第103話


第103話

 扉が開かれた時、誰が何を思っただろうか。
 開けた者も、中にいた者達も、後から駆けつけた者達も。
 何を思っただろうか。
 エル・フェアリア王城で働く侍女達だけの区画のその最奥で。
 上位貴族の娘達のみが使用することを許された、区画内で最も豪華なその場所で。
 扉を壊す勢いで開けたニコルが見たものは、大切な家族と最愛の女性が床で痛めつけられている凄惨な現場だった。
 アリアは顔から、テューラは顔だけでなく体からも血を流している。唯一ジャスミンだけは血痕の痕はなかったが、だからこそ強制的に露出させられた白い肌がより青白く見えた。
 三人が何をされているのか、理解をするより先に、何かが頭の中で切れていた。
 アリアが目にしたのは、救いを求め続けた兄の姿だった。
 扉を開けてくれて、アリアの呼び声に気づいてくれたかのように助けに来てくれて。
「にいさん……」
 兄の姿に涙が溢れた。
 抵抗もできずにいた身体を弄そぶ男も、アリアの胸を手で掴んだ状態で固まって。
 兄の後ろから、アリアの大切な仲間達が次々と駆けつけてくれる。
 その状況に、羞恥を感じる暇もなく涙がとめどなく決壊してしまった。
 助かったと、心から思ったのだ。
 ニコルが突然現れたことで室内は一気に凍り付き、ニコルの後ろから現れたモーティシア達も、室内を見て全身が強張ったかのように固まった。
「アリア!!」
 静まり返る中で叫んだのはレイトルで、扉を塞ぐように立ち尽くして動かないニコルを強引に押して中へ入り、アリアへと駆け寄った。
 アリアに覆い被さる男を睨みつけながらドン、と強く押しどけて、鉄布のマントを引きちぎってアリアに被せて抱き寄せる。
 セクトルとトリッシュも後に続いて室内に入り、ジャスミンにはセクトルがマントを冷静に外してかけてやっていた。
 ジャスミンは声もなくボロボロと泣きじゃくりながら、トリッシュの姿に苦痛と安堵の両方の顔をして縋り付く。
 トリッシュは何よりもジャスミンを庇うように引き寄せると、彼女を抱き上げて壁側へとすぐに移動した。その壁側へと、ニコラも駆けつける。
「ーーお、俺は何もしてないぞ!!」
 状況を理解したのか、ジャスミンを襲おうとしていた男が突然立ち上がって逃げようとする。
「どけぇ!!」
 いまだに扉の前で立ち尽くすニコルへと走り。
 身動きを取らないニコルから金の混ざる黒い魔力の霧が溢れ出たかと思うと、それは逃げる為に駆けて来る男へ剣を上から斬り落とすように一瞬で進み。
「ーーーー」
 人間だったものが、二つに割れて床に落ちた。
 ものの数秒で広がる赤黒い血溜まり。
 同時にむせかえる血の匂い。
「きゃああああああああああ!!!!」
 あまりの惨劇に、壁側にいた三人の侍女のうちの一人が絶叫を上げた。
 全員が目撃した一人の人間の死に、静かに動くのはニコルだけだった。
 優雅にも見えるほどの落ち着いた足取りで室内を進んでいく。
 途中に広がる血溜まりを避けることもせず、真っ二つの人間の間を堂々と進んで。
 レイトルとセクトルとアリアの、その隣でニコルは立ち止まった。
 後ずさるイニスなど目にも留めずに、ニコルは見下ろす。
 見下ろした先で、ボロボロになったテューラと視線を絡ませた。
 あまりの出来事に呆然としているテューラの前に静かに片膝を付いて、優しく抱き寄せて、抱き上げて。
「…アリア、こっちへ」
 ハッと我に帰るように、レイトルもアリアを抱き上げてトリッシュ達のいる壁側へと逃げた。
 その間にセクトルが魔具を使って男を逃げられないように床に押し付ける。
