第61話


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 小鳥に手紙を持たせて兄へと飛ばしたのが数十分ほど前のことだった。
 アリアは明け方より早くに目覚めており、部屋で語学の勉強を行っていた最中にセクトルが扉をノックし、ニコルの体調を知らせてくれた。
 夜に護衛として立ってくれていたのはセクトルとトリッシュで、恐らく次の護衛にはモーティシアとミシェルが立つことになるだろう。恐らく、だが。
 輪番を作りアリアの護衛を行っていることは教えてもらってはいたが、ここ数日は城内外で事件が続いており、綺麗に回ることの方が少ないのだ。
 アリアにとって最たる変化はニコルが側にいなくなってしまったことで、大切な兄が知らない場所で何かに迷い苦しむ姿は見ていられなかった。
 家族なのだから苦しみを打ち明けてくれたらいいのに、ニコルはそれをしない。アリアも出来ないのだから言えた義理ではないが。
 語学勉強に使っていた本から目を離して、大きな窓から朝日を眺める。
 アリアがニコルの父からもらった礼装を無くした時、ニコルはこの大きな窓から飛び込んできてくれた。
 今は朝日が入り込む窓。
 有事の際には足場として使えるよう設計された窓だが、教えられなければただの広めの窓だ。
 小鳥は窓から飛び立って行ったが、上手くニコルに手紙を渡してくれただろうか。伝達鳥用の手紙を入れる筒を付けずに直接足にゆるく巻き付けたから、途中で離れていたらと思うと気が気ではなかった。
 頭の良い子だから大丈夫だとは思いたいが。
 名前をまだ決めかねている小鳥。
 また兄と一緒になれた時に決めよう。
 そう思うと同時に、
「--アリア、いいか」
 扉を叩く音と共に、呼び掛けてくるセクトルの声が聞こえてきた。
「あ、はい」
 椅子から腰を上げて扉に向かえば、アリアが開けるより先にセクトルがいつも通りの無愛想な顔のまま扉を開けて入ってくる。
 その後に続くのはミシェルだ。
「ミシェルさん。おはようございます」
「おはよう、アリア。よく眠れたか?」
「はい」
 やはり次の護衛はミシェルとモーティシアかと思ったが、ミシェルの後に人はおらず、扉は閉められてしまった。
「あれ?モーティシアさんは?」
 きょとんと首をかしげるアリアに、ミシェルが浮かべるのは苦笑いだ。
「彼なら別の用で今回の護衛には来られなくなったんだ。だから私が一人で」
「そうなんですか」
 モーティシアは最も忙しく働いていたので素直にミシェルの言葉を聞き入れたアリアだったが、視界の片隅でセクトルが微かに眉を顰めたことを見逃しはしなかった。
 不愉快というよりも不満そうな表情。しかしその理由を訊ねるには何かが足りない。
 あまり深く考えることはせずに視線を再びミシェルに戻せば、彼は再び微笑んでくれて。
 穏やかな笑みはレイトルに似ているが、レイトルより大人びていて。
「じゃあ俺はトリッシュと合流して書類整理に回ります。後はお願いします」
 護衛の交代時間を淡々と迎えるセクトルは引き継ぎは無いことを暗に告げて、先に向かったらしいトリッシュの後を追うようにミシェルに頭を下げてから部屋を出ていこうとする。
「朝食くらい一緒にどうだ?」
 そんな普段通りのセクトルをミシェルは止めるが、
「…いえ」
 含むような眼差しを隠すことなくミシェルに向けてから、セクトルは扉を開けて廊下へと出た。
「セクトルさん!夜の間ありがとうございました。お疲れ様です」
 あまりにも流れるように去ろうとするから慌てて頭を下げたアリアが扉がしまるよりわずかに早く見たのは、セクトルが背中越しに軽く利き手を上げた姿だけだった。
 扉はすぐに閉められて、室内はアリアとミシェルの二人きりになる。
「セクトル殿はいつも通りの無表情だな」
「--あ、待ってください!」
