第96話


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 地響きにも近い歓声が耳を揺らすというのに、どこか他人事のような、遠い場所での出来事のような感覚があった。
 窓の向こうは見事な晴天で、時おり豪華な花火が打ち上がる。
『ーーよし、これでもう大丈夫でしょう』
 衣服を脱いだマガの背中から手が離れて、スラリとした老紳士が優しい笑顔を浮かべながら正面へと回ってきた。
 偶然が重なったことでラムタルに強制的に保護されてから数日、マガは大半をこの老紳士と過ごしていた。
 ラムタルの治癒魔術師の中で最も経験を積んだ偉大な人は、幼少期から虐待を受け続けたマガの引きつれた身体をゆっくりと治してくれたのだ。
 灰色の混ざるまだらの肌は先天性の為にそのままだが、身体中至る所にあった無数の傷が今は少しも見当たらない。
 古い傷を癒す為に改めて切らなければならない箇所もいくつもあった。
 自然治癒の過程で違う筋が接合されてしまった為に一から切り剥がし、まるで身体を芯から書き換えるかのように、気持ちの悪い不気味な痛みと恐怖を我慢し続けたのだ。
『慣れるまでは動きづらいかもしれないが、慣れれば今まで以上に動けるでしょう』
 背中や脚の違和感を感じながら、老紳士にコクリと頷いてみせた。
 それが感謝の印であると、気付いている老紳士は穏やかに笑ってくれる。
 元々マガは運動神経が良い方で、身体を治療される前も充分動けてはいた。
 今以上に動けるとなると、本気で速く走ったり、浮かぶ程度でなく泳いでみたり、そういったことが可能になるのかと想像してしまう。
『…これはこれは、こんな所にまで来られるとは』
 身体を恐る恐る動かしていれば、老紳士が誰かの登場に頭を下げていたので慌てて振り返った。
 気配は感じなかったが、そこにはマガ程度では本来会えるはずのない人が。
「……ぁ」
 何と言えばいいのかわからずに口ごもるマガに近付いて、ラムタルの王が肩に手をそっと置いた。
『お前に頼んだのは私だ。彼を癒してくれて感謝する』
『そのようなお言葉をいただけるとは、骨を折った甲斐があります』
 互いに気負わずに話す様子に、王が彼を信頼しているのだと察することができた。
『それでは私はこれで。大会出場者達の治療がありますからね』
 仕事は山積みなのだと老紳士が出て行こうとするから、慌ててその手にすがり、だが感謝の言葉は喉に強く引っかかってしまった。
 父とは似ても似つかない素晴らしい人だというのに、父と歳が近いというだけで恐怖が全身を硬直させたのだ。
 それでも以前ほど恐れはしなくなった。なのにほんの数言の感謝の言葉が出てこない。
 情けなくて、涙が滲みそうになって。
『…マガ君の言いたいことは、きちんと届いていますよ。君はとても優しい子だね』
 震える手にそっと触れてくれる老いた手は、どこまでも暖かかった。
 老紳士が出ていくのを見守って、バインドと二人きりになって。
『今日で治療が終わると聞いた。全て治ったのか?』
 大国の王が、くだらない私生児を気にかけてくれる。
『……大丈夫、です…』
『ふむ……大丈夫かどうかを聞いたわけではないのだがな…治ったのか、まだ傷が残っているのかを聞いているのだ』
『あ…その……すみません。もう、全て治していただきました』
 やってしまった、と思い、視線は床に向かった。
 バインドがなぜマガを気にかけてくれるのかはすでに気付いている。
 オリクスの弟だから。それだけだ。
 マガだから優しくしてくれているわけではないのだ。その事実が、今は少しつらかった。
『お前は道化の仮面を外すと、ひどく卑屈になるのだな』
 ふう、と呆れたようなため息をつかれて、唇を噛む。
 自分でもわかっていることだ。
 アン王女が愛してくれた道化師のマガは、支離滅裂で暴虐無人。冷やかして、おどけて、わざと怒らせて、呆れさせる。
 そうやって周りの人間が困る様子を、当時の幼いアン王女は面白そうに笑って見ていた。
 でもそれは、アン王女の為だけの、道化師の仮面を付けたマガだ。
 本当のマガは、その名前すら偽り。
 まがいもののマガは卑屈で悲観的。
 自分に自信などないのは、打たれ貶され続けたから。
 父は都合よくマガを使い、気に入らないと手にした杖で暴行を加えた。
 兄はマガを見もしない。
 兄が気にかけてくれていることは細部から伝わるが、マガにとってその中途半端な優しさは屈辱心を煽るだけだった。
 同じ宮廷道化師としてマガを可愛がってくれた人たちは、大半が陰謀に巻き込まれて暗殺された。残った者達は、アン王女と共にいる。