 低く呻くような声で男は呻いたが、仲間の死体から溢れた血溜まりが広がってきて床に押し付けられた頭に到達した時に悲惨な叫び声を上げていた。そして、悲鳴はもうひとつ。
「ひぃっ……お、お兄様!!」
 目の前で起きた惨劇を今理解したかのように、奥のソファに座っていたガブリエルが立ち上がって扉付近にいるミシェルを呼ぶ。
 その声に反応するようにミシェルもガブリエルの元に向かうが、ミシェルの表情も困惑して、ガブリエルを庇えばいいのか、捕らえればいいのかわからない様子だった。
「こ…これはどういうことなのですか!?」
 モーティシアも動揺しながらも扉から数歩分だけ中に入り、逃げようとした侍女三人へ「動かないで!」と強く命じて足を止めさせた。
「よ……ヨーシュカ団長!!!!」
 唯一扉の外にいたアクセルが自身の首に絡みつくクラゲを両手で掴んで三団長の一人に呼びかける。
 クラゲは呼びかけに応じるようにブワリと身体から黒い霧をわずかに放つ。
「早く来てください!団長!!」
 泣き声にも聞こえそうなほど情けない声だったが、立場のある人間を呼んでくれたアクセルへとモーティシアは安堵の表情を見せた。
「…ガブリエル嬢、これはどういうことでしょうか?」
 アクセルがヨーシュカを呼んだことで少しは落ち着けたのか、モーティシアは冷静にガブリエルへ話しかける。
 ミシェルの背中に縋るガブリエルは、名指しで呼びかけられたことにビクリと肩を震わせた。
 凄まじい血の匂いと悪臭が漂う中で誰も冷静でなどいられない状況で、唯一何とか落ち着こうとするモーティシアの声すら、主犯であろうガブリエルには意味を理解できないようだった。
 目の前で人が人でなくなった状況に怯えるガブリエルを背中に隠しながら、ミシェルは窺うようにモーティシアに目を向ける。
「…モーティシア殿、今はとにかく、誰か人を……」
「アクセルが魔術兵団長を呼んでくださいました。人は来ます。それまでに…何が起きたのかを誰でもいいから話しなさい!」
 焦りなのか怒りなのかわからない声で、モーティシアは辺りを見渡す。
「アリアを襲おうとしたのはあなたですか?ガブリエル嬢!!」
「モーティシア!!今は落ち着かせてやってくれ!!」
「我々の目が届かない場所でアリア達が襲われたのです!あなたこそふざけているのですか!?」
 叫ぶミシェルにモーティシアも怒声を返し、落ち着け、とモーティシアの側に駆け寄ったのは男から離れたセクトルだった。
 その間にまた三人の侍女達が動こうとして。
「その場から動かないでください!!」
 モーティシアの叱責に強く怯えて。
「わ、私たちは、何も…私たち関係ないわ!!」
「もういやああぁ!!」
 一人が床に腰を抜かした後、残った二人も怯えて泣き叫び、同じように床にへたり込んだ。
「…………ケイフ!!」
「動かないで!」
 そこにガブリエルの前で蹲っていた女が扉の近くに走り、モーティシアの叱責も無視して誰かに縋り付く。
 真っ二つとなった男とは反対側に身体を強張らせて転がっている男の元へ女は駆け寄り、何度もその名前を呼んで。
「ケイフ、ケイフ!!」
 女が男を揺さぶり続ける。その名前にぴくりと反応を見せたのはニコルで、片手でテューラを抱き上げたまま、もう片手を二人の方へ翳した。
 その手から、再び金の混ざる黒い魔力が溢れて。
 飛ばされる、その寸前で。
「兄さん!!だめ!!」
 黒い魔力の霧が、アリアの声で掻き消える。
 ニコルはケイフとシーナを睨み続けたままだったが、再度アリアから「やめて」と頼まれて、魔力を溢れさせた手を強く握りしめ、再びテューラを抱き寄せた。
