第96話
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「なんだ、全く緊張してなさそうだな」
柔軟運動に付き合ってくれるジャックの言葉に、ルードヴィッヒは拳を強く握りしめた。
緊張ならしているという合図に、聞こえてくるのは軽い笑いだ。
柔軟運動といっても、ジャックは柔軟をやりすぎるルードヴィッヒを止める為に付き添っており、ルードヴィッヒはただひたすら戦闘場を見つめ続けていた。
自分の番が来たからだ。
トウヤとクイは苦戦することもなく数分で勝ち上がった。他の者達の試合も、興奮するようなものばかりだった。
ルードヴィッヒの興奮が増せば増すほど緊張も高まったが、ある一定を超えてからは何故か冷静な判断で試合を見ることが出来るようになっていた。
ジャックの助言もするりと脳内に染み渡り、目に映り耳に入るもの全てが身体に浸透していくような自覚があった。
そうして回ってきた自分の番。
対戦相手は、バオル国。
ルードヴィッヒやジュエルを見下し馬鹿にした、愚かな国。
「お前の身体の動く通りに、好きに動け」
「はい!」
ジャックの最後の助言に強く頷き、ラムタルの審判の後に続いて戦闘場に向かう。
身に纏う戦闘服は、三年前にガウェと共に大会を優勝した見事な機動性を誇る特注品。
利き足には、ジュエルがルードヴィッヒの為だけに作ってくれた最強に特別なアミュレット。
到着する直前でトウヤとクイが拳を挙げて激励をくれて、やる気はさらに膨れ上がった。
大理石の戦闘場に上がれば、思っていた以上の高さと広さに心臓が跳ねる。
円形闘技場の中心部は全ての声援が集まるかのような不思議な音の空間にもなっていて、視界から何から、全身がビリビリと強く疼き続けた。
対戦相手であるバオル国の出場者は先に到着しており、ルードヴィッヒを見下すような笑みを浮かべている。
体格にも恵まれているその男にとって、まだ身体も出来上がっていないルードヴィッヒなど敵でも何でもないのだろう。
そう思うと今までなら悔しくてたまらなかったのに、なぜか奇妙なほど冷静な自分がいた。
『準備はいいかい?』
審判の一人に問われて、
『はい』
そう告げた瞬間、音が変わった。
辺りに何か変化があったわけではない。
自分の身体が目の前の戦闘に集中したのだと冷静な頭で悟る。
観戦者の声援も風の音も、聞こえてはいるが静かに感じる。
まるでルードヴィッヒの邪魔にならないほど。
ルードヴィッヒがこの戦闘に集中できるほど。
広い闘技場の、広い戦闘場の中で、倒すべき目の前の男だけが存在しているかのような。
「ーー…」
一発目の花火がどこか遠くから聞こえてくるようで、さらに中心へと足を運び。
試合開始の合図となる二発目の花火が上がり。
先に攻撃を繰り出してきたバオル国出場者の隙のある横腹を、身体が動くままに蹴り上げた。
足が見事に入ったというよりも、相手の腹が足に吸い込まれに来たかのような感覚。
重さも何も感じないまま
「「「ーーワアアアアアアア!!」」」
突然ルードヴィッヒの耳に届いたのは、観客達の爆音のような歓声だった。
「…え?」
あまりに突然のことに驚いて辺りを見回す。
自分は今、試合が開始したばかりの状況ではなかったか。
戦闘場には困惑するルードヴィッヒだけで、バオル国の出場者の姿がない。
いったいどういうことなのかと辺りを見渡しても、観客達の声が大きすぎて思考も上手く働かなかった。
すぐに戦闘場に上がってくるのはラムタルの審判員で、ルードヴィッヒに近付いて。
『ーー勝者、エル・フェアリア国、ルードヴィッヒ!!』
伝えられた勝利宣言に困惑するも、闘技場内の観客席からはルードヴィッヒの勝利にただひたすら喜びの声が溢れ続けていて。
『ま、待った!!』
そこへ聞こえてきた声は、近くからのはずなのに声が小さすぎて聞き逃しそうなほどだった。
いや、声が小さいのではなく、観客達の声が大きすぎるのだろうが。
制止の声はどこからかと辺りを見回せば、なぜかバオル国の出場者が戦闘場外から戦闘場へと正規の階段の場所ではないところから這い上がってくる所だった。
