第97話
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武術の第二試合が始まり、ルードヴィッヒはジャックと共にイリュエノッドの陣営内でそれぞれの国の代表達の戦闘に齧り付くように見入っていた。
本当は近くで見たかったのだが、精神が昂りすぎるから駄目だと陣営から見るだけに制限されてしまったのだ。
初戦でラジアータに勝利した戦士も無事に勝ち進み、トウヤも軽々と勝ち進んだ。クイは対戦相手が苦手な選手だった様子で少し苦戦したが、上手く隙を付いて勝ち上がった。
第一試合とは一気にレベルが上がっていることが窺えて、身体に力がこもる。それをほぐしてくれるのはジャックだった。
試合から目を離さないルードヴィッヒの背中から肩や首筋に手を当てて揺すってくれる。
それだけで強張りが少しは落ち着いた。
「もう大丈夫なのか?」
「……え?」
クイが無事に勝ち上がると同時にそう話しかけられて、数秒してから自分が話しかけられたのだと気付いて背後を見上げて。
何と言われたのかわからなくて困惑すれば、ジャックはルードヴィッヒの首筋を優しく揉みながら「いい。気にすんな」と。
意図せず無視する形になってしまい申し訳なかったが、気にしなくていいのならと言葉に甘えて戦闘場へと目を戻した。
次の試合が終われば、ルードヴィッヒの番となる。相手は奇妙な戦士、バックスだ。
何かとルードヴィッヒに絡んでこようとする素振りを見せてくるのだが、周りが壁となってくれている。気がする。
ヤタ国の陣営をチラリと見遣ればバックスと目が合うが、好意的に微笑み返されて。
好意的、ではあるのだが、何かが引っかかるように気持ちが悪くなる。
好意的な相手に対して本能的に嫌うかのようで申し訳ないと思ってしまいそうになったが、そもそもバックスは女性の身体検査を覗こうとしていた下劣な男だ。
すぐに視線を外して戦闘場を見守る。
クイの降りた戦闘場では速やかな掃除が行われていて、その間にクイが陣営に戻ってくるのを見守り続けて。
どうやら脚を痛めたらしいクイの為に陣営内では治癒魔術師が治療の準備を始めており、そこまでひどくはない様子でラムタルからの治癒魔術師の援護は断っていた。
「ーークイ!何とか勝てたな!」
「ギリギリだったぞ!!」
「しっかりやれよ!!」
戻ってくるクイに向けてイリュエノッドの仲間達の激励は笑いながらも厳しめで、クイも「煩い」と笑ってはいたが、やはり脚はつらそうに少し引きずっていた。
『大丈夫ですか?クイ殿…』
『これくらいならすぐに治るさ』
陣営内の椅子に座ったクイの隣に行けば、笑いながら負傷した脚を出してすぐに治癒が始まって。
「明日までに治るか?」
「今晩までには行けそうだ」
イリュエノッド語でクイは治癒魔術師の青年と話すが、その内容に少し首を傾げてしまった。
同じ治癒魔術師のアリアは、簡単な傷程度なら一瞬で治してしまっていたから。
『あの、もしかして酷い怪我なのでしょうか…』
不安になり訊ねてみたが、治癒魔術師の青年はいやいや、と笑って。
『軽度のヒビだよ。これくらいなら今日中には治るよ』
だから安心して、とまた笑うが、その返答にさらに困惑してしまった。
アリアの治癒魔術と比べるとあまりにも質が低い。
それを口には出来ないが、ジャックも違和感を感じたのかルードヴィッヒと目を少し合わせてきて。
イリュエノッド国の民は魔力の保有量が全体的に低いと聞くので、その為かと思うが。
『ーーおい!向こうやばいぞ!!』
そこへ、隣の陣営からトウヤが慌てた様子でこちらに入ってきた。
向こうとは、剣術試合の方だろうか。
『ってかお前どこ行ってやがった!!俺の試合の時いなかっただろ!!まさかテテに会いに行ってたんじゃないだろうな!!』
『いや、はは…いや今はそれどころじゃないんだよ!』
トウヤと共に後ろにスアタニラの関係者が控えているが、皆表情が固くて。
『…何があったんだ』
話を進める為にジャックが訊ねれば、トウヤの隣に出てきたサポートの娘が緊張しながら小声をさらに震わせた。
『エテルネル様が、試合中に腕を切り落とされました…』
