第99話


第99話

「ーーやめてください!!」
 悲痛な悲鳴は本来なら多くの者が助けに入っただろうが、今回に至っては誰も助けようとはしなかった。
 見ているだけ、というわけですらなく、誰も彼もが悲鳴の方向には目を向けずに無視を決め込む。
「お願いです!本当にやめてください!!」
 広い応接室、窓から入る爽やかな朝日を浴びながら、悲鳴など無いかのように己の仕事に従事する。関わりたくないのだ。心から。
「ちょ、ほんと、ほんとに!!駄目ですって!!伸びてる伸びてる伸びてる伸びてる!!!!」
 アクセルの悲鳴は、今にも泣き出しそうなほどあわあわと慌てふためいたものだった。
「煩い!!あやつからこんな不気味なもんを付けられよって!!今すぐ剥がしてやるから待っておれ!!」
「やめてくださいーー!!」
 ミモザの個人応接室内で繰り広げられているのは、昨日からアクセルの周りを漂うことになった黒いクラゲの撤去作業だ。撤去とはいっても、作業に従事するのは魔術師団長リナトだけだが。
 触手の長い不思議なクラゲは魔術兵団長ヨーシュカが生み出した生体魔具で、それを耳にしたリナトが朝からアクセルを追いかけ回しているのだ。
「…助けなくていいのか?」
「放っておきましょう。魔術兵団長直々の魔具なんて、私達にはどうしようもありませんよ」
 ミモザのいない応接室内でニコルはボソリとモーティシアに問いかけるが、いっさい気にする素振りも見せずに凄まじい速さで手を動かしている。
 モーティシアの今現在の仕事は、ビデンス・ハイドランジアへ宛てた手紙を書くことだ。
 昨日ニコルが自ら手を挙げた仕事だったが、結局完成させられず今朝モーティシアに託した仕事。
 治癒魔術師の今後の在り方について訊ねたいので王城に来てほしいと頼む手紙をモーティシアに謝罪と共に託した時、案の定鼻で笑われて馬鹿をいじられてしまった。
 それでもニコルが昨晩考えに考えて何とか書いた未完成の手紙を見せると少しは見直してくれたが。
「それにしても、生体魔具とはあれほど伸びるものなのですね。あなたの鷹の生体魔具もあんな風になるのですか?」
 本当に関わりたくないのかアクセルとリナトのクラゲをめぐる戦いにはなるべく目を向けないようにしながら、モーティシアは感心したように生体魔具に興味を示す。
 クラゲの生体魔具は現在、傘の部分がリナトの両手の許す限り最大限伸びている所だ。
 生体魔具自体は普通の魔具と同じく魔力を圧縮して物質化したものなので形は変幻自在だが、よくある武器の魔具とは異なり本物の生き物のように滑らかに動くので高度な操作力とモデルにした生体への理解力が求められる。
 騎士よりも魔術師の方が生体魔具など容易に生み出せるのではないかと思ったが、力技で魔力を圧縮する騎士と術式を使い魔力を魔術として巧みに操る魔術師では、そもそも魔力の使い方が根本的に違うものらしい。
「俺の鷹はせいぜい大小サイズを変えられるくらいで、あんな風に伸びることはない…と思う」
「へぇ、サイズを変えられるのですか。手のひらサイズの鷹を今出せますか?」
 ニコルの生体魔具にモーティシアが興味を持つから、いとも簡単に右手の上に小さな鷹を生み出す。
「何それ可愛い!!」
 とたんに声を上げるのはアリアで、他国の治癒魔術の教本から飛び離れてニコルの元へ訪れた。
 恐る恐るジャスミンまで近付いてくるので、手のひらサイズの鷹は女性に人気があるのかも知れない。
「兄さん、その子飛ばせるの?」
「当たり前だろ」
 訊ねられるままに鷹を部屋に飛び立たせれば、わぁ、と黄色い声が二人分上がり、他の者達の視線も注がれる。
「やーーめーーてーー団長ぉぉ!!!!」
 その後ろでアクセルが必死にクラゲを庇っていたが、そちらには誰も目を向けなかった。
「俺たちも生体魔具作ってみるか?新しい術式開発にも役立つかもしれないし」
 のらりくらりと近寄ってきたトリッシュも鷹を見上げながら話しかけてきて、モーティシアも「そうですね」と肯定的に受け止めていた。
「魔力を圧縮…」
 早速両手の中に魔力を溢れさせるモーティシアが何かを作ろうと圧縮させてみるが、数秒奮闘して出来上がったのは単なる黒い球体だった。
「…これはなかなか手強いですね。騎士達の脳まで筋肉に変貌するわけです…」
 感心しているのか見下しているのかわからない感想と共に球体を消して、
「まあ、慣れれば何かしらはできるでしょう」
 魔具への興味をとっとと消してしまう。
