第60話


第60話


「エルザ、何かいいことでもあったの?」
 コウェルズのいない夕食の席、今夜を思い無意識に表情を緩めてしまっていたエルザは、唯一の姉の声にハッと我に返った。
 周りを見回せば、ミモザや妹達だけでなくヴァルツやサリア、壁際に控える騎士と侍女達までもがエルザに目を向けている。
「あ、え、あの…な、なんでもありませんわ!!」
 視線が恥ずかしくて呆けていたことを慌てて否定しても、誰も素直に受け取りはしないだろう。
 今夜、エルザはニコルと会う約束をした。
 我が儘じみた強引な約束の取り付けではあったが、ニコルがエルザを尋ねてくれるのは考えただけでも嬉しくて。
 たとえそれが、今はそんな時ではないと頭で理解していても。
 周りの目が離れはじめてから改めて見回してみれば、当然のことだが護衛騎士の数が多い。
 コウェルズの騎士達は全員残ってミモザの護衛に回されているので当然といえば当然だが、騎士達の剥き出しの警戒心は楽しいはずの夕食の席に緊張感を添えていた。
 ミモザが魔術兵団のナイナーダに襲われかけてからようやく一日が経とうとしているのだ。
 夕食の広間には騎士達の他にヴァルツがラムタル国から持ち出した絡繰りも待機しており、絡繰りとはいえ巨大な獣が何頭も騎士達と共にいる姿は圧迫感と物々しさが際立っていた。見えない場所からは魔術師団も護衛に立っている。
 絡繰りはミモザに五体、エルザ達他の姫には一体ずつ宛がわれていた。
 コレーとオデットは珍しい絡繰りに無邪気にまとわりついていたが、フェントは少し怯えていて。
「ミモザ姉様、今日はフェント達と一緒に寝るんでしょ?」
 エルザの隣に座るクレアは、食事の手を止めると話の続きを再開させるようにミモザに目を向けた。
「ええ。大丈夫とは言ったのだけれど」
 下の三人の姫は食事を楽しみながら何やらコソコソと作戦を練っている様子で、こちらを気にしてはいない。
 その姿を眺めてから、口を開くのはまたクレアだった。
「私もミモザ姉様が一人になるのは反対だからね。でもフェントはまだしもコレーとオデットが一緒なら、違う意味で寝れないこと覚悟しといた方がいいよ」
 物静かなフェントはまだしも。
 やけに生々しいクレアの口調に、ミモザはリラックスしたように柔らかく微笑む。
「経験者の言葉は重いわね」
「今まで押し入り状態だったからね」
 クレアは正式にスアタニラ国に嫁ぐことが決まってからというもの、毎晩妹達に押し掛けられていたのだ。
 一人だけの日もあれば、三人とも訪れる日も。
 とくに甘えたで活発なコレーが訪れた日には、翌日のクレアはあくびが止まらないものだった。
 しかし今日からしばらくは。
 ミモザが狙われたのだから。
 妹達は幼いながらの力でミモザを守ろうとしており、ミモザ達もそれで妹達が安心してくれるならとさせるままにして。
「私は今日から一人かぁ…私もミモザ姉様の部屋で寝ようかな?」
「あなたは用意が山積みでしょう」
「そうだけど」
 エル・フェアリアとスアタニラ間でのやり取りはすでに大々的に進められてはいるが、ファントムやリーンの件に最も力を入れているためにあまり話題に上がりはしない。しかし確実にクレアが嫁ぐ時は近付いているので、クレアの最近の行動はもっぱらスアタニラに向かうための準備ばかりだった。
 クレアが運営していた国立児童施設はすでにサリアに任されており、あとの細かな件についても着実に用意を整えて。
 クレアにすれば唯一安息の許された就寝時間の平穏をようやく手に入れたところだろうに、どこか寂しそうな様子は拭えなかった。
 それはクレアも別れがつらいのだということを見せていて。
「…エルザ姉様、久しぶりに一緒に寝よっか?」
「え!?」
 突然の申し出に、エルザは心臓の鼓動を強く跳ねさせた。
「あはは、冗談よ」
 驚くエルザに向けられたいたずらな笑顔に、気恥ずかしさから頬を膨らませる。
「も、もう、クレアったら…」
 恥ずかしい理由は、ニコルとの約束があったからだ。
 クレアの発言が冗談であったと理解しても、心臓の跳ねる音はなかなか収まる気配を見せなかった。
