第104話


ーーー

武術試合の白熱した決勝戦の余韻がようやく落ち着いた頃合いで、コウェルズはラムタル審判団の呼びかけに応じてダニエルと共に戦闘場へと向かっていく。

身体は軽く、心身ともに落ち着いている。

戦闘場周りを囲む各国の戦士やサポート達が険しさと期待の両方を混ぜた目で見てくるものだから、少しくすぐったい気持ちにもさせられた。

ルードヴィッヒとジュエルは最前列を陣取っており、保護者のように後ろに立つジャックもコウェルズには微笑むだけに留めてこちらに来ることはなかった。

ジャックからはコウェルズに何も言う必要が無いからなのだろう。

ダニエルはコウェルズの後ろを歩いていたが、ジャック達を見つけるとそちらに行ってしまう。

最後に肩に手を置かれて、後は任せたとでも言わんばかりに。

観客席から聞こえてくる大声援は熱気のようにコウェルズの肌を暑く舐めて、同じ目線にいる者達からは穴が開くほど見つめられて。

『ーーこちらへどうぞ』

コウェルズだけが仕切りのロープを超えて、戦闘場へと続く足場に踏み上がる。

『鞘をお預かりいたします』

呼びかけに微笑むこともせずに無言のまま鞘を渡し、剣穂だけが揺れる手になれた一級品の長剣を握りしめる。

観客席の声援は相変わらず。だが各国の戦士達は、コウェルズの変化に敏感に気付いていた。

昨日までとは違う、相手を殺してでも勝ちを掴もうとしているコウェルズの気配を。

余裕など存在しない。

見せる素振りもしない。

今のコウェルズにあるのは、執着と渇望だけだ。

『皆様、大変お待たせいたしましたーー』

準備の整ったコウェルズは、進行を務めるドロシーの声も自身の耳から切り離した。

昨日と同じく足場が黄金色に輝き、ゆっくりと動き始める。戦闘場へ上がっていく時にも周りの声援は聞こえていたが、コウェルズの目も耳も向こう側にいるオリクスしか認識していない。

オリクスの足元で輝く色は純白だ。

面白みも何もないが清廉潔白を示し、確かに彼そのものであるかのような白。

足場は戦闘場に吸収され、コウェルズの黄金とオリクスの純白が混ざる神々しい模様が戦闘場に浮かび上がり、いっそう声援が強く増した。

コウェルズは剣穂を最後に強く握りしめてから、早々に構えた。

オリクスも同じく。

呼吸を整える時間すら不要と伝えるように互いを睨みつけ、互いが求めるのは試合開始の合図のみ。

『…準備は……』

審判が訊ねようとしてきたが、その言葉も途中で途切れた。

不要だと理解したのだろう。

視界の端で審判団の合図が行き渡って花火が打ち上がるが、音は聞こえない。

ドロシーが観客達に向かって何か話している声も、耳にはいっさい届かなかった。

目の前にいるオリクスだけに集中する。

まるでファントムに負けたあの日を思い出すかのような悔しさが胸に湧き上がり、剣を握る腕にさらに力がこもった。

合図を待って、待ち続けて。

『ーー始め!!』

耳に届いたのはその声だけだった。

渇望した戦闘の始まり。

だがどちらも動かなかった。

コウェルズはただひたすらオリクスを凝視する。

オリクスのさらに一点というわけではなく、その全体を。彼の周りで渦巻く空気の細部まで。

彼の剣先はこちらに向いている。

眉間を貫くように制止する剣先がわずかに下に動いたからこちらも無意識のように構えをずらそうとしたところで、相手の動きが止まった。

コウェルズが先手を奪おうとわずかに動いても同じことだった。

隙がない。どちらにも。

仕掛けようとすればそれを凌駕しようとされる。仕掛けられそうになれば、こちらの動きに気付いて諦められる。

たった一秒が永遠のように長かった。

ゆっくりと時間が経つごとに、倍々的に精神が削られていく。

目は見開いたまま、邪魔になる音も光も何もかもを遮断する。

無意識に。

そうしなければ絶対に勝てないとわかったから。

コウェルズの全てをオリクスに集中させる。

もし集中力が途切れてしまえば、一瞬で負けが決まるだろう。

だから指先に至るまで神経を尖らせ続け、精神を削り続けた。

ゆるく吹く穏やかな風すら邪魔になるような世界に陥り、何時間も経ったかのような感覚に陥り、ようやく小さな一点を見つけた瞬間にそれが何なのか理解するよりも先に身体が動いた。

