第99話


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「楼主、納品これで全部済みました」
 夕方一歩手前の遊郭の開くより少し早い時間、テューラは持ち込まれた納品の検品を終えて配達員を見届けてから、少し大きな声で楼主を呼んだ。
「助かった。お前は丁寧だから安心して任せられるよ」
 細かな備品など種類の多い納品は大雑把な検品をすると後々大変なことになるが、テューラは持ち前の洞察力と手慣れた手腕でさらりと納品を終わらせることができる。
「納品量も増えましたものね。いっときはどうなるかと思ったけど、お客様が戻られて安心です」
 ファントム襲撃後はどこの妓楼も客が来なくなってしまい大変な状況に陥ってしまったが、客足は何とか少しずつ戻ってきてくれた。
「お前のお客様達がいなくなったのは痛いけどな」
「またまた、ご冗談を」
 ニコルに買い占められたお陰でいなくなってしまった今までの常連客を惜しむ楼主の声はさらりと受け流す。
 その分のお金はニコルがきちんと入れてくれるし、今までの客達も上手い具合に他の遊女達に回すだろうから妓楼としての痛手はないはずだ。
「…本当に一年後も遊郭内で働くつもりなのか?」
 ふと訊ねられたのは、テューラの今後だ。
 ニコルと約束した、遊女を辞めてからのテューラの未来。
 働くとはいっても、客を取るわけではない。
 今のように見えない所で働くと決めたのはテューラだ。
「…アエルが見つかるまで、遊郭から離れるつもりはないので」
 子供の頃に、ほんの少しだけ話した大切な仲間がいる。彼女のお陰でテューラは無事でいられたから。
 テューラが親に涙ながらに売られ、楼主が手綱を引く馬車の中で出会った同じ年頃の少女。
 当時はまだ王都ではなく地方の遊郭で妓楼を営んでいた楼主は、自ら僻地を回り、売られそうな少女達を見つけては率先して買い上げていた。
 楼主自身も遊女の母と名も知らぬ父を持ち、妓楼の中で生まれ育ったからこそ唯一出来る、少女達の救出。
 妓楼によっては酷い扱いを受ける中で、テューラは今の楼主に見つかり幸運な方だった。
 だが、遊郭へ戻る途中、少女達を乗せた馬車は突然襲われた。
 真夜中のことだ。
 地方兵の服を着た野盗に、少女達は攫われた。
 テューラが無事だったのは、アエルという少女が身を挺してくれたから。
 楼主はテューラただ一人を連れて逃げることしかできなかった。
 だがそこで終わることはしなかった。
 楼主はあらゆる手札を使い、何年経っていても攫われた少女達を取り戻したのだ。
 心に酷い傷を負った少女達を、楼主は探し出し、ある時は金を払い、ある時は懇願して助け出した。
 ただ一人、アエルだけを残して。
 彼女だけいまだに見つからない。
 闇市からも情報は得られなかった。
 外国へ連れ出された形跡もなく、今に至っても探し続けている。
 テューラも同じく彼女を探しているのだ。
 わずかな時間を共にしただけではあったが、彼女のお陰で今のテューラがあるから。
「あの子を見つけるまでは、この世界から離れません」
 絶対に、と念押しもすれば、楼主からはクスクスと笑われてしまった。
「避妊薬はどうする?一年は飲むか?」
「……マリオンの件が落ち着くまでは飲みたいと思っています」
「…そうか」
 大切な友人はもう一人いて、同じ城下にいるはずなのに会えないマリオンを思い、テューラは心が痛むように苦しく笑った。
 友人が二人も苦しんでいるのに自分だけ幸せで良いのだろうかと落ち込みそうになる。
 でも、ニコルを諦めることも出来なくて。
 楼主も思うところがありそうな様子を見せるが、テューラの考えのままにいさせてくれた。
「……あ!やだ、納品ひとつ少ない…」
 最終確認をしていた矢先に発覚した検品ミスに、思わず声が出る。
「ミスなんて珍しいな…どれだ?」
「…身体洗浄用の絹布です」
