第98話


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 ラムタル王城に造られた中で最も小規模故に人の気配のない静かな庭園で、マガはひとり、そわそわと落ち着きなく歩き回っていた。
 ベンチに座って夕空を眺めてみたり辺りの気配を探ってみたりするが、待ち人はまだ来ない。
 ラムタル王バインドがマガの願いを叶えてくれるとは思わなかった。
 エル・フェアリアのジャックに会ってみたい。
 会って、なぜ自分をエル・フェアリアに連れて行ってくれるのか、エル・フェアリアで何をさせる気なのかを聞きたかった。
 野蛮な国だと有名で、大戦下も圧倒的な軍事力で近隣諸国を奪い潰した大国。
 滅亡した国は小国も含めれば膨大で、いまだに奴隷制度も残ると。
 ラムタルと同規模の大国であるのに、ラムタルとは真逆の野蛮な国なのだとしか教えられてこなかった国の人が、マガを優しく引き取ろうとしてくれているのだ。
 その優しさは見せかけなのか、本心なのか、切実に知りたかった。
 どうせ自分はバオル国でも奴隷に近い日々を送ってきていたのだから期待はしないようにと考えてみても、春になれば流浪の民である母が望まれて訪れる国が本当に野蛮なのか疑問も生まれはじめていて。
 期待はしたくない。
 でも、泣き崩れるマガを軽々と担いだジャックの熱いほどの強い腕も忘れられない。
 優しくしようとする理由が知りたかった。
 バインド王がマガの願いを聞いてくれた理由なんて、マガがオリクスの弟だからというだけのはずで、それはマガに対する優しさなのか、それともオリクスへの優しさなのかはわからない。
 あまり知りたいとも思えなかったのは、オリクスの弟であることを素直に受け入れられない面があるからで。
 あの父からよくオリクスのような出来た人間が生まれたものだと思う。
 でもオリクスは、マガを気にはするのに真正面から関わろうともしない人だったから。
 マガを助けてくれようとする優しい人だ。でも、偽善者だ。
 ジャックとは違う。
 ジャックはきっと、偽善者なんかじゃない。
 期待はしないようにしても、心の中は不安よりも希望の方が遥かに高まりすぎて。
 早く来てくれないだろうか。
 ジャックならバインド王の命令ではなくても会いに来てくれるような気がしていたから、そわそわと胸は高鳴り続けていた。
 何度目か忘れたほどベンチにまた腰掛けて辺りを見回して。
 人の気配は唐突に訪れた。
 その気配が誰のものであるのか信じて疑わずに立ち上がって顔を向けて。
「ーーお前…こんなところにいたのかぁ!!」 相手の怒声と同時に、マガの表情は凍りついたように固まった。待ち望んだ人ではなかった。
 軽やかに浮いていた心が一気に奈落の底に突き落とされたような。
「散々探させやがって…今までどこに隠れてやがった!!」
 バオル国の武術出場者として訪れていた男が、マガに近付いて容赦なく髪を掴んでくる。
「っ…」
 痛みに苦痛の表情を浮かべるが、この男が容赦しないことは身を以て知っている。
 ルードヴィッヒに二度も瞬殺されたと聞いたが、受けた傷はすでに治癒魔術師からの治癒を終えた後の様子で傷はひとつも見当たらない。
 バオル国からの虐待を懸念されてラムタル預かりとなっていたマガをバオル国が返すよう頼み続けていたことは聞かされている。
 内密にマガを探し回っていたことも知っていたが、まさかここで見つかるなんて。
 ここは大会関係者立ち入り禁止のはずなのに。
「…な、んで……」
「ぁあ!?」
 声を震わせるマガに、威圧的な男はさらに髪を掴む手の力を強めた。
 首がもげるほど引っ張られて、ぶちぶちと嫌な音が皮膚を通して伝わってくる。
 痛い。だが逃げる気力はすでに削がれていた。
「っ…」
 幼少期から受け続けた虐待に身体が自然に反応して素直に従ってしまう。
「……お前、肌が綺麗になってないか?」
 そして男の方もそれを理解しているかのように、マガのよれた衣服の首元から覗く肌が滑らかになっていることに気付いた様子を見せた。
 無遠慮に襟首を破かれて、灰色の混ざるまだらの肌が露出する。
 物心ついた時から増え続けた身体中の傷は、ラムタルの治癒魔術師である老紳士が全て優しく消してくれた。
「……これはいいな…」
 そして、生唾を飲み込むような音が。
「ジジイに返す前に、ちょっと見てやろうか」
 マガの父に差し出す前に。
 合図であるかのように、さらに衣服を強く破かれた。