 そしてその怒りの眼差しは、ガブリエルに向く。
 ガブリエルはカタカタと震えながらミシェルの背中にさらに縋り。
「……どうしてですか?ニコル様…」
 ニコルの隣で、イニスが呟いた。
 後ずさっていたイニスが、テューラとアリアを打って怪我をさせたのだろう棒を手にしたままニコルに近付く。
 その棒の先は、誰が見ても眉を顰めるほどの棘のような突起が付いていた。
「どうして、ニコル様!!どうしてそんな女を抱きしめるのですか!?」
 ふらりと近付いたかと思えば、イニスは掴みかかる勢いでニコルへ突進して。
「止まりなさい!」
 途中でモーティシアが止めに入るが、イニスは狂ったような眼差しをニコルへ向け続けていた。
「その女はニコル様を騙しているんですよ!?汚いくせに!!身の程も知らずに!!」
 イニスが叫ぶ度に、ニコルの腕の中でテューラが強く震える。
 怯えきって萎縮するテューラの額に、ニコルはイニスの声など聞こえていないかのように優しく口付けた。
 自分がいると、守ってやると伝えるように。
 ボロボロに傷付けられたテューラは、その唇の感触に安心するかのように、強張る身体からほんの少しだけ力を緩める。
「…なんでよ……」
 それを、目の前で見せつけられて。
「なんでそんな売女を大切にするのですか!?あなたには私がいるのに!!」
 ニコルに掴みかかろうとするイニスを、モーティシアはまた止める。だが女性に対して遠慮してしまったモーティシアの力ではイニスを止めきれず、ニコルへと手が伸びる瞬間にセクトルがイニスを床に捕らえた。
 ダン、と強い音が響き、イニスはセクトルにのしかかられて床に伏せる。
「痛い痛い痛いいたいいたいぃ!!!ニコル様助けて!!ニコル様ぁ!!」
 叫ぶイニスを、当然のように誰も助けはしなかった。
 イニスを床に捕らえたセクトルがモーティシアにちらりと目を向けて、モーティシアは女相手でも容赦してはいけないことを学んだかなように強く唇を噛む。
「なんでよ……なんで私がこんな目に遭うのよ!!私はニコル様の目を覚まさせてあげたかっただけですわ!!」
 イニスは捕えられても諦めずにニコルへと手を伸ばす。
「おい黙れ!!」
 セクトルが上からさらに圧をかけるが、イニスは呼吸を潰されながらも血走らせた目をニコルから離さなかった。
「ニコル様!ニコル様ぁ!!」
「黙れって!!おい、こいつ実行犯だろ!気絶させるぞ!!」
「やめなさい!捕えるだけに留めてください!!」
「そんな呑気なこと言ってる場合かよ!!」
 イニスを完全に制圧する為に手を振り翳したセクトルを、今度はモーティシアが止める。
「…こちらが不利になってはいけません…」
「もう人間ひとり死んでんだよ!!日和んな!」
 イニスはいまだに暴れるから、落ち着かせようとするモーティシアと任務に冷徹になれるセクトルの間に齟齬が生まれ始める。
「離して!!」
 その間にもイニスはもがき続けて、手から離さなかった棒がセクトルを引っ掻こうとした。
 その瞬間にモーティシアは無意識のようにイニスの手を蹴りつけてセクトルを庇う。
 バキ、と人から鳴るにはおかしすぎる音が響き。
「ッッヒギャアアアアアアアアアアア!!」
 絶叫は、モーティシアがイニスの腕を足で床に押さえた瞬間にイニスから轟いた。
 棒は手から離れて床を滑り離れる。
 イニスの腕は、手首と肘の間でひしゃげていた。
「っ…」
 骨を砕いた感触が足から伝わってきたのだろう。モーティシアは表情を凍りつかせながらすぐに足を上げ離すが、イニスはセクトルに捕えられたまま痛みにのたうつ。
