第103話


 黒い魔力に染まり手のひらに収まるほど小さくなった球雷は、ニコルの意識下に完全に掌握されていた。
 ふわりとニコルの元へ向かい、片手の平に収まる。
「自然現象を…」
 愕然と呟くのはモーティシアだった。
 自然発生したはずの球雷がなぜ人の意思のままに動くのか。
 いくら魔力に包まれたとはいえ有り得ない光景に、そう動いたことがどれほど奇妙か理解出来る魔術師団員達がみな目を見張る。
 有り得ないはずの状況。
 直視してなお信じられない光景。
 ニコルはその球雷を、ふと握り潰した。
 球雷が姿を消して移動したのだとは誰も理解できなかった。
 パカン、と。
 突然、高い音が鳴り響く。
 高所から何かが落ちて割れた時のような音。
 その後に、地に伏していた男がガクガクと痙攣した。
 痙攣してはいるが、男にはあるべきものが消え去っていた。
 足ではない。それは先ほど潰されたから。
 ニコル以外の全員の視線がそこに集中する。
 男に先ほどまであったはずの頭が、綺麗に割られて中身を飛び散らせていた。
 赤黒い血の中に混ざる二つの眼球と、奇妙に白い脳と、他にも、あらゆるものが。
「ーージャスミン!!」
 残酷すぎる光景の数々に、とうとうジャスミンが意識を手放した。
 彼女を必死に抱きしめるトリッシュも、恐怖の対象を目の前にしたかのような眼差しをニコルへと向けてしまう。
 そんな中でニコルはまた、発生した球雷をひとつ、自身の魔力で包んで圧縮した。
「ニコルやめろ!!」
 クルーガーが堪えきれず走り、ニコルを止めようとする。だが伸ばした手がニコルに触れたと同時に、その手は完全な黄金の魔力で弾き返された。
 まるで雷に打たれたかのような衝撃を手に受けながら、クルーガーは目の前に広がる輝かしすぎるの黄金の魔力に目を見張る。
 コウェルズの黄金の魔力よりも濃い、ロスト・ロードに酷似した魔力だった。
 それでも止めなければならない。
 次に狙われるのは、腕を折られているイニスか、ミシェルに守られているガブリエルか。
 どっちだと焦るクルーガーの前で、ニコルは少しだけ姿勢を変え、ミシェルの方へと身体を向けた。
 正確にはミシェルに庇われたガブリエルへと。
「………ニコル殿…」
 ニコルと目が合い、ミシェルは凄まじい緊張を見せる。
 下手をすれば死ぬと直感が告げたのだろう。
「ミシェル!お前はこっちに来い!!」
 ニコルの目当てはガブリエルだからと、クルーガーはミシェルに妹を見捨てるよう命じる。
「ミシェル!!」
 ニコラも、クルーガーに続くように仲間を強く呼んだ。
 その残酷な命令にガブリエルが顔を真っ白にしてミシェルの背中に縋り付いた。
 ミシェルも、表情は青白い。
 しかしその場から離れなかった。
 魔力に優れたミシェルの中で最大級の防御結界を自身とガブリエルに張る。
「…ニコル殿…頼む……妹には正式な罰を与える……だから……」
 殺さないでくれと。
 しかし懇願は届かなかった。
「ニコル殿!!」
 ニコルが二つ目の球雷を手のひらに呼び寄せた。
 その光景に、
「ひ、ぃ、いやああああああ!!!!」
 ガブリエルが逃げ出してしまう。
「ガブリエル!!」
 兄の結界に守られていたというのに、ガブリエルは別室に逃げる為に背中を向けてしまった。
 ニコルが手にした球雷を握りつぶすのと、ミシェルが離れてしまったガブリエルへ最大級の防御結界を飛ばすのは同時で。
「ーーぎゃあああああああああああああああああああああ!!!!」
 ミシェルの渾身の防御結界は、ニコルの球雷の攻撃力を弱めることは出来た。
 弱められただけだった。
 ガブリエルの頭が一瞬にして割れることは無かった。
 割れはしなかった。
「ガブリエル!!」
 ガブリエルはその場に痙攣しながらうずくまり、ミシェルが背中を庇うように駆けつける。
「っ……」
 彼女の頭は割れることこそなかったが、頬が完全に裂けていた。
 両頬とも口角から耳元まで。
 ボトボトと血が溢れ続け、裂けた頬の肉はぶら下がっている。
 美しく着飾ったドレスとは不釣り合いすぎるほどの化け物の形相に変わったガブリエルに、ミシェルは抱き寄せることも助けを求めることも出来ずに固まった。
 ガクガクと痙攣を続けるガブリエルは、壁側に備えられた大きな鏡に映る自分を見てしまう。
 裂けた顔を見て、震える手で頬に触れようとして、寸前で手は止まる。
