第99話


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 カタン、と家の外で何かが鳴って、ビクリと肩を窄ませた。
 置物のようにその場に固まり、呼吸も無意識に止まる。
 数秒後に浅く再開された呼吸と共に、マリオンは痛む胸元をキュッと両手で押さえた。
 モーティシアの個人邸宅の中で、簡単な清掃の最中のことだった。
 清掃とはいっても掃除をする必要はないほど埃は少ない。ただ多くの本が雑多に積まれているのでそれらをゆっくりと整理していた。
 この家の中にいれば安全だと言われたが、一人ぼっちで残されるのは心に非常に悪い。でも我が儘は言えないから、ひたすらモーティシアの帰りを待つ。
 二階のベッドの近くに置かれた花瓶に入るのは、種類の異なる花束だ。
 モーティシアが何か買ってくれるというから頼んだ花束。買って戻ってきてくれたその日は花束の小ささに少し残念に思ったが、その次も花束を買って帰ってきてくれた。そしてまたその次も。
 モーティシアはどうやら自分が戻る時に一緒に小さな花束を買ってきてくれるのだとわかり、嬉しくなった。
 ひとつの花瓶にまとめて入れて豪華にして、傷み始めた花は逆さに吊るして乾燥させることにして。
 本ばかりだった家に、少しだけ彩りが生まれる。
 マリオンは緊張した胸を解きほぐすかのように花を見つめてから、よし!と無理矢理微笑んで再び本の整理を始めた。
 不安を取り払ってほしくて何度も身体の関係を求めたベッドの周りから綺麗にして。
 モーティシアに抱かれている時だけは、全てを忘れられた。
 殺されかけた恐怖も、遊女時代の激しい苦しみも。
 騙された家族の為に自ら選んだ遊女の道。
 自分で選んだから、泣き言など言わなかった。
 最も苦しい悪魔喰らい。
 訪れる客は全ておぞましい。
 高級遊女の格がある為に訪れる客達は上品な身なりの者ばかりで、だからこそ余計に鬼畜に思えた。
 その中でも特に恐ろしかったのは、やはりユージーンだった。
 ユージーン・ラーブル・リェービス
 王城騎士団所属の、お姫様を守っている人。
 そして、マリオンの最初の客。
 ユージーンは最悪で、だからこそある意味では遊女になってからの我慢ができたのかも知れない。
 一番最初に最悪を知ったから、他の悪魔喰らいの仕事を我慢してやり遂げることが出来たから。
 マリオンはただ笑顔で全てを受け入れるだけでよかった。
 嬉しい顔をして、じっと相手の瞳を見つめ続けて。凄まじい激痛など心から切り離して。
 自分を守る為にも苦痛を懸命に切り離し続けて。でも。
 悪魔喰らいとして働いていた時、ふとした拍子に壊れそうになった心の拠り所となってくれたのはテューラだった。
 マリオンを気にかけてくれて、本当にふとした拍子にそっと抱きしめてくれたのだ。
 テューラに抱きしめられながら眠った夜もある。
 マリオンだけではない。テューラはそうやって、遊女達を癒してくれていた。
 古参であることと借金もなく客を選べる立場でもあったから、一部の遊女達からは恨まれていた。それでもテューラはそんな遊女達にすら心が壊れそうになっていた時は寄り添ってあげていた。
 優しいテューラを思い出しながら、彼女のくれた髪留めにそっと触れる。
 今はマリオンの髪を飾る、上品な髪留め。マリオンがモーティシアの家に逃げることになった時にテューラから預かった大切なもの。
 今は心が苦しくなった時、その髪留めに触れながらモーティシアのベッドにうずくまることが心を守る方法となっていた。
 ここで静かに息を潜めていれば、きっと誰にも見つからずに済むと自分に言い聞かせた。
 ユージーンや、ケセウや、その他の付き纏ってきた者達からも。
