第95話
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大会開始のセレモニーは大国ラムタルの名に恥じぬ素晴らしく華やかなものだった。
ルードヴィッヒは三年前のエル・フェアリアで行われた大会の開始セレモニーも見ていたが、大空を埋め尽くすかのような大量の虹が舞い踊ったエル・フェアリアとは異なり、ラムタルらしい絡繰りを駆使した壮大な式典に口を開けて見惚れてしまった。
訓練用だった絡繰りの大型動物達も着飾り、各国代表を迎えて。
セレモニーの最後に現れたラムタル王は威風堂々とした存在感で周りを圧倒し、スピーチ中はサポートに訪れていた各国の娘達が見惚れるほどだった。
「…後ろに控えている二人が世界唯一の癒術騎士だよ」
大会出場者だけが集められた闘技場のグラウンドの中央、コウェルズが小声で教えてくれるのは二人の男女だ。
バインド王に仕えるように、まだ若い騎士が共に立っている。
ラムタル国が大切にしている、双子の癒術騎士。世界で唯一、治癒魔術と戦闘魔術を扱う稀有な二人。
どれほどの訓練を積んだのかはわからない。だがその存在感はバインド王に引けを取らなかった。
見た目だけなら可もなく不可もない容姿だというのに、訓練の数がものを言うように圧倒的な存在感がある。
そんな二人を従えたバインド王の威圧感は殊更で、見ているだけで心臓が弾け飛びそうなほど鼓動を打った。
戦ってみたいーー心から願うほどに。
ルードヴィッヒが不意をついたとしても、一瞬で地に落とされるだろう。それほどの実力差を肌で感じたのに、戦闘欲求は溢れ出して止まらなかった。
式典は滞りなく進み、バインド王が大会出場者達の試合のくじを引くところまで来て。
最初は剣術出場者達からで、コウェルズは中間辺りで名前を呼ばれていた。
対戦相手となった者は小国の戦士で、コウェルズの存在に気付いている様子で一瞬諦めたような気まずい笑顔を浮かべ、しかし己を奮い立たせるように目の力を強めていた。
剣術出場者達が全員呼ばれた後は武術出場者達の番で、ルードヴィッヒは両手に力を込めて自分の名前が呼ばれるのを待つ。
なんと一回戦の一発目で呼ばれたのはユナディクス国のラジアータで、親しい者が呼ばれたことにルードヴィッヒはさらに興奮してしまった。
当のラジアータは自分の名前が呼ばれたというのに気付いていなかった様子で、隣に立つユナディクス国の剣術出場者に小突かれてようやく気付いていた。
ラムタルの訓練用絡繰りの中で最も恐れられていた最強のウサギを倒したことで周りから注目を浴びていたというのに、恐ろしいほど気ままだ。
その後も名前は呼ばれ続け、一回戦前半にはスアタニラ国のトウヤも選ばれて。
トウヤは名前を呼ばれてすぐにイリュエノッド国のサポート達の方へと目を向け、テテに拳を振り上げてアピールをしていたが、怒り狂うクイがトウヤの視界を遮り思いきり睨みつけていた。
そのクイが名前を呼ばれたのは一回戦後半で、ルードヴィッヒが呼ばれたのは後半の中ごろだった。
名前を呼ばれた瞬間、血が沸騰するほどに湧き上がるのを感じて。
その後呼ばれたルードヴィッヒの対戦相手は。
「ーー…」
対戦相手の国名を聞いた瞬間、ルードヴィッヒを止めるかのようにコウェルズが強く腕を掴んできた。
初戦の相手は、バオル国の者だった。
腕から広がる掴まれた痛みに、頭がスーッと冴えていく。
「ルードヴィッヒ…落ち着いて戦うんだよ」
コウェルズからの注意に言葉は出てこず、小さく頷くだけに留めてしまう。
バオル国。
その国名を聞くだけではらわたが煮えくり返りそうなほど、ルードヴィッヒは彼らが嫌いになっていた。
コウェルズのお陰で冷静になれたが、頭が冴えた後は先程の戦闘欲求とは異なる感情が溢れて。
無意識に口元が笑みを浮かべていた。
その後も国名と戦士の名前は呼ばれ続けて。
まるで図ったかのように、ラムタル国の代表であるウインドの名が呼ばれたのは最後だった。