周りを配慮しての小さな声。だがざわりと辺りが静かに騒然とした。
『幸いにもラムタル側の治癒魔術師様がすぐに治して下さった様子ですが…』
『いや、無理だろ!腕が落ちたなら最低でも10日は治癒にかかるだろ!!明日の試合はっ…』
『それが本当に、綺麗に治った様子ではあって……』
脚の治療中のクイが噛み付くようにスアタニラの娘に強い口調で問うてしまい、トウヤがサッと背中に隠して。
『本当に治ったのかどうかわからないけど、エテルネル殿の腕は確かに繋がって動いてはいたんだ。…ただ、完全に治ってるかは…』
トウヤも見ていた様子で話してくれるが、完全に治ったかどうかには懐疑的で。
エテルネルのーーエル・フェアリアのコウェルズ王子の腕が落ちた。
剣術試合では稀に切断が起きる為に入念な準備があるとはいえ、腕の落ちた人物がコウェルズということが誰にとっても衝撃だった。
『でも試合も少しやばかったんだよな…わざと腕を狙わせたみたいな戦術で…』
『で、ではエテルネル殿は負けたのですか!?』
『違う違う!勝った勝った!試合には勝ったよ!!大丈夫だ!!』
コウェルズは第二試合を勝ちはした。
だが、負傷した腕への疑問は誰にも残っていて。
『明日の試合…エテルネル殿は出られるのか?』
クイの問いかけに誰もが口を閉じるが、ルードヴィッヒはまた首を傾げてしまった。
『ですが…治して下さったんですよね?』
治癒魔術師が無事に治してくれたのなら平気だろうと思っての言葉だったが、イリュエノッドとスアタニラ両国から有り得ないものを見るかのような目で見られてしまった。
『切断するほどの大怪我をすぐに治せるほどの治癒魔術師なんて稀ですよ。その域に到達するには五十年の修行は必要でしょう』
『でも、アリア嬢は…』
『ーー生まれつきの治癒魔術師と修行を積んだ治癒魔術師の違いだろう』
誰もが困惑する中に新たに加わる声は、老いてなお芯の強い声をしていた。
『レバン様……ルリア様!?』
イリュエノッドの陣営にレバンが訪れ、その後ろに共にいたルリア王女の姿にクイが腰を抜かすほど驚いて。
一人慌てふためいているクイを置いておき、レバンはルードヴィッヒを見つめてくる。
『エル・フェアリアのメディウム家は生まれ付きの治癒魔術師だと聞く。その能力は修行を積んだ治癒魔術師百人に匹敵するそうだ』
治癒魔術師についての能力の違いを説明するレバンに、なるほど、と最初に納得したのはジャックだった。
『クイ殿の脚の治療が今晩までかかると聞いて少し驚きましたが、それが“普通”なのですね』
『そういうことだ。生まれ付きの治癒魔術師は世界中を探してもエル・フェアリアのメディウム家と、他国でも数十年に一度くらいのものだからな』
ほとんどの国が治癒魔術師を修行により獲得するのだと説明されて、ルードヴィッヒもようやく納得をした。
『…ではラムタルの生まれ付きの治癒魔術師がエテルネル殿を癒したのでしょうか?』
トウヤの質問には、レバンも首を捻って。
『それは、明日の第三試合にならんとわからんな』
コウェルズの怪我が完全に治っているのか見せかけだけなのか。
ルードヴィッヒは再びジャックと目を合わせて緊張した。
「クイ…怪我は……」
そこへ、今まで静かにしていたルリアが落ち込んだ様子でクイの隣へと膝をついた。
「ルリア様!!お身体が汚れてしまいます!椅子を!せめてお立ち下さい!!」
ルリアの代わりに立ち上がろうとするクイを周りが止めて、ルリアにもクイの為に立ってくれと周りが進めて。
「……私の試合を見ていて下さったのですか?」
イリュエノッド語で話すクイからは今までで聞いたこともないような緊張が見えて、ルリアも少し気まずそうに頷くだけに留めていて。
『…ルードヴィッヒ、こっち来いよ』
その様子に何かを悟ったかのように、トウヤがルードヴィッヒを半ば強引にスアタニラの陣営に引き入れた。
コウェルズがどうなったかも現状はわからないままだが、共にスアタニラ陣営に付いてくるジャックからも「今は試合に集中しろ」と目線で合図される。
『あの野郎、俺には“テテに近づくな”なんて言ってやがったのに、自分はどうなんだよ』
『憶測で話すな。相手は王家だぞ』