 少し呆れるような声色の中に親しみを込めながら呟いたミシェルは、慣れた様子で開けていた窓を閉じようとするから、アリアは慌ててミシェルの手を止める。
 すがるようにミシェルの腕を両手で掴んでしまったから、距離は一気に近くなって。
 兄を見上げるような気持ちになってしまったのは、女性にしては背の高いアリアよりもミシェルの方が長身であることを告げている。
 しかしその距離に、深い感情は生まれない。
「…あの…小鳥を飛ばしたので、帰ってくるかもしれないから開けておきたいんです」
 以前は恐ろしかった男性との距離感。
 慣れたのだと単純にしか思わないのが自分でも少し不思議だった。
 レイトルがこんなに近くにいたら胸が高鳴っていたのだろうと脳裏によぎるから。
「そうか。なら少しだけ開けておこう。用意を済ませているなら食事に向かうが、大丈夫か?」
 ミシェルも自然な動作でアリアの肩に手を置くが、やはり何も胸には響かなかった。
--私、やっぱり…
 漠然と気付いたのは恐らく最近だが。
 胸の中に存在する人がいる。
「---っ…」
 自覚したのが、なぜ今なのか。
「…アリア?」
 急激に火照る頬は、ミシェルの目からも真っ赤に見えたことだろう。
 ミシェルの指先がアリアにそっと伸ばされて。
「大丈夫ですっ!!」
 慌てて逃げる。
 あなたではないと、まるで拒絶するようにミシェルから離れて、用意していた荷物を取りにテーブルに向かい。
 それは今日一日のアリアの勉強道具一式で、先ほどまで読んでいた他国の文字で書かれた本も含まれていた。
 アリアはそれらで身を守るように両手で抱えて胸に寄せると、この場にレイトルはいないというのに逃れるように扉に向かった。
「早く行きましょう!治療待ちの人もいるでしょうし!」
「…そうしよう」
 アリアの挙動不審がミシェルにどう映ったかはわからないが、彼の苦笑姿がたまらなく恥ずかしかった。
 ミシェルはレイトルに似ている。顔が似ているわけではないのだが、醸し出す穏やかな雰囲気がよく似ていた。
 違いを上げるとするなら、ミシェルの方が大人びていることくらい。
 ミシェルの面影の中にレイトルが見えるような気がして、アリアは混乱する胸中を隠すように顔を向けなかった。

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 ミシェルと兵舎外周の食堂に向かい、共に朝食を取り。
 今日の予定は三日前に起きた内密の戦闘で負傷した者達の傷が完全に癒えているか確認することで、食堂を出た二人は医師団の従事する医務室へと向かっていた。
 食事を取った食堂から最も離れた棟に向かうために徒歩では時間がかかってしまう中で、アリアはミシェルが何度も空を見上げる様を目の当たりにして。
「…心配ですよね」
 ミシェルへの問いかけに、彼は自分に向けられた言葉だとはすぐに気付けない様子だった。
 アリアの言葉にわずかに時間をもて余してから、え、と問い返してくる。
「ジュエルのことです」
 ミシェルが空を眺めていた理由は目下ひとつしかないはずだ。この件でミシェルはアリア達の目の前で彼のもう一人の妹であるガブリエルと壮絶な兄妹喧嘩をしたのだから。
 ミシェル、ジュエル、ガブリエル。
 虹の七家の一角を担う藍都ガードナーロッドの子息子女である三人。
 アリアはジュエルとは仲良くなれたが、ガブリエルとは犬猿の仲のままだった。
 ガードナーロッド家は傲慢と名高いらしいが、ガブリエルは確かにその通りだろう。ジュエルもなかなか気の強い方であるし、ミシェルも普段は穏やかだが、ガブリエルが絡むと眼差しがきつくなる。
 そんな兄妹達が盛大な口喧嘩をしたのはジュエルがラムタル国で開かれる剣武大会のエル・フェアリア代表達について向かった後、つまり昨夜だ。
 ミシェルはジュエルが行ってしまった後すぐにアリア達とは別行動をとってガブリエルに説明に向かったのだが、その時に第一ラウンドがあり、アリア達が目にした口喧嘩は第二ラウンドだった。