踏みしめた両脚で一気に足元を蹴り、オリクスの右手首目掛けて突きを繰り出した。

一切の無駄を省いて一直線に進む剣先はしかし、たった一瞬で遮られて迫り合いに持ち込まれた。

わざと隙を見せたのかと思ったが、肌で感じる気配にその様子はない。

押し合いでは敵わない。そう判断してすぐに後方に飛ぶが、コウェルズの隙を許すオリクスではなかった。

太腿に振り下ろされる剣先を弾いて、地面を踏みしめてオリクスへと向かう。

低く姿勢を沈めて、しかし上半身の重心は異常に高く。

コウェルズの身体が分離したかのような動きにオリクスは戸惑い一瞬身を強張らせるが、すぐに状況を察して腰に一撃を放たれた。

やはり昨日の準決勝戦からコウェルズの戦闘スタイルの弱点を見抜いたのだろうが、コウェルズが学んだ剣術は王家に伝わる伝統の剣術だけではない。

ギリギリ一歩分飛び退いてオリクスの剣先から逃れ、そのまま遠心力を得るように身体を一回転しさせて重さを手に入れながら薙ぎ払うように片手で剣を大きく振るった。

派手さだけを追求した無駄な動きの目立つ剣技。

しかしそれはコウェルズが最も親しんだ、エル・フェアリアの剣術のひとつなのだ。

遠心力を手に入れた剣の重さは、片手だというのにオリクスを凌駕するほどだった。

とくにコウェルズの剣は、エル・フェアリアでも最上の練度を誇る。

両手どころか全身で自身の剣を掴んでコウェルズの振り技を何とか押さえ込んだオリクスへと、コウェルズは止まらずさらに加速して逆回転から凄まじく振り下ろした。

オリクスが守るのが先か、コウェルズが剣を落とすのが先か。

どちらも歯を食いしばって全力を腕に注ぐ。

早さはオリクスが勝り防御の姿勢を取られてしまったが、コウェルズは構わず剣に全力を乗せ続けた。

オリクスの剣は太く大きい。

それを叩き落とす勢いで。

剣が手から離れればルール違反となり試合は終了する。

オリクスも気付き腕の力をさらに増し、逆にコウェルズを強く押し離した。

地面に足を付けていたオリクスの方が力は上で、空を舞いながらコウェルズは低い着地姿勢を取る。

そこを狙われてしまったらと焦るが、向こうもギリギリだった様子でこちらに向かってくることはしなかった。

互いに姿勢を低く構えながら、深く息を吸う。

一秒にも満たないわずかな休憩と筋肉の弛緩。その後再び全身に力を込めて、互いに相手へと向かった。

剣を左手だけで構えて、誘導するように右腕をさらす。無意識がそうさせたのか当然のようにオリクスの剣が右腕を取りに来たから、改めて剣を両手で持ち直して下から上へとその巨大な剣を薙ぎ払おうとした。

