第96話


第96話

『ーーこっちだこっちー!!』
 呼びかける声に駆け寄ろうとすると、グイ、とやや弱くジャックに首根っこを掴まれた。
「走るな。変なところで怪我するぞ」
「す、すみません…」
 ルードヴィッヒを呼んだのはスアタニラのトウヤで、軽い駆け足程度の速さで近寄れば、トウヤだけでなくクイの姿もあった。
 近くにはスアタニラとイリュエノッドの陣営が隣り合っており、エル・フェアリアはイリュエノッドに甘えて同じ陣営に入れてもらう状況だ。
 なぜスアタニラが隣なのかと思っていれば、
『こいつ俺から離れないんだぜ。テテは剣術の陣営に行ってるみたいだし最悪だぜ…』
『お前の見張りしてるんだよ!!』
 トウヤとテテの件があったから陣営が隣合うことになったのかと、ジャックと目を合わせて半笑いで納得した。隣はさらにラムタルの陣営なので、スアタニラはガッチリ囲われている状況だ。
 そのラムタル陣営に、ウインドの姿は見えなかったが。
 闘技場はすでに来賓やラムタルの国民達で満席になっており、グラウンドの壁をぐるりと取り囲む各国の陣営もピリピリと緊張した空気を醸し出している。
 剣術試合は隣だと聞いたが、ここからどれくらい時間がかかるのだろうかとジュエルを思った。
『最初の試合はラジアータ殿が出るのでしたよね?ユナディクスの陣営はどちらに?』
『残念だけど正反対の場所だ』
 クイの指差す方に目を向ければ、広い円形グラウンドの正反対の位置でラジアータが自国の者達に最終調整を受けている様子が見えた。
『あいつ今でものほほんとしてやがるぜ…やる気あんのか?』
『あの状況で訓練用の絡繰りに勝ったんだ。優勝候補に入っているから実力はかなり高いぞ』
 トウヤとクイの会話にはテテを挟んでやり合った様子は見えず、さすがに二人とも試合に集中しているのだと改めてルードヴィッヒも拳に力を込める。
 戦闘用の絡繰りの中で最強と謳われていた巨大うさぎに勝ったラジアータが優勝候補だというなら、他には誰が候補にいるのだろうと少し気になった。自分が入っていないことは確かだろうが。
『そちらは大丈夫だったんですか?身体検査場に覗きが出たと聞きましたが…』
 クイは心配そうに眉を顰めながらジャックに先ほど起きた事件を問う。
 もう話が回っているのかとルードヴィッヒは驚くが、あいつだろう?とトウヤは呆れた声を聴かせてきて。
『ヤタ国のバックス』
『知ってる奴なのか?』
『知ってるも何も……』
 トウヤが出した名前にクイがあぁ、と呆れた顔をしていたので、ジャックも驚いた顔を見せる。
 なかなかの実力者なのかと想像するルードヴィッヒの前で、なぜかトウヤとクイは言いづらそうにルードヴィッヒを見つめてきた。
『……え、何ですか?』
『お前、あいつを失格にさせないようにって言ったんだろ?何でそんなことするんだよ…』
 呆れ声のトウヤは、ルードヴィッヒの意見を否定する。失格にしてればよかったのに、と。
 確かに先ほどラムタル側からも改めて被害を問われ、バックスを不問にしてほしいと自ら伝えたばかりだ。
『何故って…彼はディオーネ嬢を覗き見ようとしただけでなく、卑劣な言葉を使って貶めたんです!!二回戦で私と当たるというから、そこで叩きのめすと決めたんです!』
 ルードヴィッヒがバックスを失格にしなかった理由はただ一つだ。
 最低な男を、正々堂々と討つ。
「お前なぁ…」
 ジャックが呆れた声を出すが、聞き入れなかった。
 幸いなことにディオーネは覗かれなかった様子だが、変質者が入ってきたなど怖かったに違いない、と。
『…ルードヴィッヒ……それマジで言ってんのか?』
 しかしトウヤは驚いた様子を見せてくる。
『…女性の名誉を守ることにマジも何もありません!』
『いや、そういうことじゃなくて…マジか…お前、俺らがどんだけ風呂場であいつから庇ってたと思ってるんだよ…』
『……どういうことですか?』
『やめておけトウヤ…完全に気付いてない』
 何やら動揺しているトウヤを、クイがわざとらしく肩を叩いて慰めて。
『…何となくだが察した。…ありがとうな』
 さらにジャックが二人に感謝するものだから、ルードヴィッヒはさらに困惑した。
『何なのですか?』
『いや、いいんだルードヴィッヒ!お前はその純真無垢なままでいてくれ!!一生汚れるな!!』
『はぁ!?』
