第102話
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仕事を終えて、兄達に守ってもらいながら入浴の為に侍女達の区画に訪れる。
昨日まではアリア一人で区画に入っていたが、今日はジャスミンが一緒にいてくれた。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってきますね」
王城内の一階の一角に作られた侍女達の為だけの女性の園は基本的に男子禁制なので、護衛として共に来ていた兄とセクトルとアクセルとトリッシュ、そして護衛の護衛という奇妙な状況下にいるニコラにしばしの別れを伝える。
残念なことにレイトルはモーティシアと治癒魔術師のための教本について話し合っているので共には来てくれず、ミシェルは妹のガブリエルに話があるから探しに行くとかで離れていた。
巨大な扉はまだ消灯時間ではない為に開けられており、中にいるうら若い侍女達がニコル達騎士の姿に少しだけ頬を朱に染めて恥ずかしそうにしていた。
アリアは最初の頃こそ入浴時間に待たれることが嫌だったが、今はもう慣れたものだ。
慣れないものも多くあるが。
ジャスミンと共に区画に入ったとたんに、侍女達から向けられる視線が変化する。
「…本当に良かったの?あたしと一緒に来たら…」
アリアが不安を感じるのは、ジャスミンについてだ。
表立ったりするのは苦手な性格だと知っているから。だというのにジャスミンは笑ってくれる。
「いいえ…理不尽なことにもう俯いていたくないので」
まだ不安そうな弱々しい笑顔だが、アリアの境遇を見て見ぬふりはしないという言葉が嬉しかった。
治癒魔術師を無意味に持ち上げる必要はない。だが陥れて良いわけがない。
アリアにまつわる嘘の噂は、下品で失礼極まりないものとなっているから。
そんな噂に悩まされるアリアのそばにいてくれると決めたジャスミンの優しさが本当に心強かった。
侍女達だけの区画は針の筵のようだったが、今日はジャスミンがいてくれるというだけであまり気にならなくて。
それでもやはりジャスミンの方は今までアリアに向けられ続けた冷たい眼差しを共に浴びることとなり、少し顔色が悪くなっていた。
優しいジャスミンを守るように、アリアは冷たい眼差しを向けてくる侍女を思い切り睨み返す。
とたんに向こうは表情を強張らせて目を逸らすものだから、群集心理がここまで人を横柄にさせるのだと改めて実感した。
個々では何も出来ないくせに、味方が多いと思えばとたんに強気に出る。だが一対一では弱いまま。
治癒魔術師に心酔していたロアとケルトは大丈夫だろうかとふと思ってしまう。
彼女達は魔力が質量共に上質でアリアに対しても好意がある為に女性からの候補として選ばれ、即決したと聞く。
そのことが周りに知られたら、彼女達も今のアリアのような状況に陥るのではないかと。
天空塔に移ることが出来たならそちらに二人も移したいが、本当に天空塔に移れるかもアリアには不安なのだ。
地上からは隔離されているので、移れたならあらゆる面で助かるのだが。
「少しだけ私の部屋に寄ってもいいでしょうか?取りに戻りたいものがあったので」
「え、見たい!侍女の部屋ってどんななのか気になる!」
自分の部屋側に指をさしながら訊ねてくるジャスミンに、一気に興味が膨らむ。
アリアはいつも大廊下を渡って大浴場へと向かうので、侍女達の各部屋は知らないのだ。
「見ても楽しいものなんてありませんよ」
クスクスと微笑むジャスミンについて歩き、入ったことのない廊下を進んでいく。
騎士の部屋は知っているが、侍女の部屋はどんな場所なのか。
区画内自体が細やかで美しい装飾品も多い女性の好みそうな造りであるので、部屋の中にも期待してしまう。
騎士達の部屋は緊急時の戦闘場となる為に簡素だから。
通り過ぎる最中に横切る侍女達はここまでアリアが入り込んでいることにギョっと目を丸くしていた。
ジャスミンの部屋は少し奥まった場所にあり、ここです、と告げながら扉を開く。
先に部屋に入るジャスミンが、一瞬だけ固まった。
すぐに部屋に入って、片側に進んでいく。
「…あんた、戻ってきたなら……」
アリアも部屋を覗き込んだ途端に、中から聞こえてきた言葉が止まった。
二人部屋。だが侍女達が五人も集まっていた。