 剣武大会は一見華やかな大会ではあるがその内側は国と国が絡み、そして血気盛んな戦士達が勢いに任せて性暴力などの犯罪に手を出してしまう危険な事情があるらしい。
 ジュエルはそんな場所に、たった一人のエル・フェアリアの侍女として向かうことになった。
 ミシェルがその事に不満を持っていることはアリア達にはすぐに気付けた。それでもミシェルがジュエルに「行くな」と言わなかったのは、単純にジュエルが「大切な式典に自分が選ばれて光栄だ」と喜んだからで。
 不満があろうが口にできなかったミシェルに、ガブリエルは噛みついた。
 ガブリエルもジュエルのことは大切な妹であるらしく、ミシェルとの口喧嘩は壮絶なものだった。
 口頭ではジュエルが向かうことを賛成するミシェルと、完全に反対して連れ戻せと言うガブリエルと。
 誰にも止められないほどに収集のつかなくなった上位貴族の口喧嘩は、騎士団長クルーガーと侍女長ビアンカだけでなく政務に従事する高官達まで出てくる事態に発展した。
 アリアからすればミシェルの激昂は今まで穏やかな姿しか見ていなかったがゆえに寿命が縮まるほど怖いものだった。
 ガブリエルの気の強さも知ってはいたが、二人の考えは違えど根本でジュエルを思っていることは同じで。
 止めに入った者達はガブリエルを説得していたが、アリアはガブリエルの怒りを否定できないと思ってしまった。
 大切な家族が身の危険の多く存在する場所に向かうなど。
 アリアもきっと、ガブリエルほどでないにしても同じ行動に出てしまう。
 ミシェルのように自分を律してジュエルを笑顔で送り出すなどアリアには不可能だ。
「絶対にジュエルは一人にはならないって皆さん言ってたし、きっと大丈夫ですよ」
 アリアも心配はしているが、ミシェルを元気付けるように笑顔を向ける。
 絶対に大丈夫などと確証は無いが、今はコウェルズ達の言葉を信じるしかないと。
「…そうだな」
 ミシェルは少し困ったように眉をひそめたか、すぐに表情を緩めてくれた。
「ルードヴィッヒ殿は心配だが、王子とジャック殿にダニエル殿もついているなら安全だろう」
 まるで自分に言い聞かせるように。
 ここでまだ若いルードヴィッヒにジュエルの身辺に対する不安を隠さない辺り、彼らしさが伺えた。
「ルードヴィッヒさんだって、武術に関しては光るものがあるってガウェさんも言ってましたよ」
「ガウェ殿のルードヴィッヒに対する評価はいつも甘すぎる。光るといってもまだまだ粗削りだから、まだ安心出来ないな」
 安心させる為に言ったつもりが、どうやら別の糸に絡まったらしい。
 少しムキになってルードヴィッヒを不安視するのは、嫉妬も交じってのことだろう。
 ジュエルは任務が決まって以来、ルードヴィッヒから離れなかったから。
 ミシェルとジュエルは理想的な兄妹だった。
 ミシェルはジュエルに厳しさと甘さを大量に与えて、ジュエルは彼の妹であることを最大限に生かして甘えていたから。
 ミシェルからすれば、そんな目に入れても痛くないほどのジュエルが自分の知らない間に責任感を強く持って異性に尽くすなど考えたくないのだろう。
 まだ幼いのだから尚更。
 ジュエルが真面目にルードヴィッヒの側にいるがゆえにほのかに流れ始めた噂話も耳に入っているのだ。
 紫都のルードヴィッヒと藍都のジュエル。
 貴族階級も年も近い二人は、幼さも加えて可愛らしい噂が流れるにははまりすぎた。
 冷やかしではなく、暖かく見守るような噂。
 いっそ冷やかしならばミシェルもたたっ斬れただろうに。
「いくら武術に優れた父親の血を引こうが、彼はまだ若すぎる。武術試合に出すなら彼より優れているものの方が城内には多いのが事実だ」
「またそんな意地悪言って。そんなにルードヴィッヒさんが気に入らないんですか?」
「…いや、そういう訳ではないんだが」