 訳がわからず声を荒らげてしまうが、スアタニラとイリュエノッドの陣営だけでなく、会話が聞こえていたらしい他の陣営からも同情じみた目線を向けられた。
『せっかくディオーネ嬢がわざと大袈裟にしてくれたらしいのに、お前って奴は…』
 トウヤが詳しく事情を知る様子を見せるから、クイも事の顛末になるほど、と理解していて。
『…ジャック殿?』
『お前はそのままでいろ。気にすんな』
 ジャックまで何やら悟った様子でいるから、眉が吊り上がりそうになった。なぜ自分だけ蚊帳の外に置かれたような状況だというのだ。しかも子供扱いまでして。
『そっちの身体検査は無事に済んだのか?』
 話しを変えるジャックに、トウヤとクイは同時に笑いを堪える顔を見せてきた。
『…そっちも何かあったのか?』
『何かというか…そちらの剣術出場者様が…』
 二人とも口ごもりつつ、謎の笑いを浮かべつつ。
『…うちのエテルネルがどうした』
 ジャックが少し頬を引き攣らせたのは、コウェルズが何をやらかしたのだと焦ったからだろう。
『いや、大したことではないんですが…』
 一体何があったのか、トウヤとクイは話し始めるが。
 エテルネルとして参加しているコウェルズの正体はすでに大半の者たちが薄々気付いている。そんな状況下での身体検査でコウェルズはラムタルの者達に検査され。
『服を…自分で着ようとしなくて……』
 再三のラムタルからの“検査後は自分で服を着ろ”という頼みをコウェルズは無視して待ち続けていたらしい。
 最初は自分で着ようとした様子だが、すぐに諦めて着せてくれるのを笑顔で待っていた、と。
 その辺りでトウヤは思い出して吹き出し、クイはギリギリ我慢して。
 結局諦めたのはラムタルの検査員達で、丁寧に戦闘服を着せてくれたらしい。
 そんなことがあったとはと唖然とするルードヴィッヒの隣で、ジャックが呆れたように深すぎるため息をついていた。
『…壊滅的に不器用なんだ…あいつは……ダニエルは何してたんだ…』
『ダニエル殿はジュエル嬢と陣営にいたみたいなんで』
 コウェルズのお守り役がいなかった、と。
『…ラムタル側に謝罪に行かないとな…』
『もしよろしければ、明日はイリュエノッドから一人、エテルネル殿の身体検査の付き添いに回しましょうか?』
『……いいのか?』
『それでルリア様の不始末を許してくださるなら』
 ちゃっかりと自国の王女の尻拭いをしようとするクイに、ジャックがようやく笑った。
 そこへ、試合の始まりを知らせる花火が打ち上がる。
『お、もう移動してやがった!!』
 闘技場の中央に設置された戦闘場には、すでにラジアータが対戦相手と共にいて。
 ユナディクス国は一年を通して温暖な気候であるため、ラジアータの纏う戦闘服は涼しげで柔らかそうだ。派手な装飾も繊細な刺繍もないシンプルな装いだが、開いた胸元からは素肌に直接ベルトが固定されている様子が窺えた。
 ユナディクス国はその昔、奴隷達が自由を勝ち得た土地から発展したと聞く。
 素肌を縛るかのようなベルトは、奴隷時代の名残りのようにも思えた。
 対戦相手が纏うのは、まるで森林を宿したかのように本物の蔓を両手足に巻いた深緑の厚い戦闘服だ。
 もしここが森の中だったなら、その姿は自然と一体化していたことだろう。
 異国の戦闘服は見るだけで興奮してしまいそうだ。
「ラジアータ殿、勝てるでしょうか?」
「お前より強い奴なんだぞ?信じて見てろ」
 対戦相手の身体はラジアータより一回り以上大きく、思わず不安になってしまったルードヴィッヒにジャックが力強く肩を叩いてくれた。
『近くに行こうぜ!』
 戦闘場の下には一定の距離の辺りでロープが引かれており、闘技場にいる大会出場者とサポートの者達はそこまでは近づいてもよい決まりがある。
 トウヤに誘われてクイと共に足早に進めば、ジャックは後ろから落ち着いた歩幅で付いてきていた。
 試合の開始は二発目の花火が上がってから。
「しっかり見ていろ。ラジアータの動きはお前の戦闘スタイルに取り込める動きだからな」
 ボソリとジャックに命じられて、言われなくても、と目に焼き付ける為に身体に力を込めて。
 見ただけでも、ラジアータの動きは風のように自由で、対戦相手は山のように強固そうだとわかる。
 いったいどんな戦闘になるのか。
 優勝候補にラジアータがいるからか、対戦相手は体格で優れているというのに緊張した様子を見せていた。