「なら明日でいいだろ」
 それだけなら大丈夫だ、と楼主は言ってくれるが、改めて検品用紙を見直して、テューラは強く眉を顰めた。
「…ビバリーの分です。嫌味言われちゃうから、貰ってきます」
 自分を毛嫌いしてくる遊女の備品だとわかり、強く肩を落とす。
「あいつか…確かに何言われるかわかったものじゃないな」
 テューラほどではないが古参であるビバリーは、何名かを自身の派閥に入れてテューラと勝手に敵対してくるのだ。
 ニコルに一年買い占められた件でもわざわざ勝手に部屋に入ってきて嫌味を言ってきたほどで、そのニコルが美丈夫だと知りさらに嫌味が強くなっていた。
 足りない備品が誰のものであるのかわかった途端に楼主も「明日でいい」と言わなくなったのは、それだけビバリーの性格を熟知しているが故だ。
「つい最近、身請け相手に逃げられたばかりだからな…敏感なんだ、許してやってくれ」
「あらそうなのですか?やだ、そんな可哀想なことになってるなら、許すしかありませんね」
 わざとらしく嫌味な笑顔を浮かべれば、あんまり虐めるなよ、と軽く咎められて。
 今聞いた話を盾にビバリーと一発口論し合うつもりはさらさらないが、激しく突っかかられても受け流せる理由にはなった。
「というか、逃げられたの何人目ですか?」
「それは本当に言ってやるな…あいつも遊女から一人の女に戻った途端に独占欲剥き出しになるからなぁ…」
 遊女としては非常に優秀だというのに、女としては男が逃げ出すほど嫉妬深いのだから、遊女の顔にころっと騙された男達も哀れなものだ。
「ま、そこは私はビバリーの肩を持ちますけどね」
「遊女の仮面が本物だと信じて疑わない男が馬鹿ってことか?それは男の方も許してやってくれ。女の可愛さにころっと騙されるのが男なんだよ」
「…許しません」
 可愛く微笑みながら許さないと言えば、さすがの楼主も空笑いを浮かべるだけになった。
「じゃあ、ちょっと貰ってきますね」
「頼んだよ。気をつけてな」
「はーい」
 遊郭の倉庫は歩いて三十分ほどかかるが、丁度良い運動になるだろうとすぐに妓楼を後にする。
 遊郭街は本格的な開店前の独特の活気に包まれており、物販区に向かえば浮き足立つ客達がお気に入りの遊女の為の贈り物を選んでいる様子が伺えた。
 気楽にお菓子を買う者がいれば、真剣に宝石を選ぶ者もいる。
 中には遊女に連れられた客もいて、行為前のデートを楽しんでいる様子があった。
 遊女達は皆、嬉しそうな笑顔の仮面を被っている。
 一見すれば無邪気な娘達だが、その腹の中で何を考えているかは本人の自由だ。
 その他にちらほらと目に映るのは中央警備隊の者達で、怪しい行動を取る人間を見つけては連携して監視を続けていた。
 しっかりと中央警備隊としての警備服を着ている者達とは別に、私服の者も何人か。
 今日も遊郭と遊女達を守ってくれている警備隊に感謝しつつ、テューラは遊郭中の備品が纏められている倉庫へと向かった。
 三十分の少し長い道のり後に到着した倉庫では警備の者達が談笑しており、納品の不備を伝えると謝罪しながら足りなかった絹布を持ってきてくれる。
 肌触りの良い薄紅色の絹は、ビバリーが好んで使う彼女の常備品だ。
 受け取った後はすぐに帰路を歩いて、本格的な開店に間に合う為に少しだけ歩みを早くして。
「テューラ!!」
 背後から突然腕を掴まれて、グイ、と袋小路に連れ込まれた。
「痛い!!…エリダ!?何のつもりよ!!」
 腕を掴んだ相手がエリダだとわかり、激しく睨み付ける。
 誰だと思っていれば、目下テューラを苛立たせる原因の一人で、顔を見た途端にカチンと頭に来た。
 彼は自分の気持ちを口にしようともしないのに、ニコルと離れろとだけは一人前に伝えてくるから。
「…話しをさせてくれ…」
 そんな彼が、いつになく真剣な眼差しを向けてくる。まるで、決心したかのように。
「ニコルさんのことなら聞かない。それ以外なら聞いてあげる」
