第60話
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足に馬は使わない。
空を飛ぶことを許されたから。
弱者に救いの手は差し出さない。
見下すことを許されたから。
それが、彼の生まれた場所なのだ。
ガウェが闇市に訪れた時、闇の世界に身を置く住人達はその登場にあり得ないものを見るようにポカンと口を開いた。
魔力の存在を知らない者はいない。だが魔力は貴族ばかりが生まれつき持つ為に、平民の大半は魔力という存在を見ることもなくこの世を去っていた。
しかし幸運なことに彼らはその存在を目に焼き付けることが出来た。
生体魔具という、魔力を持つ貴族達でさえ産み出すことが困難な、物質化した可動する魔力の生命体を。
世界でただ一人、最愛の姫の為だけに作り出した巨大な烏の姿をした生体魔具に乗り闇市に訪れた理由は、ガウェという新たな黄都領主の存在の力を見せる為だった。
青年という年齢は闇市を完全に掌握するには若すぎた。
ガウェはすでに闇市の頭や幹部達とは接触して忠誠を誓わせていたが、若さ故に闇市の末端はガウェを知らず舐められていたのだ。
それだけならまだ良かったのかも知れない。
最初から完全などあり得ないとはガウェも理解している。
しかし彼らの言葉は、ガウェと前黄都領主を比べる形で耳に届いた。
ガウェの父であるバルナ・ヴェルドゥーラ。
父親としては最低の人だった。
しかし、黄都領主としては。
友の為に、黄都や国の為に力ずくでもぎ取った領主の地位だが、その仕事量はガウェが考えるよりあまりにも多すぎた。
まだ引き継ぎの段階でありながら、ガウェは早々に領主としての父の手腕を知った。
尊敬に値しない人物だったはずだ。しかし領主としての父は確実にガウェの中に追い越すべき存在として宿り始めたのだ。
知らなかったのはガウェだ。
知ろうともしなかった。
父が“ガウェ”を見てくれないから、ガウェも父を見ていなかった。
父が、彼がどれほど優れた人であったのかを。
その事実は腹立たしく、受け入れがたいものだった。しかし受け入れがたいと感じてしまっていること自体が認めざるをえない事実なのだ。
そう気付いた時、ガウェは闇市に訪れる方法に父と同じ形を選んでしまった。
父は黄都領主の地位を得た時、その力をわかりやすく見せる為に魔力を使った。
使ったのは父自身ではなく黄都に仕える魔術師達だったが、その力で空から闇市に訪れたという。
馬などというありふれたものではなく、見下すことを許された存在として、特別な力を以て。
ただ見せつけただけだ。しかし充分なほどの効果をもたらした。
早々に闇市の完全な掌握を欲してしまったのは父への対抗意識が強いのだろう。だからあえて、ガウェは父と同じ形で闇市に訪れた。
唯一の違いは、ガウェはガウェ自身の魔力で訪れたということだろう。
従者を付けず。
いや、従者など必要ないと知らしめる為に。
ガウェを見上げる闇市の住人達は驚いたことだろう。
空から人が訪れるなど考えつくものはまずいない。
馬鹿面を見下しながらガウェが向かったのは頭のいる場所で、少しわざとらしいほどに烏の大きな翼で空を打ちながら地上に降り立った。
身に纏うのは騎士の装束と装備だが、はためくマントは黄都のものだ。
それだけで、理解できるものはガウェが若き黄都領主であると気付く。
烏はガウェが完全に地に足をつけると同時に消し去ったが、人々の視線はガウェから離れることはなかった。
その視線の中に、見覚えのある容姿があることに気付く。
厚ぼったい化粧をした闇市の遊女。
それはガウェが以前闇市の頭の元に訪れた時に声をかけてきた女だった。
頭の居場所を探している時に馬上にいるガウェに擦り寄ったが、別の女の登場で身を引くはめになっていた。
その別の女もどこかにいるのだろうか。
すっきりと笑う表情が印象的だった、闇市の人間にしては小綺麗なアエルという女。
頭の居場所を知っていたのだから闇市内ではそれなりの身分の女なのだろうが、ガウェよりも馬にばかり夢中になり、頭の元に案内してくれた礼に渡そうとした賃金を受け取ろうとせず、代わりとばかりに外した馬の装飾品は喜んで受け取った。