 ざわついていた闘技場内は最初の試合に集中するかのように静まり返り。
 試合開始の盛大な花火が上がると同時に爆発的な歓声も上がった。
 極彩色の花火とビリビリと全身を痺れさせる歓声を浴び、自分の試合ではないというのにルードヴィッヒは興奮が湧き上がるのを感じて。
 最初に仕掛けたのは対戦相手の方だった。低い位置から一気に間合いを詰めて、ラジアータを推し出そうとする。
 戦闘場から落ちれば即失格だ。
「ラジアータ殿!!」
「大丈夫だ」
 焦るルードヴィッヒを、ジャックは冷静に止める。
 ラジアータを掴もうとする対戦相手は体格に見合わないほど素早かったが、ラジアータの方が一歩早かった。
 対戦相手の太い肩に両手を付いて、ふわりと浮かび上がって。
 だがそれを察知していたかのように、太い腕は天へと伸びてラジアータの首を掴んだ。
 流れは止まらないまま、ラジアータが思いきり地面に叩きつけられる。
 誰もが息を呑む。
 しかし、観客席にいる誰もが想像していた痛ましい音は聞こえてこなかった。
「ーーっぶね…」
 異国語の暢気な声が、高い位置から。
 誰もが向けていた目線よりさらに高い位置に、ラジアータがいた。
 首を掴まれた状況からどう逃げ出したのか、空高く舞い上がり、重力に任せて落ちてくる所。
 スタ、と、軽い足音と共にラジアータは対戦相手から離れた場所に着地した。
 どう動いて、どう逃げたのか。
 わからない。
 目には映っていた。
 多くの者達が目を向けていた場所とは異なる、ラジアータが動いた場所をルードヴィッヒはしっかりと見ていた。
 ルードヴィッヒだけではなく、武術に馴染んだ者達はラジアータを目で追えていた。
 だがどう動けばそうなるのか、ルードヴィッヒにはわからなかった。
 わからず、焦る。
 次こそはその動きを把握しようとさらにラジアータを凝視して。
 対戦相手の男がさらに低い位置からラジアータへ突進する寸前に、ラジアータが先に動いた。
 審判のいる方向に身体を向けて、両手を掲げ、バツ印を。
 空白はしっかり三秒。
 その後。
「っっっはああああああぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」
 爆発的な否定の声は、ラジアータが属するユナディクスの陣営からだった。
『……え?』
『何…が……』
 トウヤとクイも何が起きたのか訳が分からずぽかんと口を開ける。
 ルードヴィッヒもどういうことなのかとジャックを見上げて。
『あいつ…諦めんの早すぎだろ…』
 苦笑するジャックに、ルードヴィッヒはラジアータが腕で示した合図が棄権で間違いないと悟った。
『どうして…』
 思わず呟いてしまい、トウヤとクイも連続で頷いて。
「あんたふざけんじゃないわよ!!最後まで戦いなさいよ!!」
「いやムリだって。めっちゃ強いって。逃げれても倒せねぇって」
 張られたロープをくぐって戦闘場に近付いたのは姉であるメデューサで、ユナディクス語で何やら口論を披露して。
『…あいつら何て言ってるんだ?』
『逃げられるけど倒せない…とか言ってます』
 この場でユナディクス語を理解しているのはルードヴィッヒだけで、わかりやすく翻訳して伝えていく。
 曰く、相手が自分より強いので棄権した、と。
『なんだよそれ!!』
 呆れるトウヤに、そうでもないぞ、とジャックがラジアータへの評価を見せた。
『負けを認めるのは確かに早いし攻略方法もいくらでも探せるが…実力差を一瞬で見抜いたんだろう』
 あまりの出来事にユナディクス陣営からはブーイングと、観客席はただひたすら困惑するような空気感に溢れているが、ラジアータは戦わない、と姉に向かってひたすら首を横に振り続けていた。
 だが最も困惑しているのは対戦相手で。
 どうすればよいのかと焦りながら自分の陣営に助けを求める姿は、身体は山のように大きいがまだまだ若い青年なのだと気付かされた。
 騒然とする中でラムタルの審判達が戦闘場に上がり、ラジアータに改めて意思を尋ねて。
『ーー勝者、カオス国、コラン!!』
 審判が対戦相手へと勝利宣言をし、カオス国陣営から盛大な花火が上がる。
 が。
 あまりにも締まりのない第一試合に、闘技場内の空気はしばらく騒然とし続けていた。

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