第104話


第104話

ルードヴィッヒが目覚めた時、カーテンの端から見える窓の向こうはまだ夜の色をしていた。

負けた悔しさと共に早々に眠りはしたが、身体は興奮状態から抜け出せなかった様子だ。

もう一度眠ろうにも完全に目は冴えており、身体の節々が痛む不快さがじわりと全身を包もうとしている。

眠ったお陰で体力は回復した様子だが、傷まで癒えるわけではない。

全身の擦り傷や打撲はエル・フェアリアでは訓練漬けで日常だったはずなのに、その鈍い痛みを懐かしく感じてしまった。

大会調整が始まってから、周りの者達がルードヴィッヒを怪我させないように気を付けてくれていたからなのだろう。

昨夜は眠る前にジャック達から治癒魔術を頼むかと問われたが断っていた。

正しい選択をしたと今も思うのは、この痛みがさらに自分を戒めて強くしてくれる気がするからだ。

「ーー起きたんなら風呂行ってこい」

ふと話しかけられて、薄闇の中で隣のベッドを見る。

ジャックと共に使用していた寝室で、ルードヴィッヒが目覚めた物音に気付いたらしく、横になったまま告げられた。

ご丁寧に「まだ夜じゃねぇか」と呟いてから再び眠りに就いている気配を感じて、少し考えて。

やはり自分は二度寝出来そうになくて、ゆっくりと風呂支度を進めた。

各寝室にも風呂場は設けられていたが、そこを使いたくないのはやはり、ラムタルの大浴場が魅力的すぎるからだ。

着替えやタオルを袋に無造作に詰め込んでから、恐る恐る寝室を出ていく。扉の向こうの談話室も申し訳程度の緩すぎる灯りがあるだけで静まり返り、皆眠っているのだとさらに息を顰めた。

賓客室を出た広い廊下は談話室ほど暗くはなかったが、それなりに明るい程度だ。

人の気配も無い中を進み続けて、誰とも会わないまま大浴場のホールに到着して。

いつもなら賑やかな場所も、今日は数人がいるだけだった。

恐らくサポートの女性待ちなのだろうホールの待機組は全員眠たそうで、ルードヴィッヒの登場にも気付かない者もいた。

気付いてくれた数名も残念ながら話したことのない者達で、ルードヴィッヒも向こうも他人行儀な会釈だけで終わる。

静かすぎる時間帯だが妙に落ち着くような感覚の中で脱衣所で服を脱ぎ、絡繰りの大浴場に入る。入った時点で気付いた。

一人だ。

この豪華すぎる大浴場には今、ルードヴィッヒ一人しかいない。

しばらく呆けた後に湧き上がる感情は、奇妙な胸の高鳴りだった。

焦りながら身体を洗い、中央にある一番大きな楕円形の浴槽に足を入れる。

ぬるすぎず暑すぎずの水温の中を進み、ルードヴィッヒは中央で一気に肩まで沈んだ。

今までは人の多さに端に寄って入っていたが、ど真ん中を陣取り、足を広げて座り込む。

身体をそらすように両腕も後ろの方でつっかえさせて、絡繰りのゆっくりと動く天井を見上げた。

全身の疲れが吹き飛ぶような心地良さと贅沢感。

紫都の実家も広くはあったが数百人を想定して作られているわけではないので、嫉妬すら出来ないほどだ。

せっかくなら全て堪能したい。

そう思い数分ずつ全ての浴槽を制覇したルードヴィッヒは、当然のように目を回しながら大浴場を後にするはめに陥った。

軽くのぼせながら脱衣所で少し休憩して、着替えを済ませてホールに出て。

「……あ」

ホールもすでに人がいなくなっていたと思っていた矢先に、廊下の向こうから見覚えのある男女が大浴場に訪れるところに遭遇した。

男性の片腕に女性が両腕を絡めて甘えている仲睦まじい様子だが、ルードヴィッヒの記憶に間違いがなければその二人は。

『……あら?エル・フェアリアのルードヴィッヒ様ですか?』

凝視していたルードヴィッヒに先に気付いたのは女性で、腕を取られていた男性は第三者がいる状況に慌てて腕を振り解こうとしていたが、残念ながら女性の両腕は少しも離れなかった。