気になるというわけではないがふと思い出した過程で無意識にアエルを探してみるが、見当たらないことからすぐに探すことはやめた。
それ以降は周りを気にすることもなく、生体魔具から降りた拍子にわずかによれた衣服の胸元をピンと伸ばすと、ガウェは頭がいるだろう薄汚れた道を悠然と進み始めた。
以前一度だけ訪れたことのあるこの道は、相変わらず埃くさくてならない。
それでも顔をしかめることなくせまい通路を進み、ガウェは目的地に辿り着く。
闇市の幹部達数名が警戒の眼差しを向けてくるから堂々と一瞥をくれてやれば、気の強い人間らしく全員顔を背けることはしなかった。
プライドばかり高いだけの貴族達に見習わせたくなる度胸に感心しながら、開けられた扉を越えて最奥の部屋に足を踏み入れる。
頭の男はガウェの登場にも動じずに薄汚いソファに座っており、ガウェも誰に案内させることもなく頭の向かいのソファまで進んで腰を下ろした。
その後は頭の軽く振り上げた腕の動きひとつで室内にいた幹部達が立ち去り、扉が閉められて二人だけの空間となる。
敵ではない。だが味方という訳でもない。
互いを牽制しあうように無言の時間は数秒続き、先手を掴んだのは頭だった。
重そうな体をソファーの背もたれから離して、前のめるように膝に肘をつく。
そして。
「魔術兵団、というらしいが、やつらに関してはこっちは何の情報も無いぞ」
ガウェが聞き出そうとすると予測しただろう言葉は、見事に的中する。
無言のままでいれば頭も当たりと踏んだのだろう、腹立たしさを隠すような小さな溜め息をついた。
「奴らは勝手に闇市に上がり込んで、勝手に人を探せと命じてきた。報酬も大したもんだ。闇市の住人としての誇りを持たない奴は簡単に尻尾を振った。そのくらいだ」
わかりやすく簡単に噛み砕いた説明だが理解するには充分だ。
魔術兵団は、以前ガウェが頭に会わずに勝手に闇市の住人達に命じたことと同じことをしたのだ。
ファントムを探せ、あるいは情報を掴め。
ガウェは以前そう命じ、魔術兵団は今回パージャ達を探させた。
その命令の結果は。
「…王城では現在、魔術兵団に追われていた娘を一人保護している。魔術兵団が闇市の者達に探すよう命じていた娘だ」
ガウェも口を開けば、頭は何か考えるように顎髭を撫でて視線を微かに落とした。
「二日前の朝方に保護した娘だ。娘は王都の貴族達の居住区に匿われていた」
「…中位貴族、ハイドランジア家か」
「…そうだ」
ハイドランジア家の老夫婦達からもすでに話は聞いている。
魔術兵団によって屋敷は大破しており、その為か現在王都城下内でハイドランジア家を知らないものはいないだろう。
彼らは住む場所を破壊されたので家が直るまでガウェの個人邸宅に招いており、近しい場所に置いたお陰で聞きたいことはその都度聞くことが出来た。
そして証言の中からは、闇市にも切り離せないだろうものがふくまれている。
「…ハイドランジア家の主人は、闇市の男が一人、魔術兵団に手を貸していたと証言している。何か心当たりはあるか?」
ハイドランジア主人であるビデンスが教えてくれたのは、屋敷を破壊された後でのパージャと魔術兵団の会話だ。
屋敷を潰したのは魔術兵団だろうが、彼らは無意味に近いはずの味方と共に現れたという。
闇市の人間だろうその男の正体と、彼が今どこにいるのか知りたくて。
催促するように再び口を開こうとしたガウェを、頭は難しい顔をして制した。
眉間に忌々しそうに深い皺を刻んで、頭は睨み付けるようにガウェを見据える。
「…あの事件と同時に闇市から姿を消した奴らなら二人いる」
重そうな口は、裏切りを信じたくないとでも言いたそうだった。
「一人はソリッドという男だ。お前達の聞き出したい男はこいつで決まりだろう。闇市の傭兵の一部隊を任せていた」
一部隊を。
それは、その男が闇市にとって重要な場所にいたことを示していた。
頭の難しそうな顔の理由に気付くが、
「もう一人はソリッドの奴隷の女で、名前はアエルだ。あの事件以降、二人の消息どころか生死もわかっちゃいねえよ」
アエル。
闇市に訪れた時に一瞬とはいえ無意識に気にした女の名前をここで出されて、ガウェは頭が気付かない程度に表情を強張らせてしまった。