せめて体幹を揺るがせることが出来たなら、その隙を見逃さないのに。

オリクスの身体は、岩のように重く強かった。

なら削り取ってやると剣を構え直して頬を狙う。

寸前で逃げられたが、この試合で初めての血飛沫が小さく飛んだ。

コウェルズの剣先がオリクスの頬をわずかに裂いたのだ。

彼が岩なら、コウェルズは羽か。

その傷を見逃さないままコウェルズはふわりと足場を蹴って飛び上がり、痛みで軽く顔を顰めているオリクスへとさらに突きを落とした。

軌道は完全にオリクスの柄を狙う。

ーー決まるか

頼み込むように気持ちを逸らせながら剣を見舞い、だが寸前でオリクスの切先が動いた。

逃げる為の動きか、それとも攻撃なのか。

コウェルズが攻撃を諦めて防御の姿勢に入る間に、オリクスの切先が先に何かに触れた。

わずかにコウェルズの剣を引っ張るような感触の後、繊維の引きちぎれるような微かな振動、その後ぶちり、と、何かが。

視界の端に一瞬映るのは、切り離された剣穂だ。

コウェルズの右手は当然であるかのように剣から離れて宝物を掴む。

そしてそれはオリクスにとって、何よりも見逃し難い好機だっただろう。

剣穂の為だけに無防備な姿を晒したコウェルズへと、オリクスは逸る表情と共に凄まじい速さの突きを繰り出す。

それはガラ空きのコウェルズの左腕に向かうが。

「ーー貴様あぁっ!!」

剣穂を掴んだコウェルズが行ったのは、全身から怒りを溢れさせることだった。

ビリビリと辺りが痺れるほどの怒声の後に、コウェルズは左腕一本でオリクスの強力な突きを止める。

その後すぐに剣穂ごと両手に持ち直し、呼吸も忘れてオリクスへと連撃した。

一瞬で防戦一方となった相手へと、上下左右から切り殺しにかかる。

すぐに冷静さを取り戻してはいたが、怒りがおさまったわけではなかった。

怒りのまま動こうとする身体を、冷静な心で操り動かしていく。

コウェルズとサリアを繋ぐ大切な剣穂を切り離された事実に怒りで飲み込まれそうになるが、剣穂ごと柄を握りしめる手にさらに力を込めて感情をコントロールして。

許しはしない。

剣穂を切り離した罪は、敗北で贖わせる。

その感情だけで。

連撃を続けるコウェルズの視界に映るオリクスの表情は強張り、苦しそうに見えた。

それでも止まらない。

呼吸を忘れたまま撃ち込み続けて、一撃一撃増えるごとに威力は増して。

王家に伝わる剣術とエル・フェアリアに伝わる剣術の両方を駆使して圧倒していく。

力も技も速さも、完全にオリクスを凌駕していた。

受け止めるだけで手一杯となるオリクスが押されて後方へと下がり続ける中、何十撃目かの一閃がオリクスの剣を欠けさせた。

それは昨日の準決勝戦とよく似て、だが欠けた刃は。

「----っ!!」

左目に突き刺さる痛みを受けても、コウェルズは止まらなかった。

目を開けていられないほどの衝撃、だが見開き続けた。

その状況に驚き手を止めてしまったのはオリクスの方で。

『ーー勝者エル・フェアリア国、エテルネル!!』

両腕で構えた上段からの剣技を受け止めきれずにオリクスの剣が彼の手から離れて黄金の模様に輝く足場を滑ってすぐに、勝者の宣言は成された。

全身が空気を求めて大きすぎるほど口を開けて一気に肺に空気を送り込む。

その後すぐにコウェルズの身に襲いかかったのは、恐ろしいほどの脱力感と鉛を巻かれたかのような身体の重さだった。

特に手足の末端が酷くよじれるような痛みと痺れに苛まれる。

終わったと気付くより先に項垂れて、鮮やかな赤が自分の頬を伝ってぽたりと落ちた。

その赤は、何滴も何滴も。

左目を負傷したのだと、目を開けていられないほどの痛みが教えていた。

それでも。

「………………勝った…」

ぽつりと呟く。

実感が湧くより先に。

ーーワアアアアアアアアアアアアアアアアア

耳をつんざく大歓声がコウェルズの耳にようやく届いた。

盛大に打ち上がる花火の音すら掻き消すほどの大歓声、そしてグラウンドにいる周りの全ての者達はコウェルズを見上げている。

勝利の高揚感よりも全力を使ったことによる無気力感に包まれながら、呆けたままのコウェルズへと歩み寄ってくる人影を視界の端に捕らえた。

左目は相変わらず痛みで開かないままそちらに身体を向ければ、オリクスが無表情のまま手を差し出してきていて。

『…優勝おめでとうございます』

