第95話
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鏡の中の自分を、しっかりと見つめる。
ルードヴィッヒの何倍もあるサイズの全身鏡は、緊張した面持ちの自分自身をはっきりと映していた。
魔具の装飾をいっさい身に付けていない頭は、今は妙にスッキリと軽く感じる。
紫都ラシェルスコット家の名に恥じぬ見事な淡い紫の髪と瞳。だが着ている服は、黄色と緑のツートンカラーの戦闘服だ。
三年前にガウェが大会で身に付けた戦闘服を、無理を言って譲ってもらった。
体格の違うルードヴィッヒの為に戦闘服は仕立て直され、その過程で邪魔にならない程度に薄紫の美しい刺繍は施されたが、よく見なければ誰もその刺繍には気付かないだろう。
それでよかった。
元々はリーン姫を思うガウェの為にあつらえられた戦闘服なのだから。
ルードヴィッヒがこの戦闘服をガウェに強請った理由は二つある。
一つは、憧れのガウェが着ていたものだから。
大会を優雅に優勝したガウェが着ていた、見事な戦闘服だから。
もう一つは、リーン姫を表す服だから。
リーン姫を見つけ出す為にここへ来たのだ。 ラムタルの癒術騎士と問題を起こした為にラムタルへの入国を禁止されたガウェの代わりに、ガウェの為に。
黄に守られた緑の戦闘服は、ルードヴィッヒにとってその胸中をラムタル国に伝えられる最高の戦闘服だったから。
ガウェは快く戦闘服を譲ってくれた。
ルードヴィッヒの為に淡い刺繍まで施した状態で。
それはまるで、リーン姫を守るガウェを、ルードヴィッヒも影から見守るようで。
王族の前に出ても恥ずかしくない礼服のように美しいのに、戦闘服として申し分ないほど機能性は高い。
エル・フェアリアの男性貴族が好む、上等な布を多用した戦闘服だというのに、あまりにも軽いのだ。
自分の身体の一部のような感覚。
色合いを揃えたブーツも、見た目は重そうだというのに非常に軽かった。
全身が軽い。その中で一箇所だけ、重く温かい違和感。
それは足元に。
ブーツに隠れて見えないが、足首に付けたアンクレットがあるのだ。
昨日ジュエルがくれた、ルードヴィッヒの勝利を願うアンクレットが。
鏡には映らない。それでもルードヴィッヒの目には藍色の光として映るようだった。
昨日、ジュエルはルードヴィッヒと想いを同じとしていることが発覚したのだから。
ガウェの為にも、リーン姫のためにも、そしてジュエルの為にも。
必ず勝ち抜いてみせる、と。
拳を強く握りしめて、鏡の中の自分と目を合わせ続けて。
「……ルードヴィッヒ、そろそろ準備は出来たか?」
扉を叩かれて、ジャックの声がルードヴィッヒの意識を我に返らせた。
「はい!」
今日から本格的に大会が始まる。開会の式典にはまだ時間があるが、ルードヴィッヒは一人でこの戦闘服に着替えていたのだ。ジュエルはダニエルと共にアン王女の元へ向かい、ジャックはコウェルズの戦闘服の着替えを手伝っていた。
部屋を出ればジュエル達はまだ戻っていなかった。
「お似合いですよ」
ニコリと微笑むコウェルズが、エテルネルの口調と共に優雅に微笑んでくる。
コウェルズはルードヴィッヒと異なり刃物を扱う怪我の多い試合となるので、身体の要所に装備を纏った戦闘服だった。
帯刀した長剣の柄の先に、サリア王女がくれたという飾りが揺れている。
昨日までは羨ましく思ったが、自分も手に入れた今となっては羨ましくも何ともない。
「エテルネル殿も非常に似合っています」
ようやくコウェルズに対して親しく話せるようになってくれた口調に、コウェルズは少し不満そうに口を曲げてみせた。
面白いことが好きな人であるので、揶揄われなくなったことは嬉しいかぎりだ。
「本当に二人ともよく似合うな。見た目だけの試合ならエル・フェアリアが圧勝だっただろうな」
愉快そうに笑うジャックにはコウェルズは同感とばかりに微笑み返していたが、ルードヴィッヒはムッと唇を曲げた。
自分が女顔であることへのコンプレックスがあるので尚更だ。だがジャックはそれに気付いたように「悪い悪い」悪びれもせずに言葉を付け足して。
「お前、自分じゃ気付いてないだろうが、随分と男らしい顔つきになってるぞ。王城で初めて会った時とは別人だ。胸を張れ。今のお前は、誰が見ても男前だ」
褒められた内容に、しばらく理解ができずに呆けてしまった。
「ほ…本当ですか?」
「ここで嘘をついてどうなるんだ」
喜びがドキドキと胸を叩くから訊ね返せば、ジャックからは笑われて。
「確かに顔付きも以前より格段と鋭くなっていますね」
コウェルズも肯定してくれて、嬉しくて頬が緩んだ。
成長しているのだろうか。
ガウェのように強く、格好良く。
ガウェもなかなか身長の伸びは遅い方だったと聞くので、もしかすると身長もグッと伸びてくれるだろうかと自分に少しだけ期待を持った。
「あの、ガウェ兄さんはいつ頃から背が伸び始めたのですか?」
「…急にガウェだな……」
ルードヴィッヒの知るガウェはいつだって見上げる人だったので気になって問えば、ジャックはしばらく首を傾げていた。
「一気に伸びたせいで成長痛で半泣きだったことは覚えてるが…いつだったかな…」