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ニコルはいつだって誰にも見つからないように露台からこっそりと訪れてくれた。
だから今日もそうだと思って、エルザは不用心に開け放った露台への扉に目を向け続けた。
夜の闇ばかりが広がる露台。扉を開けているせいで夜の冷気が堂々と侵入して肌寒さに肩を震わてしまうのに、エルザの胸は暖かさで溢れている。
妹達は姉から離れず、エルザを守る絡繰りの獅子も護衛の騎士と共に。
二人きりになる準備は万端だった。
たとえ今がそんなことを考えている時ではないと頭ではわかっていても、恋心は収まりがつかないほど膨れ上がって破裂の一歩手前まで来ている。
破裂してしまったらどうなるのかわからない。でもニコルに愛されるなら。
無意識に笑みを浮かべる冷えた頬に両手の平を合わせて一度扉の向こうから目を離すと、座っていたベッドに改めて腰掛け直した。
いつ訪れてくれるだろうか。
久しぶりな気がしてたまらなかった。
ニコルはひどく疲れていた様子だったから、隣で休ませてあげたい。
傍にいてくれて、エルザに何でも話してくれたなら。
今も小指に輝く、ニコルの魔力で作られた指輪。土台にしっかりと包まれた緋色の宝玉にそっと口付けて、エルザは再び露台への扉に目を向けて。
「--エルザ様」
夜の静けさに遠慮するように小さく響いた扉を叩く音は、護衛がいるはずの廊下側から聞こえてきた。
声の主は今は任務時間ではない隊長のイストワールのものだ。
何かあったのだろうか。
物騒な現状はエルザの表情を一瞬で恋する乙女からエル・フェアリアの第二姫のものに変化させる。
すぐに立ち上がり、どうぞ、とひと言告げて。
扉を開けることを許す合図の後に室内に姿を見せたのは、イストワールとニコルの二人だった。
「ニコル!」
どうして彼が廊下側から訪れるのか。
驚くエルザをよそに室内に完全に足を踏み入れたのはニコルだけで、イストワールはニコルに気遣うような視線を一瞬だけ向けてからすぐにエルザに黙礼を行い扉を閉めてしまった。
「どうして…何かありましたの?」
慌てて駆け寄って、ニコルの胸元にすがる。
廊下には元々の護衛もいるはずだが、イストワールもまだ足を止めているのだろうか。
あらゆることが脳裏に浮かんでいくが、教えてくれなければ理由がわからない。
姉にまた何かあったのか。それとも別の重大な何かがあったのか。
混乱するエルザの肩にそっと手を置いてくれたニコルの温もりに気付くまで、数秒はかかっただろう。
「…ニコル?」
「…約束を果たしに参りました。王城内に変化はありません」
ニコルの言葉を聞いて、その意味を理解するために考えを整理して。
会いに来てほしいと半ば無理矢理約束をしたのはエルザだ。
理解できた頃には、胸に渦巻く不安はこの上ない喜びへと変化していた。
露台からでなく、廊下側から。
隠れて会いに来ることをせずに、誰に見られても構わないと。
それは。
「ニコルっ!!」
ニコルの胸に強く身を寄せて、感極まったがゆえの涙が睫毛を濡らした。
エルザが欲しかったものが与えられたのだと。
秘匿された逢瀬でなく、堂々と、誰もがエルザとニコルの恋仲を知ってくれる。
隠さずにいられる関係をどれほど待ちわびたか。
嬉しすぎて肩が震えて。
そのエルザの肩にそっと大きな手は置かれ、ゆっくりとニコルの胸から引き離された。
「ニコル、私…」
「…座りましょう。お話があります」
嬉しすぎるから、そして室内が暗いから。
敬語を使い続けるニコルにも、その表情の理由にも気付けなかった。
ベッドに行くのだろうか。肩を押されて胸はさらに高鳴るが、導かれた場所は窓辺近くのテーブルだった。
椅子を引かれ、促されるままに着座する。
ニコルは自分の為に開け放たれていた露台への扉に向かうと静かに閉じ、闇すら遮るようにカーテンで完全に外を遮断した。
薄暗い室内を照らす魔力の明かりは微小で、ニコルの魔力が加えられて明るさを取り戻す。
明かりが蝋燭ならロマンチックだったのに。
そんなことを考えるエルザはただニコルの動きを目で追い続けて、傍に来てくれるのを待った。