 マリオンの客達は異常で特殊で、凄まじい執着心を持ってくる者達ばかりだったから。
 誰かがマリオンの身体に傷を付ければ、別の誰かが上書きするかのようにさらに傷を深く付けてくる。
 度を越す傷は楼主が許さない。だから、許される範囲で悪魔達はマリオンの身体を使って所有権を主張してきた。
ーーこのお客様が済めば、借金完済だ
 よく頑張ったな、と、ある時突然言われた。
 日にちすら数えずにひたすら働き続けてきたある時、楼主に突然言われた言葉。
 今でも昨日のことのように思い出せる、モーティシアとの出会い。
 楼主に言われた言葉を理解できないままモーティシアを迎え入れた仕事部屋で、彼は最初、マリオンに触れようとはしなかった。
 王城魔術師団の人間で、上司に無理やり連れて来られた、とだけ聞いた。
ーー少し煮詰まっている研究があるので、その気分転換に連れて来られただけなんです。私は時間まで研究資料を読みますので、あなたは眠っていてください
 モーティシアを見つめ続けるマリオンの瞳を見ずに、モーティシアはひたすら資料に目を通して勝手にソファーに座って仕事を始めた。
 初めてのことにどうしていいか分からず、とりあえず無難な紅茶と、甘い砂糖菓子を出した。
 ありがとうございます、とこちらを見ずに他人行儀に告げたモーティシアの隣に座って、そっと肩に頭を寄せてみた。
 モーティシアは何も言わずに肩を貸してくれて、そのまま数分が過ぎた。
 本当に何もしないつもりなのか。
 そんなことは初めてで、次第に焦りが生まれた。
 どうすればよいのかわからずチョンチョンと下腹部辺りをつついてみると、くすぐったいですよ、とクスクスと笑いながらそっと手を止められた。
 大きな手は優しく包んだまま離れず、モーティシアのお腹の上で重ね合わされ続けた。
 また無言の時間が続くから、ちらりと資料に目を向けた。
 防御結界、虹の留め方、光の通し方、風の渦巻き方。
 書かれている意味は難しくて、でもひとつだけわかるものがあった。
「大きな雲が突然現れた時って、すごい突風が吹いたりするんですよね?」
 何気なく呟いた言葉は、ずっと昔に本でかじった知識だった。
 だがその言葉に、モーティシアが初めてマリオンの瞳を見た。
ーーダウンバースト…なぜ気付かなかったのでしょう……
 そう呟いてすぐに瞳は逸らされて、モーティシアはものすごい勢いで資料に何かを書き記していった。そして。
ーーおかげで突破口が見つかりましたよ。感謝いたします
 また瞳が合わされて、嬉しそうに微笑まれた。
 モーティシアが書き物をする間に離れてしまった大きな手の温もりが少し寂しくて、お仕事が終わったならと指を絡めた。
ーーすみません、今すぐ城に戻って研究を再開させないと…
 拒絶の言葉は、モーティシアの指を口に含むことで止まった。
 人差し指の先をそっと咥えて口の中で舐めて、じっと見上げて。
 ここでモーティシアが早く出ていってしまったら、楼主に仕事の是非を問われるかもしれない。
 それが怖くて必死にモーティシアを見つめた。
 きっと瞳には涙が浮かんでいた。
 モーティシアが帰ってしまった後が怖かったから。
 モーティシアの動きが止まるから、そのままゆっくりと身を寄せて、首筋をぺろぺろと何度も舐めた。
ーーマリオン嬢…
 名前を覚えてくれていたモーティシアが、観念したように資料を手から離した。
 ソファーの上で、改めて見つめ合って。
 そっとドレスを脱がされた後、モーティシアの視線はマリオンの身体中に付けられた痛ましい傷跡へと向かった。
 驚いた表情、同時に憐れむような。
 悪魔喰らいのはずのモーティシアがなぜそんなつらそうな顔をするのかわからなかった。
ーー…ぬるめのお風呂を沸かしてくれませんか?