五人の中の誰がこの部屋をジャスミンと使っているかはわからない。しかしジャスミンのベッドであるはずの場所も、侍女達の二人に座られ占領されていた。
侍女達はアリアを凝視して固まっており、ジャスミンは息を殺しながら小さなタンスの鍵を開けて何かを取り出し、そのまま鍵は閉めずにこちらに戻ってきた。
同室の侍女が使っているのだろう片側は豪華だというのに、ジャスミンの方はあまりにも殺風景すぎる。
いじめが原因なのかと思い、アリアは思わず部屋に一歩入ってしまった。
「ちょっと!勝手に入らないでください!!」
とたんに部屋を使っているのだろう侍女が声を荒らげる。
「…ジャスミン、入っていい?」
「え…あ」
アリアに問われてジャスミンは一瞬戸惑い、侍女達に睨みつけられた。
「…どうぞ」
ジャスミンには申し訳ないが、強引に得た了承に笑顔を浮かべながら部屋に入る。
侍女達は警戒しながらも、アリアを睨みつけるのをやめなかった。
「そちらが良いからって、同室である私の意見を無視するのはどうかと思いますけど」
「ごめんね。一度入ってみたかったんだ。侍女の部屋ってどんななのかなって」
「…ならもう良いでしょう?出て行ってもらえませんか?」
警戒し続ける侍女達を無視して、ジャスミンのベッドやタンスに近付く。
まるでここを使っていないかのように荷物は存在せず、タンスの鍵穴には強引に引っ掛けたような痕まであった。
鍵をこじ開けようとしたのは明白だ。
「荷物全然無いんだね」
ぽつりと問えば、
「その子、自分の婚約者に甘えて婚約者の個人邸宅暮らしだもの。ここにはほとんど居ないわ」
返事をくれるのは同室の侍女だった。
そして別の侍女も口を開いていく。
「私たちならそこまで婚約者に甘えるなんて出来ませんわ」
「本当ですわよね。まず自分の力で邸宅を建てたいですもの」
クスクスと笑いながら、ジャスミンに冷たい声を浴びせる。
「え、なんで?全部用意してくれるなんて最高じゃない。すごく愛されてて羨ましいよ。みんなの婚約者はしてくれないの?」
冷たい空気をさらに冷やしたのは、アリアの反撃だった。
「アリアさん…ここにいるみんなは……」
戸惑うジャスミンの言葉に、アリアはピンと来て笑う。
「婚約者いないの?…なんか、ごめんね」
「なんですって!?」
「あなたなんて婚約者に捨てられたのでしょう!!」
気の強そうな侍女が二人、ガバッと立ち上がってアリアに詰め寄ってくる。それをさらに笑顔で躱した。
「確かにあたし、変なのと婚約してたけど…」
「ほら!」
「でも今は何というか、国のおかげってのもあるけど…誠実な人達と真面目な話し合いの最中だから」
笑顔で首を傾げながら言い放つ。
嘘は言っていない。少し脚色はしたが事実だ。アリアの護衛部隊のメンバーはみな誠実で、真面目にアリアの未来を考えてくれている。
アリアとレイトルの未来を。
そしてそれをどう受け取ったのか、五人は顔色を悪くする。
恐らく目の前の五人は、みなアリアより少し歳上なのだろう。全員婚約者がいないというのに、アリアには近々出来るかもしれない。それが屈辱なのか。
「あ、でも今って貴族でも恋愛結婚が増えてるんだよね?なら焦らなくてもいいんじゃない?」
明るい声で無邪気に話せば、何を言うつもりだ、と警戒するような表情を向けられて。
「ここにいるみんな可愛いから」
アリアの言葉に一瞬呆け、全員一気に眉を顰めながらも頬を赤くした。
「あたしなんか背高いじゃん?それだけで可愛い服とか似合わなくてさ。無難なのばっかしか着られないの。みんな髪の毛とか綺麗だし、あたしみたいにでかくないから可愛い服絶対似合うと思うんだよね。顔も可愛いし」
褒めれば褒めるほど、おだてればおだてるほど、可愛いを連発するほど、五人は顔を赤くしていく。特に気の強かった二人までもが、瞳を潤ませながら女の子の顔になってしまっていた。あまりにも単純すぎて有り難すぎる。
「で、でも私たち、あなたみたいに胸は無いですし…」
ふと軟化した声で一人に問われて、えー!?と返してやった。
「身体目当ての男ばっか寄ってくるよ!?絶対だめだよ!!目覚まして!!それにみんな見た目ほんと完ペキなんだから!!ね、ジャスミン!!」
「え、あ、ええ…」
突然ふられてジャスミンは慌てるが、こくこくと頷いてくれた。
「あたし、騎士団の人たちばっかいる兵舎内周棟に部屋あるでしょ?そのせいで王族付きの人たちに“可愛い侍女紹介してくれ”って言われててさぁ」