 セクトルはイニスを抑え続け、モーティシアは自分の行動に動揺して。
 わずかな隙を突くように、先ほどまでセクトルに捉えられていた男が突然立ち上がり、アクセルだけがいる扉へと逃げた。
「アクセル!!」
「押さえろ!!」
 名前を呼ぶレイトルと、命じるセクトルと。
 アクセルは突然のことに驚いてクラゲの触手を掴んだままぎゅっと強く目を閉じてしまった。
「どけえええぇぇぇぇ!!!!」
 逃げようとする男の動線の邪魔になる位置にいるアクセルへと一直線に距離を詰められて身体を突き飛ばされる瞬間、アクセルを守ったのはクラゲからさらに伸び増えた触手だった。
 何本かがアクセルを守るように絡まり、何本かが強く男をはじき飛ばす。
 男はクラゲからの攻撃に受け身も取れずにニコルの元へと倒されて。
 冷めた眼差しで見下ろすニコルと目が合ってしまった。
「ひ……頼、たのむ…許して……」
 訳がわからなくなったように、男はニコルから逃げようとする。
 以前まで騎士として鍛えていた所以か、何とか座り姿勢にまで戻すが腰は完全に抜けた様子で、半笑いを浮かべながら床をずって。
 ニコルは再び男の方へと片手を向けた。
「ひいぃっやめ!!許してっ!!」
「ニコル!!殺してはいけません!!」
 哀願する男の声と、モーティシアの止める声が同時に響く。
 それでも先ほどアリアに止められた時のようにニコルの腕は降りなかった。
「ニコル!!」
「許してぇぇぇぇ!!」
 誰にも止められない状況で魔力がニコルの手から弾けるように離れる。
 形すら留めないその魔力は、男の両足を膝から完全に吹き飛ばした。
 最初に真っ二つにされた死体の血溜まりの中に、さらに新たな血が混ざり増えていく。
「ぎゃああああああああああ!!!!」
 両足を失った男の絶叫が響き渡り、消失した足からは心臓の鼓動に合わせるように血が大量に溢れ出ていた。
 びしゃびしゃと、凄まじい勢いで溢れ出して止まらない血に、また全員が凍り付いた。
 ただ一人ニコルだけが怯えるテューラを優しく抱きしめて、男が見えないように姿勢を変えてやって。
 うめき声は男とイニスから、それ以外はもはや、誰も声を上げることが出来なくなっていた。
 時が止まったかのように誰もが固まり続ける。
 深手を負ったイニスと男の呻く声と、凄まじい血の匂いと、ぶちまけられた内臓から溢れたおぞましい臭気と。
 重すぎる空気は、呼吸すらままならなくさせるようで。
 バタバタと近付いてくる足音がいくつも聞こえてきたのは、モーティシアが懸命に己を奮い立たせようとした時だった。
「ーーアクセル!!」
 近付く足音はどれも重く、男のものだとはわかった。その中で最も早く到着した足音の持ち主が、扉に手をかけてまずアクセルを呼んだ。
「……ヨーシュカ団長…」
 現れたヨーシュカに、アクセルはクラゲを握りしめたままその場にへたり込む。
 ヨーシュカは険しい顔で室内を見渡し、その後すぐに新たな人物達が顔を現した。
「ーー何があった!?」
 二番目に到着してくれたのはクルーガーで、その後ろからさらに王族付きの騎士達が顔を出す。
 いずれもエルザの護衛で、謹慎していたはずのクラークと、セシルと隊長のイストワールが室内の惨劇に顔を顰めて凍りつく。
「ーー何があったんじゃ!!」
 最後に到着したのは、魔術師団長のリナトだった。
 ヨーシュカが真っ先に室内に足を踏み入れて死体を確認し、クルーガーがイストワール達に扉の前で待機させて次に室内に入る。
 クルーガーは死体よりも先にアリアとジャスミンの痛ましい姿に何があったのか理解するかのように表情で不快感を露わにした。