 顔を崩されたのだ。どんな痛みよりも激しい苦痛だろう。
 鏡から目を離せないままガブリエルの呼吸が浅くなっていく。
 やがて白目を剥いたかと思うと、ガブリエルは後ろへとのけぞるように倒れていった。
「ガブリエル!!」
 そこでようやくミシェルも身体の強張りから解放されてガブリエルを支えた。
 一連の行動を見下ろしていたニコルが、今度はイニスへと視線を移動させた。
 自分の番だと悟るイニスの表情が、絶望に染まっていく。
「ーーもうやめろ!ニコル!!」
 カタカタと震え始めるイニスを背中にしながら、ニコルを止める為にクルーガーは強く叫んだ。
「兄さん!!」
 そして、アリアも。
「駄目だ!アリア!!」
「アリア!!いけません!!」
 アリアはレイトルの鉄布を身体に巻いた状態のままニコルの元へ駆けた。
 レイトルとモーティシアがそれぞれアリアに手を伸ばすが、虚しく空を掴む間にアリアはニコルに縋って。
 モーティシアの防御結界の範囲から離れてしまうが、アリアは怯えることはしなかった。
 テューラを抱き上げているニコルを、テューラごとアリアは抱きしめる。
「兄さん!!もうやめて!!テューラさんはあたしが絶対に治すから!!」
 アリアもいまだに血まみれで、額の痛ましい傷口をニコルは改めて凝視して。
 皮膚がえぐれて、血は止まっていない。
 テューラにも同じ傷跡が身体中にあった。
 ニコルにとって最愛の二人が。
 傷付けられたのだ。
「ーー…」
 近くに発生した球雷を、ニコルはまた魔力で覆い包む。
「兄さんやめて!!お願い!!」
 これ以上兄に人を傷つけてほしくなくてアリアは叫ぶのに、悲しいほどニコルには届かなかった。
「お願い…兄さん……もうやめて…」
 止めたいのに。
 球雷は完全に黒く染まり、圧縮されてニコルの手のひらに訪れる。アリアは身を挺して球雷を兄から離そうとしたが、先に腕を上げられてしまった。
「兄さん!!」
 手を伸ばす。だが届かない。
「ーーニコルもうやめろ!!」
 そこへ、新たな声がニコルを止める為に近付いてきた。
 扉の付近で待機していたクラークがニコルに詰め寄る。
「クラーク!!」
「なぜ入ってきた!!」
 部下の侵入を許してしまったイストワールが名前を叫び、クルーガーは部下の勝手を叱責する。
 危険を犯してまで飛び込んできたクラークはニコルの球雷を持つ腕の手首を掴み、強く引いた。
「もうやめるんだ!!落ち着いてくれ!!」
 仲間が人を殺している。
 そんな現実を目の当たりにして、命令に従ったまま見守ることなどクラークには出来なかったのだ。
 球雷に触れればどうなるかはわからない。それでもクラークはニコルの腕を掴み続けた。
「……離せ」
 ニコルも、この場所で初めて声を発する。
「離されたかったらこれを消せ!!」
 拮抗する力勝負。クラークはもう片方の腕でアリアを押し離して。
「団長!!全員を下がらせてください!!ニコルにもうバカな真似はさせません!!」
 球雷はいまだに収まってはいない。しかし先ほどよりは発生の頻度が落ち着いている。
 クラークに叫ばれて、クルーガーもやむなく辺りを見渡す。
 そして扉近くのイストワール達へと室内の者達を逃すよう手で合図を送った。
 静かに、だが迅速に次の段階に入り始める。
 球雷を避けながら先に部屋から出されたのはジャスミンを抱いたトリッシュと二人を庇うニコラで、レイトルとセクトルは奥のミシェルとガブリエルの元へと向かう。
 モーティシアは行動に出る者達の安全の為に、細かく術式を移動させて繊細で強力な防御結界を張り続けた。
 アクセルはリナトとヨーシュカに押されて部屋から出されそうになり、しかしイニスを助ける為にそちらに動こうとして。
 ニコルが、アクセルの動きに目を留める。
 アクセルもそのことに気付いて足を止めた。
 イニスのすぐそばで。
「っぐあ!!」
 ニコルはクラークの腹を容赦なく蹴り飛ばすと、イニスへ向けて球雷を放とうとした。
 その寸前で。
「ーーニコル様はファントムの子供です!!」
 床にうずくまるまま、イニスが叫んだ。
「私、聞きました!!ニコル様はファントムの息子で、仲間なんです!!早く捕まえてください!!」
 絶叫に近い声で、命からがら叫ぶ。
「聞いたんです!ニコル様が自分でそう話してるの!!エルザ様だって知ってます!!ファントムが襲ってきた日、ファントムは父親だって!!」