最後にぶちかます爆弾に、五人の瞳から完全に敵対心が無くなった。
「王族付きの人たちって真面目な子が好きみたいで、ジャスミンみたいに頑張り屋な子がいいって言われるんだけど…ほら、あたしあんまり侍女の生活区画入らないからわかんなくてさ。今一番仲良くしてくれてるジャスミンに聞こうとしても、同室の子とか同じ班の子の話しか聞けないし--」
「--ジャスミン!わ、私達仲良いわよね!?」
全て嘘は言っていない中で、侍女達はとたんにジャスミンを笑顔で囲んだ。
囲まれたジャスミンは慌てるが、侍女達の鼻息は荒い。
今まで自分達がジャスミンに何をしてきたのか、わかっているのだろう。笑顔を向けながらも、どこか表情は青白いから。
「冷たくしたりしてごめんなさい!今まで色々お互いに誤解があったかも知れないけれど、同じ班として頑張ってきましたものね!!」
固まるジャスミンを、アリアは五人の壁からそっと助け出す。
「じゃあ、あたし達お風呂に入りに来てただけだから、もう行くね。廊下で兄さん達待たせてるし」
「そうなのですね!いつでも遊びに来てくださいね!!」
「次はぜひ私の部屋にもいらして!!」
「私は特別なお菓子も用意しますわ!!」
先程まで睨みつけていたというのに、ころりと手のひらを返す姿はなかなか面白い。
「ありがとう!今ちょっと大変な時期だからすぐには無理だけど、遊びに寄るね!」
敵対するより味方につけた方が得策だと気付いたのだろう。断らずに手を振るアリアに、侍女達は少し安堵の表情となっていた。
そのまま五人に見送られて、ジャスミンと共に部屋を出て。
「…………すごいですね…アリアさん。みんなと仲良くなるなんて…」
「仲良く…んー、まあ、処世術的な感じなのかな?でもこれで少しはジャスミンも城内で生活しやすくなるんじゃない?」
「あ……本当にありがとうございます…」
「どーも。…毅然とした態度も大事だけどさ、正論だけじゃ敵作るばっかでしょ。曖昧にできるところは曖昧に仲良しごっこしてるほうが、正直楽だよね」
「たしかに、それもそうですね」
完全に嫌ってくる相手と仲良くする必要はないが、互いにうまく躱せる関係ならそちらの方が気が楽というものだ。
今後何人か騎士を紹介しろと言われたら、それとなく適当な独身騎士を兄達に探してもらうとしよう。
「それにしても、ほんとに部屋に何もなかったね。…あれ絶対に鍵付きの引き出しこじ開けようとしてたよね」
ジャスミンの部屋のタンスを思い返しながら訊ねれば、返ってくのは曖昧な笑顔だ。
「トリッシュのおかげで荷物は無事なんで、なるべく気にしないようにはしてるのですけど…」
「いや、でもちょっと、…」
どうにか出来ないかと考えるが、あまり口を出すのも違う気がして。
ジャスミンはトリッシュと話し合って今の状況に落ち着いているはずだから。
「今後あの子達がまた敵視してくるようになったら、さすがに侍女長に言った方がいいんじゃない?」
「そうですよね…そうします。…トリッシュにも心配かけさせたくないですし」
今までは波風を立てないようにしてきたかもしれないが、理不尽をそのままにしないと決めたのなら動くべき要所もあるから、と。
「そういえば、鍵の引き出しに何入れてたの?」
ジャスミンが今まで荷物を置けていた場所はほんの小さな空間で、そこに何を入れていたのか。
「髪紐ですよ。荷物は全部トリッシュの家なので、城内での入浴も久しぶりなんです。髪紐だけあそこに入れていたので」
ごくわずかな備品だけを置いていると告げながら、ジャスミンは綺麗な緑色の髪紐を見せてくれる。
「……ほんとに今まで大変だったんだね」
「もう慣れましたよ」
慣れてはいけない気もするが、ジャスミンが笑うのでアリアも笑うだけに留めた。大浴場までの廊下を進んで、さくっと済ませてしまおうと思っていた矢先に。
「--あの、アリア、様……」
ふと呼び止められて、聞き慣れない声にアリアは振り返った。
誰だろう。そう思う間もなく。
「………………」
呼び止めてきたか弱そうな人物に、アリアは一瞬呼吸を忘れてしまった。
ジャスミンはその人物に見覚えがないかのように首を傾げて、アリアの様子の変化に困惑する。
「あの、アリア様に治癒を頼みたい方がいるので……一緒に来てもらえないですか?」
固まるアリアをよそに、用件を伝えてくるのは。
「あの…どちら様でしょうか?」
訊ねるジャスミンに、その人物は慌てたように目を伏せながら口を開いた。
