第101話


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 宙に浮いているような感覚があるのに、全身が重く沈んでいく。
 その心地良い重みに全てを委ねていたかったのに、何かがルードヴィッヒの心に引っかかり続けていた。
 心地良さなどに身を委ねている場合ではないと、引っかかり続けるものが強く叫んでくる。
 だが、心地良さの方が勝り続けていた。
 まるで誰かに抱きしめられているかのような。
 そしてそれは、愛しい少女のような。
 思わず抱きしめ返してから、ルードヴィッヒはゆっくりと目を開けた。
 夜空のように暗くも美しい空間で、自分と少女が抱きしめ合いながら沈み続けていく。
 少女はルードヴィッヒが見つめていることに気付くと、そっと顔を上げてから、笑いかけてくれた。
 薄桃色の髪の、可愛い少女。
「…ミュズ」
 ルードヴィッヒが名前を呼べば、嬉しそうに頬を胸にくっつけて頬擦りしてくれた。
 甘えてくる姿に、愛しさが込み上げる。
 可愛すぎて、抱きしめる腕の力をさらに強めた。
「ーー…」
 そこで気付いた。
 ミュズの温もりが強く伝わる理由に。
 自分もミュズも、一糸纏わぬ姿でいる。
 滑らかな感触に改めて気付かされた時、自身の深部が一気にカッと熱くなる非常事態に慌てた。
 気付かれてはいけないと抱きしめる腕を離すのにミュズの方は離れてくれないから、昂ぶるものが、柔らかな肌に触れてしまう。
 駄目だというのに、その柔らかさは離れ難くて。
 ドクドクと心臓の鼓動に合わせて脈打ちながら、さらに硬く張り詰めていく。
 離れないミュズは再びルードヴィッヒへと顔を向けると、ゆっくりとした動作で唇を近付けてきた。
 あまりに緩やかな動き。なのに反り立つものを激しく刺激する。
 もしこのまま唇を合わせれば、ルードヴィッヒはミュズを内側からも堪能できる状況に陥るだろう。
 心臓の音が早鐘を打つように強く激しくなっていく。
 愛しい少女と、身も心も繋がれたなら。
 こんな、夢のような空間で。
 きっと全てが幸福に満たされるはずだ。
 しかし胸に引っかかり続ける何かが、ルードヴィッヒに駄目だと強く訴えかけてくる。
 それだけは駄目だと。
 まるで哀願するかのように。
 いったい何なのだろう。
 何がルードヴィッヒを、欲望のままに動くことを止めさせるのだろう。
 このままではいけないような気分になってしまう。しかしそれも、ミュズの唇と重なった瞬間に一気に弱まった。
 そうだ、と。
 何も悪くなんてない。
 悪いことであるはずがない。
 ミュズがルードヴィッヒを選んでくれたというのなら、互いに思い合っているというのなら。
 何もーー
 触れ合わせただけの口付け。それでも、とろけそうな柔らかさに全身まで熱くなるようで。
 このままミュズを味わい続けたい。
 このまま。
 このままーー
ーー駄目だ!!
 胸に引っかかり続ける声が、強く静止する。
 その声は、他の誰でもない。
 自分自身の声だった。