戦闘が始まっていたはずなのに、いったいなぜそんなところにいるのだろうか。
困惑を続けるルードヴィッヒの視界を遮るように立ったラムタルの審判員が、バオル国出場者の男が戦闘場に這い上がってくるのを静かに眺めて。
『場外となった時点で即刻試合は終了であるとルールで伝えてあるはずです』
『待ってくれ!!油断してしまっただけで、俺はその…と、とにかく試合の続行を要望する!!』
状況のつかめないルードヴィッヒだが、審判とバオル国出場者の会話でようやく理解できるようになってきた。
一連の流れはやはり現実だったのだ。
ルードヴィッヒは確かに試合開始の合図を聞き、突進してきた彼の隙だらけの横っ腹に一撃を入れたのだ。
まるで空を掴むかのように漠然とした感覚だが、それらは全て現実に起きた出来事で。
『何を言われようとも規則は規則。大会出場者の皆様全員従っていただきます』
ルードヴィッヒの蹴り技とも言えない程度の蹴りが、バオル国出場者を場外に吹き飛ばした。
それを認めようとしていないのだ。
なおも異議を唱え続ける男から引き離す為に、他の審判員達が戦闘場に上がってきてルードヴィッヒに誘導を始めてくれる。
そこへ。
『逃げるな卑怯者!!偶然勝てたことが嬉しいのか!!』
ルードヴィッヒの勝ちを認めないバオル国出場者の言葉が、ルードヴィッヒの足を止める。
いつの間にか辺りは静まり返っていた。
代わりに聞こえてくるのは、観客席からのざわざわとした奇妙な気配だ。
『お前がふざけるな!!』
『潔く負けを認めたらどうだ!!』
次に聞こえてきたのはトウヤとクイの声で、そちらに目を向ければ、ジャックが線引きされたロープをくぐってこちらに駆け寄ってくるところで。
状況がおかしな方向へ向かうから、ラムタル側もジャックの侵入を許したのだろう。
許したも何も、ルードヴィッヒは勝ち上がり、試合はすでに終わっているのだが。
『うるさい!!子供相手に負けるはずがないだろう!!卑怯な手を使ったに違いない!!』
なおもルードヴィッヒの勝利を汚す言葉に、次第に観客席からもブーイングが上がり始める。
それは大半がルードヴィッヒを庇う言葉だったが。
「ルードヴィッヒ!もう降りてこい!お前の勝ちは決まったんだ!」
到着したジャックが、戦闘場には登らずに足元から話しかけてくる。
「ですが…」
「お前は勝ったんだ!わかってるだろ!!」
そうは言われても、ルードヴィッヒも自分の感覚を上手く掴めずにいたのだ。
まるで奇妙な世界に入り込んでいたかのように、現実に起きた出来事を客観的に感じてしまっているのだから。
大丈夫だから降りてこい、とまるで子供に話すようなジャックの言葉を、バオル国出場者の男は卑怯者と罵りながら制止してきて。
訳がわからず困惑すると同時に、ふつふつと怒りも湧き上がり始めていた。
ルードヴィッヒは正々堂々とここにいるというのに、なぜ勝手に卑怯者と言われなければならないのか。
『…試合をもう一度お願いします!!』
敗者を引き剥がそうとする審判員達に向かって、ルードヴィッヒは強く言い放った。
同時に観客席から上がったのは、すさまじい歓声だった。
ジャックは頭を抱えてため息をつき、審判達は急いで何かを話し合ってからるルードヴィッヒに向かってくる。
『ルードヴィッヒ殿、勝者といえどもルールの変更を勝手に行うことは許されません。勝者も敗者も、何十年と続くこの大会のルールを守ってきているのです』
『もう一度勝ちます!』
ルールの重要性を説こうとする審判達の言葉を遮ったルードヴィッヒに、また観客席が歓声を上げた。
その発言に審判達も頭を抱えて。
『ーー構わん。私が許そう』
突如、観客席の最上階から凛とした声が降り注いだ。
声を張り上げたわけではないというのに、一語一句脳に刻み込まれるような低い落ち着いた声。
誰もが一気に見上げた先に、その声の主がいた。
観客席の中で最も高い玉座に、バインド王が。
いつからそこにいたのかはわからない。恐らく魔術で声が全体に響き渡るようにしたのだろうが、堂々とした落ち着き方は王の威厳に満ち溢れていた。
それでも審判達は「しかし」と王に反抗しようとするが、