「あ…私は侍女ではなくて…ガブリエル様の付き人のシーナと申します…」
自分がここにいることにいまだに慣れない様子を見せながら、アリアのかつての婚約者に本当に愛されていたシーナは目を伏せたままお辞儀をした。
ガブリエルの名前が出たことに、ジャスミンも怯えた様子を見せる。
「…ガブリエルさんが怪我でもしたんですか?」
何とか自分を取り戻すアリアに、シーナはいえ、と首を横に振り。
「あの…とにかく、一緒に来てもらえませんか?」
理由を深くは述べないシーナに、アリアはジャスミンの視線を感じてそちらに目を向ける。
ダメです、と首を横に振るジャスミンにアリアも頷いた。
「…ごめんなさい。私の治癒魔術は城内でも勝手に使っていいものではないんです。医師団の方に申請してもらわないと…」
それは本当のことなのだが、アリアの言葉にシーナの表情が青ざめていく。
「どうかお願いします!!あなたが来てくれないと!!」
焦り慌てるシーナが、アリアの腕にすがる。
「お願いします!!一緒に来てください!!」
尋常ではない状況に、周りの侍女達からも視線を向けられた。
「じゃあ、近くにいるこちらの副隊長に事情を伝えて戻ってくるから」
「それでは遅いのです!!」
アリアを離そうとしないシーナは必死で、本当に離すつもりが無さそうで。
状況もわからないのに勝手な真似はアリアもできない。話しを進めることも出来ず困惑が強まる中、新たな三人の侍女達がシーナの後ろに立った。
「遅いのよ!早くしなさいよ!!死んじゃったらどうするの!?」
切羽詰まった声で物騒な言葉を叫ぶ侍女が、シーナと共にアリアの腕を掴む。そして二人の侍女がアリアとジャスミンの背中を押した。
「ちょっと!」
「急いでください!!怪我人がいるんです!!」
足を踏ん張ろうにもジャスミンの方が先に押されてしまい、アリアは仕方なく侍女達とシーナに従った。
「怪我人って、どの程度の?」
「傷から血が止まらないんです!急いでください!!」
アリアの腕を強く掴む侍女には見覚えがあった。アリアを小馬鹿にし、見下し続けてきた侍女だ。
「じゃああたしはついて行くから、ジャスミンを離して!兄さん達に事情を説明してもらうから!」
「そんなこと言ってる場合じゃないんです!!」
言葉が伝わらないのは、焦っているからなのか。不安そうなジャスミンと目を合わせながら無理やり連れて来られた場所は、侍女の生活区画の中でもさらに奥まった場所だった。
奥へ入れば入るほど人の姿が見えなくなる。
「あの、ここは上位七家の方々のみの区画じゃ…」
ジャスミンの問いかけには、誰も言葉を返さなかった。
アリアも聞いたことがある。
区画分けされた中でも、上位七家の娘達のみに与えられた豪華な場所があると。
今現在王城勤めをしている七家の娘は藍都のジュエルとガブリエルのみで、ジュエルはラムタル国にいる為に実質ガブリエルだけが使用している場所になるはずだが。
やはりガブリエルが怪我をしたのだろうかと思うが、状況がおかしいと思い始めたのは奥に行けば行くほど侍女達が横柄になってきていたからだ。
怪我人を治してほしくて焦る表情などしていない。
三人の侍女達は、とっとと進めとばかりにアリアとジャスミンを急かすだけになっていた。
なぜ自分達が、と不満そうな顔までして。
シーナはひたすら俯き続けており、何を考えているのかはわからない。
せめてジャスミンは離してもらいたかったが、奇妙な状況下で彼女は完全に萎縮してしまっていた。
「ねえ、どういうつもりなの?」
怪我人など本当にいるのか。
警戒して訊ねるアリアに、後ろに回っていた侍女達は鼻で笑うような表情を向けた。
兄達護衛のいない状況で喧嘩するつもりなのか。呼んだのはガブリエルだろうが、ジャスミンもいる状況でアリアがどこまで立ち向かえるかは不安なところだった。
「その奥の部屋ですわ」
侍女の一人が言い放ち、最奥の扉を開ける。
豪華な扉は見た目とは裏腹に非常に軽く、アリアは背中にジャスミンを庇いながら渋々部屋へと入った。
室内も非常に豪華で、部屋というよりはロビーのような広間が広がる。
その奥のソファに優雅に座っているのはガブリエルで、隣には侍女から付き人になったイニスが立っていた。
「…あら、遅かったのね。死んでしまうところだったわ」
にこりと微笑みながらガブリエルは手を上げて何かしらの合図を出す。