「ーールードヴィッヒ!!起きたのか!?」
 目が覚めたルードヴィッヒの耳に最初に飛び込んできたのは、ジャックの焦るような、喜ぶような声だった。
「……ジャック殿?」
 どういう状況なのかわからず、声のした方へと目を向ける事しかできない。
「お前やったな!!お前が勝ったんだ!!」
 理解できないままのルードヴィッヒにジャックは喜び続け、その隣に見慣れない武人が並ぶ。
「おめでとう、ルードヴィッヒ殿。第三試合は君の勝利だ」
 ウインドと共にいたはずの武人が、肩の力が抜けたような微笑みを浮かべながらガシガシと頭を撫でてくれた。
 子供扱いされたようで無意識に嫌がってしまったが、武人は手を離す素振りを見せない。
 そして
「…おめでとうございます、ルードヴィッヒ様。剣武大会の規定に則り、同時の気絶から先に目覚めた貴殿の勝利が決まりました。……つきましては…その……第四試合へと早急に向かっていただきたく…………」
 武人とは別の女性の声が聞こえてきたものだから上半身を起こして顔を向ければ、ラムタルの白い軍服に身を包んだ女性が淡々と説明を始め、だが何かに気付いたかのように身体ごと顔を逸らしてしまった。
 エル・フェアリア語を流暢に話していたかと思うと。
『…私は勝者を伝えてきますので、後はお願いします!!やだ、もう……』
 突然投げやりに叫んで、部屋を出て行ってしまった。
 いまだに何が何だかわからないルードヴィッヒを置いて、ジャックと武人が顔を見合わせて苦笑して。
「血気盛んだな、少年。試合の興奮が続いているだけだろうから、気にすることはないぞ」
 流暢なエル・フェアリア語のまま、武人が面白そうに笑い続ける。
「お前なぁ…」
 変わってジャックは、呆れた様子で。
 何だというのか。
 困惑したルードヴィッヒも、次第に身体の異変に気付いてしまった。
 股間が元気に張り詰めている。
 気付いた瞬間にバッと目を向ければ、衣服越しからでもわかるほど昂ぶる様子に一気に血の気が引いた。
 この状態、今、女性にまで見られていなかったか。
「うわあああああああ!!!!」
 あまりの出来事にわけもわからないまま叫んで、ベッドに再び突っ伏する。
 状況などいまだに飲み込めないというのに。
「さっきの奴はうちの癒術騎士のイヴだ。安心しろ。治癒魔術師として、そうなった原因はちゃんと理解しているさ」
 恥ずかしがるなと言ってくれるその言葉の節々で笑い続けているではないか。
「な、何で…これ、私はいったい……」
 女性に見られた恥ずかしさで一気に萎んでいくのを肌で感じてから、ルードヴィッヒは情けない声で現状の説明をジャックに求めた。
「…第三試合、覚えているか?」
 問われて、数秒考えて。
「……あ!!」
 思い出す。
 ウインドとの試合を。
 その試合の記憶は途中から消えている。
「お前はその試合でウインドと同時に気絶したんだ。そのせいで勝者は持ち越し、先に目覚めた方の勝利になるんだがな。…お前が先に目覚めたんだよ」
 よかったな、と。
 説明を受けてから改めて室内を見渡せば、ルードヴィッヒの隣のベッドに寝かされているウインドを見つけた。
 ウインドは今も深い眠りの中で身体を癒すことを優先するように、眉間に深い皺が刻まれている。
「安心するのはまだ早いぞ。勝者は君になったが、次の試合に出られるかは、君次第だ」
「……え?」
 ジャックに続く武人の説明に、また困惑した。
「剣術の第三試合も全て終わり、既に第四試合…準決勝戦が始まっている。武術の一戦目はスアタニラ国のトウヤ殿が勝ち上がった。…次は君とイリュエノッドのクイ殿の試合だが…間に合えば戦えるが?」
 意味はいまだに理解できない。
 だが身体が直感した。
「走るぞ!」
 ジャックに言われて、すぐに反応する。
 走り出すと同時に一瞬で全力疾走に持ち込んで、グラウンドへと急いだ。
 先を走るジャックだったが、廊下を抜けて、日光の下に出た瞬間にルードヴィッヒの背中を強く叩いて「急げ!」とだけ告げて。
 青空の下、がむしゃらに戦闘場へと走るルードヴィッヒに一気に歓声が降り注いだ。
 同じグラウンド内にいる他国の者達からも、観客席にいる観戦者達からも。
 そして戦闘場には、腕を組んだクイが一人、ルードヴィッヒが駆け寄るのを嬉しそうに眺めていた。
『ーー第三試合四戦目は大会規定により、先に目覚めたエル・フェアリア国ルードヴィッヒ殿の勝利となりました!続けてこれより、第四試合二戦目を開始いたします!!』
 あと少しで戦闘場に到着するというところで花火が打ち上がり、観客席からさらに盛大な歓声が噴き上がる。
『待ってたぞ!!』
 戦闘場へと辿り着けば、クイが満面の笑みを浮かべながらルードヴィッヒに手を差し出してくれた。
 その手に捕まり、一気に戦闘場へと上がる。
『満身創痍だな。悪いがこの試合、俺が貰った』
『私は勝ちます!!』
 クイはしっかり休んだかのように戦闘着も肌も綺麗で、変わってルードヴィッヒはボロボロのままで。
 歓声が凄まじく湧き上がり続けて収まる気配が見えない中で、クイが「向こうを見ろ」と一点を指差して。
 そこは、イリュエノッドの陣営だ。
 そして、コウェルズが嬉しそうに笑っていて。
『トウヤもコウェルズ様も勝ち上がったぞ』
 ボソリと教えてくれて、全身の痛みも疲れも一気に吹き飛んだ。
 戦闘場には審判も上がってきて、彼も祝福するようにルードヴィッヒに笑いかけてくれて。
 状況は今も把握しきれていない。
 だが、把握する必要などない。
 目の前にいるクイを倒す。
 そのことだけに集中するようにルードヴィッヒは己の全神経を自身に集中させて、凄まじい歓声を全て遮断した。