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開会式典終了後、身体検査に向かう者達の流れにルードヴィッヒだけは入れなかった。
理由は聞かされている。
「ーールードヴィッヒ!こっちだ!」
少し離れた場所からジャックに呼ばれて駆け寄れば、ジャックと共にいたのはイリュシーと、剣士姿の背の高い女性だった。
しなやかな長身と、ルードヴィッヒよりも短い髪。
筋肉にも恵まれているが、遠目では見間違えても近くに寄れば女性だとすぐに気付いた。
大会史上初の、女性戦士。
『…レフールセント国のディオーネ嬢…ですか?』
穏やかな笑みを浮かべていた女性に問い掛ければ、女性は静かに瞳を細めて笑ってくれた。
『エル・フェアリア国のルードヴィッヒ殿に知られていたとは光栄ですね。レフールセントの剣術代表、ディオーネです』
よろしくお願いします、と落ち着いた声で話してくれて、数秒固まってから慌てて自己紹介を返した。
身体は鍛えているだろうが、やはり女性としての身体つきは他の戦士達と比べても弱そうだ。
なのに彼女は国の代表に選ばれた。
実力者であることは事実なのだろう。
彼女の戦闘スタイルが気になったが、この目で見ることが叶うだろうか。
『お二方には他の皆様とは別の場所で身体検査を行なっていただきます。ディオーネ様には女性の検査員のみが、ルードヴィッヒ様には男性の検査員が一人、補助で付かせていただきます』
イリュシーの説明と共に、皆で検査場所へと向かう。
大会出場者の集まる検査会場とは少し離れた場所に別に用意された理由は、ディオーネだ。
今までの大会には男しか出場者がいなかった為に必然的に検査員も男達ばかりだった。
それが今年は初めて女性が出場することになり、ラムタル国も女性の検査員を用意したのだ。
『私の為にありがとうございます』
『大会に新しい流れが訪れたのです。喜ばしいことですわ』
少し申し訳なさそうなディオーネに、イリュシーは微笑んで。
検査場所へと進む道中だが、イリュシーを先頭にジャックとディオーネが横に並び、ルードヴィッヒは慌ててディオーネとは反対側のジャックの隣へと駆けた。
『えっと…間違えていたら申し訳ありませんが…ジャック、殿でしょうか?』
ディオーネはジャックを見上げながら少し言いづらそうに問いかける。
そうだが、と気安く返すジャックに、ディオーネは安堵と共に嬉しそうな表情を浮かべていた。
『お話しできる機会を窺っていました。こんな時に話すことではないのですが、少しだけよろしいですか?』
『まあ…歩きながらになるが』
どうしたのかとルードヴィッヒも黙って二人の会話に耳を傾けていれば。
『この大会期間中に、ジャック殿の子種を私に分けていただけませんか?』
突然の発言に、ルードヴィッヒはイリュシーと同時にディオーネへと顔を強く向けた。
『そ…れは……』
ジャックも突然のことに固まって。
『種譲りを私に行ってほしいのです。本当は剣術の伝説であるダニエル様に頼みたいと思っていたのですが、あの方は妻子ある身。まだお子様も小さいと聞いていますので、万が一奥様の耳に入った時の負担にはなりたくなくて…』
なぜジャックなのかを、ディオーネは包み隠さず話してくる。
全員を連れて歩くはずのイリュシーが固まってしまっていたが、それをジャックがジェスチャーで何とか進むよう促していて。
『…私の種より、もっと若く元気で優秀な種があるでしょう』
『そうかもしれません…ですが我が国の国力を考えれば、確実な実力者の種が欲しいのです』
種譲りが何を意味するのかはルードヴィッヒも聞かされたので顔を真っ赤にしてしまうが、困惑するジャックとは裏腹にディオーネの表情は真剣そのものだ。
国の為にと彼女は拳を硬くする。
『ジャック殿は、大会初の女戦士と聞いてどう思われましたか?』
真剣な眼差しのまま問われて、ジャックが言葉に詰まった。
大会初の女性を、大会の生きる伝説と言われるジャックはどう考えているのか。