『…イデュオ殿と……ドロシー嬢、ですよね?』

『覚えていてくださったのですね!感激ですわ!』

死に物狂いで逃げようとする兄の腕を華やかな笑顔を保ったまま押さえ込みながら、ドロシーは可憐な声で喜ぶ。

『離せって!!ルードヴィッヒ殿、これは別におかしな意味合いはありませんよ!!俺達はただの兄妹で、それ以外には何もありませんので!!』

イデュオの方は何も聞いていないというのにおかしな説明をし始めた。

『あらお兄様、隠す必要なんてありませんわ。私達には血の繋がりなど無いのですし』

『喋るな馬鹿!違いますよルードヴィッヒ殿!!確かに血の繋がりはありませんが、俺達は別に』

『ひどいですわお兄様!私のことを可愛いと仰って沢山愛してくださったのに!!』

『子供の時の話だろ!!!!』

イデュオは必死になって焦り続けていたが、ルードヴィッヒにも次第にドロシーがおちょくっているだけだと気付いた。

ルードヴィッヒの表現からドロシーもそろそろ潮時かとイデュオから手を離して。

『ルードヴィッヒ様はお一人ですの?』

『あ、はい…早く寝てしまったので、目が覚めてしまって…』

『今の時間なら、大浴場も穴場でしたでしょう?』

華やかに微笑まれて、思わず無言で何度も頷いてしまった。

第三試合と準決勝時に試合の進行を務めていた時は厚すぎるほどの化粧をしていたが、今は少し控えめ程度に抑えられている。

それでもルードヴィッヒの目には派手に映りはしたが。

『お二人は今の時間まで働かれていたのですか?』

イデュオは大会に出場しながらも運営側としても動いていたので問えば、二人はちらりと目を合わせて含みのある笑みを同時に浮かべていた。

『まあ、仕事といえば仕事なんでしょう。俺たちは大会終了までほぼ休み無しですからね』

『ですがイデュオ殿は大会出場の準備もあったのでは…』

『同時進行出来てこそバインド陛下の優秀な部下としていられるというものです。ギリギリ八強には入れたので、俺は充分ですよ』

ルードヴィッヒの言いたいところを理解してイデュオは爽やかに笑うが、それは勝ち進みたいルードヴィッヒには理解し難い思考だった。

それに大会に出場出来るのは人生で一度きり。負けて悔しくはないのかと疑問ばかり浮かぶ。

『それはそうと、ルードヴィッヒ様…お顔の傷が痛ましいですわ…我が国の治癒魔術師をお呼びしましょうか?』

ふと伸びてきた細い指先がルードヴィッヒの頬の痣に触れようとするが、寸前でイデュオがはたき落とした。

『…お兄様、嫉妬なさらないで』

『馬鹿言うな。他人に許可無く勝手に触るな』

叱られてツンと唇を尖らせてから、ドロシーはまたルードヴィッヒの傷に目を向ける。

『よく見れば傷だらけですわね…すぐにでも治癒魔術師をお呼びしますわよ』

『いえ、結構です。このくらいならすぐ治りますから』

せっかくの申し出を断るのは悪い気がしたが、酷い傷でもないので大丈夫だと遠慮する。

『ですが…綺麗なお顔に傷が残りでもしたら…』

ドロシーは不満そうだったが、綺麗と言われてぴくりと眉が少し不機嫌に揺れてしまった。

自分の女顔がコンプレックスだというのに。

『あ!それならせめて!』