 一連の様子を静かに見守っていたのは夕食の席で唯一の男となったヴァルツで。
「うむぅ…私の立場がないではないか」
 拗ねる口調に一同は最初ヴァルツの言った意味がわからずに首をかしげたが、やがてクレアがヴァルツの拗ねた理由に気付いていたずらな笑みを先程よりも強めた。
「ヴァルツ様は姉様との結婚まで一緒は無理なんじゃない?」
 ヴァルツは婚約者であるミモザを夜も守るつもりでいたはずだ。それが、自分より幼い少女達に横取りされてしまったのだ。
 まだ大人になりきれていないヴァルツなら拗ねる姿を隠せないことは当然で。
「…しかしサリアはコウェルズと共に寝ていたではないか!なぜ私は駄目なのだ!!」
 ヴァルツの大声にサリアが噎せた。
 静観の姿勢を崩すつもりはなかっただろうサリアにとって、今のヴァルツの発言は顔から火が出るほど恥ずかしい代物だ。
 エルザは隣で噎せ続けるサリアの背中を擦ってやりながら、耳まで真っ赤になっている様子に軽い嫉妬心にも似た羨望を覚えた。
 サリアはコウェルズと毎晩共にいたのだから。
 ヴァルツはヴァルツでサリアを噎せ続けさせている発言など最初からなかったかのように腕を組んでふんぞり返り。
「ミモザを守るのは私の役目なのだ!」
「それ妹達に言ってみたら?」
「…むぅ」
 開き直りとも取れる発言だが、年下の姫達に強く出るつもりはない程度には大人らしい。
 不満は顔にありありと現れているが。
 ヴァルツのむくれた表情に皆がひとしきりクスクスと笑った後で、ようやくミモザがヴァルツの組まれた腕にそっと触れた。
「ありがとうございます、ヴァルツ様」
 ヴァルツの優しさは充分すぎるほど理解していると、ミモザは慈愛と恋愛を織り交ぜた眼差しを向ける。
 ミモザはいつもヴァルツを年下の婚約者として扱ってきたが、今のミモザの目にヴァルツは一人の立派な男として映っているのだろう。
 ヴァルツも無意識にそれを理解したのか、すぐに不貞腐れる表情を改めて嬉しそうな顔になった。
「いつでも私を頼るのだぞ!!」
「勿論ですわ」
 愛しい者に頼られることが嫌な者などいないはずで、ヴァルツはまさにそれを体現するかのように嬉しそうな表情の中に頼もしさを含ませた。
 なんて羨ましい間柄なのだろうか。
 エルザはようやく呼吸を整え直したサリアの背中から手を離すと、先ほどサリアに感じてしまった嫉妬心をミモザとヴァルツにも感じてしまった。
 羨ましくて、憧れる。
 エルザはまだ、ニコルとの仲を公言出来ていないのだから。
 エルザを守る騎士達はすでに二人の仲を理解してくれてはいるが、誰にも隠さずいられる関係は今のエルザにとって何よりも羨ましいものだった。
 最初はニコルの傍にさえいられたらそれで充分だと思っていたのに、日を追うごとに欲が増していくのがわかる。
 身近な人達の恋愛模様がこんなにも羨ましいなど、ニコルと恋仲になるまでは思いもしなかった。
 元より少しは羨ましいとは感じてはいたが、これほどまでに嫉妬を織り交ぜた憧れを感じるなど。
 いつかエルザも、堂々とニコルの隣に立ちたい。
 その為には障害が多いのだろうが、ニコルと一緒ならば乗り越えられる自信があった。
「どうしたの?エルザ姉様。嬉しそうな顔してるけど」
 またふと話しかけられて、しかし今度はエルザも慌てはしなかった。
「なんでもありませんわ」
 そうだ。ニコルと共になら、どんな障害だって乗り越えられる。
 エルザはニコルからの愛の告白を聞いたのだから。
 愛していると言ってくれた。
 他ならぬニコルの口から直接だ。
 愛を語ってくれて、エルザに心と身体の繋がりを教えてくれた。
 だから、エルザとニコルの愛は永遠なのだ。
 エルザは今夜の約束を思い出して、きょとんとするクレアにもう一度優しく笑いかけた。

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 イストワールにとって、その夜空は特別というわけでも何でもないはずのものだった。
 この世に生を受けて40年以上。