『…女性もここまで力をつけられる時代になったのだと、そう思いましたよ』
好印象である、とジャックは口にする。だがその言葉にディオーネは表情を暗くした。
『皆がそう言ってくれました。…ですが私はそう思ってはいません』
ディオーネはジャックと、ルードヴィッヒにも手のひらのタコを見せてくれる。
剣士として努力したのだとわかるほど、見ただけでも固そうな手のひら。
『私は努力をしました。女だと侮られないように、みくびられないように…その結果、私はレフールセントで今年最も強い剣士となれました』
だからこそ大会に出場出来るのだと笑顔を見せて。
『嬉しかったです。努力が実ったのだと。…同時に恐ろしくもなりました。…男より筋力で劣るはずの女が代表剣士となった事実に』
ディオーネは、自分の身に渦巻いた二つの感情を簡潔に、そして丁寧に説明していく。
『私個人としては人生で最も輝かしいほどの結果です。ですが我が国の未来を考えると、国力の低下を実感せずにはいられません』
レフールセントがどんな国なのかは詳しく知らない。近隣でもない他国の情勢に疎いルードヴィッヒには、レフールセントが今どんな問題を抱えているかはわからなかった。
ジャックはどうなのだろうか。その表情を読み取ろうとしたが、残念ながらジャックはディオーネに顔を向けており、ルードヴィッヒからは確認ができなかった。
『国にはまだ、私と並ぶほどの実力者も、去年までの代表者達もいて、皆が腕を磨いています。なので、私が国の為に最も出来ることは…』
『……優秀な子種をこの大会で貰うこと、か』
少しだけ言い淀んだディオーネの代わりに、ジャックが最後の言葉を口にする。
『……はい。私が大会で励むべき本来の目的を見誤っていると思われるかもしれませんが…私には大会よりも、レフールセントの未来の方が大切なのです』
なので、是非、と。
ルードヴィッヒが最初に種譲りという言葉を聞いた時に感じた感情は、はしたない、というものだった。
だがディオーネの言葉は切実だ。
国力を上げる為に、国の為に。
『もちろん、子供が産まれた際にあなたに父親になれとは願いません。もし子供が戦士の道を拒絶するなら、きちんと子供の言葉を受け入れます。ですので、あまり気負わずに考えていただけませんか?大会期間中なら、いつでもお待ちしておりますので』
駄目で元々の頼みだと、ディオーネはまた笑った。
『…あの!……検査場へお入りください』
到着したと同時に口を開いたイリュシーの言葉にはどこか棘があったが、ジャックに促されるまま検査場へと足を踏み入れた。
大会出場者達のいる検査場とは少しだけ離れた広めの小屋のような場所で、中はカーテンの間仕切りで分けられて。
『お待ちしておりました。身体検査を始めさせていただきます』
中にいたのは六人の女性と、ジャックと歳の近そうな一人の武人だった。
この六人の女性が、大会初の女性検査員となるのか。そう思うのもつかの間、女性達は三人ずつに分かれて、ディオーネを奥へ、ルードヴィッヒを手前へと連れ込んだ。
何をされるのか分からずされるがままになっていれば、唐突に三人の女性に戦闘服や身体を触られて。
「え?え?え?」
あまりに突然のことに困惑する。
『これは…羨ましいですな』
『……確かに』
ルードヴィッヒの身体検査を覗き込んだジャックへと武人が話しかけ、ジャックも同意していた。
するすると上を脱がされ、下にまで手をかけられて。
「うわ!じ、ジャック殿!!」
下ろされそうになった下を強く掴んで抵抗したが、ジャックは助けてはくれなかった。
「衣服に違反はないか、危険物は仕込まれていないか、身体強化の術式はないか、全て調べられるんだ。お前から脱ぐなよ。我慢しろ」
「そんな!!」
抵抗も虚しく全て脱がされて、羞恥で死にそうになった。
幸いなことにジュエルがくれたアンクレットは外されることはなかったが、脱がされるなら先に教えておいてほしかった。
『ーーわ、待って!そこまで触るの?くすぐった!!あは、ちょっと待って!!ね、お願い!!』