 強くとはいっても、ラムタル製の質の良い衣服は男が思うようには破けずに苛立ったような表情を向けられるが。
 こいつに今まで何をされ続けたか分かっているから、反抗なんて少しも出来なかった。
 地面に引き倒されて、目の前で下半身を露出してくる。
 いくつも味わわされた、虐待のひとつ。
「ほら、いつもみたいに舐めーー」
 命令される、その途中で、突然男は横に倒れていった。
「…なんだこいつ?」
 倒れていった男のその後ろで、まだ若い青年が蹴りを入れた脚を下ろしながら呟いた。
「……ケツ丸出しじゃねぇかよ!!変態かよ気持ちわりぃ!!」
 気絶した男を見下ろしながら、ゲラゲラと大きな笑い声を響かせて何度も尻を蹴り続ける。
「そこまでにしておけ、ウインド」
 青年の隣には、彫刻のように美しい男が。
 夕暮れ時でもさらに目立つような、闇のような髪と瞳の二人組。
 言葉を無くして見上げるマガに、髪の長い男の方が目を向けてきた。
『襲われかけたのか?』
 ラムタル語で話しかけられて、ハッと我に返って気付く。この二人が先ほど話していた言語は、エル・フェアリア語だったから。
『ウインド、お前の上着を貸してやれ』
『は?何で俺が…』
『体格を考えろ』
 男の指示に、ウインドと呼ばれた若者は不満そうに舌打ちをしてからマガへと上着を脱いで放り投げてきた。
「あ…ありがとうございます」
 エル・フェアリア語で話していたから、エル・フェアリア語で感謝を告げる。
 投げよこされたラムタル国の神官衣を胸に引き寄せながら二人を見つめて。
「お二人は…エル・フェアリアの方なのですか?ラムタルの代表なんじゃ……」
 大会が始まっているのでエル・フェアリアから大会観戦に訪れたのだろうかとも思うが、衣服を投げ寄越した若者はラムタル国の武術出場者のはずで、訳がわからず混乱して。
「……お前、もしかしてエル・フェアリアに保護されるって奴か?」
 混乱し続けるマガに、ウインドがニヤリと笑いながら膝を曲げて視線を同じ低さに合わせてきた。
 美貌の男ほどではないが大柄なウインドは、見た目だけなら快活そうに思えるのにその瞳の奥には闇色より深い闇がある気がして、背筋に凄まじい悪寒が走った。
「行くぞウインド。そこで伸びている男も連れて来い。兵に引き渡しておく」
「だから何で俺なんだよ」
 助けに来てくれたわけではなくて単に通りすがりだっただけの様子で、美貌の男はくるりと背を向けてとっとと歩き去ってしまう。
 ウインドはブツブツと文句を言いながらも立ち上がり、下半身を露出したままの男の襟を軽々と掴んで引きずりながら後を追って。
「ま、待ってください!!」
 年頃なら同じくらいなのだろうウインドを、呼び止める。
 マガも大概の悲惨な目には遭ってきた。
 だが彼は、マガを凌駕するほどの酷い目に遭ってきたはずだと本能が知らせてきた。
 バオル国で虐げられて育った自分よりも。
「…あなたは、エル・フェアリアの人なのですか?」
 エル・フェアリア語で問うて、立ち止まって振り返ってきたウインドの言葉を待って。
「だったら何だよ」
 つまらなさそうに教えてくれる。
「…なんでラムタル出場者として……」
 ボソリと聞き取れないほどの声量で質問してしまったせいで、ウインドに睨みつけられた。
「なんだよ、早く言えよ。こいつお前が持っていくか?」
 いまだに伸びている男を渡そうとしてくるから、一歩後ずさってしまった。
「いえ、あの……エル・フェアリアはどんな国なのですか?」
 質問の内容を変えたのは、先ほどの質問に何の意味もないことに気付いたから。
 そして新たな質問には。
「クソみたいな国だぜ。お前あっちで保護されんだろ?ご愁傷様だな。せいぜい何かしらの役に立たねぇと戦闘区域に回されんじゃね?」
 ニヤリと笑うウインドの、表情の中に宿る闇がさらに深くなる。
「……戦闘…区域?エル・フェアリアはもう戦争はやってないんじゃ…」
「馬鹿かよお前、そんなことも知らねぇで!エル・フェアリアが戦争終わらせたなんて建前でしかねぇんだよ!国境付近は今も戦闘一色だし、滅亡した国の奴らは土地取り返そうと必死だぜ?そこに回されてみろよ。お前なんか上手い具合に昼も夜も働かされるだろうな」
 ゲラゲラと笑いながら、まるで自分が体験したかのようにウインドは詳しく話して聞かせてくる。
「毎日毎日戦闘、それ以外は野郎どもの相手だ。一生終わらねぇぜ!早めに死ねることを願っときな!」
 壊れたかのような笑い声が脳裏にこびりつくようだった。
 ウインドは話がもう無いならと男を引きずったまま去っていく。
 クソみたいな国。