 ニコルが自分の父の正体を知ってしまった日のことを、イニスは鮮明に口にする。
 それは自分が助かる為の言葉だったのだろう。
 鬼のような形相と共に半笑いを浮かべて骨の潰れた腕を自身に引き寄せながら、イニスはニコルを強く指さす。
「は、早く捕まえてください!!ファントムの仲間だから!!」
 今現在この城内でファントムの名を口にするのは禁句に近いというのに連呼を続けるイニスに、辺りは騒然とする。
 そんな馬鹿な、と誰もが思った。
 しかもエルザ姫の名まで出すなんて。
 だが、イニスの発言に辺りの球雷が突然全て消えた。
 ニコルの手中にあった球雷も、黒い霧を残して消え去る。
 球雷が無くなり静まり返り、ニコルもクラークに掴まれていた腕から力を抜く。
 誰もがそんな言葉を真実だなどと思ってはいなかったのに。
「……本当なのか?」
 ニコルの腕を掴んだままのクラークが、ぽつりと呟くように訊ねる。
「本当です!この耳で聞きました!!早く捕まえて!!」
 返答をするのはイニスで、叫ぶままに立ち上がろうとして。
「早くーーギャ」
 奇妙な音を発して、イニスの頭に黒い短剣が刺さった。
 皆が見ている前で、短剣は黒い魔力の霧に戻ってから消え去る。
 それと同時にぐるんとイニスの眼球があらぬ方向へと動き、奇妙な音を口から発しながら床に崩れ落ちていった。
 ニコルが単純な短剣の魔具を生み出したのだと、イニスが動かなくなってから皆ようやく理解した。
「どういうことだ…」
「ニコルが、ファントムの仲間?息子?」
 扉の向こうからはイストワールとセシルが動揺し、クルーガーの方へと目を向ける。
 ファントムと通じていたのはフレイムローズとクルーガーだけではなかったのか。そんな動揺した眼差しの後で。
「ニコル!!」
 クラークは魔具の長剣を生み出してニコルへと向ける。
「やめてください!!」
 アリアが前に出てくるが、クラークはアリアの手を強く引いて後ろへと放った。
「やめるんだクラーク!」
 アリアが血溜まりに倒れるより先にクルーガーが支えてやり、リナトへとアリアを託してクラークの肩を掴んで。
「どういうことなんですか!?この状況は!?説明してください!!」
 後から訪れたクラーク達にとって状況の理解など難しく、アリア達が襲われたのかと思っていたのに突然ファントムの名前が出るなど混乱を極めたことだろう。
 しかもニコルは否定をしないのだ。
「答えろニコル!!」
 クラークにとっての真実は、ニコルが何人もの人間を殺したことだけだ。
 剣先をさらにニコルに近付けて迫れば、ニコルもようやく剣を振り払った。
「彼女が怖がる。やめてくれ」
「……は?」
 クラークは言われた意味がわからないかのように、改めてニコルに抱かれているテューラへと目を向ける。
 大切そうに抱き上げられた、哀れなほど傷付けられているテューラ。
 彼女が誰かなどクラークにはわからなかったが、アリアではなく別の女性を抱きしめている現実が、クラークの中で別の怒りを湧き上がらせた。
「なんで…お前、エルザ様は……その人は誰なんだ!!」
 叫ぶクラークに背を向けて、ニコルはテューラを優しく守る。
「俺の大事な女だ」
「ふざけるな!!」
 魔具の剣を消して、クラークはニコルに掴みかかる。
「お前がふざけるんじゃない」
 その手を掴んで止めたのは、ヨーシュカだった。
「な…誰だ!!」
「魔術兵団長の顔すら知らんとはな。未熟な騎士よ、このお方に触れるな」
 老いているはずのヨーシュカが、力でクラークに押し勝つ。
 その強さに驚いていたクラークは、目の前の老人が魔術兵団長であることにさらに驚いた。
「く……隊長!!ニコルを捕えるよう命じてください!!こいつは人を殺したんだ!!」
 クルーガーすら信じられないとでも言うように、クラークは扉付近にいるイストワールへ頼み込む。
「落ち着くんだクラーク!」
「煩い!!…隊長お願いします!こいつを捕らえさせてください!!」
 クルーガーを跳ね除けて、なおもイストワールに頼み込んで。
「未熟な騎士だな」
 ヨーシュカが鼻で笑うと同時に、ニコルの身動ぐ気配を感じて振り返った。
「……俺はこれから、どうなるんだ?」
 落ち着いてはいるが、冷静さを取り戻したからこそ自分が城内で殺人を犯したと理解できた様子で。