ドロシーの方はルードヴィッヒの不満顔には気付かないまま、手にしていた鞄にゴソゴソと手を入れて何かを探り出した。

それは女性の手より少し大きい程度の光沢が美しい黒いコンパクトで、中を開けたドロシーはすぐにコンパクトの中で何か作業を始めた。

小さな筆と、何だろうか。

わからないまま様子をうかがい続けるルードヴィッヒへと、ドロシーがふいに筆を近付けてきた。

『じっとしていてくださいねー』

今回はイデュオも止めることなく見守るものだから、ルードヴィッヒもビクリと肩を一瞬すぼませた後はドロシーにされるがままになった。

顔中の傷の上を筆で撫でられていくこそばゆい感触。

母がよく付けていたおしろいのような優しい香りだが、薬か何かなのだろうか。

何度も筆を当てられて困惑したまま固まり続けていると、数分経ってからようやくドロシーが満足そうに筆を離していった。

『おお、流石だな』

イデュオはルードヴィッヒの顔を見つめながら感心するが、ルードヴィッヒには何をされたのか検討もつかなくて。

『いかがですか?』

筆をコンパクトに直したドロシーが、そのコンパクトの内側にあった鏡面をルードヴィッヒに向ける。

そこに映る自身の顔に、痛ましい痣はひとつも見当たらなかった。

『え、何をしたのですか?傷が…』

『ほんの少しだけお化粧を』

驚くルードヴィッヒを見て笑うドロシーが、何をしたのかを告げてくる。

確かにコンパクトの中身は数種類の色が混ざる化粧パレットだが、こんなことが出来るなんて。

『…すごいんですね、化粧って……』

女性が美しくなる為の道具だとばかり思っていたので単純に感動してしまう。

そして。

『きっと私の技術でもまだまだガウェ様の足元にも及びませんでしょうがね』

『え!?』

突然出された名前に大きな声を上げてしまった。

『ほら、よく見ると色ムラがありますでしょう?ガウェ様ならきっと数分あれば完璧に違和感なく肌の色を再現してしまえますわ』

驚いた理由は別にあるのだが、ドロシーはもう少しルードヴィッヒの肌を触りたそうにしながらも抑えている様子を見せる。

なぜ尊敬する従兄弟の名前が化粧の話で出てくるのかと困惑したままイデュオを見れば、動揺に気付いてくれたかのように笑われてしまった。

『八年前くらいかな?リーン様達と一緒に来てたガウェ殿がドロシーと化粧対決で勝ったんですよ。ガウェ殿の完璧な女装に何も知らないラムタルの兵達がひと目で骨抜きにされてましたね』

『ぇえ!?』

信じられないような内容に、思わず眉間に皺が寄った。

『兄さんが女装なんて!』

『あら、知りませんの?エル・フェアリアでもガウェ様の女装は有名だったと聞きましたのに』

さも当然のように返されて、さらに困惑した。

だが思い返せば、何度か聞いたことがある気がする。信じたくなくて毎回記憶から抹消しているが。

ルードヴィッヒにとってガウェは尊敬する人で、誰よりも格好良い人で。

『あの頃は本当に落ち込みましたわ…まさか私より美しい人が実在するなんて信じていませんでしたもの…それに男性に負けましたのよ?可憐な美少女勝負で。元が良いとはいえ、男性なのに…』