ニヤニヤと笑うトウヤをジャックがため息混じりに嗜めているが、クイがどうしたというのだろうか。
『それよりトウヤ…エテルネルはどんな様子だったんだ?』
『俺たちもすぐこっちに戻ってきたから全部見てたわけじゃないんですけど、ラムタルから女の治癒魔術師が駆けつけてすぐに治療してくれて、そのあとパッパと離れていったんで、本当に腕が完治したのかどうかは…指先が動いてたのは見えましたけど』
神経が何とか繋がった状況なのか、完全に治ったのかまではわからない、と。
『ただ…聞き間違いかもしれないんですけど……』
その後にトウヤはさらに言い淀むように口をもごつかせて。
『そのラムタルの治癒魔術師、駆けつけてくる時にエテルネルの、その…あっちの名前を叫んでた気がするんですよ』
あっちの名前を。
それは、コウェルズそのままの名前ということか。
『…本当か?』
『いや、ちょっとマジで確信持てなくて…なんせ剣術試合の観客の数が多すぎて音が響きまくってたから、俺の聞き間違いかもしれなくて』
自信はないとしながらも、トウヤは聞き流すことも出来ない様子だった。
『どんな治癒魔術師だったんだ?』
『見た目…銀髪の女ってことくらいしか…』
トウヤはその説明すら不安げではあったが、銀髪の女という情報はルードヴィッヒやジャックにとって何より敏感に反応できるものだった。
『その女性の近くに子供はーー』
ルードヴィッヒはやや焦りながらもジュエルを拐った少年は近くにいなかったかと訊ねようとしたが、視界の端に入り込んだ闇色の影に言葉は詰まった。
過剰な反応ともいえるほどの素早さで、その闇色に目を向けて。
『おい、ルードヴィッヒ?』
トウヤやジャックも、同じようにルードヴィッヒの視線の先へと目を向けた。
『…ラムタルの出場者も二戦目はさすがに早めに来るか』
何の気もないトウヤだけは軽い口調で話すが。
「……っ」
「…落ち着け」
ラムタルの陣営に訪れた闇色の青髪を揺らす不機嫌そうなウインドの姿に飛びかかりそうになるのを、ジャックに強い力で静止された。
ラムタルの神官衣姿のウインドも、たった今気が付いたかのようにルードヴィッヒに目を向け、挑発的な笑みを浮かべてくる。
その侮蔑に近い笑みに、頭の中で怒りが一気に燃え上がった。
『お前!私に何をしたんだ!!』
あの襲撃を忘れたとは言わせない。
ジャックの腕を振り解いてウインドへと駆け寄って、しかしラムタルの陣営の手前でラムタルのサポート達に止められて。
怒りに染まるルードヴィッヒを嘲笑いながら、ウインドは二戦目への最終調整を涼しげに受けていた。
『言え!この卑怯者!!』
『ギャーギャーうるせーよ。クソチビ』
『何だと!?』
ルードヴィッヒもすぐにまたジャックに腕を掴まれて止められて。
「相手にするな」
「ですが!!」
責められるべきは向こうではないのかと非難の目をジャックに向けても、首を横に振られるだけでルードヴィッヒの声は聞き入れられなかった。
「……お前は試合に行く時間だ」
ちらりとジャックはルードヴィッヒから戦闘場へと目を向けて、同時に勝者を告げる花火が打ち上がって。
「あ!!」
あらゆることに気を取られてしまい、試合の観戦がいっさい出来なかった。
戦闘場では勝者がガッツポーズを決めており、完全に試合は終わっていて。
『ほら、とっとと行って無様に負けてこいよ、雑魚チビ』
クソの次は雑魚と嘲笑われて、もう一度強くウインドを睨みつけて。
『お前もいい加減にしておけ』
調整を行っていたラムタルの武人に嗜められて、ウインドはフンと鼻を鳴らした。
「…行くぞ、ルードヴィッヒ」
ジャックも、まるでとっととこの場から退散させるかのようにルードヴィッヒを試合に向かわせようとする。
『しっかり勝てよ!!』
共について来るトウヤの声援を受けて、ウインドへの腹立たしさを唇を噛んで堪える。
「今は試合に集中し」
「わかってます!!」
背中を押すジャックの言葉を途中で遮って、自らの足で地面を蹴りつけるように強く進んで。
戦士のいなくなった戦闘場では素早い掃除が行われており、ルードヴィッヒの向かい側では既に対戦相手のバックスが待機していた。