『弱者の声に耳を傾けるのも私の役目だ。このまま勝者であるはずの少年に不要な傷が付くくらいなら、弱者の望むままもう一戦を行い、実力差をしっかり見極めさせることも優しさだろう?』
クスクスと、遠くにいるはずのバインド王の微笑みが見えるようだった。
ルードヴィッヒを少年と、バオル国出場者を弱者と呼んで。
バインド王直々の言葉に、また観客席が湧く。ルードヴィッヒの時よりもさらに歓声は大きかった。
『私はもう成人しています!!』
『ラムタルでは立派な少年だ』
バインド相手に思わず反論してしまい、秒で言い返されてドッと笑いに包まれる。
その間に許可を得て戦闘場に上がってきていたバオル国出場者の顔は、恥辱と怒りのせいで真っ赤に染まっていた。
突然許された二戦目に、闘技場内の興奮がさらに湧き上がる。
「…ルードヴィッヒ、手加減しろ」
「……え?」
そこへ聞こえてきた母国語でのアドバイスに思わずジャックへと振り返った。
手加減とは、なぜそんなことを言うのだ。
「…仰る理由がわかりません」
「いいから、言われた通りにしろ」
二戦目がすぐ開始されそうな状況にジャックも要点だけを簡潔に伝えてくるが、それでルードヴィッヒが納得できるわけがない。
「手加減なんてしていては力を発揮できません!!」
「……あのなぁ…頼むから言うこと聞いてくれ…」
イラつくジャックにの声に、ルードヴィッヒはさらにムッと顔を顰めた。
審判達も試合を始める為にジャックを離そうとするので、ジャックもどこか苛立たしげで。
そして審判達もルールを捻じ曲げられて不服そうで。
苛立っているのは大会出場する者達全員に言えることだろう。
特に、すでに敗退した者は納得などできるはずもない。
だが大国の王が許してしまったのだ。
不服、不満、苛立ち。そんな奇妙な殺気に当てられて。
「私は全力で勝ちます!!」
「だから分かれって!!弱いやつ相手の戦闘法を教えなかった俺が悪かったから!!手加減しろこの馬鹿!!」
ルードヴィッヒの大声をさらに掻き消すほどのジャックの怒声に、闘技場内が一気に静まり返った。
あまりの爆音にルードヴィッヒもびくりと思考が吹き飛び、次第にジャックの言葉を理解し始める。
そしてそれは闘技場内にも言えることで。
ジャックの言葉に、辺りの気配は最初は困惑したものに満ちていた。
エル・フェアリア語を知らない者からすればジャックが何と言ったのかもわからないはずだから。だがエル・フェアリア語を理解する者が最初に吹き出し、笑い始め。
彼らが笑いを堪えながら、ジャックが何と言ったのかを辺りに伝えていく。
伝染していくように、笑いが拡散して。
「…………やっちまった…」
ジャックが完全に頭を抱えてその場にうずくまってしまった。
『こ、の……よくも私を侮辱したな!!』
怒り狂うのはバオル国出場者で、顔を先ほど以上に真っ赤にしてジャックに激怒するが、冷めた顔つきの審判達に制止されて。
ジャックはジャックで、下にいたラムタルの者に戦闘場から離されていく。
奇妙で静かな笑いが溢れる中、二度目の戦闘には花火は打ち上がらずに『始め』という合図の言葉が響き渡った。
ーー戦闘の結果は、一瞬だった。
ルードヴィッヒもその戦闘で改めて、ジャックの言葉を痛感した。
自分が今まで、自分より遥かに強い者達とばかり戦っていた事実を。
ラムタルに訪れてからは、怪我をしない程度の軽度な戦闘訓練に抑えられ続けていたから気付かなかった。
エル・フェアリアの騎士団内でなら、ボコボコに叩きのめされるのはいつもルードヴィッヒだった。
誰も彼もが、ルードヴィッヒより格上ばかりだったから。
同レベルの仲間達とは腕慣らし程度に抑え、先輩や上官達には全力で挑んで圧倒的な力の差で負け続けていたから。
どれだけ全力で打ち込んでも相手は今まで倒れなかったのだ。
その“全力”が何を意味するのか。
ジャックがなぜ手加減をしろと言ったのか。
攻撃を躱した後のたった一発の回し蹴りで思いきり吹き飛んだバオル国出場者が場外へと異常な体勢で落ちていった時に、ようやく理解したのだ。
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