 気に入らない訳ではないと明後日の方向を見ながら口ごもるミシェルに、思わず笑みが漏れる。
「あたしも…兄さんと離れずに育ってたら、ミシェルさんみたいに兄さん大好きになってたんでしょうか」
「…その言葉では私がジュエル以外見えていないかのように聞こえるんだが」
「え、違うんですか?」
 思わず素で聞き返してしまってから、アリアは慌てて両手を振って否定した。
「あ、ごめんなさい!違うんですよ、恋愛とか関係なくて、妹としてジュエルが大事だって意味です!」
 家族としての愛。
 アリアはもちろんニコルを大切な家族だと思っているが、もしずっと側にいられたなら、今以上に兄を慕っていたのだろうかと。
 そしてミシェルもアリアとニコルの歪みには気付いている様子で。
「君達二人は確かに気を使いすぎている所があるからな」
「…やっぱり、そうですよね」
 自分でも気付いていたことだが、改めて第三者に言われてしまうと落ち込む。
「あーあ。あたしもジュエルみたいに兄さんに甘えてみたいです」
「…甘えてみればいいじゃないか」
「…出来たらしてますよ…でも…」
 今のニコルには甘えられない。
「難しいな」
「…はい」
 最近のニコルの憔悴ぶりはアリアや護衛部隊内でも必ず話題に上がっている。
 そんな状況のニコルに負担をかけたくなかった。
「…難しいが…兄の立場で言わせてもらうなら、可愛い妹に甘えられることで気持ちが落ち着くこともあるんだよ」
「…そうなんですか?」
「ああ。ジュエルから甘えられると苛立っていた気持ちが和らぐことばかりだからな。甘えてくるのがガブリエルなら荒むが」
「…兄さんがミシェルさんなら、私はジュエルってことですよね?」
「君がガブリエルということはまず有り得ないからな」
 ニコルがミシェルなら。
「…んー、でも、甘えるのって難しいですよね」
 甘えてみたい気持ちはあるが、どう甘えればよいのか。
 思い返せば、誰かに甘えた記憶はあまりにも少ない。
 物心付く頃にニコルと離れ、ずっと病に伏せる父の看病をしながら働いてきたのだから。
 甘えることは迷惑をかけることだからと自分に言い聞かせ続けてきた。そんな幼少気だったから、今も変わらず甘えられないで。
「…君は本当に昔から変わらないな」
 独り言のように呟かれた言葉の意味は、すぐには理解できなかった。
「…どういう意味でしょう…」
 昔からと言われても。
 思わず足を止めてしまい、ミシェルが彼の歩幅で二歩ほど先に進んでから振り返ってくれて。
「…言葉通りの意味だ」
 どこか遠い目でアリアを見つめるミシェルの藍の瞳に、何かが胸をざわつかせた。
「私は昔、君に会ったことがあるんだよ」
「え!?」
 少し意地悪な笑みを浮かべながらの発言に、完全に頭の中が一瞬吹き飛んだ。
「ど、どこでですか!?」
 昔といえば、辺境にある故郷かその近隣の町以外にはあり得ないはずだが、そんな場所に上位貴族であるはずのミシェルが来るなど思えないし、もし来ていたのなら噂が立つはずだ。
 だがアリアの記憶には、貧しい故郷にそんな華やかな過去は見つからない。
 教えてくださいと思わず身を寄せた瞬間のミシェルの表情は、ちょうど雲間から強く太陽の日差しがアリアの目を照らした為に見ることが叶わなかった。
「思い出してほしいから、私からは言わないよ」
 太陽の光から逃れてようやくミシェルを見上げれば、茶目っ気を含んだ少しだけ意地悪な笑顔がアリアの眼前に広がる。
「…ほんとうに、どこかで?」
「嘘は言わないよ。私は昔、君に会っているからな」
 美しい銀の髪の少女を見落とすものか、と。
「さあ、早く職務を終わらせに向かうぞ」
 再び歩みを再開するミシェルの後を追いながら。
「……」
 記憶のどこにも引っ掛からないミシェルの背中を、アリアは困惑しながら眺めることしかできなかった。

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