 手を止めるモーティシアが、つらそうに微笑みながら告げた。
 言われるままにお風呂を沸かす間に、モーティシアが楼主を呼んで。
 何か不備があったのかと慌てるマリオンをよそに、モーティシアは手持ちの鞄の中から何かを楼主に見せていた。
 口頭の説明。同時に楼主は瓶に入った何かの匂いを嗅いで。
 楼主はその何かに対して了承してから、ニコリと微笑んで戻っていった。
 いったい何があったのか。注意を受けるわけではないのか。そんな不安の中で、モーティシアは手にしていた瓶をマリオンに渡してきた。
「これ……なに?」
 綺麗な瓶だった。
 入っていたのは液体だ。
ーー薬用の香油です。資料ばかり手にするから指先が乾燥してひび割れるもので、水に薄めて手荒れを防いでいました。あらゆる傷に効くので、万能の皮膚薬と言えるでしょうね
 そう微笑みながら、一本丸ごとをドバドバとお風呂に入れてしまった。
ーーさあ、一緒に入りましょうか
 マリオンがリードすべきところなのに、モーティシアに率先されて。
 一糸纏わぬ姿になった時、モーティシアの瞳は悲しいまでにマリオンの身体中の傷を目に焼き付けていた。
 今までそんな眼差しを受けたことがなかった。
 生まれて初めて、身体中の傷を恥ずかしく思った。
ーー……さあ、入りましょうか
 互いに湯を掛け合って、ゆっくりと浸かって。
 モーティシアに全てを委ねるように身を寄せたマリオンに、彼は優しい手つきで身体中を撫でてくれた。
 湯に混ぜた薬効が隅々まで行き渡るようにと、優しい手つきだった。
 そこからは、あまりにも甘い時間だった。
 ぬるい温度のおかげでのぼせることはなく、心地良い中で身体を撫でられていく。
 最初こそいつモーティシアが豹変して湯の中に頭を押さえつけてきてもいいように身構えていたというのに、次第に緊張は薄れていった。
 最後はとろとろに溶かされていた気がする。
 今まで感じたこともないような心地良さに、硬くなった性器がマリオンに入ってきた瞬間に心も奪われた。
 今まで何度も、膣にナイフを突き立てられたかのような痛みばかりを受けてきた。
 優しくほぐされた膣壁が受ける甘い疼きなど、幻想だと思ってきた。
 そうではないのだと、初めて。
 モーティシアは何度もマリオンに体調は大丈夫かと訊ねてくれた。
 痛くはないか、苦しくはないか、無理してはいないか。
 少ししつこいほどに、マリオンを気にかけてくれた。
 気にかけてくれながらも、自分の欲望を抑えることもできない状況に、たまに少しだけ申し訳なさそうな表情を浮かばせていた。
 最後は引き抜かれて、お腹の上に放たれた。
 中で出してもらえなかった、それがものすごく寂しかったのを覚えている。
 離れたくなくて、興味を持ってほしくて、過去に本で得た知識を元に時間いっぱいになるまで沢山話した。
 モーティシアは非常に頭の回転が早くて、最初こそ必死に話しかけていたが、次第に楽しさばかりを感じるようになっていた。

 モーティシアに初めて出会った日のことを思い出しながら、マリオンはベッドにそっと横になる。
「…モーティシアさん……」
 怖い。寂しい。早く帰ってきて。
 ひたすら願う。
 いつ帰れるかわからないと言いながらも、モーティシアは細かく帰ってきてくれている気がする。それでも、いない時間の方が長いから怖かった。
 初めて会った日に心を奪われて、でも二度と会えないと思っていた。
 ニコルの媚薬香抜きの依頼が舞い込んできたことでモーティシアと再会できた時は奇跡だと思った。それでも心に鍵をかけた。
 大好き。大好き。大好き。
 でも、心に鍵を。
 苦しみたくなかったから。
 モーティシアはマリオンに興味を持ってくれていないとわかっていたし、初めて会った日の優しさも、たまたまマリオンが遊郭遊びの相手に選ばれたから手に入れられただけだから。
 でも今は、心の鍵は開けられた。
 恐怖と引き換えに鍵は開いたまま無くした。
 それが良いことなのかどうかはわからない。