 戦闘区域に回されたら、人生が終わるほどの。
「……っ」
 呼吸が震えた。
 何かの役に立たなければ、自分はそんな場所に捨てられるのか。
 ウインドの言葉が嘘だとは思えなかった。
 きっと彼は経験者だから。
 彼の存在全てが物語る、紛れもない事実。
 ラムタルに救い出されたから、ラムタルにいるのだとしたら。
 立ち尽くして、カタカタと肩は震え始めた。 きっとバオル国で悲惨な扱いを受けていた方がまだマシなほどの地獄が待っている。
『ーーこんな所にいたのか』
 気が遠退くような感覚に襲われる中で聞こえてきた呼び声は、地獄の扉が開いたと思えるほどだった。
『…何の用なんだ?』
 マガが会いたいと頼んで呼び出してもらったというのに、近付いてくるジャックが今はもう怖くて。
『あ…俺……あの』
 頭の中がサァ、と真っ白になった。
『…何だその格好は……おい、何があった』
 顔色を悪くするマガに歩み寄るジャックが、破かれた服を目に留めて強く眉を顰めた。
『…マガ様?……どうされたのですか!?』
 ジャックの後ろを付いて歩いていたイリュシーも、マガの姿に驚愕の声を上げていた。
 ウインドから投げ渡された神官衣で前を隠しているが、マガの襲われた直後のような姿が完全に隠されたわけではない。
 両手で口元を押さえるイリュシーはその場で固まるが、すぐに辺りを見渡しておかしな点はないか探り始めた。
『…マガ、誰かに何かされたのか?』
 険しい表情のまま近付いてくるジャックが両肩に手をかけようとしてくるから、怯えて振り払って。
『……ぁ…………すみませ…っ』
 恐怖が喉を締め上げて、マガの言葉を詰まらせた。
『……大丈夫か?』
 ジャックも手を近付けることをやめて、言葉は非常に優しいものになって。
 まるで全身でマガを心配してくれているかのようなのに、彼はエル・フェアリアにマガを連れて行くのだ。
 恐怖と絶望の国へ。
『あの…俺……』
 縋りたいほど優しい声で話しかけてくれる人。
 この人は、マガをどうするつもりなのだろうか。
 奴隷にするのか、慰みものにするのか、戦闘の色濃い場所へ送るのか。
 どれも嫌だ。
 でも、マガには拒否権など存在しないのだ。
 オリクスがマガをエル・フェアリアに保護させることを決めたのは、マガの母親がエル・フェアリアに訪れるからと、それだけだから。
 オリクスはマガを助けたいわけじゃない。
 マガを経由して、マガの母親から流浪の民達へ、力を貸してくれるよう頼む為で。
 それはつまり、結局、マガはーー
『お、おい…どうしたんだ……』
 ボロボロと涙が溢れる。
 結局マガは、周りの都合の良いように使われるだけじゃないかと。
 涙が溢れるままジャックを見上げる。
 もし、せめて選ばせてもらえるなら。
『俺、何でもします…何でも出来ますから……』
 振り払ったジャックの手を、震える指先で絡め取る。
 ジャックの手は以前のように熱い。
 いや、マガの指先が体温を無くしたかのように冷たいのか。
『ほんとに、何でも出来ます…』
 涙が止まらないが、無理やり微笑んで見せた。
 灰色の混ざるまだらの肌は、よく珍しがられていた。
 引き締まった身体も、どんな苦しい体位も受け入れられるほどの柔らかい身体も喜ばれた。
「だから…だから、捨てないでください…あなたを喜ばせる為に、どんなことでもしてみせますから…」
 エル・フェアリア語はまだ流暢ではないかもしれない。それでも、健気に付き従う姿さえ見せれば、きっと。
「……お前…」
 マガの様子をどう受け取ったのか、ジャックの瞳は困惑から憐れむようなものに変わっていく。
 その瞳の変化に安堵したのは、憐れまれれば憐れまれるほど、優しくされると知っているからで。
『……マガ、よく聞けよ』
 ジャックの熱い指先が、マガの手から離れる。
 離れた手は、そのままマガの頭にやや強い程度の力で乗った。
『俺はお前を、俺の子供にする。お前もほとんど育ちきってるから普通に育てるのは無理だろうけどな…せめて子供らしくさせてやる…』
 ガシガシと頭を撫でられる。
 ジャックの言う意味は、正直わからなかった。
 彼の子供になる。
 それは、マガが自分の父である糞爺の息子であることと、何が違うのかわからなかったから。
 でも。
『はい、なります…なりますから…』
 だから、捨てないでください。
 マガのせめての願いを伝えた後、ジャックがさらに強く頭を撫でるものだから、彼がどんな表情でマガを見ているのか知ることは叶わなかった。