眉を顰めるアリアの目の前で、別の部屋から男達が三人現れて、一人の女性をアリアの前に放り捨てた。
「っ!?」
「ひっ……」
その女性の状況に、アリアもジャスミンも表情を引き攣らせた。
顔が潰されていたのだ。
低く呻いているので何とか生きているとわかるが、顔は誰だかわからないほど潰れて腫れ上がり、腕や足の皮膚が見えている箇所も鞭で打たれたかのような赤黒いミミズ腫れがいくつもあった。
長い髪には彼女自身のものだろう血が酸化した褐色の状態でこびりついており、元の髪色もわからないほどだ。
同じ女として、目を覆いたくなるほどの酷さ。
隣で腰を抜かしたジャスミンは放っておいて、アリアはすぐにその女性へと駆け寄った。
その人が誰なのかはわからない。だが、今すぐ助けなければならない気がした。
床にうずくまる肩に触れた途端に、女性はビクリと強く跳ねて、怯えるような悲鳴と共にのたうって逃げようとした。
その悲鳴が、どこかおかしい。
「安心してください…すぐに治しますから…」
もがいて逃げようとはするが、逃げる力も気力もないのかぐったりとしている。力のない女性は至る所が血まみれで、顔の次に酷い場所があった。
胸や下腹部だ。
ボロ雑巾のような布切れだけ残った衣服から覗くのは、悲惨すぎる状況。そして、アリアが違和感を感じた通り、喉まで潰されていた。
酷すぎる。
同じ女として、あまりにも。
アリアは女性を怖がらせない為に抱きしめると、怯えた女性にひたすら「大丈夫だから」と伝えながらゆっくりと白い魔力で女性を包み込んだ。
血を止め、傷を癒やし、全神経を回復の為に費やした。
う、う、と何度も呻きながら逃げようとする女性を宥めながら、めくれ上がった皮膚の下の肉の組織を繋ぎ合わせて、細心の注意を払って集中を続けて。
普段は傷口を直視しながら治癒を行うが、今回は女性を安心させる為に抱きしめ続けた為に感覚のみでの治癒となってしまった。
「大丈夫ですよ…もう大丈夫です」
傷が治っていくことに気付いてくれたのか、女性もすがるようにアリアに身を寄せてくる。
弱々しい力。
震える腕で懸命にアリアに縋り続けて。
「--っ、う、あぁ……」
潰れた喉が治ったのか、耳に聞こえてきた女性の泣き声が正常に戻っていた。
完全に癒えたかはわからない。だがアリアは女性を確認しようとして。
「ぇ……テューラ、さん?」
まだ完全に癒えたわけではない。それでも見違えるほど傷の落ち着いた女性は、ボロボロと泣きじゃくりながらアリアを見つめていた。
兄の愛する女性が。
涙をこぼし続けるテューラは怯えた表情のまま、アリアが目の前にいることに驚いたように目を見開く。
アリアも、驚きを隠さなかった。
「あら、その女を知っていたの?」
そこに響いてきたガブリエルの声に、テューラが強く肩を震わせてアリアに縋り付いてきた。
「きゃあ!!」
床に座り込んだままのアリアとテューラのそばに、ジャスミンまで背中を押されて倒れ込んでくる。
「…この人に何したのよ!!」
テューラとジャスミンを庇いながら立ち上がって強くガブリエルを睨みつけるが、涼しげに微笑まれるだけだった。
「私は何もしていないわ。罰を与えたのはイニスですもの」
優雅に座り続けるガブリエルの隣に立つイニスが、じろりとアリアを睨みつけながらこちらに近付いてこようとする。
「もうやめておきなさい。少しだけだと言ったでしょう?」
ガブリエルに止められてイニスは舌打ちしながら足を止めるが、その手には棘のような突起の付いた棒があった。
それを目にしたとたんにテューラがさらに震え上がる。
誰に何をされたのか、わかってしまった。
「イニス…どうして……」
ほんのわずかな間とはいえ仲良くしてくれたはずの友人だったのに。
兄とイニスの間に何があったかも、ガウェの個人邸宅で聞かされていた。
侍女を辞めさせられて、しかしガブリエルの付き人として城に留まることとなって。
なぜ、テューラを。
「どうしてですって?」
動揺するアリアへ、イニスは凄まじい怒りを露わにした。
「その汚い売女が私のニコル様をたぶらかしたからよ!!」
目を剥いて怒り狂うイニスが、凄まじい叫び声で怒鳴り散らしてくる。
「汚い分際で!!私とニコル様の邪魔をして!!」
「うるさいわ、イニス。もう少し静かにしてちょうだい」
この広間で唯一優雅に振る舞うガブリエルだけが、イニスの言葉を遮ることができた。
「ですがガブリエル様!!」