 騎士となり、幼いエルザ姫付きとなり、一部隊を率いる隊長にまで登り詰めた。
 若い頃は上昇思考も強く仲間達と張り合ったものだが、今はこれ以上を望むつもりもなく、ただ下にいる若い騎士達を見守る楽しみに身をゆだねている。
 やわらかくなった、とは副団長の言葉だったか。
 イストワールは過去に言われた言葉を思い出しながら、初冬の肌寒さを外気に触れる頬に感じつつ王城の中庭をゆっくりとしたペースで歩いていた。
 静かな時間に使う頭は狙われたミモザ姫の護衛強化に、生きていたリーン姫とファントムの捜索、それ以外にもやるべきことは山積みだったが、個人的に気になることがあって。
 目下一番気にしているのは、護衛対象であるエルザと部下だったニコルのことだ。
 エルザは長く婚姻が決まらなかった為か恋愛事に関して純粋すぎる面があり、ニコルは生きてきた道筋が荊にまみれていた為か危うすぎる面がある。
 互いに想っていることは確かだろう。だが漠然と、この恋が成就するには難しすぎることを感じていた。
 そもそもの手順を間違えてしまったのに、その後が上手くいくとは思えない。
 イストワールはニコルの不調を知りながら、コウェルズに命じられるままにエルザを手引きしたのだから。
 ニコルが侍女に媚薬香を嗅がされたと聞いた日の夜、そうとは知らずに身を清めたエルザをまだ危ういニコルに会わせた。
 その後どうなるかわからないほど馬鹿ではない。
 そして案の定、翌日からエルザは醸し出す清らかな空気の中に隠しきれない艶を持つようになった。
 それがエルザとニコルの合意のもとで育まれたものならよかったのに、現実は仕組まれたもので。
 それでも上手くいくならばと見守り続けて、しかしガタは当然であるかのように早々に訪れた。
 盲目になっていくエルザと反比例する、沈んでいくニコルの精神。
 その理由の全てを理解することなど出来ない。
 何も知らなかった頃なら王族と平民の恋など誰もが鼻で笑って終わらせただろうが、ニコルの妹が治癒魔術師として王城に戻り、エルザも治癒魔術師となる決意を公にした頃から風向きは変わっていたというのに。
 今のニコルの王城内での位置付けはただの平民出の騎士ではなく、治癒魔術の血を持った特別な人間なのだ。
 かつてエル・フェアリア王家と共にあった治癒魔術師の一族、メディウム家。メディウムの持つ治癒魔術の力は女児にだけ受け継がれるものであった為にニコルにその力はなかったが、ニコルの子供が女児ならば可能性は膨らむ。
 何もかも最後には上手くいくお伽噺のような世界ならよかったのに、現実は非常で。
 イストワールは一度王城の上層階を見上げると、エルザの部屋のある場所に目を向けた。
 エルザの部屋は正面からは見えない側面にあるためおおよその位置でしかわからないが、それでもイストワールは自室で休んでいるだろう姫の今後を思い、頭を下げるようにそっと俯いた。
 どうか幸せになってほしい。
 願いとは裏腹に脳内で弾き出される結末は否定的な未来ばかりだが。
 諦めるように身体の向きを戻して、中庭の道を進む。
 しかしまた足は止まってしまった。
 だが今度は止まってしまった理由に他者が上げられる。
 イストワールが少し目を見開いて相手を凝視してしまったのは、彼が今まさに頭の中にいたからだった。
 かつて部下だった青年。
 平民から騎士の地位にのし上がった、実力と強運に恵まれた、
「…ニコル」
 同じように少し驚いた表情を夜の闇の中で見せるニコルに、イストワールは溜め息の混じる声でその名を呼んだ。
「隊長…休憩の時間ですか?」
「まあ、そんなところだな」
 夜という時間のせいでか、ニコルの表情はどこか憂いを帯びたように物悲しい。
 アリアの護衛を離れているから身軽さを重視しているのだろうが、装備を外した兵装姿も珍しく映った。
「帯刀もしていないのか。お前らしくないな」
 普段から生真面目だったニコルは律儀にドレスソードも常備していて、しかしそれすら外している姿を見るなど。
 笑うイストワールに対してニコルも笑みを返したが、やはり浮かない表情が消え去りはしなかった。