「魔術と魔具って、そんなに違うんですか?」
 アリアの質問には、ジャスミンも興味を引かれるように視線をモーティシアに向ける。
「魔術は魔力を術式に組み合わせて別のものに変化させる技です。圧縮して物質化する魔具は所詮黒い塊ですが、魔術は防御結界となったり、身体や精神に作用させたり、炎や雷などの攻撃にも使えるでしょう?」
「……光も魔術で出せますもんね…お水は作れないんですか?」
 アリアの新たな質問には、モーティシアも少し表情を難しくして。
「元々ある水を氷に変えたり、その逆は可能なのですがね…」
 無から水は難しいと説明をされて、アリアがそうなんだ、といまいち理解していない表情を浮かべながらも納得して。
「あ、それ、水の粒子が空気中に多くある時なら出来るよ。霧の濃い時とか、雨が降る前後も。あと気温の変化の激しい早朝とかも粒子多いし」
 さらりと会話に加わってきたアクセルの言葉に、魔術師達が固まった。
「……………アクセル、それを書き残しておけ」
 リナトがクラゲの傘から触手を引きちぎろうと腕をねじりながらアクセルに命令する。
「え?どうしてですか?」
「水の粒子などお前にしか見えとらんからじゃ!!」
 叫びながら、リナトが今までで一番長くクラゲを引き伸ばした。
「リナト団長、もうクラゲは諦めたらどうですか?そろそろ魔術師団の会議が始まる時間ですよ」
 トリッシュの冷静な進言に、リナトが凄まじく険しい表情を浮かべる。どうやら本当にクラゲが気に入らない様子だ。
「ふん…今日中に引き剥がしてくれるわ…」
「やめてくださいよ団長…」
「なんじゃと!!お前はあやつの肩を持つつもりなのか!?」
「そんなんじゃないですよ……」
 憤慨するリナトが、アクセルのやや呆れた表情にさらに立腹して「もうよいわ!」と足を踏み鳴らしながら応接室を出て行ってしまった。
 やっと静かになった室内で、ニコルは鷹の魔具を消す。
「……お前に対して目線が冷たかったな」
「やっぱり?私もそうじゃないかな、と思ったんだ」
 二人で部屋の隅にいたセクトルとレイトルが、ボソリと話しながら同時にため息をつく。
 フレイムローズがついうっかりアリアの想い人を口にしてしまったが為に、完全に目をつけられてしまった様子だ。
「アクセルに付けられた魔術兵団長の生体魔具を剥がすのも口実で、お前とアリアの様子を見に来たのかも知れないぞ」
 セクトルの忠告は、レイトルだけでなく全員に刺さった。
 とくにアリアはひどく悲しむ表情を浮かべて俯いてしまう。
「とにかく、リナト団長の目を欺き続けるしかないですね。今日はビデンス・ハイドランジア殿への手紙を出した後は私とニコラ殿で騎士団長の元へ向かい、新たな治癒魔術師候補の為の護衛について話すつもりです」
「…俺?」
「ニコ“ラ”殿です。リナト団長への撹乱の為にも、今日はミシェル殿にここの護衛に勤めていただきます」
 自分の名前とニコラの名前を聞き間違えたニコルにモーティシアが一瞬眉を顰め、今日の動きを教えてくれる。
「治癒魔術師の初期候補者は最終的に八人にまで絞りました。こちらはリナト団長に目を通していただいてから、候補者達に通達を送ります。全員が了承するとは思えませんが、まぁ最初なので二、三人が頷いてくれたら万々歳ですね」
「あれ?何もかもコウェルズ様が戻ってからしか動けない的なこと言ってなかったっけ?」
 トリッシュの疑問に、モーティシアは「そうですよ」といとも簡単に返してくる。
「コウェルズ様からの了承を得次第、とっとと訓練を開始します」
 それはつまり、コウェルズの帰還を待ってから人選選びなどを行うのではなく、帰還までに全てを済ませておいて、後はゴーサインを待つだけにしておくということか。
「……コウェルズ様戻るのいつだっけ?」
「今日が大会二日目だから…一番早くて四日後だな」
 トリッシュの質問にはニコルが指を折りながら答えを出して、モーティシア以外が固まった。
 治癒魔術師候補者とその護衛に関して、最短四日で決めるつもりなのか。
「おいモーティシア…騎士団からの護衛の人選なんてそんな簡単に見つからないぞ」
 どうするつもりなんだ、と詰め寄るニコルに、レイトルとセクトルも同時に頷いた。
「ただでさえ騎士団は各領主達との会議がないと決められない議案も多いんだよ?」
 国の花形でもある騎士団は、平民にも影響を与えるほどの有名度から縛りも多いのだ。だというのにモーティシアはどこ吹く風だ。
