第105話
第105話
「ーー時間になるまでここを出るんじゃないよ」
その言葉を残して、コウェルズ達三人は賓客室を出て行ってしまった。
ぽつんと残されたのはルードヴィッヒとジュエルだ。
大会が終了した。
無事に、と付けられないのは無事とは程遠いことを肌で感じ取ったからだ。
コウェルズは剣術試合を優勝した。
なのに、コウェルズだけに与えられるはずの栄光は横から掻っ攫われた。
ルードヴィッヒでも気付けたことだ。
ラムタルのバインド王が先導した突然のエル・フェアリア王位継承宣言。
それを踏み台にするように、バインドはコウェルズの隣にオリクスを置いた。
端から見れば、バオル国のオリクスも若き王コウェルズを見守るかのような状況だった。
コウェルズは朗らかに笑っていたが、それが表面だけであることは明白だった。
本来であれば各国の重要人物達が集まる今夜の夜会でコウェルズは前王の訃報を改めて伝え、新王に即位することを約束する手筈だったのに。
仮とはいえ新王が同盟国やそれに準ずる各国との和平協定をとっとと済ませる最初の外交となるはずだったのに。
全て潰された。
コウェルズだけが浴びるはずだった注目はオリクスへも分散したのだ。
バインドの優雅な対話術によって。
その後の闘技場内でルードヴィッヒはひと言も発することは出来なかった。
隣にいたジュエルも同じだっただろう。
大会の終了、豪華なセレモニー、収まらない熱気、それらに当てられながら感じ続けたのは恐ろしいほどの冷気だ。
ジャックとダニエルも静かにキレていたから。
どんな流れで闘技場から抜け出したかも覚えていない。
多くの者達に言葉をかけられたことは覚えているが、曖昧な笑顔を浮かべることしか出来なかった。
閉会セレモニーの終盤でジャックに腕を掴まれて引かれ、ジュエルはダニエルによって背中を押されて、ようやくコウェルズと合流して抜け出す事が出来た。
夜会の準備がある、とは誰が誰に伝えていたのだろうか。
とにかく大会から脱出した後は、賓客室に戻るまでの距離をルードヴィッヒとジュエルは捨て置かれた。
コウェルズ達は小さな声で何かを話し合い続けて、その空気は少しの発言も許されたものではなかった。
ピリつく、なんて簡単な言葉では言い表せない。
コウェルズもジャックもダニエルも、完全にキレていたから。
キレて、だが大人の対応を見せるように怒りを押し殺して。
怯えるジュエルがルードヴィッヒの後ろに隠れて歩くものだから、ついて来れているか後ろを気にしながら歩くことになった。
地獄のような状況下の中でようやくたどり着いた賓客室の扉すら新たな地獄の扉のように思えたが、中に入ると三人はさっさと何かしらの準備に向かってしまった。
ぽつんと立ち尽くすルードヴィッヒ達に目を向けることもせずにとっとと衣服を夜会用の正装に着替えたと思えば、ようやくため息と共に近付いて来てくれたのはダニエルだった。
「…悪かった。私達は夜会まで抜けることになるから、お前達は服を着替えてここで待っていてほしい。ラムタルから夜会の迎えに侍女が来る予定だからな」
ジュエルはその時に髪型のセットと化粧もしてくれるから、と説明を受けて、お茶を作りに少し離れて。
「まだ時間はあるから、しばらくゆっくりしていて大丈夫だよ。でも誰が来ても絶対に開けるな。開けていいのはラムタルの侍女だけだ」
子供達に念押しするように優しく、少し厳しく。
コクコクと二人同時に頷けば、ダニエルもようやく表情を和らげるように笑ってくれた。
そして。
「じゃあ、時間になるまでここを出るんじゃないよ」
コウェルズはいまだに声を冷えさせたまま、ジャックとダニエルを伴って出て行く。
扉を閉めたのは、ジャックか、ダニエルか。
どちらなのかはわからなかったが、完全に扉が閉まった瞬間に、ルードヴィッヒとジュエルは同時に深く安堵の息を吐いた。
一気に肩が軽くなった感覚は勘違いではないだろう。
「…皆さま、どちらに行かれたのでしょうか…」
何の説明も受けていないのは二人とも同じなので、ジュエルの質問には首を横に振ることしか出来なかった。
何にせよ、あまり良いことではなさそうだ。
「改めてバインド様に会うんじゃないか?抗議とか…」
「…ですわね」
考えてみたところで理由などその程度しか浮かばず、ジュエルが離れていってしまうのをボーっと眺めていた。
「…少しゆっくりさせていただきましょう?」
ダニエルが用意してくれていたお茶を二つのカップに注いでくれて、お茶請けには宝石菓子を合計五粒。
幼いながら器用に盆を持ってテーブルにセッティングしていくから、慌ててソファーに座った。
その後で手伝ったほうが良かったかとも思ったが、ジュエルは気にする素振りは見せなかった。
そして、隣に触ってくれて。
「あらためまして、武術大会の四強入り、おめでとうございます。特別に四粒差し上げますわ」
嬉しそうな笑顔は、少し照れくさそうに頬が朱色に染まっていた。
鮮やかな五粒のうち、四粒も。
固まるルードヴィッヒをよそにジュエルは早々にルビーのような色をした宝石菓子を選んで口に入れてしまい、美味しそうに笑顔をとろけさせていた。
「あ、ありがとう…」
ドキドキと急に心音が強くなるから落ち着くためにお茶を先に飲み、翡翠色の宝石菓子を口に入れる。
少し渋みの強いお茶の後の宝石菓子は、口の中の温もりに触れて一瞬で溶けて上品な甘さだけを残していった。
