第97話


第97話

 水の入った銀の盆。
 無風のはずの室内だというのに、盆の中の水はゆらりと動いていた。
 そのゆらぎを、ウインドは静かに見つめ続ける。
 ゆらゆらと動き続ける水面の正体は、ルクレスティードの魔力だ。
 まるで小さな窓のように、水面には景色が映る。
 開くことの出来ない窓。その向こうに映るのは、大切なエレッテ。
「…僕の千里眼、ちゃんと出来てる?」
 ふと話しかけてくるルクレスティードが、不安そうにウインドの服の裾を握ってきた。
「…………ああ」
 返答は掠れた。
 しばらくそのままの状態が続くが、ウインドからそれ以上の言葉は得られないとわかったからか、それとも気を遣ったのか、ルクレスティードはそっと離れていった。
 そして聞こえてくるのは、ウインドを省いた話し合い。
「…本当にもう大丈夫なの?」
 不安そうなのはガイアの声で、
「恐らくな…まさか向こう側に原子眼の持ち主がいたとはな」
 ファントムの声にも普段の絶対的な自信はなかった。
 今朝方戻ってきたファントムとパージャ。ファントムはルクレスティードの千里眼に異変が起きたことを知らされてすぐに息子の元へ行っていた。
 その間ウインドはパージャから何者かの眼球を無理やり食べさせられ、気持ち悪さに強く拒絶して吐こうとしても口を塞がれて飲み込まされていた。
 結果として何年も苦しみ続けた頭の傷の呪いが消え去ったのだが、あの眼球が誰のものであるのかはいまだに伝えられていない。
 知りたいとも思わなかったのは、気持ちの悪さが勝るからだろう。
 その後パージャはミュズに己の魂を分け与えて、自室に引き篭もって。
 ウインドは大会に無理矢理引きずり出され、試合が終わった後はここに連れて来られて。
 ルクレスティードの無事を伝えたかっただけなのか、それともエレッテの現状を見せる為に呼ばれたのか。
 ルクレスティードは昨日の出来事がよほど恐ろしかったのか、今はファントムやガイアから離れようとはしない。
 昨日エル・フェアリアのルードヴィッヒを襲った勇気は消え去っている様子だ。
「原子眼って何なの?」
「……わからない。存在が確認された例など存在しないからな」
 昨日も聞いた会話を続けるファントム達の声など気にも留めずに、ウインドは水面に映るエレッテを目に焼き付け続ける。
 豪華なベッドの上でひたすら自分を守るように膝を抱いて俯くエレッテは、ウインドが知る彼女より一回り痩せてしまっていた。
 元々細かった手首がさらに細くなって、痛ましいほどで。
 ファントムの命令でパージャと共にエル・フェアリアに戻されて、エレッテだけが捕われた。
 今すぐ助けに行きたいのに、ウインドはラムタルで馬鹿げた大会に出場させられて。
 なけなしの理性でここに残ることを選んだ理由は、この身体にある忌々しい呪いを一刻も早く解く為だ。
 早く自由になって、エレッテと共に二人だけの静かな居場所を見つける為。
 その為に酷い苛立ちを我慢しながらもここにいるのに。
 ふと水面にエレッテ以外の影が動いて、ぶわりと全身を凄まじい腹立たしさが襲った。
 エレッテのそばに、男が近付いていく。
 エル・フェアリアの魔術師のローブを着た若い男だ。
 エレッテに何かを話しかけて、手を伸ばす。
 その手は巨大な魔眼の蝶に阻止されるが、男はエレッテから離れようとはしなかった。
 誰だ。
 なぜ、エレッテのそばに見知らぬ男が置かれている。
 怒りが頭を沸騰させた。
 バンッと強く銀の水盆を殴り弾いて、辺りに水飛沫が飛び散る。
 水盆は激しい音と共に壁にぶつかり、棚の上に落ちてから、小さなオブジェを巻き込みながら床へと落ちた。
 水面を失い、エレッテの姿も見えなくなる。
 ファントム達の視線が一気に集中するが、冷静さを取り戻せるはずもなかった。
「ーーウインド…そろそろ時間だ」
 そこへ、扉が開いて何も知らないソリッドが第二試合へと呼びに来て。
 何も知らないはずなのに、辺りの惨状を見て何があったのかすぐに気付いた様子だった。
「ウインド、その怒りは次の試合に使え」
「うるせぇ!!」
 ファントムの言葉にさらに苛立って、強くて頭を掻いて。
 傷を失い頭は痛まなくなったというのに、掻きむしる癖だけは残ったまま。
「何で俺がここにいなきゃなんねぇんだよ!!」
 怒りがファントムへと向かう。
 ウインドがここにいる理由は、ウインド自身が気付いている。
 パージャが逃げ出さないように。ただそれだけの為に。
 ウインドが大会に出場する情報を与えて、コウェルズ王子をラムタルへと呼び出す。
 そして王子とミュズを引き合わせて、ミュズを狂わせて。
 パージャがミュズと共に逃げ出さないように、その為だけに。
 そんなことの為に、ウインドとエレッテは使われたのだ。自分たちは何があってもファントムの命令を聞く駒だから。
 呪いを解くまでは駒の身に甘んじるから。
 駒でいようとしないパージャを駒にする為に。
 なら、もう目的は果たしたのではないか。
 パージャはミュズと共にここにいるのだから。
 どこまでがファントムの手の中なのか知りたくもないが、パージャを通じてミュズにまでファントムの呪いが襲ったのだから、パージャはミュズの呪いが解けるまでは決して逃げはしないはずだ。
 なら、もう。
「……エレッテのところに行く」
「落ち着けウインド…」
 ゆらりと傾ぐ身体をソリッドに止められる。
 そもそもエレッテが囚われたのはこいつのせいでもあって。
「離せーー」
「ーー落ち着け、ウインド」
 掴まれた腕を強く振り払おうとして、さらに強い力で押さえつけられた。
 苛立ちで殺す勢いで睨みつけるが、見つめ返してくる眼差しは、数年前に受けた目のままだった。
 同じ目で見つめられたことがある。
 数年前。
 まだウインドがファントムに拾われる前に。
 戦火の残る場所で悲惨な扱いを受けて荒んだ幼いウインドに、温かな食事と寝床を与えてきた頃と全く変わらない眼差しが、目の前に。
「クソッ!!」
 ソリッドによって冷静さを取り戻してしまった事実が別の腹立たしさを産むのに、拳を強く握りしめながらも我慢が出来てしまった。
「……行くぞ」
 もう大丈夫と思われたのか、腕から離れたソリッドの大きな手が今度は背中を押すように叩いて移動を促されて。
 大会などウインドにとってはどうでもいいことなのに。
 それどころか、今はもうファントムにとっても重要ではないはずなのに。
 こんなところで無駄な力を使う間にも、エレッテは自分以外の男と密室に閉じ込められ続けているというのに。
「あいつ…絶対に殺してやる……」
 エレッテに触れようとした男への殺意を新たに胸に宿しながら、ソリッドから離れるかのように進む足の速度を上げた。

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