「もう充分痛い思いをさせたのだから、これでその女も身の程を弁えられるでしょう。あなた、本当に人を殺してしまうところだったのよ?おかげで治癒魔術師を呼ばなければならなくなったじゃない」
はあ、とため息を吐きながら、ガブリエルもアリアを呼んだのは想定外だったのだと告げる。
「そこの遊女がニコル様を騙して身請けさせたでしょう?だから身を引かせる為にも、ほんの少し痛い目に遭ってもらうだけの予定だったのよ?」
困ったような表情をわざとらしく作りながら、ガブリエルは二度目のため息を吐く。
「騙してって…この人はそんな人じゃないわ!」
「あら、私はあなたのことも心配しているのよ?だってその女、遊郭に勤める遊女なの。わかるかしら?」
「関係ないわよ!!」
アリアが遊女の意味を理解していないと思ったのか、説明をしてこようとする。それを止めて、ガブリエルを強く睨みつけた。
「同じ女として、そこの女がどれほど汚い存在なのかわかると思っていましたのに…残念だわ。…そこのあなた、あなたは身の程をきちんと理解しましたわね?」
ガブリエルはテューラに視線を移し、わざとらしく首を傾げながら訊ねる。いまだに涙を溢れさせながらガクガクと震えているテューラはその眼差しを恐れるかのように、ヒュ、と呼吸まで強張らせてしまった。
「ふざけないで!こんなことして、タダで済むと思ってるわけ!?兄さんや皆が知ったら…」
「そうそう、護衛にあの人が立っているのよね?だから不審に思われないよう、さっさと済ませてしまいたかったのよ」
アリアの言葉など全く気にも留めずに、ガブリエルはテューラを小部屋から連れ出して床に倒した男三人に微笑んで合図をした。
アリアもそちらに目を向ける。
「…………なんで?」
そして、声が強張った。
男の二人には見覚えがある。
王城の慰霊祭後の晩餐会で糾弾された二人の騎士だ。騎士団を追放されたと聞いていた。だが今はその二人より、最後の一人から目を逸らせなかった。
「……なんでいるのよ!?」
叫び、睨み付ける。
なぜここにいるのだ。元婚約者が。ケイフが。
ケイフはアリアの怒声に唇を噛んで俯いた。
「あら、お知り合い?付き人のシーナの夫なのだけれど」
クスクスとこの場に似合わない微笑みを浮かべ続けるガブリエルだけが、不安も緊張も怯えとも無縁でいた。
「そういえばたしか、あなたの元恋人でもあったわね?長年騙され続けてきたのでしょう?可哀想に」
まるで全て知るかのような声色。
知っているのだと、ふと分かってしまった。
知っているどころではない。もっと、それ以上の何かで繋がりがあると。
広間の隅で小さくなっているシーナも、現状に怯えて震え続けている。
ほくそ笑むのは三人の侍女達と、二人の元騎士だけだった。
「ガブリエル様、アリアがやられてる間、あの女を打たせてください!傷ひとつ残らないなんて、またニコル様に寄って行くかも知れませんわ!!」
イニスはテューラをめった打ちにしたであろう棒を強く握りしめてガブリエルに詰め寄る。
そしてガブリエルも。
「…ほどほどにね。あと、見える位置はやめておきなさい」
他者を傷つけることを、いとも簡単に承諾する。
その言葉にテューラが一段と強く震えた。
背後にテューラを庇って、ジャスミンも庇って。
「…あたしに何する気よ」
部が悪い状況だが、アリアは睨み続けることをやめなかった。
アリアがやられている間、とイニスは言った。
何をやられてしまうのか。
想像は容易だった。
それでも訊ねるアリアに、ガブリエルは再び視線を戻してきて微笑む。
「その女がここにいることも、あなたが治癒魔術を使用したことも、発覚してはいけないでしょう?だから少し、痛い目を見て
口を閉ざしてもらうだけよ」
汚いものなど知らなさそうな高貴な姿で、汚い現実を。
「入浴の時間なんてそうそう長いものでもないから、怪しまれないようにとっとと済ませてしまいましょうか」
「なっーー」
ガブリエルの合図に、二人の元騎士が薄ら笑いを浮かべてアリア達に近付いてきた。
近付かせないようにしたくても、手元にあるのは入浴用の着替えやタオルだけ。
「来るな!!」
手の届く距離にまで近付いた男の一人を蹴ろうとして、その足を掴まれてしまった。
そのまま引っ張られて、床に倒れ込む。
「お前の兄には散々な目に遭わされたんだ…責任取ってもらうぞ」
「ふざけんな!!あんた達が兄さんを殺そうとしたんだろ!!」
