なところで律儀ですね、あなたは」
「これでもミモザ様に仕える騎士だからな」
 最後の最後に言いたいところをはっきり告げられて苦笑を浮かべてしまい、その表情が気に入らなかったのか、ミシェルはまた不機嫌そうな様子を見せてきた。
 真面目なのか、悪徳を好むのかわからない。
 とらえがたい難しい男を隣にしながら、モーティシアは今後の動向の計算を静かに始めるのだった。

第61話 終
 
3/3ページ
スキ