カーテンで仕切られた向こうからもディオーネの慌てた声が聞こえてきて。
『…役得ですかな』
『……確かに』
ディオーネの困惑の声に、ジャックが武人と共に小声でニヤついた。
「っ痛!!」
そこへ、ジャックの隣に訪れたイリュシーが強くジャックの足を踏みつける。
文句を言いたそうなイリュシーだったが、衣服を脱がされていたルードヴィッヒの姿に驚き、慌てて離れて。
『マオット家の者とはいえ、年齢に相応しくまだまだ未熟な子で申し訳ない』
イリュシーの態度を代わりに謝罪した武人に、ジャックは曖昧な笑みを返していた。
『…衣服は裏返して調べるんだ。小さな糸のほつれに強化薬を仕込ませていた国も以前はあった。布と布の間に仕込まれてもいたから、気をつけて調べるんだぞ』
三人の女性検査員達は必死に自分の仕事を続け、武人は経験を生かすように細かな指示を出していく。
『爪の先や耳の奥は盲点になりやすい、丁寧にな』
ルードヴィッヒは恥ずかしくて堪らなかったが、女性達が冷やかさないでいてくれることが唯一の救いだった。
だが。
『…あの……』
身体に直接手を翳していた女性が、一定の検査を終えた所で武人へと目を向けて。
『ああ、交代しよう、上手く検査できていた』武人が手に箸のサイズの棒を持ってルードヴィッヒに近付き、代わりに女性は身を引いて。
『えっと…何を…』
『最後に性器を調べさせてもらうぞ。これが終われば身体検査の全行程が終了する。恥ずかしいだろうが我慢するように』
「え!?」
ルードヴィッヒの前にしゃがんだ武人に対して、さすがに腰を引かせながら後ずさった。
そんな話、誰からも聞かされていない。
『我慢するんだ。俺もダニエルも、ガウェだって耐えたんだぞ』
『少年よ、検査員の気持ちも汲んではくれないか?誰が好き好んで男のモノを拝みたいというんだ…』
ジャックに諭されるだけでなく武人からもうんざりとした諦め顔をされるから、唇を歯で食いしばって。
棒で性器に触れられて、嫌な寒気が背筋を舐めるようだった。恥ずかしすぎて、目を強く閉じ続けてしまう。
『ーーよし、無事に終わったぞ。よく耐えたな。偉いぞ』
終了と共に立ち上がる武人が自分の胸ポケットから飴を取り出して差し出してきて、思わず受け取ってから子供扱いされたことにまた固まった。
『試合が始まれば用意した水と食料以外は食べられない。君は順番も後の方だったろう?先に食べておきなさい』
『あ…ありがとうございます……』
一応お礼を伝えて、言われるがままに包装から飴を取り出して口に入れた。そうすれば残った包装紙を取り上げると同時に強い力で頭を撫でられて、更なる子供扱いに気持ちがまた沈んだ。
飴の上品な甘さだけがルードヴィッヒを癒してくれる。
『衣服の方も無事に終わったみたいだな。自分で着るんだぞ』
滞りなく全行程が終わったことを伝えるジャックが、女性達は脱がせはしても着させてはくれないぞと笑ってきた。
『自分で出来ます!!』
さすがにムカついたので大声で返事をすれば隣からも笑いが溢れていた。
和やかな雰囲気は、ルードヴィッヒばかりが焦ったり慌てたり恥ずかしくなったりと転がされたかのようで面白くない。
真っ先に下着を履いて、ムカつきを抑える為に口の中で甘い飴を必死に転がして。
『ーーどちら様でしょうか?』
小屋の扉が開いた音と共にイリュシーが誰かに話しかけるものだから、ルードヴィッヒは衣服を手にしたままジャック達の向こう側へと目を向けた。
ジャックも振り向く先にいたのは、見知らぬ戦士だ。
『ヤタ国の武術出場者が、こちらへ何用か』
女性戦士もいる身体検査小屋だというのに、不躾に現れた男は了承も得ずにルードヴィッヒのいる仕切りに近付いて中を覗き込んでくる。武人が間に入ってくれるが、男はルードヴィッヒから視線を外そうとはしなかった。
その間にジャックに「早く着ろ」と促されて服を着ようとしたが、男の視線に怖気を感じてぶるりと震えてしまった。
『もう一度聞こうと。何用か』