しかしニコルは、エルザの傍には近づいてはくれなかった。
違和感のある距離にチリ、と胸が痛む。
「あれからエレッテさんの所には向かいましたの?」
思わず口にしてしまうのは、気にかかる娘のことだった。
ファントムの仲間の娘。エレッテという名前は半ば強引に捜索隊の者から聞き出した。
王城上層階に捕らえられているエレッテの元にニコルが会いに向かった時、エルザは自分に会いに来てくれたのだと勘違いをして、ニコルを待ち続けた。
エルザに会いに王城に入ったのではないとわかり、別の女性の元に向かったのだと知った時は悲しみと嫉妬で胸が張り裂けそうだった。
たとえそれが重要な任務だったとしても、ニコルの傍に別の女性がいることがつらかった。
フレイムローズが王族と同等に気にかけるほどなのだ。捕らえられたという苦難の状況がニコルに影響を与えないとも限らない。
こんな感情が自分の中にあるなど知らなかった。しかし確実にそれはエルザの中に芽吹く恋心からの感情なのだ。
「…一人きりだと…寂しいはずですわよね」
本当はそんなことを聞きたいわけではないのに、遠回しな詮索を止められない。
数時間前に機密事項だと言われたばかりだとしても止められるはずがなかった。
だって目に焼き付いて離れない光景がある。
いくらニコルが王族だとわかったとしても、育った場所は平民の世界なのだ。
以前パージャが騎士として王城に訪れた時に、パージャの家族と名乗る少女は単独で王城に乗り込み、そしてニコルと親密になった。
単なる口喧嘩だと誰もが口を揃えるが、エルザの目には親密にしか映らなかった。
薄桃色の短髪の少女はニコルに掴みかかり、ニコルも応戦して。
親しくならないと得られないほどの近すぎる距離間は、まだ片想いに揺らされていたエルザの胸を強く掻きむしった。
その時の光景が忘れられない。
平民同士だから、育った場所が近いから、きっと話も合うはずで。
身分階級がないから、すぐに親しくなれるはずで。
そのことを忘れられないから、エルザはエレッテを恐れている。
ファントムの仲間なら、きっとニコルが知りたい情報も持っているはずだ。
何もかもがエルザとは違う。
全てがエルザの恋心を乱した。
だから心配しなくていいと落ち着かせてほしい。
エルザを女にしたその腕で、エルザの心に宿った全てで。
なのに。
「ニ--」
「別れを…伝えに参りました」
全ての音は一瞬で遮断された。
歩けば数歩の距離にニコルがいる。
だが、一瞬で距離感がわからなくなるほどの衝撃。
理解するより先に頭から血の気が引いて意識が遠退いた。
今ニコルは何と言ったのか。
「…ニコル?」
聞き間違えてしまったのだろうか。
そうとしか思えなくて。
自分が立ち上がったことにも気付けないまま、エルザは幽鬼のようにふらりと力無くニコルに近付いた。
一歩進むごとに気を失いそうになるが構わず歩いて。
「…?」
ニコルにすがるようにその腹部の衣服を弱々しく掴み、声にならず、ただ首をかしげる。
どうしようもなくて口角は微笑もうとするが、眉尻は下がりきっていた。
不安でたまらない。なのにいつもならすぐに与えられたはずの温もりは訪れない。
ニコルはエルザに触れようとはしてくれなかった。
「あなたに別れを…もう私は…一人の男としてあなたを愛せません」
掠れた、吐息の方が多い声。
ニコルの声だ。
なのに言葉はニコルのものではない。
「何を…言っておりますの?」
ニコルの言葉であるはずがなくて、エルザはすがる腕を強めた。
「そ…んな、そんなはずありませんわ!!」
別れの言葉などニコルが口にするはずがない。そんなことは有り得ない。
「きっと疲れていますの!どうか休んでくださいませ!…あなたが…あなたがこんなことを言うはずがありません!!」
浮かぶ涙をそのままにして、必死にすがって。
この数日ずっと疲れた様子を見せ続けたニコルを思うように、全身で今のニコルを拒絶する。
だって、有り得ない。
「…エルザ様…どうかお話を」
「愛していると言ってくださいました!!約束しましたわ!!」
愛していると口にしてくれたではないか。
エルザの恋心を知りながらエルザを抱き締めて、素肌を合わせたではないか。