ゆるめの柔軟運動をしていたバックスが、ルードヴィッヒの視線に気付いて微笑んでくる。
その笑顔からすぐ視線を逸らして、試合に集中する為に屈伸をした。
一回戦ではすぐに戦闘場に上がれたというのに、掃除は少し時間がかかっている。それだけ試合が激しかったのだ。
ルードヴィッヒが見落とした試合の勝者は、明日クイと三回戦を行う。
明日も戦う為には、今日勝たねばならない。
「わかっているだろうが…この試合に勝てば、明日はラムタルとの試合になるだろう」
ルードヴィッヒと同じことを考えていたらしいジャックから、改めてウインドの話をされて。
ルードヴィッヒがこの試合に勝ってウインドも勝ち進んだなら、第三試合でぶち当たることになる。
明日の午前中に。
「だが明日のことは考えるな。目の前の敵にどう勝てるかだけ考えろ。ヤタ国の武術は…お前には少し不利だからな」
「……そうなんですか?」
「大立ち回りの多いお前の武術とは違って、静かに関節を極めてくる。指先一本すら絶対に捕まらないようにしろ」
暗に単純動作だと言われた気がしてムッとするが、深呼吸と共に素直に聞き入れた。
『お待たせいたしました。どうぞお上がりください』
ラムタルの審判員に促され、引かれたロープの内側に入る。
ジャックとトウヤとはここまでだ。
同じように向かい側からもバックスが審判員に促されていて、互いに戦闘場へと上がって。
ルードヴィッヒとバックスが戦闘場に踏み上がった瞬間に、一度目の花火は打ち上がった。
一回戦でははっきりとした意識を持てなかったが、今回は自分の意識をコントロール出来ている。
身体は軽い。大丈夫だ。
何度か手のひらを握りしめては緩めて、バックスから感じる視線を今度は正面から受け入れる。
睨まれているわけではないのだが、睨み返すように。
審判に準備は良いかを訊ねられ、そちらは見ずに小さく頷いた。
バックスも同じだ。
はっきりと意識を自覚できる状況に、なぜ一回戦とは自身の状況が異なるのか疑問に思いながら。
開始を告げる二発目の花火に、観客席から盛大な拍手が送られた。
相手は女性の身体検査を覗こうとした卑劣な男だ。互いに勝ち進めば二回戦で対戦することになると言われたから、バックスが失格にならないよう頼み込んだ。
レフールセント国のディオーネの分も、ルードヴィッヒはバックスを殴るつもりでいる。
腰を低くして重心を安定させ、先制の為に動く。
バックスへと向かいながら、一回戦のバオル国の対戦相手とは桁違いに強いことを肌で感じ取った。
関節技がヤタ国の武術だというなら、先に関節を狙えばいい。
動きを制止させる為にバックスへ突っ込み、すぐに姿勢を低く移動させて膝裏へと速度を落とさないまま回し蹴りを繰り出すが、最小の動きでするりと逃げられた。
構わず速度を落とさないまま床を蹴ってバックスの頬に拳を繰り出す。
バックスもすぐに反応を見せて片腕で顔を庇うから、足首をひねって姿勢をずらし、反対の拳で首を撃った。
入るーー寸前で手首を掴まれた。
「っ!!」
手首がミシリと音を立てるような握力の強さ。
歯を食いしばって痛みを堪えるが、逃れようにも掴まれた手を外せなくて。
それならと鳩尾に膝を撃ち込むが、それも見透かされていたかのようにもう片方の手のひらで止められた。
関節を取られるな、とジャックに言われていたというのに、すでに二箇所も敵の手中にある。
どう逃げるべきかと考えようとするが。
「……良い香りだ」
勢いを殺さないままルードヴィッヒの首筋にバックスの顔が触れて、深呼吸の音と共にボソリとエル・フェアリアの言語で囁かれた。
ゾクッと背筋に嫌な悪寒が走る。
心から本気で逃れたくて、そしてまるで弄ぶようにバックスの拘束も外れた。
すぐに姿勢を戻して離れ逃げる。
数歩分離れた場所で警戒するように対峙すれば、たった数秒の戦闘に観客達がワッと沸いた。
大半が若い戦士の健闘ぶりを喜ぶものだが、その声援は今のルードヴィッヒには届かなかった。
代わりに襲うのは、汚らわしい恐怖だ。
自分が汚されていくかのような、嫌な恐怖。
バックスが一歩近付くものだから、無意識にかなりの距離を取った。
「…そう怯えなくていい。綺麗な顔が台無しだ」