「今までエル・フェアリアには存在しなかった治癒魔術師候補なんてもの誰も最初から期待はしないでしょう。それなら、誰も期待していなさそうな、でも確実に優秀な方々をいただくまでです」
 サッと取り出された資料をテーブルに置くから、全員でその資料を囲んで。
「……あーー、これなら行けるかもね」
 感心する声は、レイトルのものだ。
「…行けるか?」
 逆にセクトルは疑問視するが。
 モーティシアが作った資料に記された、治癒魔術師候補達の護衛任務の候補達。
 そこに書かれていたのは、ファントム対策の為に新たに選ばれた、王族付き候補達の名前だった。
 より早く王族付きとして使えるようにする為に、まず治癒魔術師候補達を守らせて、護衛の練習に使うというものだ。
「団長達も効率良いの好きだし、行けると思うよ」
 レイトルはどこまでも肯定的だ。
「王族付き候補全員で今は三十人ちょっとは…少し多い気もするけど」
「そこは心配ありません。初めは全員の名前を出しますが、最終的には初期の九人をいただこうと考えています」
 モーティシアの頭の中でどこまで計算されているのかわからないが、段々と皆うなずくことしか出来なくなってきていた。
「まとめ役にはトリッシュ、指導役にはレイトルに務めていただく予定です」
「りょーかい」
「……私は治癒魔術の訓練も始まっている状況なのに、まだ仕事させるつもり?」
 とっとと言質を取ろうとでもしているかのようなモーティシアにトリッシュは深く考えずに承諾するが、レイトルは難色を示した。
 確かにレイトルにばかり任務が偏る気がするが。
「この人選は私の優しさでもあるのですよ?ただでさえ治癒魔術会得の為の訓練が突然始まったのに、アリアと二人きりになる時間も無いのです。気分転換がてら教習名目のサンドバッグ、欲しくありません?」
 ニコリと微笑むモーティシアにレイトルは数秒考えた後、そっと身を後ろに引いた。
 気分転換サンドバッグは魅力的な様子だ。
 全員の質問が済んだ時点で、モーティシアは資料を改めて手に取り他の資料とまとめて置いた。
 そこへタイミング良く扉を叩く音が聞こえて。
「ーーおい、朗報だ!」
 嬉しそうな顔をしながら勝手に扉を開けるのはニコラだった。その後ろにはミシェルがスカイと話している。
「剣武大会の一日目、剣術武術両方が第二試合突破だ!ルードヴィッヒ殿も勝ったぞ!」
 まるで自分のことのように喜ぶニコラに、ニコル達騎士はすぐに表情を綻ばせてガッツポーズをそれぞれ取った。
 騎士達とは違い魔術師の三人は喜びはするが、いまいち喜びの度合いは低い。
「ルードヴィッヒ様、無事に勝てたんですね…」
 ぽそりと呟いたのはジャスミンで、負けるだろうと思っていたかのような言葉に自分自身がハッと気付いて恥ずかしそうに口元を手で覆いながら俯いた。
「まぁ仕方ないさ。正直なところ、せいぜい一回戦勝てたら万々歳だってみんな思ってたからな」
 カラッとした笑いを浮かべながら応接室に入ってくるのはスカイで、その後ろをミシェルが慌てながら付いてくる。
「スカイ殿!ですから入室は困るとあれほど!!」
「細かいこと言うなよ。俺の弟子がめでたく二回戦突破したんだぞ」
 誇らしげなスカイが口にする弟子とはルードヴィッヒのことで間違いないだろう。
 ルードヴィッヒは王族付き候補としてスカイから直々に戦闘訓練を受けていたから。
「大会出場が決まってからはアドルフ総隊長に師匠の座を奪われていたではないですか」
 冷やかすように笑うニコラには、うるせーと頭を小突いて。
「二回戦突破おめでとうございます。治癒魔術師護衛部隊としても、非常に喜ばしく思います」
「おう?ありがとうな!」
 モーティシアの深みのある言い方にはスカイも一瞬首を傾げたが、すぐにまた豪快な笑顔を見せた。
 つい先ほどまでルードヴィッヒを含めた王族付き候補達をこちらにもらうという話をしていただけに、ニコル達は笑いを堪えることしか出来なかった。
「ルードヴィッヒ殿は候補達の中でも非常に優秀だと聞いています。特に初期の九人は護衛としてもそろそろ実績を積んでもよろしいのではないでしょうか?」
「ん?…お?……どうだろうなぁ。正直なところ実力不足は否めないからな。それに候補達の中で優秀だっていうならルードヴィッヒよりミゲルだな。護衛任務に就いたとして、ルードヴィッヒは戦闘に特化しすぎて護衛対象を放置してでも襲撃者を捕まえようとするだろうから」