ーーーーー

 軽い駆け足で戻ってきたジャックを、ダニエルと共に迎える。
 イリュエノッドの陣営内で、コウェルズは戦闘場に立ったルードヴィッヒを満足そうに眺めていた。
 まさか四強となるなんて思ってもいなかった。しかも相手はウインドだ。
 ラムタル陣営はウインドに手を焼いていた様子で、ルードヴィッヒの勝利が告げられた時には安堵のため息を溢していた。残念ながら剣術出場者であるイデュオが対戦相手のオリクスに第三試合で負けてしまった為にラムタル国としては敗退となったが、そんなことよりもウインドから解放されることへの安堵感の方が強そうだった。
 ジュエルはジャックが戻ったことで三人分のお茶をわざわざ用意して持ってきてくれる。
 コウェルズが最初に受け取り、ジャックも受け取る。ダニエルは「自分はいいから」とジュエルに譲り、ルードヴィッヒの勝利に四人で小さな祝杯を上げた。
 審判が気を利かせて少しだけルードヴィッヒに休憩時間を与えてから、盛大な花火と絡繰りの舞う後で試合が始まる。
 が、四人ともあまり見てはいなかった。
「ルードヴィッヒ様、勝てますでしょうか…」
「さすがにもう無理だろうね」
 少し渋みの強くなったぬるいお茶を飲みながら、しみじみと伝える。
 クイは第三試合終了後から第四試合の開始ギリギリまで自国の治癒魔術師からの治癒を受けていたが、ルードヴィッヒは試合規定に則りウインドと同時同量の最低限の治癒を受けた後は目覚めるまで見守られていただけのはずだ。
 気絶するほどに体力を消耗していたのだから、今も立っているだけでやっとだろう。
 根性だけなら優勝レベルだろうが、それだけで勝ち上がれるまぐれ当たりはもはや無い。
 諦めモードでいれば、陣営内のイリュエノッドのサポート達も試合を見守るその目は優しすぎるほどの生ぬるくて。
「でも…私たちはどうやら、ルードヴィッヒを甘く見過ぎていたようだね。ここまでやってくれるなんて。戻ったらどんな褒美を用意しようか…」
 ルードヴィッヒは充分強い。そう彼の実力を改める。
 良くも悪くも大会に名前を残したルードヴィッヒの最も強い功績は、大会史上最年少の四強という記録を作ったことだ。
「喧嘩に関して厳しく注意しますよ」
 ジャックだけは許せない点を見逃さないつもりでいるから、ダニエルがほどほどにな、とあやしていて。
 ジャックとダニエルがいなかったら、大会はルードヴィッヒとウインドの喧嘩試合に引きずられていたことだろう。
 おかげで伝説の二人は改めて信者を増やしたが、エル・フェアリアとしてはまあ好都合という解釈をコウェルズはしている。
 始まっている試合はやはりルードヴィッヒの防戦一方で、最大の武器である根性も切れ切れの様子で。
 隙を窺っては攻撃を繰り出しはするが、普段と比べれば遅いし軽い。
 今はあれで全力なのだから勝てるはずもない。
 もし試合が明日だったならどうだっただろうか。
 少し考えてしまうが、途中で無意味だと悟ってやめた。
 それでも諦めず懸命に立ち向かい続けるルードヴィッヒを眺め続けて。
「ーー…よくやった」
 ジャックがぽつりと呟く。
 それと同時に、ルードヴィッヒが顔こそクイに向けたまま片膝を足場に着いてしまった。
 肩で息をして、まるで全身に鎖が巻かれたかのように重そうで。身体がもう言うことを聞かないのだと、誰の目からも明らかだった。
 クイも動きを止めて、審判が間に入る。
 何かをルードヴィッヒに訊ねて、しかしルードヴィッヒは首を横に振った。
 その後一度立ち上がろうとして、よろけて。
 再度審判が何かを尋ねた後、ルードヴィッヒは悔しそうに項垂れながらも頷いた。
『ーー勝者、イリュエノッド国、クイ!!』
 盛大な花火が片側だけに打ち上がる。
 それは、ルードヴィッヒが負けた証拠だった。
 見守り続けていた観客からも盛大な拍手が送られた。
 いずれもここまでやり遂げたルードヴィッヒを讃えるように。
 クイはルードヴィッヒに手を差し出し、肩を貸してやって。
「…行こうか」
 全員でルードヴィッヒを讃える為に。
 イリュエノッド国のサポートの娘がお茶のカップを受け取ってくれるから、コウェルズ達はすぐにルードヴィッヒの元へと駆け出せた。
 拍手と歓声は収まらない。
 そんな中で、ルードヴィッヒを迎えに行って。
 クイと共に足場に乗って戦闘場から降りたルードヴィッヒは、唇を強く噛んで瞳に涙を浮かべていた。
 その悔しそうな表情が彼を一段と強くさせたと、誰もが気付かずにはいられなかった。

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