第61話
第61話
明るみ始める薄闇の空を、ニコルはどこか別の世界の空であるような不思議な思いで見上げていた。
枯れ始めた葉の残る木々の合間から覗く白む空。
昔はこの場所からよく見上げたものだが。
ニコルが訪れていたのは、王城敷地を抜けた城の裏側に位置する森の中だった。
エル・フェアリア王城の背中を任されたかのように存在する深く広大な森。
この森はニコルにとって、王都に訪れて初めて安らぎを与えてくれた場所だった。
地方兵として憎しみの深く残る戦場にいたニコル。魔力を持つ平民がいるという情報を元に訪れたクルーガーに連れ出され、王城騎士として城に招かれた。
そしてニコルが出世し王族付きとなるまでの半年間。
争いの世界とはまた異なる不気味な貴族世界で、ニコルは心を落ち着ける為に、そして一人きりになる為によく森に足を運んだ。
ここには静けさがあった。安らぎがあった。
音といえば風に揺られる木の葉や鳥と虫の鳴き声くらいのもので、それ以外にはニコルしかいない。
ニコルはこの場所に大切なアリアの手紙を隠し、そして初めてエルザと出会ったのだ。
18歳のニコルと、12歳のエルザと。
ニコルは初めて見る姫に、知らぬ間にエルザと同い年の大切な妹を重ね、エルザはニコルに恋をした。
そしてその恋をニコルの口から実らせて、昨夜終わらせた。
エルザの中ではまだ終わってはいないだろう。恋に純粋すぎる姫だ。到底受け入れられることではない。
それはニコルも気付いている。
エルザに分かってもらう為には長丁場になる。多くの敵も作る。
それでももう、ニコルの精神が限界だった。
もとよりアリアに向かう歪な恋慕をエルザという替え玉に向けたがゆえに始まった間違いだらけの恋人関係だ。
歪な始まりだったとしても、エルザを愛せたらと思ったこともある。しかし正常にするには、ニコルを取り巻く環境はあまりにも特殊で、そして残酷だった。
ニコルにとって何より大切なアリアを絡め取ろうとする巨大な国。
そして反発しながらも心の中では慕い続けた実父ファントムの無情な言葉。
ニコルの心を潰すには充分すぎた。
潰れた心は、エルザでは救えない。
ニコルにとってエルザは、ニコルの世界を鎖でがんじがらめに捕らえる鎖そのものとなっていたのだから。
純粋な姿。
だが重すぎる鎖が見える。
その鎖を理解してもらう為には、どこまで時間がかかるのだろうか。
無意識にこぼれた溜め息の先が白く染まり、初冬の寒さを知らせてくれる。
しかし極寒の地で育ったニコルには寒さの内にも入らない。
心地好いくらいの冷え。きっと今頃ニコルの故郷は重い雪に覆われている。
あの場所を故郷と呼んでいいのかすらも危ういが、あの場所には家族との温もりがあった。
育ての父と、アリアと、母と--
「…母さん」
勝手に呟いてしまった音は、自分の声ではないようだ。
捕らえたエレッテが、おかしな言葉を聞かせたからだ。
まるで母まで別にいるような。
そんなことが、あり得るものか。
考えを潰すように頭を振って、止まっていた足を動かして。
どこかに行くつもりはなかった。当て処なく歩いたのは、眠れなかったからだ。
昨夜エルザが気絶した後にイストワールに部屋を出るように言われて、素直に従いはしたが眠れるはずもなく。
自室の隣にいるアリアを思いながら、鬱々とした気持ちを少しだけでいいからさっぱりさせたくてここまで来た。
少しは晴れたろうか?自問してみても、わからないとしか返せない。
今後を考えれば足は重くなる。だが流れに抗うことなく身を任せていたら、比喩でなく死んでいた。
ひやりと流れる風が癒すように頬に触れてくれるが。
「…駄目だな」
このままでは。
無理矢理にでも気持ちを切り換えようと深く息を吸い込んで、空気の冷たさをダイレクトに気管に届けて。
視界の片隅に何かを見付けたのは、温くなった空気を吐き出した時だった。
白む空から何かがこちらに向かってくる。
小さな、見慣れた。
「…お前」
それは故郷の村長夫人から譲られた伝達鳥だった。
名前をつけようとして、結局決まらなかった小鳥。
ニコルを探していたらしい小鳥はニコルを見つけると同時にゆっくりと降りて、翼を数回羽ばたかせると肩に静かに留まった。
細い足には筒でなくそのまま紙がゆるく巻き付けられており、肩に留まる小鳥から器用に紙をほどき取り。
開いてみれば、アリアの筆跡が優しく視界に飛び込んだ。
“大丈夫?”