 それを聞いて、騎士達全員が「あぁ」とやらかした相手を見た時のような声を上げる。
「それってダメなことなんですか?」
 何気なく訊ねてくるアリアに、スカイが頭を掻いた。
「ダメって聞かれたら…絶対にダメだな。護衛騎士の第一優先は護衛対象を守ることであって敵の捕縛じゃないんだ。捕まえに行くのは警備の奴らや、護衛騎士が多くいる時に一部が捕縛に向かうんだよ。もし護衛が一人だった場合は敵を見逃してでも護衛が優先なんだが…ルードヴィッヒはその辺まだまだ無理だな。血の気が多すぎる」
 間近でルードヴィッヒを見てきたからこそ言えるスカイに、モーティシアだけが少し思案する顔を浮かべていた。先ほどの資料に何か書き足すつもりなのだろう。
「でもスカイ殿が率先してルードヴィッヒを育ててたじゃないですか。スカイ殿に似るのも仕方ないと思いますが」
「あのなぁレイトル、俺だって最初はトリックに任せようと思ってたんだよ。ルードヴィッヒは魔力が上質だからな。だけどそのトリックから命じられたんだ。まずは武術と魔具操作が安定してからだって」
 若さゆえにまだただ未熟だから、と。
「あいつ魔具操作がまだまだへなちょこの分際でガウェみたいな奇抜な魔具作り出そうとするから、余計に魔具訓練に時間がかかって大変だったんだぞ。ま、それもレイトルの魔具操作訓練のおかげで大幅に改善されたがな。ありがとよ」
 最後にレイトルの操作訓練に対する感謝を告げて、いまだに睨みつけてくるミシェルに対して「悪かったって」と告げて。
 任務に対して堅物なミシェルは、スカイの訪問がかなり気に入らない様子だ。
「ルードヴィッヒが二回戦突破したのは事実だし、八強で止まらず四強行くだろって信じるぜ俺は」
「夢は夢の中で見たらいかがでしょう」
「てめ、ミシェル、この野郎…」
 ハ、と鼻で笑うミシェルの首を絞めながら、突撃してきたスカイが応接室を出ていく。
「詳しくはわからないが、一回戦も二回戦も圧勝だったみたいだぞ。本当に四強入りするかも知れないな」
 スカイに次いで嬉しそうに話すニコラも、邪魔して悪かったな、と後に続いて応接室を出て。
 どこまでも嬉しそうなスカイは恐らく騎士達全員にルードヴィッヒの勝利を伝えに行くのだろう。
「ルードヴィッヒさん、勝ててよかったね。兄さんの時はどんな感じだったの?」
 アリアはあまり関わりのないルードヴィッヒよりも三年前のニコルが優勝した時の方が気になる様子で訊ねてきて、ニコルは思い出すように片眉を捻る。
「……楽しかったな」
「具体的には?」
「具体的…」
 困るニコルに皆が笑って。
「レイトルさんセクトルさん、兄さんどんな感じでした?」
 聞く相手を間違えたと気付いたアリアは訊ねる対象を変える。
「大会期間中ずっと訓練場に入り浸ってたな」
「それだね。ひたすら誰かと模擬対戦して、最終的に試合出場者全員と仲良くなってたよ」
 当時はレイトルとセクトルも大会運営に駆り出されていた様子で、当時のニコルを思い出して笑う。
「それが普通じゃないのか?国同士の戦士達の交流の場だって聞いたぞ」
「…表向きはね」
 ニコルは大会の表面上だけを素直に信じていた様子だ。
「…俺もあの時はがむしゃらだったからなぁ…」
「お父さんのことだよね。でも兄さんが優勝したって聞いて、すごく喜んでたよ」
 次に二人が口にするのは、二人にしかわからない家族のことだ。
 詳しくは知らなくても何があったかは理解しているから、誰もがそれ以上を詳しく訊ねはしなかった。
「モーティシアはさっきのスカイ殿の言葉のどこに引っかかったんだ?何か気付いてただろ」
 話題を逸らすのはトリッシュで、モーティシアもすぐに先ほどの資料を取り出してきてペンを走らせて。
「上手い具合に王族付き候補達をこちらの護衛に回していただけたら、ルードヴィッヒ殿をリーダーにしようと考えていたのですよ。ですがミゲル殿の方が優秀だというなら、候補達のリーダーは彼ですね」
 サラサラと書き足されていく文章と、ミゲルという名の前に丸印と。
「…ミゲル・カーザッド・ウトピア……聞いたことあるな」
 セクトルが思い出そうとして、はっきりは思い出せずにいて。
 影の薄そうな若騎士に、ここにいた全員の興味はゆっくりと積もっていく。
 彼が誰なのかセクトルは結局思い出せなかったが、その名前は隠し名に至るまで、皆の記憶にしっかりと残ることになった。

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