片手を頬に添えながら、ドロシーはどこまでも残念そうだ。

『あの人はリーン様が関わるととんでもない能力を発揮してたからな』

イデュオの方も過去を思い出すかのように頬が少し緩んでいる。当時の可憐なガウェを思い出したのだろうか。

『リーン様が関わることと化粧にどんな関係があるのですか?』

ルードヴィッヒの知らないガウェの行為行動に、女装なんて信じられないながらも興味が勝ってしまう。

『侍女に扮してリーン様を悪し様に扱う侍女を炙り出していたとか。その辺りはダニエル殿達の方が詳しいのではないですか?』

確かにリーン姫付きだった二人から話しを聞いた方が早いかもしれないが、詳しく知るだろうからこそ聞くのが少し怖くて。

ただ女装の理由が知れたことにはホッとしてしまった。

好き好んで女装していたわけではなく、大切なリーン姫の為だったのなら納得がいく。ルードヴィッヒの中のガウェの格好良さに揺らぎはなかった。

『そうだ!ルードヴィッヒ様もお化粧されてみては?きっと今より美しくなられますわよ!』

そして良いことを思いついたかのようにパッと笑顔をさらに華やかせるドロシーに、完全に眉間に皺が寄った。

『化粧は女性のするものじゃないですか』

ガウェには特別な理由があったのかもしれないが、今より美しくと言われて喜ぶわけがない。

だがドロシーも譲らないかのように目力を強くした。

『お化粧は女だけの特権ではありませんわ。美しくもいられるし、健康的にも見せられますのよ。それに、やり方次第で今より男らしくもなれますわ』

男らしくと言われたところにだけピクリと反応してしまい、それに気付いたかのようにニヤリと笑われる。

『よいですか、ルードヴィッヒ様。美しさとは全てに通じるものなのです。もしあなたが男らしさを求めているというのなら、お化粧はそのお手伝いをもしてくれるのですよ』

言いながらまたコンパクトに触り、細身の筆を向けてくる。

今度は目元に筆を当てられそうになって思わず目を閉じたが、その間に触れた箇所は眉の辺りだった。

ルードヴィッヒが固まるのを良いことに、ドロシーは遠慮なく眉と目元に筆を当てて。

『……さあ、見てください』

満足げな声に目を開ければ、コンパクトの鏡に映る自分と目があった。

あまり変わり映えはしない。だがどこか、何かが違う。

精悍さが増したかのように。

『ほんの少し眉を整えて、目元にもほんの少し影色を』

劇的に変わったわけではないのだが、不自然にならない程度に顔の印象が変わる。

これなら流石に初見で女性に間違えられることはないだろう。

『これを、化粧で?』

『ええ!』

コンパクトを再び畳むドロシーの隣で、イデュオもルードヴィッヒの変化に好意的に笑っていた。

『国によっては闘志を高める為に化粧を施す文化もあるし、俺も理想の剣士となる為にする時もありますよ』

ルードヴィッヒが思うほど、化粧は限定的に使うものではないのだと。

『化粧で理想の戦士に…』

『そうです。より強く見せる為にね。もちろん実力も磨きますが、そこにさらに付加価値があると気分も上がるものですよ』

『兄様ったら、激しい訓練の時にわざと化粧をしたりするのですよ。周りが汗だくの中で自分だけ涼しげにいたら格好良いからって』

『それは言うなよ…』

『あら、ルードヴィッヒ様には教えて差し上げてもいいかと。お化粧してると汗で落ちた時悲惨なんですけどね、だからこそあまり汗をかかないよう努力したりするんです。激しい訓練の中でさらに制限をかけることで、無駄な動きを省いて周りより迅速で正確な訓練を課すのですわ』

ルードヴィッヒには思い至らない訓練方法に、ぽかんと口が開く。

『綺麗であることと格好良さって、言葉は違いますけれど、私は同じものだと思うのです。お兄様の剣術の技が決まった時、周りは格好良いと言いますけれど、私は綺麗だとも思いますから。ルードヴィッヒ様は美しさとは女性的なものと思い込んでいる様ですが、それだけではありませんのよ?』

優しく微笑みながら、諭される。

先程ドロシーが口にした「綺麗な顔」という表現も、女性的と言ったわけではないと伝えることがのように。

『ガウェ様の武術を行う姿も、綺麗だとは思いませんか?』

問われて、思い返す。

尊敬する兄はいつだって涼しげで格好良くて、それこそ、美しかった。

ルードヴィッヒは今まで何年も兄に見惚れてきたのだから。

『……私も美しくなれるのですか?』

ガウェのように、美しく、格好良く。

『努力次第ですわね』

ドロシーの返答はどこか面白がるようだ。

その間にイデュオは自身の懐を少し探って。

『ルードヴィッヒ殿、よろしければこれを』

懐から差し出されたものは、ドロシーが持っていたコンパクトと同じものだった。

『私の使いさしではありますが、ドロシーのものと違って中の色味は男に使いやすい色で揃えています』

『え…でも……』

『自分にさらに自信が持てますよ』

困惑するルードヴィッヒの手を取って、コンパクトを握らされた。

嫌なわけではないが、まだ気恥ずかしさしかないのに。

『……でも、大切なものなのでは…』

『もちろん。なので大切に使ってください。とはいっても持ち運び用なので簡易的な色味しかありませんがね。私の分はまだ自宅に揃っていますので』

練習には打ってつけですよ、と。

『上手く化粧が出来たら、魔具の装飾を装着している姿にもよく映えるでしょう』

『あ!私もそう思いますわ!』

二人の肯定的な笑顔に、思わずコンパクトを握る手に力がこもる。

なりたい自分に近付く為の道具。

ルードヴィッヒにとってそのコンパクトは、胸を強く叩くほど魅力的な宝箱として映り始めていた。

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