第100話
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交わる視線の先の父は、以前までは見られなかった穏やかさが表情に宿っているような気がした。
元はリーンを治療する為に準備された豪華な寝室で、ルクレスティードは千里眼の力を父の目にゆっくりと流すように送り込み続けていた。
そうすることで数時間ほどだけだが力を送られた相手も千里眼を使うことが可能となるのだ。
ルクレスティードが幼少期から父の指導下で訓練を積んで会得した技の一つだが、父はその力で改めてルードヴィッヒの脳を探るらしい。
たしかにルクレスティードは千里眼を完全に操り切れていないので、もしかすると見落としたものがあるかもしれないが。
原子眼という能力を持つ若者を、父はどうするつもりなのだろうか。
「ーーもういい」
それだけ伝えてくる父から目は逸らさずに、魔力の譲渡だけを止める。
リーンがいたはずのベッドの上から見上げたまま、ルクレスティードはそっと手を伸ばして父の上等な黒の上着をつまむように引いた。
「試合、見ちゃだめ?」
誰の、とは言わなかった。
言わなくても、誰の試合を見たいと乞うているかは父と、そして母にも理解出来ただろうから。
案の定背中から優しく抱きしめられて、母の温もりにほんの少しだけ申し訳なさが心に生まれた。
「やめておけ」
父はくしゃくしゃと頭を撫でてくれる。
まるで優しい家族のようだ。
でも、ルクレスティードには足りない。
兄が欲しい。姉だって。
ニコルが兄だとは物心ついた頃から知っていた。たまに千里眼を使い覗き見もしていた。
リーンが姉だと伝えられた時は、本当に嬉しかった。
近くにいてくれて会話もしてくれる優しい姉が出来て本当に嬉しかったのに、リーンはバインド王に別の場所へと連れて行かれてしまった。
しかも魔術で強力な結界が張られたのか千里眼で探すこともできなかった。
そんな中で、コウェルズも家族だと知ったのに。
ニコルを覗き見る過程で何度か視界には入っていたエル・フェアリアの王子様。とても妹達を大切にしていたから、きっとルクレスティードのことも大切な弟として接してくれるはずなのに。
せめて試合でその姿を見たかったのに、またルクレスティードだけが我慢を強いられてしまった。
不満を顔に出せば、その表情は見えていないはずなのに背中側の母が抱きしめる力を少しだけ強める。
確実な安全があればこっそり見ることくらい許されたのだろうが、こんな不測の事態は本当に腹が立つようだ。
怒ってみたところで誰もルクレスティードの願いを叶えてはくれないのだから、父が改めて調べるのを待つしかないのだが。
怒ることは非常に面倒で、疲れてしまう。
だがそういえば、綺麗な薄藍色の髪をした女の子が虐められていた時は、一気に怒りが湧くような感覚に陥っていたことを思い出す。
手首と肩を怪我していた、藍都のお姫様だというジュエル。
彼女を前にした時、父も、母も、ウインドですら様子が普段とは異なっていた。
ジュエルは大丈夫だろうか。
兄に会えない不満を紛らわせるように、彼女のことを考えてみる。
年頃の近いジュエル。またルードヴィッヒに虐められていなければいいが。
コンコン、と扉が叩かれたのは、父と母が難しい話をしている最中だった。
すぐに千里眼の力を使って扉を透視して、車椅子に乗せられたアエルとソリッドが来たとわかった。
「お姉さんとおじさんが来てるよ!!」
アエルが来てくれた事が嬉しくてすぐに不満がどこかへ飛んでいく。
父が扉を開けると、ソリッドが何やら二、三言話してからアエルの車椅子を押しながら入ってきてくれた。
「いらっしゃい。…パージャとミュズはどう?」
空中庭園から降りてきた二人に母が訊ねるのは様子の変わってしまった二人のことで、アエルはじっとソリッドを見上げ、ソリッドは小さなため息をついた。
「ひたすら俯いて抱きしめ合ってる。メシも食わねぇ、寝てるかどうかも微妙なとこだな。
魂を無くしたミュズの為に、パージャは自分の魂を引き裂いてミュズに捧げた。
その結果としてミュズも闇色に染まってしまったが、呪いも引き継がれているかまではわかっていない。
少しの傷も、わずかに触れることすらパージャが許そうとしないからだ。
もしミュズが血を流しても、その血が体内に戻り傷も癒えたなら呪いが引き継がれていることがわかるのだが。
「じゃあ、アエルを頼むぞ」