 そしてニコルと、抱き上げられたテューラを見つめて。
 クルーガーはアリアとジャスミンがそうされているように、自らのマントを外してテューラにかけてやる。
「ひとまず下がれ」
 部屋の中央で立ち尽くしているかのような状況のニコルに命じてアリア達の元へ向かわせようとするが、ニコルは一歩も動こうとはしなかった。
「お前達…アリアに何をした!?」
 最後に室内に入ったリナトは、真っ先にアリアの姿を目に留めて、クルーガーと同じく察した様子を見せて。
 リナトは最初に三人の侍女達を睨みつけたが、震えて言葉を発せない侍女達に凄まじい形相を向けた後で次は足を潰された男の元へ向かった。
「ひ、ひいぃーーーーぎゃああああああっっ」
 いまだに血の止まらない足に向かって、リナトは二つの火球を生み出して押し付ける。
 傷口を灼熱の炎に焼かれて男は絶叫と共に悶絶して逃げようとするが、リナトは血溜まりの中に男を押し付けて逃しはしなかった。
 ただでさえ血の匂いにむせかえる室内だというのに、血溜まりが灼熱に触れて恐ろしい湿気まで溢れかえる。
 傷口を焼かれて、残酷すぎる応急処置が終わった。
「…これで死ぬことはない…言え。アリアに何をしようとしたんだ…」
 男の頭を血溜まりに沈めたまま、リナトは静かな声で問う。
「ひ、ひ…ヒィ…」
 嗚咽と呼吸を共に行う男は正気を失う一歩手前で、リナトは苛立つように男の頭を一瞬浮かせてから再び床にガンと叩きつけた。
「リナト…控えろ」
「黙れ」
 冷酷で、無情で。
 こんなリナトなど、魔術師団の者達ですら見たことはないだろう。
 共に大戦を生き抜いたクルーガーとヨーシュカだけが、静かにリナトを見守っていた。
「…アリアに何をしようとした?」
 ゆっくりと、まるで馬鹿に理由を問うようにわかりやすく訊ねて。
「ヒィ…お、俺は…言われたから……ヒ、言われたから…」
「誰に、何をだ?」
「ヒイィ……ガブリエル様っ…に、ヒ…治癒魔術師を……」
 そこで突然、ブワリと室内の空気が変化した。
 誰もが感じたのは髪が逆立つような感覚。
 同時に、肌を奇妙な痺れが舐めた。
「ニコル!落ち着いて!!」
 叫んだのはアクセルだった。
 その目に何が見えているのかはわからない。
 だがアクセルの視線はニコルの周りへと何度も泳ぎ、奇妙な感覚の理由はニコルであると伝えてきた。
 アクセルにしか見えてはいない。
 今の瞬間までは。
「球雷!?」
 突然、ニコルの周りをひとつの球の形をした雷が現れて、ニコルから離れるように飛び消えた。
 ニコル自体に異変は見えない。
 しかし球雷はもうひとつ、またひとつと、突然現れては飛び消えていく。
 可視化された異常自体と、全員の全身を舐める痺れと、髪が逆立つ感覚。
 空気ではなく、大気そのものが変化を見せたような。
「アクセル!なにが起きているんじゃ!!」
 リナトに怒声で訊ねられて、アクセルは怯えるように首を横にふって。
「…ニコルの周り…魔力の渦が……魔力が…」
 ニコルの魔力がおかしいと言われて、全員が思ったことはひとつだった。
「暴発か!?」
「違います!暴発とは違います!!」
 だがアクセルは否定する。
 暴発ではない。
「そんな、簡単なものじゃない…」
 大気を震わせて球雷を発生させるほどの異常など、たかが一人の魔力の暴発程度で説明できるものではない。
「モーティシア!!」
 リナトは命じる為にモーティシアを呼び、モーティシアは呼ばれただけで命令を理解してアリア達へと防御結界を張る。