「どうした。何かあったか?」
「…いえ」
 視線を逸らすニコルから目を離さずに少し待つが、ニコルから言葉を探す様子は見られなかった。
 それは話すつもりのない合図だ。
 そしてイストワールも、わざわざ深く介入する性格ではなくて。
 いつもそうだった。
 悩みを持つ若者がいたとしても、イストワールは問いただすことはしない。
 だが側にはいてやる。
「時間が余っているなら、少し歩かないか?」
 この時間帯にニコルが王城に足を向けていた理由に気付きはしたので断られるだろうと思っていたが、少し間を開けたニコルの返答は言葉のない了承だった。
 落ち込むニコルは度々見てきたが、気の滅入り方が酷すぎる。
「男同士の夜の連れ歩きも悪くはないだろう」
「やめてくださいよ」
 ようやく少し笑うニコルと共に王城に背を向けて、普段からは想像もつかないほどゆっくりとした足取りで中庭の散策は始まった。
「だいぶ寒くなったな。アリア嬢は平気か?」
 どこにいくつもりだったかは聞かずに他愛ない話をすれば、ニコルの最初の反応はわずかな戸惑いだった。
「あ…私やアリアの育った村は寒冷な土地でしたから、これくらいの寒さは平気ですよ」
 イストワールよりわずかにだけ後方を歩くニコルが口にする寒冷な土地は、大戦前はエル・フェアリアではなかった場所だ。
「カリューシャ地方か。あそこは確かにひどい寒さだからな」
「隊長は行ったことが?」
「いや。カリューシャ地方の一部を治める貴族が私の知人の親戚筋に当たるんだ」
 実際に会ったことはないが、優秀な人物だと聞いている。
 優秀で、そしてエル・フェアリアでは珍しい、
「数少ない女主人の一人だそうだ。まだ残る小規模な戦闘を明晰な頭脳で押さえてくれているとか」
 そこまで語ってから、イストワールはちらりとニコルに気付かれない程度に視線を送る。
 イストワールが上層部から聞かされた情報によるなら、ニコルはこの女主人を知っているはずだからだ。
 横目で見るニコルの表情は夜の闇も相俟って細部までは見せてくれない。
 しかしニコルはわかりやすいほどに俯いていて。
「…世話になっていたそうだな」
 黙っておくことも出来た話題だが、イストワールはその過去を口にする。
 ニコルの過去。
「お前の父親の為に希少な薬を用意してくれていたとか」
 地方兵として若い頃から戦闘に出ていたニコルは、その稼ぎを元に女主人から父親の為の薬を得ていた。
 それはニコルが騎士となった後も続き、ニコルと女主人の縁が切れたのは父親の死と同時のことだ。
「…ええ」
 静かに肯定するニコルの口調から、それ以上詮索されたくはないという気配に気付く。恐らくはニコルが最も知られたくない過去に繋がるからだろう。
 上層部の調査によれば、ニコルはこの女主人から魔力を魔具として操る術を得た。
 薬の件に加えてそれだけならば、ニコルにとっては感謝すべき人物だったはずだ。
 だが現実はむごい。
 だからニコルには闇や負い目が備えられている。
 世間を知らないエルザでは支えきれないほどの質量の闇が。
「…そういえば、捕らえた娘に会いに行ったそうだな」
 また話題を変えるためにイストワールが思い出すのはファントムの仲間の娘のことだった。
 娘の存在は秘匿されている件ではあるが、隊長クラスであるイストワールには聞かされている。
「お前が今調べている事に関係があったと聞いているが、進展はあったか?」
 ニコルが調べているのは44年前の暗殺についてだが、ファントムの仲間であったとしてもニコルより若いだろう娘が何を知っているのだろうか。
 了承を得ずに強引に娘に会った為にニコルは罰を受けたのだ。それなりの収穫は得ていてほしいものだが、ニコルの返答は「いえ」とそっけないものだった。
 それは知られたくないという合図か、それとも本当に何の情報も得られなかったのか。
「…急ぐ必要は無いか。フレイムローズも娘を気にしていたからな。コウェルズ様からの了承も得たことだ、会いに行くなら話し相手にもなってやるといい」