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「ーーあいつ捨ててきたぞ」
 ルクレスティードが眠る広い部屋に入りながら、ウインドは先ほどまで引きずっていた気絶した変態を兵に引き渡したことをファントム達に伝える。
 ここは元々リーンが匿われていた部屋だった。
 今は別の場所に移動させられて、代わりにルクレスティードがここにいる。
 豪華な寝室のだだっ広いベッドで眠りこけるルクレスティードは、昨日今日と千里眼を使用したせいで体力回復に回っている様子だ。
 ガイアはそんなルクレスティードを心配そうに眺めながら頭を撫でてやっていて、ファントムはそばの壁際に背中を預けていて。
 まるで家族のような状況に、ハ、と鼻で笑ってしまった。
 ガイアが昼間の第二試合で負傷したコウェルズを癒したことも聞かされていて、思い詰めて落ち込むような表情は何ともガイアらしい暗さがあった。
「パージャはどうしたんだよ。あいつも呼び出したんだろ?なんで来てないんだよ」
 ここにいないムカつく仲間のことを訊ねれば、顔を動かすのはファントムだけだ。
「空中庭園にミュズと共にいる。心配するな」
「は?心配するわけねーだろ。何であいつだけ特別扱いなんだよ」
「ミュズがああなった以上、もう離れる気力も無いだろう。しばらくは静かに過ごさせてやるだけだ」
 パージャがファントム達から離脱する理由を失ったから、時が来るまで放っておく。
 その判断に、凄まじい怒りが湧くようだった。
「だから何であいつらだけ特別扱いなんだよ!!」
 ファントムの説明は説明にはなっていないと強く批判しても、涼やかに流されるだけで。
 妙な現象が起きて、ミュズは目を覚ました。
 パージャと同じ闇の緋色を宿して。
 それは、ミュズがウインド達と同じ存在になったということだ。
 不老と不死に。
 ファントムの魂のかけらを持って産まれた者達の中で、パージャだけは離脱の傾向が稀に見られた。
 全員揃わなければ呪いが解けない状況で、パージャだけは呪いを解くことよりもミュズが幸せであることを選ぼうとしていたのだ。
 そんなミュズが、パージャに魂を分け与えられた。
 どんな原理かはわからない。
 だがそのおかげで、パージャが離脱する懸念は消え去った。
 不老不死の呪いを解かない限り、パージャが求めるミュズの幸せなど訪れないから。
 この呪いは、どこまでもエル・フェアリアが絡みつくから。
「あいつが離脱しないんなら、俺はもうここにいる必要無いだろ。エレッテの所に行かせろ。俺が助け出す」
 パージャにとってミュズが絶対であるように、ウインドにもエレッテが必要で。
 それに呪いを解く為にもエレッテを早く助けなければならないはずだ。
 大会なんてものもウインドにとってはただのゴミで、参加する意義などどこにも存在しない。
 そもそもコウェルズ達を誘き出せた時点でウインドは大会に出場しなくても良かったはずなのに、バインドが命じ、ファントムも了承したせいで留まらざるを得なくなったのだ。
 それも、八強入りしたのだから充分だろう。
 今日の二試合の対戦相手はいずれも弱すぎて話にならなかったが。
「明日の第三試合までは出てやるよ。あのクソチビぶっ殺してからエル・フェアリアに戻るからな」
 明日の試合だけは出てやってもいい。
 そう思えたのは、ルードヴィッヒが勝ち上がったからだった。
 弱い分際でギリギリ勝ち上がっただけの甘ちゃんを、完膚なきまでに叩きのめしてやる。
 そう拳を握りしめるが、ファントムには鼻で笑われた。
「明日は気絶する程度に留めておけ」
 そして、命令。
「何でだよ。試合中の死亡事故なんて珍しくも何ともないだろ」
「あの少年の記憶を改めて探る。明日になればルクレスティードも目覚めているだろうからな」
 ルクレスティードを苦しめた原子眼の持ち主の記憶を改めて覗くのだと。
「必要あんのかよ。めっちゃ弱そうな奴だろ?エル・フェアリアで殺せばいいんだよ」
「その短絡的な思考をどうにかしろ」
 鼻で笑った後は、わざとらしいため息を吐かれる。
「原子眼が我々にとって使えるものなのかは知っておきたいからな」
 凍えるほどの微笑を浮かべながら。
「明日は上手くやれ。その後に華を持たせてやる」
 ファントムの言い回しを上手く理解できずに眉を顰めたが、エレッテを救い出す為の許可がようやく出たと悟り、ウインドはようやく頬を歪ませるように口元を笑わせた。

第98話 終
 
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