 自分だけが忌まわしい父のそばに取り残されて。
『…自分はこれから…どうなるのですか?』
 問うたのは、今後がわからなかったからだ。
 バオル国から引き離されて、父がマガを何とか取り戻そうとしていることには気付いている。
 それはアン王女暗殺未遂の実行犯であるマガを手元に置いておきたいからだ。
 周りの者達が何をどう話し合って進めているのかなんてマガに知らされるはずもなく、不愉快なもどかしさが溢れてくるのに苛立つことも出来なくて。
『お前は…エル・フェアリアに向かうことになる』
 バインドが教えてくれるなんて思っていなかった。
 だから問いの返事が聞こえてきた時、意味がわからずひたすら困惑した。
 エル・フェアリアにはマガはもう近付けないのではなかったのか。
 父やバオルの者達にエル・フェアリアの藍都の姫を籠絡してこいとゲーム感覚で命じられてジュエルを侮辱し、大会出場者であるルードヴィッヒを怒らせた。
 そこからバオルとエル・フェアリアは拗れに拗れ、オリクス達が謝罪の場を頼むほどだったのに。
 その後もバオルはエル・フェアリアに無礼を続け、マガもかつての仲間達に手を引かれてアン王女と再会して、同時にエル・フェアリアのジュエル達にまた無礼を働いて。
『どうしてエル・フェアリアに…』
『そういう契約が為されたからだ』
 自分は何も聞かされていないのに。
 エル・フェアリアで無礼を働きすぎたから、エル・フェアリアで嘲笑われる道化になれということなのだろうか。
 恐怖に指先が震えた。
 エル・フェアリアは野蛮な国だと聞いている。
 国の男達はこぞって兵に志願して殺戮を好み、犯罪数もバオル国より圧倒的に多い。大戦時代は他国を理不尽に征圧し、捕虜に人権などなく、奴隷制度はいまだに残ると。
 そんな所へ、自分は追いやられてしまうのか。
『……エル・フェアリアは、豊かな国だ』
 震える指先を、バインドに握りしめられた。
 その手のひらは皮膚の奥から固く、戦闘を経験した武人の手だとはっきりわかった。
『我が国と同程度の国力を持ち、法整備も整っている。地方はまだ痩せた場所も多いが、他国と比べれば恵まれている方だろう』
『でも…奴隷がまだいるって…俺もエル・フェアリアで誰かの奴隷になるのですか?』
『エル・フェアリアの奴隷がどんな扱いを受けるか知っているか?』
 問われている意味がわからなかった。
 奴隷がどんな扱いを受けるかなど、誰でも想像が付くではないか。死ぬまで悲惨な目に遭う以外ありえないのに。
 強張るマガに、バインドは微笑みを浮かべる。
『エル・フェアリアの奴隷の人権は、法律上は主人と同一と定められている。つまり奴隷が犯罪を犯せば、罰せられるのは奴隷の主人になるのだ。奴隷が殺人を犯せば、殺人罪を問われるのは主人。罰せられるのも主人。奴隷はただの奴隷のままだ。…面白いだろう?』
 微笑みが、ニヤリと少し恐ろしいものに。
『よく考え付いたものだと思わないか?この法のおかげで、エル・フェアリアは奴隷制度を保ちながら、奴隷が極限まで減ったのだからな』
 バオル国にもかつて存在した奴隷とは全く異なる制度に、状況を想像すら出来なかった。
『奴隷が誰か気に入らない者を殺しても主人の責任、奴隷が主人を殺せば、それは自殺。この法はコウェルズ王子が10歳の時に作ったものだ』
 コウェルズ王子。
 ラムタルに来ているエテルネルが王子だとは聞かされている。
 彼が、まだ幼い頃に生み出した法律。
『で、でも…奴隷であることに変わりはないなら…俺は…』
『何を勘違いしているかは知らぬが、お前は奴隷にはならんぞ』
『……え?』
『オリクスが調べていたのだ。お前の母親が、毎年春になるとエル・フェアリア王城に呼ばれて舞を披露しているとな』
 自分がエル・フェアリアに向かう本当の理由を知らされて、ぽかんと口を開けたまま固まる。
 今、母と言ったのか。
 マガの母親が誰でどこにいるのか、兄は調べて、そして見つけ出してくれたのか。
 マガが知りたかった本当の名前を知っている唯一の人だ。
 マガを産んだ後すぐに追い出されてしまった、流浪の踊り子。
『か…母さんがエル・フェアリアにいるんですか!?』
『いるわけではない。彼女達は流浪の民だからどこにいるかを突き止めることは困難だ。だが毎年春には必ずエル・フェアリア王城に呼ばれて舞うのだ』
 居場所の不確実な者達が、唯一確実に訪れる場所。
『俺…母さんに……』
 会えるのかと、そう涙を溢しそうになって、だが俯いて希望を夢見ることを拒絶する。
 マガだと気付かれなかったら?