流暢なエル・フェアリア語を話してくるバックスに、彼がなぜルードヴィッヒと関わろうとしてくるのかを察した。
あの男と同じだから。
ルードヴィッヒを汚そうとした、ルードヴィッヒが殺した男と。
「大会開始前の準備期間中は関われなかったんだ。武術家同士、お互いの力をゆっくりと力を試さないか?」
「黙れっ!!」
言葉だけなら嬉々として頷いていたかもしれない。
しかしバックスの望みに気付いた今、何もかもが気持ち悪くなって全身で強く拒絶した。
声援を送り続けてくれる観客達にはルードヴィッヒの叫びも聞こえてはいないだろう。だがバックスには聞こえていた様子で、ニヤリと笑われて。
その眼差しは遠慮もなくルードヴィッヒを視姦する。
ルードヴィッヒの首筋に硬くなった性器を擦り付けてきたあの男と同じ様子で。
クイやトウヤ達が期間中ずっとルードヴィッヒを守ってくれていたのだと、理解してしまう。
ーーお前はそのままでいろ
バックスの思惑に気付いていなかったルードヴィッヒを純朴な少年だと信じて疑わずに告げてきたその言葉。
だがルードヴィッヒは、性の捌け口にされるおぞましさを知っている。
「そう怯えないでくれ…冒険は楽しむものだ」
そしてバックスも、ルードヴィッヒの様子の変化から自分の思惑に気付かれたのだと分かった様子だった。
「君の肌は…引き締まってとても美しかったね」
笑みをさらに強くするバックスに、また悪寒が全身を舐めていく。
身体検査ではレフールセント国のディオーネを覗こうとしていたのだと思っていた。
それも間違いだったのだ。
バックスは最初から、ルードヴィッヒを狙って覗きに来ていた。
ディオーネもそれに気付いていたから、わざと騒ぎを大きくしてバックスを痴漢で失格にしようとしていたのだ。
周りの誰もがルードヴィッヒを守ろうとしてくれていた。ルードヴィッヒに気付かれないように、傷付かないように。
ルードヴィッヒが、何も知らない少年だと信じて。
「どうだろう、今夜私とーー」
「うるさい黙れ!!」
気持ち悪くて、あの日の恐怖を思い出しそうで、身体がすくみ上がりそうで、真正面からバックスに撃ち込みに走った。
バックスは笑みを絶やさない。
まるでルードヴィッヒがどう動くか見極めているかのように、ルードヴィッヒの身体を狙っていた。
ルードヴィッヒが拳を使う気なのか、足技を使う気なのか、身体を愛でるように指先を小刻みに動かして見極めている。
この男に関節を取られるな、なんて、無理だ。瞬時に悟り、狙うのは。
右に踏み込んで脇腹に一発入れると見せかければ、その拳を止める為にバックスにまた手首を掴まれた。その握力の強い腕を掴んで、容赦なく折る為に頭突きを落として。
「ーー素晴らしい」
やはり寸前で、肩に指をかけられた。
まるで指圧をするかのように、指が肩甲骨にめり込む。
「うわっああ!!」
ねじり切られるような痛みに、思わず絶叫した。
「柔軟運動のしすぎだよ。今夜、私の部屋でゆっくり癒してあげようか?」
身体の自由を奪われたまま、また耳元で囁かれた。
おぞましさが全身に広がる。
バックスも今度はルードヴィッヒを離しはしなかった。
掴まれた手首にもバックスの親指が食い込み、痛みに歯を食いしばる。
二度と負けないように、強くなる為に訓練を続けてきたのに。
悔しさの分だけ、食いしばる力がさらに増していく。
「君は本当に、可愛くて美しくて…弱いのに強がって…まるで高貴なお姫様のようだね」
耳元から顔を離さないバックスが、何度も何度もルードヴィッヒの匂いを嗅ぎ、興奮がおさまらないかのように囁いてくる。
弱いのに、強がって。
そんなはずないと、言い返せない。
「今の雄々しい姿も君とはアンバランスで可憐だが、私としては以前の飾り立てた姿の方が好みだよ」
それは、魔具訓練の装飾のことか。
レイトルが教えてくれた強くなる為の魔具の操作訓練を。
「まるで男を誘っている淫らな娼婦のようだったよ」
ニヤリと、欲望を隠さない笑み。
ルードヴィッヒの努力を、別物にすり替えようとする。
「貴様っ…」
なのに、ルードヴィッヒが強がれるのは口ばかりだ。
圧倒的にバックスの方が強いのだ。