『これはこれは、失礼…順当に行けば彼と二回戦で手合わせする者として、女の検査など不安で仕方ありません。なので検査手順を調べさせてもらいに来ました』
ニコニコと微笑みながら、身体検査員の女性達をこき下ろす。
その言葉遣いに女性達が強く不快感を示したが、武人が男を小屋の玄関口まで押して強引に離してくれた。
『おっと…乱暴は困りますね。ここで怪我をしてしまったら、大会に出場出来なくなるではありませんか』
『ふざけるのもいい加減にしていただこうか。そちらの身勝手に我が国の検査員達を付き合わせる道理はない。彼女達は男性検査員と変わらぬ指導を受けて試験も通った者達だが、侮辱にも耐えろという指示は出してはおらんぞ』
男の態度を侮辱だと非難してみても、男は薄ら笑いを浮かべるだけだった。
『ルードヴィッヒ君…私はヤタ国のバックスだ。君と二回戦で戦えることを楽しみにしているよ』
物腰は穏やかそうに話しかけられて、思わず返事をしそうになるがジャックに止められた。
早く服を着ろ、と急かされるままに急いで着ていく。
『おっと、そんなに焦る必要はないんだがね』
バックスの視線はどこまでもルードヴィッヒに絡みつくようで、その気持ち悪さはまるで首筋に絡みつくようだった。
察するようにジャックがカーテンを強く引いて視界を遮ってくれるが、代わりにバックスのわざとらしいため息が聞こえてくる。
『ルードヴィッヒ君、今晩は共に武術の戦闘スタイルについて話し合ってみないかい?君に相応しい戦闘術を知っているんだが』
本来なら嬉しくて間髪入れずに返事をするような誘いにも、なぜか身体は強張った。
救いを求めるようにジャックをチラリと見れば、ラムタルに任せて静観に努めようとしていたジャックがさすがに口を開こうとした。
だが。
『え、キモ』
ふと、ルードヴィッヒからは見えない隣から声が響く。
声の主は、ディオーネで間違いないだろう。
『ディオーネ様…』
『いや、だって気持ち悪くない?生理的に無理なレベルだよ、あいつ。開催国にも参加国にも迷惑かけるってやばくない?しかも女が脱がされてるってわかってる場所を覗き込みにくるわけでしょ?やばすぎ…ムリすぎるんだけど…』
少し大きめの声で、わざとらしく嫌がるディオーネ。しかし彼女の言葉に、誰もがハッと様子を変えていた。
ルードヴィッヒはカーテンとジャックが盾になっていた為に向こう側がどうなっているのか見えなかったが、武人が強い姿勢でバックスを外へと押し出す気配を察して。
『これ以上の検査の邪魔は大会への出場取り消しを上へ進言することになるぞ。バックス殿、早々にヤタ国の陣営に戻れ』
ぽかんとしてしまうルードヴィッヒの耳に届くのは、本気でバックスを押し出しているらしい武人の気配だ。
大会出場者には怪我をさせてはいけないという暗黙の了解も、こんな状況では適用していられないのだろう。
『まだいるんですか?怖い…』
追い討ちをかけるように、ディオーネがどこから出しているんだと思えるほどの可愛らしい声でわざとらしく怯えてみせた。
「くそ…『ふざけんなよババア!!誰がお前みたいなババアを見たいと思うんだよ!!』
『貴様がふざけるな!!早く出ていけ!!』
バックスの暴言に、とうとうすぐ武人も強く声を上げた。
雷撃のような声量に小屋全体がビリビリと揺れるようで、その後は武人と共にバックスが完全に小屋を出された様子で一気に静寂が訪れた。
だがその静寂は小屋の中のみで、外からは怒鳴り合うような大声が聞こえてくる。
「……早く服を着ろ」
何度目かの指示に、慌てて服を着て。
ルードヴィッヒが完全に戦闘服を着ると同時にジャックがカーテンを開けてくれて、そのすぐ後に隣のカーテンも開けられてディオーネが三人の女性達を後ろに守りながら近寄ってきた。
その頃には外からの怒声も落ち着いていて。
『そちらは大丈夫だったか?』
『いっさい覗かれてはいませんよ。安心してください』
ジャックの問いかけに、ディオーネが笑うしかないといった様子を見せる。