握手をすると同時に呟かれた言葉にも、実感はまだ沸かなかった。

勝ったことはわかったが、喜びは身体に満ちない。

こんなものなのだろうかと思ってしまうほどの。

『こちらこそ、素晴らしい試合をありがとうございます』

他人行儀な挨拶もそこそこにオリクスは離れて、代わりに空から彼が訪れた。

この大国の王であるバインドが。

審判達が絡繰鳥から降り立つバインドに優勝トロフィーを渡し、バインドはコウェルズの前へと進む。

一定の流れは武術試合の決勝戦後にも見られたものだ。

優勝者へと、開催国側から最も高貴な者が優勝を讃える。

コウェルズも三年前にガウェとニコルに行ったことを、バインドから。

これが終わればようやくリーンに会える。

コウェルズは隣に訪れた審判員に剣を渡し、切られてしまった大切な剣穂は手のひらに握りしめ続けた。

優勝を手に入れたいと思っていたはずなのに、なぜこうも実感がないままなのか。

わからないまま。

バインドが何かを合図して、戦闘場へとアダムが上がってくる。

見慣れた癒術騎士の青年はコウェルズの前へ足早に訪れると、負傷した左目をすぐに癒してくれた。

痛みはすぐに消え失せるが、流れた血液までは消えはしない。アダムが頬に流れた血を拭き取ろうとするから片手で制して笑顔で断れば、彼は小さく頭を下げてからオリクスの元へと向かった。

その後すぐに。

『素晴らしい剣術試合だった』

バインドの声は増幅されて闘技場全体へと響き渡る。

試合を締め括るバインドへと歓声は改めて湧き上がり、拍手も音の威力を増した。

バインドの祝福の言葉とトロフィーの授与が終われば、ようやくリーンに会える。

そしてその後の夜会では、コウェルズは王位を継ぐと宣言するのだ。

それがこれからの流れ。

『貴殿の優勝を心から祝福しよう。エル・フェアリア国のエテルネル…いや、コウェルズ・エル・フェアリア王子』

名を呼ばれて、ぞわりと背筋が粟立った。

何を言われたのか一瞬理解できず、バッと顔を上げる。

歓声に満ち溢れていた観客席側も、ゆっくりと静まり返っていった。

グラウンドにいた大会関係者達も。

「…何、を……」

話が違う。なぜここで、コウェルズの正体を明かしたのだ。

動揺するコウェルズを前にしながら、バインドは遠慮なく黄金の絡繰で作られたトロフィーをコウェルズに押し付けた。

『知るものも多いだろう。大会の開始前、エル・フェアリアの偉大なるデルグ王が逝去なされた。私もよく知る優しい王だった』

バインドは闘技場中に声を響かせながら演説を続けていく。

『生きていたリーン姫がファントムにより攫われた為、王子は内密に私に助言を求めていたのだ。だが、事態は急変してしまったのだ』

なぜここにコウェルズがいるのかを、バインドは朗々と語っていく。

固まるコウェルズの肩を少し強い力で優しく叩きながら、そのまま肩に手を置き続けて。

バインドは話し続けていく。

コウェルズがここへ来た理由、ここで行うこと。まるで、未熟なコウェルズがバインドにすがるかのような内容を、長く、大袈裟なほど。

そして、オリクスを隣へと呼ぶ。

「ーーっ…」

ようやく理解する。

オリクスが優勝を手に入れられなかったから。

彼を目立たせる為に。

同盟国に王位を宣言するコウェルズを巻き込んだと。

コウェルズの王座とオリクスの存在を、バインドは同等のように扱ったのだ。

エル・フェアリアの足元にも及ばない荒れ始めた国の未来の宰相と、コウェルズを。

ざあ、と、頭にノイズが走る。

この上ない屈辱を全身に浴びたかのような。

それでも笑顔を浮かべながら、コウェルズはオリクスと改めて握手を交わし、そして高らかにエル・フェアリアの王座を宣言した。

自分が何を口走っているかはわからない。

だが闘技場中の人間の大半がコウェルズへと大歓声を捧げる姿は目に映った。

はらわたが煮えくり返る凄まじい屈辱感は腹の奥底に強く激しく押し留めて。

人々を欺く美しい王族の顔で。

何もかも、欲した優勝の事実すら屈辱でしかない中で。

祝福と共に大きな拍手を浴びる中で見つけたジャックとダニエルだけが、コウェルズの胸中に気付いたかのように哀れみとも怒りとも取れない表情で見上げ続けてくれていた。

第104話 終
 
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