元黄都領主から毒を渡されて、ニコルを殺そうとしたのだ。だというのに逆恨みなど。
アリアが強く睨みつけて殴り掛かろうとしても、鍛えていた男に敵うはずがなかった。
強い力で足と腕を握りしめられて、痛みに顔が歪む。
「きゃああ!!」
そして背後からはジャスミンの悲鳴が。
そちらに視界を向ければ、もう一人の男はジャスミンの襟元を掴んで引きちぎっていて。
「その子は関係ないでしょ!!」
庇いたくても、手も足も出ない状況では声を張ることしか出来なくて。
「ちょっと!ジャスミンは関係無いって言ってんでしょ!!」
助けたくて必死に暴れれば、関係あるわよ!と叫んだのは侍女達の一人だった。
「ガブリエル様!その子、私の好きな人を横取りしたんですよ!!トリッシュ様だってきっと下位のその女より中位の私と一緒になりたかったはずなのに!」
強く目を剥いて、苛立ちを全てぶつけるような醜さで。
「…トリッシュ様といえば、魔力の上質な方よね?そんな方が魔力値の低そうな女性を選ぶとは思えないし…」
「そうなんです!!きっとその女も身体を使ったに違いありませんわ!!」
カタカタと小動物のように震えるジャスミンは反論もできないまま顔色を青白く変えていく。
「…好きになさい」
ガブリエルの方はそこまで興味を持ちはしなかったが、侍女達も男達も、勝ち誇る笑みを顔に貼り付けていた。
「ふざけんな!触んな!!」
絶望感が増していく中で必死に足掻くが、アリアの力ではどうすることもできなかった。
ジャスミンは既に怯えきって抵抗する力を無くしており、テューラの方にもイニスが悍ましい笑みを浮かべながら近付く。
「そうだわ!ケイフ、あなたが最初にその女を汚しなさい。治癒魔術師も、せめて好きな男に最初は抱かれたいでしょうから。…最初かどうかはわかりませんけど」
自分だけが綺麗な場所にいながら、ガブリエルは残酷な命令を出す。
「…そんな…俺、は……」
動揺するケイフはガブリエルを、そしてシーナを目にする。
偽りの恋人期間でも、ケイフは一度もアリアと繋がろうとはしなかった。
「俺は…できません……」
壁側に後ずさって逃げながら、ケイフは小声で拒絶する。
「…気の弱い男だこと。…それともあなたも嫌なだけかしら?男に狂った醜い女なんて」
故意に流されたアリアの酷い噂を嘲笑いながら、ガブリエルはケイフを睨みつけた。
「とっとと始めなさい」
「俺には出来ません!!」
壁側からガブリエルの元へ駆け寄って、ケイフは目の前の傲慢な女に膝をついて土下座をした。
「俺は、もうその子に謝れないくらい酷いことをしてきたんです!!妹みたいに大切な子なんです!!」
アリアを傷つけた理由の一端が垣間見えてしまう。傷付けたくてアリアと婚約したわけではなかったのだ。
ケイフがアリア達を守ろうとする姿に、胸が熱くなるような感覚があった。
彼はアリアを女としては愛していなかった。それでも優しかった理由が彼の中にあるのだ。
別の感情からアリアを大切にしてくれていたのだ。
「奥様!後生です!!どうか彼女達を見逃してください!!既にこんな酷い目にあったのに誰かに告げ口なんてきっと出来ませんから!!」
縋り付くようにガブリエルに床を張って擦り寄り、両手を合わせて頼み込む。
「そちらの遊女は遊郭に帰して、彼女達には口止めをすればそれで充分じゃないですか!!」
「ケイフ…あなたまさか、この私に口答えする気なの?」
その姿に不機嫌になるガブリエルの前に、新たにシーナまで膝を付いた。
「やめてください奥様!!お願いします!!もうやめてください!!」
「シーナ!下がってて!!」
「お願いします!!」
ケイフはシーナを庇うが、シーナも土下座をしてアリア達を見逃すよう何度も伝える。
「もう充分。けっこうよ。とっとと始めなさい」
しかしそんな懇願がガブリエルに通じるはずもなく、今まで優雅に微笑んでいた頬にわずかに苛立ちを見せながら、二人の男達に冷酷にも命じた。
とたんに強い力で押さえつけようとしてくる男にさらに乗り掛かられて。
「ふざけんじゃねぇよ!!触んな!!」
「あまり騒ぐな…どうせならお互い気持ちよくなろうぜ」
男の気持ち悪い言動に胸が先ほどよりカッと熱くなる。そこで気付いた。胸が熱いのではない。胸元にある、父がくれた古い宝石の首飾りが熱を持っているのだと。
「ケイフ!!兄さんの所に行って!!早く!!」
兄はきっと助けに来てくれる。そう信じて、アリアも自分が助かる為に叫んだ。