それだけ。
だがそれだけの言葉が、枯れた心に染み渡るように満ちていく。
昨夜自室に戻った時と出る時に、アリアの護衛として立っていたセクトルと少しだけ言葉を交わした。
疲れは見せないよう気を付けたつもりだったが、セクトルは無愛想ながら敏感に察してアリアに告げたのだろう。
仲間とアリアの優しさが染み渡る。
ニコルは届けられた手紙を強く握りしめて胸に当て、静かに唇を噛んだ。
気を緩めると涙腺が緩みそうだ。
どうせ小鳥しか見てはいない。だが泣きたくはなかった。
「…そうだ。あそこに行ってみるか」
掠れた声で小鳥に話しかけて、ピ、と短い返答を聞いて。
この森には泉が存在する。
美しく澄んだ泉はニコルの憩いの場だった。
そこでこの小鳥ともよく休んだものだ。
アリアの手紙を隠す場所としても選んだから、今でも大切な思い出だ。
行き先さえ決めてしまえば後は何も考えずとも目的地にたどり着ける。
この森は本当に歩き回り続けていたから、適当に歩いていたとしても自分が今どの辺りにいるかはわかってしまう。
小鳥と共に今いる場所から泉に向かい、歩いている間も小鳥はまるでニコルを慰めるように髪を嘴で引っ張ってきたり頭に飛び乗ったりとせわしなく、表情は始終優しく微笑んでしまっていた。
そうしながら数分でたどり着く、大切な思い出の場所。
泉は今も昔と変わらず澄んでおり、かすかな冷気と共にニコル達を歓迎してくれた。
広すぎる泉ではないが。
城の広間が余裕で収まるほどある泉に近付いて、片膝を付き水面に触れて。
心地好い冷たさが指先から全身に伝わり、同時に水面が小さな円の波を広がらせる。
水面に写り込む自分の顔は疲れのせいか老け込んだ気がして、思わず自嘲の笑みが漏れた。
父とよく似た顔。
だがまだ自分の方が人間味に溢れている。
父は、ファントムはまるで人形のようだったから。
美しかろうが人でないから不気味で、しかし人外の美しさを持つから惹かれる。
父だと思いたくなくても、水面に写る自分の顔を見れば、他人だと思えるはずがなかった。
ニコルの顔は、確実に父に似てしまった。
「っ…」
水面の歪みがニコルの顔をファントムに変えるから、拒絶するように身を引く。
ニコルの存在が父にとって無価値だという言葉が、顔を見るだけで耳に響いてきたから。
自分の顔すら見たくなくなってしまうなど。
いっそ顔を削いでしまおうかとも考えて、しかしそんなことをしたところで、アリアが泣きじゃくりながら治すだろうと諦める。
アリアの涙だけは見たくない。ましてや自分のせいで泣くなど。
いっそ、アリアを連れて逃げることが出来たなら。
何もかも投げ捨てて、どこか遠い場所で二人だけで。
アリアが城に訪れてから何度も考えた逃亡が脳裏によぎる。だがきっと、安息など欠片もなく一生逃げ続けることになるのだろう。
この数ヵ月だけでニコルは自分が知りもしなかった“エル・フェアリア”を見た。
ニコルというエル・フェアリア王家の血を手に入れる為に、アリアという希少な治癒魔術師の血を絶やさない為に。
“エル・フェアリア”は何をしてでも絡め取りに来る。
どこかで妥協も必要なのだろうか。
わからないことばかりが頭によぎり、消えて生まれて流れていく。
--ピ、と。
ふと耳元で小さく鳴かれて、ニコルは小鳥に顔を向けた。
自分の思考の闇に落ちていたニコルにとって、その小さな可愛らしい鳴き声は意識を急浮上させるほどのものだった。
「…どうした?」
まるでニコルに気付けと呼び掛けているような声だったから訊ね返せば、小鳥は待ちわびたようにふわりと羽ばたいてニコルから離れた。
パタパタと軽い羽音を響かせながら離れていく小鳥を見守っていれば、一本の木の下に降りて。
「…お前も覚えてたのか」
そこは、アリアの手紙を埋めて隠していた木の下だった。
うまい具合に木の根が左右にもり上がっているので、不自然なく隠すことが出来るのだ。
小鳥はニコルに「来て」と促すような眼差しで見つめてきて、ニコルも面倒がらずに応じて。
「--…」
異変にはすぐに気付いた。
異変というにはあまりにも自然のままなので、ニコルと小鳥にしか気付けなかっただろうが。
ニコルが七年前にアリアの手紙を隠していた土が、今も真新しく盛り上がっていたのだ。
露出する太い木の根に囲まれた柔らかな土である為にひと目見ただけなら何の変哲も無いが。
ニコルにはわかる。
その場所を大切に使い続けてきたニコルには、その場所が今も誰かに使われているのだと一瞬で理解できた。
だが誰が?
ニコルが使用しなくなった後で間違いはないだろうが、胸がざわつくような感覚に、静かに膝をついてその土をなぞる。
恐る恐る指先で土を確認する間に小鳥がニコルの肩に舞い戻り、それを合図にして一気に片手で掘り起こした。
湿る土がニコルの指を心地好く汚し、土の中から細やかな刺繍の施された布にくるまれた何かが姿を見せる。
「…なんだ?」
手にしたそれの土を払い、大切にくるまれている布をほどく。
その中から現れたのは、シンプルな木の箱だった。
高価な布に比べて、木箱は不釣り合いなほど慎ましい。
中に何が入っているのか。
気になるが、木箱は施錠されていて開けることは叶わなかった。
壊せば開くだろう。しかし自分の使っていた場所に隠されたその木箱があまりにも大切そうに保管されていたから。
乱雑に扱われていたなら、神聖な場所を汚されたことに対する怒りが生じたのだろうが、この木箱は違う。
木箱の持ち主は、ニコルがこの場所をそう使ったように、大切に使っているのだ。
「……」
中身が気になるが、ニコルはもう一度布を木箱に巻き付けて元の位置に戻し、柔らかく土を上にかけた。
この木箱がどれほど大切なものなのか、自分にはわかる。
「…誰が」
誰が、この場所に。
見ず知らずの人物に対する、心地好い共有感。
会ってみたいと素直に思えたが、木箱の主がすぐに訪れてくれるなど運命以外の何物でもないほど難しいだろう。
已む無く諦めるようにため息をついてから膝を浮かせて立ち上がり、手の土をもう一度払って。
「…戻ろうか」
訊ねる先にいる小鳥は返事の代わりにニコルの頬を嘴でつついた。
もう戻ろう。
朝日もしっかりと顔を見せ始めたからと王城に体を向けて、もう一度だけ木箱の埋まる木の下を見て。
名残惜しむように視線をまた王城側に戻して、ニコルは俯きながら森の泉を後にした。
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