エルザとニコルの間には約束がある。
決して違えてはならない約束が。
片想いを諦めないと胸に強く刻んだ頃とは訳が違う。
ニコルはエルザと思いを通わせた後に、エルザ以外は愛さないと誓ったのだ。
それは永遠の愛の約束だろう。
エルザだけを永遠に愛してくれると。
何度も口付けをくれて、抱き締めて約束してくれたではないか。
「ニコル!!」
別れるとは愛が消えるということになってしまい、それは嘘をつくことに繋がる。
それだけは。
絶対に嫌だ。
「エルザ様…どうか」
「嫌です!こんな、こんなのっ…正気の沙汰とは思えませんわ!!」
絶叫が室内に鋭く突き刺さる。
誰の声か。
喉が痛くて堪らないのに、エルザは自分の声ではないような奇妙な感覚に苛まれた。
苦しい。
頭が回らない。
痛くてたまらない。
全身から力が抜けて気を失いそうになる。
なのに、救いが見当たらない。
ニコルの服を皺が消えなくなるほど強く掴んで、必死に見上げる。
「何がありましたの?どうしてそんな嘘をつきますの!?」
嘘だと強く信じるエルザの目に映るニコルの表情は、悲しいほどに疲れた様子を見せていた。
「エルザ様…私は、もう」
「嫌ぁっ!!」
つらい言葉など聞きたくない。エルザが聞きたいのはそれではない。
愛以外は耳に入れたくない。
イストワール達がいるだろう廊下側の扉の向こうがエルザの絶叫に反応するようにざわついたが、エルザは気付けなかった。
今のエルザの全てはニコルにだけ向いていた。
血の気の引いた頭。意識は掠れる気がして、全身が震えている。
わけもわからないまま、すがることしか出来ないなど。
「どうか私の言葉を」
「嫌です!!こんなっ、酷い!!」
聞きたい。でも聞きたくない。
「どうしてっ!?」
自分の感情すらコントロール出来なくて、涙は溢れ止まらなくなった。
ニコルにすがれたのはそこまでだった。
「--エルザ様!!ニコル殿!!」
ガンと強く扉が開かれて、イストワールが止める間もなく護衛の騎士が飛び込んでくる。
まだ若い年頃に入るサイラス。彼は泣きすがるエルザと虚ろなニコルを目に写し、血の気の多い様子でイストワールの制止を振りきって全速力で近付きエルザとニコルを引き剥がした。
そして。
「ニコル!貴様っ!!」
エルザ達を引き剥がしてすぐにニコルに殴りかかり、ニコルも避けることなく怒りの拳を頬に受ける。
凄まじい一撃。だがニコルはその場に踏みとどまり倒れることはなかった。
「エルザ様!」
そして引き剥がされてよろけたエルザはイストワールに抱き止められるが、力が入らず腰が抜けたように床に落ちる。
「エルザ様、こちらへ」
半ば引きずられるようにつれていかれた場所はベッドで、赤子を大切にするようにゆっくりと座らされた。
イストワールはエルザの正面に片膝をつくが、顔はニコルとサイラスの方に向いている。
「貴様っ!なぜエルザ様を」
「やめないかサイラス!!」
どうやら二人の事情を知っているらしいサイラスが強くニコルの胸ぐらを掴み、イストワールがエルザから離れて止めに入る。
イストワールと入れ替わるように絡繰りの巨大な獅子が本物と変わらない滑らかな動きでエルザの側に訪れるが、今のエルザには何も見えはしなかった。
涙が世界を遮断する。
サイラスの怒りに満ちた強い語気もイストワールのわざとらしく落ち着いた声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
声が耳に入ってこない。
何もかもが認識できずにすり抜けていく。
そんな中でも、
「…俺には、もう無理なんです」
ニコルの声だけは悲しいほどに胸に突き刺さった。
顔を上げれば、滲んだ視界の向こう側に銀の髪を見つける。
見慣れた強い銀だ。
愛しくて、いつだって目で追い続けていた。
サイラスがなおも詰め寄りニコルを責め立て、イストワールが間に入って。
やはり、耳に入るのはニコルの声だけなのに。
「--最初から…愛してなんかない」
今のエルザには耐えきれない言葉が襲いかかった。
今、なんと言ったのか。
その言葉を拒絶するようにエルザは立ち上がり、
「----…」
その後すぐに、何もかもが闇に包まれた。
第60話 終