ソリッドはアエルの乗った車椅子をベッドの隣に付けると、じっと見上げるアエルに優しく笑いかけた。
声も発せず歩くこともままならないアエルだが、定期的に母から治療を受けているのに治る気配がないのだ。
精神的な問題だろうと母は話していたがそれでもソリッドは治癒を頼み続けていた。
「ウインドはもう試合出てるのか?」
「まだだろう」
見上げ続けているアエルから目を離したソリッドが、父と共に離れていく。
今から二人はルードヴィッヒの脳裏の記憶を探りに行くのだ。
ウインドに命じていたのは試合相手のルードヴィッヒを気絶させること。
意識のないルードヴィッヒからゆっくりと記憶を探り、原子眼を持つ若者を調べるのだ。
扉が開かれて出て行ってしまう二人を見送って、背後で母がふう、とため息ではない息を吐いた。
ベッドを降りた母が、アエルの前に移動してしゃがむ。
足に触れていくが、治癒魔術を使おうとはしなかった。
「…お母様?」
いつも行っていることをしない母は、ルクレスティードにニコリと微笑んでから再びアエルを見つめる。
そして。
「…そろそろ本当に動かなくなるわよ」
足に優しく手を添えながら、ガイアがアエルに忠告した。
アエルは困ったように呆けるが、ガイアの真剣な眼差しを前にやがて唇を噛んだ。
「お母様…どういうこと?」
「……彼女の足は動くの。…声も、出るのよね?」
訊ねるガイアに、アエルはしばらく俯く。だが観念して小さく頷いた。
エル・フェアリアの闇市の外れで酷い目に遭ったから、そのトラウマがアエルから脚力と声を奪ったと思っていたのに。
ルクレスティードもアエルを見つめる。
ルクレスティードの初恋の人は、ひどく弱々しい掠れた声で「ごめんなさい」と呟いた。
「今まで声を出さなかったんだもの。すぐには出ないわ。足だって、すぐにはもう歩けないわよ。…どうしてこんなことを?」
俯くのをやめたアエルに表情はない。
だが、ぽろぽろと涙が溢れ始めて、周りを騙している罪悪感がずっとあったのだとわかった。
「…リーン姫様、が…身体、動かないって聞いたから…」
掠れる声は本当に話しづらそうに思えるが、それは今まで話さなかった弊害なのだ。
ガイアに両手を優しく包まれながら、アエルはゆっくりと話してくれた。
酷い目に遭ったあと、父に保護されてすぐの頃に聞いたファントムの正体とリーン姫の話。
自分の力だけでは身動きひとつ取れないリーンに、多くの者達が看病をしてあげている事実。
その話を聞いて、アエルはソリッドにふと甘えてみたのだと。
足を動かさず、声も出さず。
そうすると、ソリッドは付きっきりでアエルの世話をしてくれた。
それが本当に嬉しくて、胸にあった申し訳なさすら掻き消えるほどの喜びとなったのだ。
自分のせいで酷い目にあったとソリッドがアエルに負い目を感じていることには気付いていたが、それでもソリッドが優しく世話をしてくれる事が本当に嬉しくて、手放せなくて。
無表情だというのに涙が止まらないアエルが、どんな人生を歩んできたかはわからない。
そんなアエルに、母はそっと頭を撫でてやった。
「…なら、ここまでにしておきましょう。これからはちゃんと話すの。足もきちんと歩けるようになるまでリハビリをするのよ。すぐに元通り歩けるようになるから」
筋力の衰えは、本当にアエルから歩く喜びや穏やかな会話を奪う寸前だったのだろう。
母は治癒魔術を使う過程で最初こそ精神的なショックが原因だろうと思ったのだろうが、次第に気付いていったのだ。
アエルがわざと歩かず話さないということに。
「……ごめんなさい」
弱々しすぎるほどか細い声で、再び謝罪を口にする。アエルの付いた嘘を否定せずにいてくれる母に、アエルは無表情だった顔にようやく少しだけ悲しみの感情を見せた。
「…彼のことが本当に好きなのね」
母が少しだけ笑って訊ねるから、アエルはうんうんと何度も頷いて。
ソリッドが好きだから、甘えさせてくれるソリッドに身を傾け続けてしまったのだ。
アエルの声が聞けたのは本当に嬉しかった。
しかしそれと同時に、ルクレスティードは生まれて初めての失恋を経験してしまった。
引き裂かれるような胸の苦しみを強く感じる。アエルを前に甘く疼いていたはずの感情が情け容赦なく潰されるような。
それでもルクレスティードは、声が出て良かったね、と笑いかけることしかできなかった。
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