アリアに罪悪感を抱いているというのなら、兄を連れて戻ってきて、と。
ケイフは一瞬呆然としたが、シーナと顔を合わせ、シーナに強く頷かれ、一気に立ち上がって扉へと走った。
だが。
「行かせるわけないでしょう?」
冷酷な言葉が響き渡る。
ガブリエルが指先ひとつで術式を組み、その指先から溢れた黒い魔力が霧となってケイフから身動きを封じた。
後一歩で扉に手をかけられたのに、ゴトリと置物のように固まった身体で床に倒れてしまう。
「さ、始めなさい」
そしてまた微笑んだ。
「いやあああぁ…」
布を強く引き裂く音と共にジャスミンから弱々しい悲鳴が響き、彼女に手をかけていた男がさらに乱暴な手段に出たことがわかった。
「ヒッ…」
テューラの方にもイニスが近付き、思いきり振り翳した棒を鞭のようにしならせてその背中を打ちつける。
しなる音と声にならない悲鳴。テューラは長い時間受け続けた折檻に再び耐えるかのように怯えてうずくまって。
アリアの胸元にも、男の手が伸びる。
容赦なく胸を引きちぎるように掴まれて、痛みと恐怖が一気に全身を襲った。
村で男達に襲われた時の恐怖が蘇る。せっかく男性に近付かれても怖くないほど回復していたというのに、たった一人の男のせいで。
「やめて!」
かつてのトラウマが、アリアを一瞬で弱くする。
「やばいな…」
「おい、後で代われよ」
男の方は自分勝手にアリアの大きすぎる胸を堪能して、もう一人の男も羨ましそうに呟いて。
満足そうなガブリエルと、クスクスと笑い続ける侍女達。シーナは再びガブリエルに恩赦を求めて足に縋ったが、蹴り離されてしまった。
酷すぎる。
一方的で理不尽な暴力になす術もないなんて。
アリアの衣服がとうとう破かれた後。
「どこの誰の子かわからない子供を妊娠でもしたら…みんな噂が本当だって気付くでしょうね」
今までで一番満足そうにガブリエルが笑って呟いた。
胸にある首飾りの石は火傷をしそうなほど熱いのに。
「助けて…兄さん……」
怖くて、声が震える。
大声を上げたくてもすでにそんな気力など存在しなくて、身体を蹂躙されていく悍ましさに強く歯を食いしばって。
「身の程をわきまえないからこんなことになるのよ」
弱々しい悲鳴や悲惨な音で溢れる広間にガブリエルの声が静かに響く。
ーー兄さん!
アリアは胸にある石に必死に願った。
父が持たせてくれた、共鳴石に。
エレッテは共鳴石ではないと言っていたが、今のアリアにはニコルと自分を繋げるものはこれしかなくて。
危険が迫った時に互いの石に伝わるはずだから。
だから早く、早く。
「見てみろよ…」
「……すごいな…」
男達は弄ぶように破り捨てて顕になったアリアの上半身に欲望の眼差しを向ける。
自分の胸が他の女性達と比べてどれほど大きいか、自分が一番理解している。
それを、気持ち悪いだけの存在に好き勝手にされるなんて。
屈辱と、憎悪と、悍ましさと。
「触らないで!!」
アリアの両手は男の片手で簡単に制されて、身を守ることも出来ない状況で。
弱々しくも懸命に拒絶の言葉を発しても、男達は己の勝利を確信するように笑うだけだった。
ーー兄さん!!
兄さん。
「兄さん助けて!!」
叫んで、また笑われて。
男達と侍女達の失笑のような笑い声。
「黙ってやられてなさいよ!売女の仲間の分際で!あんたなんかをニコル様が助けに来るわけないでしょ!ニコル様は私のものよ!!」
身動きの取れないアリアの顔面目掛けて、イニスが棒を振り下ろした。
棒の行き先を凝視してしまったアリアの額に凄まじい衝撃が走り、痛みは一拍置いてから激痛として襲いかかってきた。
「うわあああああ!!!!」
あまりの痛みに混乱と恐怖に襲われる。
テューラはこれを受け続けてきたのだ。
棒の先の突起がアリアの額をえぐる。皮膚が捲れ上がる残酷な痛みを。
あまりの激痛に頭の中が真っ白になった。
恐怖だけに全身を囚われた。
「おい、顔はやめろよ…」
男の声もどこか遠くから聞こえるほど、抵抗の気力が完全に消えてなくなる。
全てを完全に恐怖で支配されたのは、村で襲われてから二度目だった。
助けを求める気力すら沸かず、身体は蹂躙され始めて。
胸にある石が灼熱と化すほど熱くなっていることすら、今のアリアには気付けなかった。
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