「…今のままでは捕らえられるでしょう」
 今のままでは。
 ヨーシュカの説明に、ニコルはハハ、と空笑いを上げる。
「兄さん…」
 アリアもヨーシュカの言葉の意味を理解した様子を見せた。
「団長!もう無事のようなら、中に入ってもよろしいでしょうか?ニコルは私が連れて行きます」
 イストワールも静かにクルーガーに訊ねて、この事態の収束に向かおうとして。
「待ってください!!ニコルはどうなるんですか!?ニコルだけが悪いわけじゃないはずです!!」
「殺人は重罪です。…知っているでしょう」
 アクセルは仲間の為に叫び、モーティシアは苦しそうに眉を顰めながら制する。
 殺人は重罪だ。理由がどうであれ。
「兄さんはあたし達を助けてくれたんです!兄さんがいなかったら、あたし達どうなってたか!!」
 アリアも恩赦を求めて、だが状況は苦しいままで。
「…今のままでいることを諦めたら、どうなる?」
 そんな中でまた呟いたニコルに、全員の目は集中した。
「お前、何言ってるんだ……」
 クラークは問いかけて、アリアは首を横に振る。
 クルーガーとリナトは目を見開いていた。
「貴方が自らの出自をお認めになるなら、話しは完全に変わってくるでしょう」
 ヨーシュカだけは嬉しそうに語る。
「私だけではない。アリアが狙われたというのが本当ならば、リナトも貴方を全力で擁護するでしょう。…そもそも我々は、貴方の為に存在するのですから」
 立場が上のはずの魔術兵団長が、ニコルを敬うような言葉を使う。
 その奇妙な状況にクラークが動揺した。
 じろりとヨーシュカから睨みつけられて怯み、思わず目を向けたのはクルーガーのいる方向だった。
 困惑を強める者達はクルーガーとリナトを頼りにしようとするが、説明をくれる様子はない。現状を解決する為に動こうとする様子すら。
 団長の立場でありながら、ニコルの言葉を待つようで。
「いかがなさいますか?ニコル様」
 敬称まで付けて、ニコルを見つめて。
 濃厚な死臭に全身が浸される中、異常すぎる状況下でニコルは笑っていた。
 どうでも良いとでも言い出しそうな笑みだった。
 テューラを見つめて、そっと引き寄せて。
「…認めてやるよ。俺が誰なのか」
「兄さん!!」
 アリアはやめてと首を横に振る。
 こんな形で真実を明るみになどしてほしくないと必死に伝えるように。
 自分を思ってくれるアリアを見つめてから、三団長達にそれぞれ目を向けていく。
「ロスト・ロードの息子だって、認めてやるよ!!」
 強く眉を顰めて、吐き捨てるように叫んだ。
 ロスト・ロード。
 暗殺されたはずの、王族の名を。
「ふざけるな!!」
 クラークが再び掴みかかろうとするが。
「ーー控えるんだ、クラーク」
「単細胞めが」
 取り押さえられたのは、クラークだった。
 ヨーシュカとクルーガーから一気に取り押さえられて、床に叩きつけられる。
 息が詰まるような声を発するクラークは、ニコルの前に無理やり跪かされるかのようだった。
「……ロスト・ロード、様?」
「いったい何を…」
 静まり返る中で、状況を理解できない者達ばかりの中で。
「…ニコル様……ようやく…………」
 リナトは歓喜に震えるように近付いていく。
 死体を踏み躙りながら、ニコルの向こう側に仕えるべきロスト・ロードを見るように。
「兄さん!!」
 空気が凍り付くほどの中、兄の決断にアリアだけが泣きじゃくるような悲痛な声を上げた。

ーーーーー

 その夜、エル・フェアリアには国王が死んだ時以上の激震が走った。
 それは、暗殺されたはずの悲劇の王子ロスト・ロードが生存しており、子供まで産まれていたというものだった。
 今現在エル・フェアリアの王位継承順位はコウェルズが最も上で、次の王はコウェルズであると誰もが噂にすらしないほどの中で。
 王位継承順位を変える存在が現れたことに、城内の衝撃は凄まじいものだった。

 ニコル・エル・フェアリア

 城内を瞬く間に駆け抜けた名前。
 その名前に掻き消されるように、城内で起きた殺人事件は誰の耳にも伝達されることはなかった。
 藍都の次女が治癒魔術師に喧嘩をふっかけた程度の噂は同時に流れはしたが。
 それも、瞬く間に消え去っていった。

第103話 終
 
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