 モーティシアの愛情を手に入れられたと喜ぶには、自分の身に降りかかった恐怖が強すぎたから。
しかも、王城ではユージーンがモーティシアに接触したなんて。
 借金が無くなり、楼主と話し合って悪魔喰らいをやめたというのに、悪魔を見せてきたユージーン。
 借金完済後、ケセウや他の客達もマリオンから離れようとはしなかった。お遊びも、不満そうにはしながらも悪魔を見せはしなかった。
 恐らくごく一般的な、普通の肉体関係に留めた遊び方を誰もが守った。
 ただ、ユージーンだけは違った。
 楼主から説明を受けて了承し、合意のサインも残したというのに。
 あろうことかユージーンは、妓楼内で禁止されている魔術によりマリオンの口を塞いで無理やり行為に及んできたのだ。
 悲鳴を上げられないように、逃げられないようにして。
 周りの者達が警戒してくれていなかったら、命を落としていたかもしれない。
 救出されたその後、ユージーンは出禁となった。
 言葉を封じられたマリオンにユージーンが口にした悍ましい計画が耳に残って離れない。
 ユージーンは、マリオンの膣に無理やり手を捩じ込んで、その奥にある大切な器官を握り潰そうとしたのだ。
 優秀な治癒魔術師が戻ったから、死にはさせない、と、笑いながら。
 思い出して怖くなり、ベッドの上で身体を押さえるように丸くなった。
 怖い。何もかもが。
 自分から離れることなど許さない。遊郭を離れてユージーンの子供以外を宿すつもりならいっそ、握り潰してやる、と。
 マリオンを殺そうとしたケセウも、ユージーンも、マリオンの客だった者達全てが怖い。
 もう、モーティシアだけなのだ。
 心を守ってくれるのは。
 こんな形で愛されたくなかった。
 もっと普通に、街でデートを重ねて、少しずつお互いを知っていって、マリオンを知ってもらって、好きになってほしかった。選んでほしかった。
 街でよく耳にする恋愛をしてみたかった。
 家族の為に身を犠牲にしただけなのに。
 何年も何年も、頑張ってきただけなのに。
「……モーティシアさん……」
 怖い。早く帰ってきてほしい。ずっとそばにいてほしい。離れないでほしい。
 でも、それすら言えない。
 涙がひとしずく溢れて、モーティシアのベッドに染み込んだ。
 溢れたのはそのひとしずくだけで、ぴたりと止まる。
 悲しいのに涙が出ない。恐怖と同等の虚無感に苛まれて、指先が震え始めた。
 ここへ来てからいつもの事だ。
 モーティシアがいない時の、マリオン。
 そしてふとした拍子に突然号泣して、またぴたりと涙が止まり、両手が震える。
 モーティシアがいてくれる時だけ唯一心は落ち着いた。
 早く帰ってきて。
 切実に心から願って、震える両手を胸で握りしめる。
 恐らくそこから数時間程はうずくまって両手を握りしめ続けていた。
 窓の外の空が違っていたから。
 ハッと我に返って両手をほぐしても、強張ってしまい感覚が無くなっていた。
 ゆっくりと懸命に手のひらを握っては開いて。
 ベッドから身を起こして、改めて両手をほぐす、その時だった。
 ポトリと何かが隣に落ちる。
 同時に頭がほんのわずかに軽くなった。
 なんだろう、無意識に視線を落ちてきたものに移して。
「……うそ…」
 テューラから預かった大切な髪飾りが、一部壊れて落ちていた。
「なんで…やだ……」
 上質な髪飾りは繊細な見た目とは裏腹に頑丈なはずなのに。
 壊してしまった、と落ちた髪飾りの一部を手にした瞬間、言いようのない不安感に突然襲われた。
 自分の身に起きている恐怖とは別の不安感と恐怖感。
 漠然と、何かおかしいと察してしまうかのような。
「…………テューラ?」
 ただ彼女の髪飾りが壊れて落ちただけのはずなのに。
 大切な友人の身に何かが起きた時の焦燥感が突然全身を苛み、それは震えとしてマリオンに襲いかかった。

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