『ヤタ国の剣術出場者様と手合わせした時にバックス様について聞かされはしましたが…相当こじらせた戦士のようですね…』
呆れた口調はバックスの暴言をあまり気にしていない様子を見せるが、後ろにいた検査員の女性の中で最も若そうな娘が一人、涙目になっていることが明白だった。
『泣かないで…あなたのおかげで私は大丈夫だったんだから…カーテンが絶対に開かないよう閉めててくれてありがとう』
自分より若いだろう検査員に、ディオーネは心から感謝する。
すると彼女は安堵が全身を包んだ様子でボロボロと泣き出してしまって。
「…これはちょっと、大事になるかもな」
泣き出してしまった若い検査員をディオーネと周りの女性達が慌てて慰めていくのを見て、ジャックが新たな問題の発生だとため息をこぼした。
『中隊長様…』
『あいつはとりあえず俺の部下の監視付きで自分の陣営に返した』
小屋の扉から外を見張っていたイリュシーが戻ってきた武人に話しかけて、武人もやれやれと疲れた表情を浮かべて。
『ルードヴィッヒ殿、ディオーネ殿、ジャック殿…誠に申し訳ない…時間が押している為に今は解散となるが、後ほど改めて向こうの処罰を話させていただく』
お咎め無しではないと簡単な説明を受けて、ルードヴィッヒはジャックに促されるままに小屋の外へ出る。
今起きた事件はすでに周りの目にも入っている様子で、外へ出た途端に辺りから多くの視線を受ける羽目に陥ってしまった。
「ルードヴィッヒ殿!!」
走り寄ってくるのは検査を終わらせていたコウェルズとダニエルとジュエルで。
「ダニエル!悪いがルードヴィッヒを連れて先に行っててくれ。俺はこっちで少し話すことがある!!」
ジャックは武人や検査員達と話す為に残り、ルードヴィッヒはすぐにダニエルとコウェルズに挟まれて。
ディオーネも自国の者達に守られてすぐにその場を離れていった。離れる途中でヤタ国と思われるサポーター達がディオーネ達に駆け寄ろうとしていたが、ディオーネを庇う者達が強く相手を睨み付けて制止させていたので、本当に大変な事になっているのだと改めて実感する。
「何があったんだい?」
心配してくれるコウェルズには悪いが、どう説明していいのかがわからない。
「……大丈夫ですの?」
ジュエルも不安そうに瞳を潤ませるから、自分が悪いわけではないのに段々と腹が立ってきた。
「ルードヴィッヒ、試合には出られそうか?」
「大丈夫です。…絶対に出ます」
ふつふつとした怒りが溢れてくるから、ダニエルへの問いかけにはひどく無愛想な返答をしてしまった。
いったい何がしたかったのかわからない。
だがあの男はディオーネを侮辱し、検査員の女性を泣かせ、ジュエルに不安感を与えた。
順当に行けば、二回戦で当たると言っていた。
ヤタ国の戦士、バックス。
「ヤタ国とは、どういった国なのですか?」
訊ねたのは、興味が湧いたからではない。
「ヤタか…山間の小国としか知らないな…」
ダニエルの説明に、ジュエルも頷いていた。
「エル・フェアリアとは国交も何もありませんね。山の神を崇める厳格で封鎖的な国柄だとしか」
コウェルズもあまり把握していないので、エル・フェアリアからすれば本当に取るに足らない国なのだろう。
「…何かあれば小さな事でもすぐに言うんだぞ」
ダニエルはひたすらルードヴィッヒを心配してくれて、その優しさにさらにバックスへの怒りが込み上げた。
不要な心配をかけさせる原因となったバックスに、バオル国へ向ける怒りと同等の怒りが込み上げてくる。
「私は大丈夫です」
自分は平気だ。だが周りの者達はそうではないから。
「……もしラムタル国から、バックス殿の出場を停止させるようなことを言われたら…停止させないよう話してはもらえませんか?」
ルードヴィッヒの頼みに、ダニエルがコウェルズと顔を合わせる。
「……二回戦で倒します。…絶対に」
やられたことは、正々堂々とやり返す、と。
ルードヴィッヒの言葉にダニエル達がどんな表情を浮かべていたのか、そこまで気を回せるほどの余裕は、今はなかった。
第95話 終