 イニスを取り押さえている為に最もニコルの近くにいたセクトルを掴んで引き下がらせるのはクルーガーで、まるで子供を放るようにアリア達の元に投げて防御結界の中に入れた。
 イニスと男はそのまま。
 扉近くにいるアクセルやケイフとシーナ、イストワール達は、アクセルを守るクラゲが突然巨大化して結界となる。
 ミシェルは己の力でガブリエルを含めて結界を張った。
 三団長はそれぞれが自身を守れる。
 イニスと男と侍女達は捨て置かれた。
 放置されたことに気付く侍女達は悲鳴を上げながら這いずって部屋の奥へと隠れていく。
「ニコル…落ち着いてくれ」
 下手をすれば暴発など生ぬるいほどの新たな惨劇となる。
 クルーガーは発生しては消滅する球雷をギリギリのところで躱しながら、懸命にニコルへ話しかけた。
「ニコル…落ち着くんだ……頼む」
 アリアを襲われたのだ。落ち着けるはずがないことはわかっていた。
 しかもアリアだけではない。
 クルーガーは姿を見たことはなかったが、ニコルが大切に抱き上げている女性が報告に上がっていたテューラだろうことは明白だった。
 愛しい女を傷つけられて黙って見ているだけの男などいないだろう。
 ましてニコルは、魔力値に優れているのだ。
 その魔力はもしかすると、ここにいる三団長でも止められないかもしれない。
「……ニコル…私の声が聞こえているか?」
 どうにか落ち着いてほしくて、なるべく穏やかに訊ねる。
 近付いていくクルーガーには、ニコルの身体から溢れている魔力の霧の異変にも気付けた。
 基本的に魔力は黒いものだ。
 ニコルもそうだった。
 しかし今のニコルから溢れる黒い魔力の中には黄金の輝きが混ざっている。
 色付く魔力を持つのは、この国では王家のみ。しかしなぜニコルの魔力が黒いのかと、ニコルの正体が発覚した頃にクルーガーとリナトは話し合ったことがある。
 ニコルが入団した頃から他者と比べても奇妙な魔力だと思っていたが、その魔力の色が黒いから単純に質量が凄まじいとだけ思っていたのだ。
 その魔力の中に、今はなぜ黄金が宿るのか。
 今現在、黄金の魔力を持つのはコウェルズのみだ。かつてはロスト・ロードも持っていた。
 ニコルに宿る黄金の魔力は、まるで内部に存在していた核が凄まじい外殻の流出のせいで覗き見えているような状況に思えた。
「…そちらの女性も怯えてしまう。ニコル、落ち着くんだ」
 どうにか止めようとするクルーガーはニコルへと手を伸ばして。
 ニコルのそばに発生した球雷が突然、ニコルの黒い魔力で激しく包まれた。
 黄金が混ざる中で黒い魔力は球雷を吸収するかのように収縮する。
 だがそれを見た時、クルーガーが出来たのは後ずさることだけだった。
 収縮ではないと肌で察したから。
 圧縮だ。
 大気を震わせるほどのニコルの魔力の慟哭に合わせて自然発生した球雷が、魔力に包まれて凄まじく圧縮されていく。
 クルーガーの全身が危険を叫んでいた。
 そしてその危険を、リナトとヨーシュカも感じ取る。
 表情をきつく強張らせた三団長が出来たことは、自身と部下達を守る為に最強の結界を張ることだけだった。
「お前達は下がれ!!」
 クルーガーは廊下にいるイストワール達に告げてからミシェルとガブリエルに結界を張り、リナトは防御結界を張るモーティシアの前に立って更なる結界を何重にも張った。
 ヨーシュカもアクセルを背中に隠し、室内そのものに凄まじい結界を張る。
 何が起きるかわからず、何が起きても不思議ではない。
 そんな中で。
 
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