 捕らえたにしては優遇されすぎている娘を想像しながら、まるで王家の人間を心配するように彼女を気にするフレイムローズを思い出し、何気なくそう話してしまう。
 見たこともない娘だが、優遇するだけの理由があるのだろう。
 本当に何気なく口にしただけだったが、気づけばニコルの足が止まっていた。
「…どうした?」
 二、三歩ほど後ろで立ち止まったニコルに体を向けて、小首をかしげてしまう。
 今の言葉のどこにそこまで思い詰めるほどの重要な件があるのか問いたいほどにニコルの表情は重苦しいものに変わっていたからだ。
 もしこれが仕事に関することならば、難しい仕事だとしても少し嫌そうな顔を見せる程度だっただろう。
 だが表情が重いということは、私的な部分に繋がりがあるということか。
「…お前は厄介事ばかり押し付けられる天才だな」
 騎士として王城に現れた当初から。
 思わず呟いてしまった言葉に、ニコルが少し顔をあげて不思議そうにする。
「昔からそうだっただろう。レイトルとセクトルの喧嘩の仲裁役にされて、癇癪起こしたフレイムローズのなだめ係にされて、ガウェのお守りときたものだ」
「…それが厄介事ですか」
「気付いてなかったのか?お前達の仲が良いに任せて押し付けられていたんだぞ」
 特殊な人物の厄介事など誰もが避けて通りたい道。ニコルはそんな者達にとって好都合の立ち位置にいる存在だった。
 灰汁の強い若騎士達に見返りなど求めずに押さえることを許された、友という立ち位置。
「それ以外にも押し付けられてばかりだったがな」
 ニコルは生真面目なだけのつまらない男ではない。
 気さくで短気で、平民の出であるからか他の貴族の男達とはひと味違う野性的な魅力が貴族の娘達の恋心をくすぐった。
 エルザもその一人だ。
「…ガウェ殿も、私に護衛を押し付けて遊んでいましたね」
「ガウェだけじゃなかったがな。他の者達もお前に任務を押し付けていたと知った時は呆れたものだ」
「…ですが、止めはしなかったんですね」
 ちらりとニコルから視線を送られて、わざと明後日の方向に目を向けて。
 エルザの恋心を理解していたから、エルザ付きの騎士達は要領よくニコルに任務を押し付けた。
 イストワールもその事を知りながら見て見ぬふりをしていたのだから、同罪だろう。
 しかしあの頃と今は違う。
 あの頃はまだ良かった。
 エルザの恋心を軽く見守り応援する程度でよかったのだから。
 今はもう。
「…エルザ様の元に行くつもりだったんだろう?」
 訊ねるつもりのなかった問いかけは、無意識に口にしてしまっていた。
 お互いに立ち止まった状態のまま、口にした自分自身も少し驚きながら。
 動揺したように目を見開くニコルのなんとわかりやすいことか。
「…生体魔具でエルザ様の露台まで上がっていることはもう知っている」
 言葉として表に出してしまったのだから、もう後には戻れない。
 イストワールは振り向く程度に留めていた体をしっかりとニコルに向けると、口を滑らせた自分自身を笑うように苦笑を浮かべた。
 気付かれていると知ってニコルは戸惑うだろう。
 しかし、
「いえ…」
 瞳を泳がせるかと思ったニコルの表情は、重くはあったが決意を示すように真剣な色をしていた。
 それは思いもよらぬもので。
「…今日は、正面の扉からお会いします」
 ニコルの言葉の中に含まれた真実に、すっと胸は冷えた。
 今まで隠れて会っていたというのに、なぜ今日は正面から、他の者達にもニコルが会いに来たとわかるように向かうというのか。
 答えはあまりにも簡単だった。
 ニコルはエルザとの仲を隠すつもりがなくなったのだ。
 恋仲である事実が公になっても構わないと。
 そして、清算するつもりでいる。
 その難しさを理解しながらもニコルは決めた。
「…私も行こう」
 事の重大さが、イストワールにも決断させる。
 これはニコルとエルザの問題だ。
 だが、当人だけに任せるには、あまりにも二人の立場は大きすぎたのだ。

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