二度と無様に負けたくなくて、気持ちの悪い欲望を押し付けられたくなくて、馬鹿にされたくなくて、蹂躙されたくなくて。
なのに、ルードヴィッヒの心を守ってくれていた魔具の装飾すら、おぞましい変態は欲望の目で見るのか。
あれはルードヴィッヒの心を守る、大切な自信だったのにーー
「私に触れるな!!」
パン、と。
布を風で強く打つような音。
恐怖を引き裂く為の、防御本能のような。
気付けば、バックスの関節の拘束から外れていた。
バックスも、何が起きたかわからないかのように眉を顰めている。
まただ、と唇を噛む。
自分の動きを自分で制御出来ていない。
今、確実にルードヴィッヒはバックスよりも強い技で逃げることが出来たのだ。
なのに動きを掴めない。
身体を動かしたのは自分のはずなのに。
風を打つ布の音は何だったのか。痛みもなく掴まれた手首を外させた動きはどうやったのか。
全て、なぜ無意識なのか。
「君は…可愛いだけではないのか」
またニヤリと笑われて、また背筋が凍りそうになって。
「黙れと言っているんだ!!」
間合いも考えずに飛び込もうとして、風を打つ布の音をまた聞いた。
音の正体は、戦闘服の少し長い裾だった。
ルードヴィッヒの動きに合わせるように、風を打ったのだ。
まるで鼓舞するように。
関節を掴まれないように後ろに回ってからバックスの頭を狙って飛び蹴りをかまし、その足首を掴まれそうになるから腕を回して空中で身体を捻り。
逃げて、狙って、また逃げる。
風を打つ布の音のおかげで、自分の動きが把握でき始めていた。ガウェが与えてくれた特別な戦闘着が、最後の鍵を開けるかのように。
全身を柔らかく使って体勢を思い通りに変化させ続けていく。
ようやく少しだけ、理解出来なかった動きを理解できてきたのに。
「ーー少し、休もうか…」
攻撃を繰り出しながらも逃げまわるルードヴィッヒの動きに苛立つような声で、バックスが容赦なく首筋を掴んで床へと激しく叩き付けた。
ゴン、と頭がぶつかる音。
一拍置いて、激しい痛み。
意識が遠退こうとするから、強引に両手を床に這わせて力で起きあがろうとした。
「…ここまでされてすぐ動けるのか…本当に魅力的だね」
押さえつけられる首と、強引に起きあがろうとする力が拮抗する。
額は割られたように痛んで、ルードヴィッヒの眼前に広がる戦闘場の床にポタポタと赤い血が落ちた。
「おや……顔を怪我させたくはなかったが…」
その血にバックスも気付いて。
「……そうだ。今夜、君の国の少女も一緒に私の寝室に来るといい。君の手当てをする子が必要になるし、あの子も私の好みだから」
ルードヴィッヒの動きが制止した。
「健気で可憐な少女だったね。バオル国からの意地悪に泣いてしまって…なんて可愛いんだと思っていたんだよ」
ジュエルを口にされて、全身が強張る。
そのことに気付いているのかいないのか、バックスは恍惚とした声で話し続けて。
「自分で言うのも何だけど、私は無垢な子達のはしたない本当の姿を引き出すのが、とても上手いんだ」
バックスの声がまた耳元に近付いてくる。
「君も、知りたくはないか?」
強く掴まれ続ける首筋に、新たに指が這った。
カリカリと、爪で優しく引っ掻いて。
襟元の奥の肌にまで触れようと。
「エル・フェアリアでは君ももう成人していることだし、もしかして女の身体を知ってはいるかな…でも男を知りはしないだろう?」
ルードヴィッヒを純朴と決めつけて、まるで諭して教えるかのように。
「知りたいだろう?本物の快楽を」
まるでそれ以外は選ばないだろうと信じるように。
「私の国では、男は精通すれば、女は初潮を迎えれば立派な大人なんだ。そう考えれば君の国の少女も立派な大人だろう。…二人まとめて、私に身を委ねるといい。見ていてすぐ気付いたよ。あの少女のことが好きなんだろう?なら、君もあの少女の淫らな本性を見たいだろうーー」
言葉でジュエルが穢されていく。
腹の奥底から湧き上がる凄まじい苛立ちに、ルードヴィッヒが最後に残る自我の中で耳にしたのは、今までで最も強く風を打つ戦闘着の音だった。
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