 今さら不要だと思われていたら?
 そもそもこんな無価値な自分が、誰かに望まれているなど思えない。
『…俺がエル・フェアリアに行くことが契約だと言われましたよね?…どういう契約なのですか?』
 マガをエル・フェアリアに逃すのは、アン王女暗殺未遂の実行犯であるマガを逃す為だとは聞かされていた。
 エル・フェアリア側をひどく刺激した為にその逃亡通路は閉ざされたはずたというのに、マガに旨味など何もないのにそんな契約が成されたということは、エル・フェアリア側が喉から手が出るほど欲しいものがラムタルにあるということなのだろう。
 いったい何が契約の引き金になったのか。
 バインドを見上げることも出来ないまま言葉を待っていれば。
『あまり深く考えずともよい。エル・フェアリアのジャックがお前を哀れに思い、引き取ると申し出たまでだ』
 出された名前に、強く顔を上げる。
 マガを慰めてくれた武術の達人が、自分を。
「…うそだ」
『嘘など付かぬ』
 信じられなくて、弱々しく首を横に振って。
 でもあの人は、マガの胸中を聞いてくれた。
 マガに何ができるかも聞き出してくれていた。
 それらは全て、マガを引き取る為だったのだろうか。
 希望を持ちそうになる。
 泣き咽ぶ自分を、いとも簡単に担いでくれた力強い人だ。
『…ジャック様に…会えませんか?』
 本当にマガを哀れに感じて引き取ろうと思ってくれたというのなら、会ってくれてもいいはずだと我儘を口にする。
『…そうだな。時間を設けられるか掛け合ってやろう』
 大国の王が自らそう口にするのも、マガがオリクスの弟だからなのだろう。
『ジャック様が俺を憐れむのは…兄さんの弟だからでしょうか?』
 思えば、マガに関心を持つ人々は、その全てがオリクスに関心を持つからだった。
 アン王女がマガを憐れむのも、マガの兄がオリクスだからだ。
 バインド王も、マガのかつての道化師仲間達も。
 マガの父だって、理不尽にマガを傷付ける時はいつもいつもオリクスの悪態を吐いていた。
 バオル国武術出場者のあいつもだ。
 何をやってもオリクスに勝てないから、マガで憂さ晴らしを。
 浮上しかけていたこころがまた深く沈もうとする。
 きっとジャックも、オリクスの弟がマガだから憐れんだだけなのだ。
『…オリクスがジャックと知り合いだという報告は受けておらぬ。…何が聞きたいのだ?』
 だがバインドの返答は、少し困惑しているかのようで。
『……いえ』
 くぐもる声で自分の問いをうやむやにして、殻に閉じ籠るようにさらに俯いて。
 わかりきった質問をした自分が悪いのだと、思考を遮断する。
 誰も彼もがそうだったから。
 マガを心配してくれる人たちは皆、マガを本当に憐れんでくれていた。
 オリクスが絡んでいることも気付かずに。
 蔑みも憐れみも、本人達は気付かずとも全てはオリクスを通す。
 マガ個人には何の価値もないのだと、身をもって知っているはずなのに。
『…試合を観に行くか?私の席からならば、誰にも気付かれず観戦が可能だ。ゆっくりと兄を応援するとよい』
『……いえ……ここにいます』
 バインドの言葉に笑みが浮かんだのは、胸が締め付けられるように苦しくなったからだった。

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