 昔馴染みでもある彼に仲間意識という名の情程度はあるので、腕を組んで言葉を待ってやる。
「……何持ってるんだ?」
「これ?納品されなかった備品を貰ってきただけ」
 手に握る剥き出しの絹布に目を移すから事情を簡潔に話すが、そんなことが知りたいわけではないはずだ。わざわざ人の目の死角となる袋小路に連れ込んだのだから。
 エリダはグッと唇を噛んで改めて見つめてくるが、言葉を発しようとしない様子にテューラは一瞬で怒りが頂点に登りつめそうになった。
「…帰るね」
「待てって!!」
「じゃあ早く言いなさいよ!!」
 以前のニコルに対する発言があるから、喧嘩腰になる自分の口調を何とか抑えるのに必死になってしまう。
「…俺、お前のことが……」
 懸命に怒りを我慢すれば、観念したかのようにようやく気持ちを口にし始める。
「……お前のことが昔から…好きなんだ」
 消えそうな声。消えないように、懸命に。
 やっと伝えてきたエリダの気持ちに、怒りは少しだけ収まった。
「…気付いてたわよ。好きになってくれてありがとう。でもごめんなさい」
 ありがとう、ごめんなさい。
 客にも何度も伝えてきた社交辞令のようなセリフ。
 他の警備隊の者や自警団の青年にも何度か告げたことがある。
「俺がもっと早く…あんな騎士より先に伝えてたら……違ったのか?」
 俯くエリダが期待を求めるが、それは有り得ないことだ。
「今まで色んな人に何回も言ってきたの知ってるよね?私、誰かの女になるつもりないって」
「じゃあなんであの男はっ…」
 アエルを見つけるまでは、誰か一人の女になるつもりはなかった。
 ニコルに想われるまでは、本当にそう思ってきた。
「…特別な縁があるって感じたの。あの人から…」
 ニコルとテューラがどこで互いを特別に思うようになったかまでは伝える必要のないことだ。
 王城の裏を守るように広がる森の中の泉、そこで感じた特別な二人だけの縁は。
「あの人だけが、私の遊女の仮面を剥がせたのよ」
 本当に特別な人なのだと。
 他の誰にも出来なかったことをニコルはやってのけたのだ。
「…俺だって、お前のこと守ってやれる!!」
「守ってなんていらないの」
 エリダもきっと良い男の分類には入るのだろう。だが根本的に、テューラとは合わない。
「守ってくれる人が欲しいわけじゃない。その程度の人なら、あんたより良い人いっぱいいたわよ」
 テューラを欲しがる男達の中には、多くの良い男達が沢山いた。
 腕っぷしのある者も、豊かな財力を持つ者も、頭の良い者も、たくさん。
「…じゃああいつの何が……」
「そんなのわからないわ」
 聞かれても、言葉にできるような簡単なものではなくて。
「でも心がはっきり伝えてきたの。この人だって」
 胸の鼓動が、全身をめぐる血流が、火照るほどの熱さが。
 身体の全てがテューラに伝えてきたのだ。
 彼を選ぶように。
「俺の……俺の方が絶対にお前を幸せに出来る!!あんな奴より俺の方がお前を知ってるし、長い間…守ってきただろ…」
「でも私、あなたを好きにならなかったじゃない。それが全てなのよ。きっと」
 エリダにとっては残酷な現実だろう。
 それでも、どうしようもないことだ。
「……後悔するって、言っただろ」
「その後悔って何なわけ?」
 グッと拳を握りしめるエリダが、以前も伝えてきたことをまた口にする。
 そんなことを言うからテューラもキレたというのに。
「だから、あいつを選んだら痛い目に遭うんだって!!」
「その痛い目が何なのか言えっつってんのよ!!」
「煩い分かれよ!!」
 怒声をさらに怒声で返された。
「あの男はお前が思ってるような平民の騎士なんかじゃないんだよ!!」
「…意味わかんない」
「だから!!…危険なんだよ…」
 何かを言いたそうに、だが言えなさそうに。
 エリダの必死さは妙に引っ掛かりはしたが。