思いもよらない二人きりの時間に緊張するが、ふと隣に目を向ければジュエルの横顔は少し憂いを浴びていて。
「…どうかした?」
問えば、数秒の沈黙。そして。
「これからどうなるのでしょう…リーン様の手がかりは見つからないままですし……マガ様のこともありますし…」
聞きたくもない名前が出てきたものだから、口内の甘味は一瞬で苦く消え去った。
しかもジュエルは、マガの名前を口にした時にあからさまにルードヴィッヒを気にするように声がくぐもって小さくなっていた。それはつまり、ルードヴィッヒを気にしながらも彼が優位に立った証拠なのだろう。
あんなやつ、と言いそうになって、ぐっと堪えて。
今ここで言葉を間違えたら、またジュエルと口論になってしまう。そうなればジュエルの哀れみはさらにマガに傾くだろう。それだけは御免だ。
「コウェルズ様達が決めたんだ。良いようにするんじゃないか……きっと」
マガを連れてエル・フェアリアに戻ると知らされたのは、ルードヴィッヒの試合が終わった後だった。
試合に集中させる為に伝えなかったと言われたが、ならいつ連れて行くと決めたのか。
最初ははらわたが煮えくりかえる思いだったが、いや今も怒りでどうにかなりそうなのだが、王子達が決めたというならそれが最善なのだろうと冷静に思えるまでに至っている。
冷静になれたというよりは、ジュエルとの喧嘩を回避したかっただけだが。
マガを拒絶しなかったからか、ジュエルの目が少し丸くなる。だからとは思いたくないがさらに言及しようとする様子が見えたから、先手を取るようにアメジストのような宝石菓子をつまんでジュエルの口元に突き出した。
突然のことに固まるジュエルは数秒してから小さな指先で宝石菓子を受け取ろうとするから、手首を動かして拒絶した。それでも彼女の口元へ宝石菓子を差し出したままだが。
困惑するように眉を情けなく挟ませながら、ジュエルはわずかに首を傾げてこちらを伺ってくる。無垢な瞳でルードヴィッヒを見上げたまま、差し出された宝石菓子にゆっくりと近付いて唇に含んでいった。
わずかに指先に触れた柔らかさに、カッと身体の一部が熱くなる。
「……私は小さな子供ではありませんのよ?」
宝石菓子を堪能してから溢れたジュエルの不満そうな声に、少しだけ我に返った。
「あ、ああ!すまない…実家の猫を思い出して…」
「猫でもありませんわ!!」
思わず口走ってしまった言葉に憤慨されるが、可愛すぎたジュエルの動作が頭から離れることはなかった。
マガの件から逸らすためだったとはいえ、自分はなんてことをしてしまったのか。
「その…すまなかった…」
まさか無意識に宝石菓子を口元へ差し出してしまうなど。
「餌付けならお兄様にもされてますわ!皆さま私のこと子供扱いやペット扱いして!」
さらに憤慨しているジュエルの言葉に、ミシェルがジュエルへとお菓子を食べさせている姿を想像してしまった。
「…ミシェル殿も……」
容易に想像がついたのはミシェルだからなのだろう。
しかも皆さまとジュエルは口にしていたから、恐らくミシェルだけではない。
それはそれで少し面白いと思ってしまい、無意識に口元が笑っていたのだろう、ジュエルが眉を釣り上げた。
「もう!酷いですわ!」
「す、すまない!」
プイとそっぽを向いてしまったジュエルに慌てて謝罪して、宥めるように皿ごと宝石菓子を差し出した。そうすれば黄金色のひとつを掴んで口に放り込んでいて。
希少な宝石菓子をぞんざいに食べたのはきっとジュエルが初めてだろう。
「すまない…悪気はなかったんだ…」
「……もういいですわ」
マガのことは完全に頭から離れた様子で、ジュエルは改めてルードヴィッヒを見上げてくれる。
「…いつ迎えが来るのかわかりませんし、そろそろ着替えておきましょうか」
そう言って立ち上がるジュエルの手を思わず掴んでしまって、驚きの表情を目に焼き付けて。
「…エル・フェアリアに到着するまで、絶対に私から離れないでほしい」
わざわざマガのことを思い出させる必要はなかったかもしれない。それでも伝えておきたかった。
ルードヴィッヒにとってマガは、信用など一切出来ないのだから。
小さな飛行船内ではマガから離れることは出来ないだろう。だからせめて。
「お皿をもう割らないと約束できるなら、離れないでいてあげますわ」
ジュエルもルードヴィッヒの言いたいところを理解したかのように少し意地悪く微笑みながら告げてくる。
お皿を割らないなら。
それはルードヴィッヒが忘れたままでいたかった、行きの飛行船内での大失敗だ。
ジュエルの手伝いを命じられて共にいた水場で、何枚も皿を割ってしまった。
手伝いは不要とジュエルがコウェルズ達にキレるほどの枚数だ。
「ぅぐ……も、もう割らない!!」
約束の声は我が声ながら忌々しそうだ。
「でしたら、そばにいてあげます」
ルードヴィッヒとは違いジュエルは嬉しそうに笑いながら、再び隣に腰を下ろした。
その距離は先ほどより近い。
「もう少しだけ、ゆっくりしましょうか」
お茶もお菓子も、まだ残っている。
宝石菓子は魅力的な美味しさだが、最後のひと粒はジュエルに譲ろうと、ルードヴィッヒは彼女の前に優しく小皿を移動させた。
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