「…彼がどんな人生歩んできて、今どんな状況で、これから何が起こるかも簡単にだけど聞かされてるわ。それをわかった上で一緒にいるって決めたの。だからもう、個人的に関わってこないで。私は絶対に、あの人以外は選ばないから」
 テューラだって、ニコルとは話したのだ。
 話した上で、それでも彼を選んだのだ。
 もしかしたら遊郭として、ニコルの何かしらを調べ上げたのかもしれない。その上で忠告まがいのことを口にしたのだろうか。
 そうだとしても。
「…もう行くわね」
 テューラはニコルを選んだ。
 これ以上は話など無いとエリダを通り過ぎて、袋小路を抜けようとして。
「……危険な目に遭うって言っただろ…」
 背後から強い力で掴まれて、口元を布で覆われる。
 奇妙な香りがその布から全身に一気に巡って、意識を手放す瞬間に聞いたのは、エリダの異常なほど穏やかな声だった。

ーーー

「ーーご苦労様」
 大切に横抱きにしたテューラを連れて向かった袋小路の隠されたその先で、エリダは待機していた男達にテューラを引き渡す。
 話しかけてきたのは、この場所には似合わないほど豪華な馬車に乗った女だった。
「やっぱりあの人とは別れないと言ったのね…可哀想に……」
 上品な身なりの女は、わざとらしく憐れみながら、小汚い麻袋に入れられるテューラを見下す。
「…彼女は……」
 掠れてしまった声に気付かないふりをされるが、じっと見上げ続けると、ようやく気付いたかのように改めてエリダを目に映して。
「あら、安心して。きちんとわかってもらうだけですもの。そうね…数日経てば、あの人と別れて、あなたの元に戻りますわ。従順になって、ね」
 扇で口元を隠しながら微笑む女が誰なのかは知っている。
「ほら、もう行きなさい」
 ガブリエル・ガードナーロッドが部下を介してエリダに接触してきたのは、テューラがニコルを選んだそのすぐ翌日のことだった。
 テューラが欲しいエリダに、ガブリエル・ガードナーロッドは悪魔のように囁いてきた。
 今は王の死により遊郭街も普段とは警備の状況も変わっている中で、警備隊のエリダが案内すればテューラを誘拐するなど容易なことだったろう。
 ほんの少し、傷が残らない程度に痛い目に遭えば、きっとテューラはニコルを諦めるから、と。
 ニコルが誰に目をつけられているのかを知れば、テューラも身の危険を感じて諦めるしかなくなる。
 上位貴族、虹の七家の者達に目を付けられたい者など、この世にいないだろうから。
 エリダの今後の役目は、テューラが数日居なくなることを楼主に伝えることだけだ。
 それだけで、数日後にはニコルを諦めたテューラがエリダの元に戻ってくるのだ。
 遊郭のルールを知らないニコルがテューラを連れて行ってしまったとでも言えば、楼主も渋々了承するだろうと踏んで。
 麻袋に入れられたテューラが数日間どんな酷い目に遭うかは想像もつかない。
 いや、少しは想像は付いた。
 最も簡単な方法は手酷く手込めにされる事だろうから。
 たった数日、それだけで済むなら。
 エリダはテューラの持っていた絹布を手に、彼女達に背を向ける。
 大丈夫。
 テューラが帰ってきたら、優しく接してあげればいいだけだ。
 最初からエリダを選んでさえいれば怖い思いなどしなかったのだと諭して。
 大丈夫。
 きっと。
「……大丈夫なんだ…」
 絹布を持つ手が震え始めて、だが考えないようにして。
 遊郭街の中で生まれ育ったというのに、警備隊として遊郭に住む者達を守ってきたというのに。
 守るべき存在を悪魔に引き渡した恐怖を忘れる為に、エリダは必死にテューラが戻ってきた後のことを考える。
 何をしてあげようか、何を話して癒してやろうか。
 そうやって、自分の行いを正当化して。
 震え続ける手が発する警告に、見て見ぬふりをし続けた。

第99話 終
 
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