細かい所までは覚えていない様子に少し肩を落とせば、
「仲の良いニコル殿やレイトル殿、セクトル殿が入団した年ですよ。あの年は色々とありすぎて、心身共に成長する引き金になったのでしょう」
コウェルズが教えてくれた年のガウェの年齢は、18歳。
「……あと二年……」
あと二年我慢すれば自分も伸びるだろうかと少しだけ不安になって。
「あんまり考え込むなよ。ガウェに憧れてるなら、低身長の自分にも自信を持てるだろ」
ガウェも身長は低い方だったのだから、と。
そうは言われても、今のガウェは長身だ。
体格にも恵まれた周りを見ると余計に自分の身長の低さはコンプレックスで。
「ほら、考えるなら今日の試合のことを考えろ。誰が対戦相手になっても、お前にとっちゃ不利な相手ばかりなんだからな」
「は、はい!」
そうだ。今重要なのは試合なのだ。
各国を代表する最強の戦士達と比べて自分はあまりにも非力で幼いのだから、死に物狂いで相手に食らいつかなければすぐに負けてしまう。
拳を握りしめて気持ちを奮い立たせて。
思考をしっかり試合に切り替えると同時に部屋の扉が開き、ジュエルとダニエルが戻ってきてくれた。
昨日はルードヴィッヒにアンクレットを手作りしてくれたジュエル。
同時にアン王女の為のドレスも作り、それを贈り物として持って行っていたが。
目元が少しつらそうなのは、寝不足が祟っているからなのだろう。
ただいま戻りました、と二人は言葉と共に大会の準備の為に駆け足で用意をしていく。
ダニエルはコウェルズに小声で報告もそこそこに一度寝室に入り、先に寝室に入っていたジュエルは戻ってきてからコウェルズの元へ向かい。
強く叱られたことがまだ尾を引くように、ジュエルは顔を上げられないでいる。
アン王女に対して勝手な約束をしたことでコウェルズから咎められて落ち込み、その後自分なりにやるべきことを考えてアン王女へのドレスを製作して。
「……ドレスは喜んでいらっしゃいましたか?」
先にコウェルズが問うて、ジュエルはパッと顔を上げて、口を開き、だが閉じて。
ジュエルの様子から、コウェルズも気持ちを察してやり、ダニエルが戻ると共に部屋に結界が敷かれた。
「……アン王女は、ドレスを喜んでくれたかい?」
コウェルズとしての口調に、ジュエルはようやく安堵するように「はい」と口を開いた。
「勝手なことをお許しいただき、感謝しております」
「自分にできることを考えた結果なんだろう?良い事だよ」
コウェルズの口調は、言葉をそのまま受け取って喜んでいいものではなかった。ジュエルもそこは理解しているようで、シュンと少し肩を丸めて。
「…アン王女には、もう朝食は一緒に出来ないとお話ししました」
俯いたままジュエルは報告を続ける。
「もし許されるなら、大会後の夜会でお会いしましょう、とも話しました」
少し震える声は、叱責を怖がっているのだろうか。
「うーん…さすがに夜会にアン王女が参加するのは難しいんじゃないかな…バオル国の者達も参加するだろうし」
コウェルズは否定的だったが、顔を上げたジュエルは大丈夫です、と伝える。
「来られないなら仕方ありません。…来られるなら、絶対にバレない自信がありますもの」
最後の言葉は、怯えを見せないはっきりとした確信があった。
「……そうかい。なら君を信じてみるよ」
怒りはしないコウェルズは、ジュエルを本当に信じたのだろうか。それとも放置することにしたのだろうか。
わからないまま、コウェルズはジャックとダニエルの二人と共に少し離れて、何やら小声で話し始めて。
「……ジュエル…」
話し合いに置いていかれたジュエルのそばに駆け寄り、ルードヴィッヒはその細い腕に手を伸ばし、だが寸前で触れることをためらい手を引いた。
ルードヴィッヒの呼びかけにジュエルは振り向いてくれて、その表情にはもうコウェルズに見せた怯えをなどは残っていなかった。
代わりにあるのは、少し落ち込んだ眼差しだ。
ジュエルなりに考えて行った行動だが、コウェルズが気に入っていないことはルードヴィッヒにもわかるから。
「…皆さまの様子が少しおかしいですわね。昨晩何があったのかしら…」
「あ、ああ…そうだな」
ジュエルはすぐにコウェルズ達の方へ視線を戻してしまう。
後に続くように同じ場所に目を向ければ、コウェルズ達は険しすぎるほどの表情で話し合いを続けていた。
昨晩からずっとだ。
コウェルズとジャックがバインド王との食事を終わらせてから、ずっと。
何かあったはずなのに、ルードヴィッヒとジュエルには伏せられた。
真剣というよりも、沈痛な面持ち。どこか諦めたような様子も。
ラムタルへ訪れて初めて見る表情を浮かべるのは三人ともだ。
「ルードヴィッヒ様」
呼びかけられて、視線をジュエルへと戻して。
「…頑張ってくださいね」
少し不安そうに見上げてくる幼い少女。
可愛い、と、改めて自覚して頬が熱くなった。
「き、君がくれたアンクレットのお守りがある!絶対に勝ってくる!!」
どもってしまって、恥ずかしさからでも頬が熱くなって。
そうすると、不安げに揺れていたジュエルの睫毛が、今度はおかしそうにクスクスと揺れてくれた。
「あ、それと…」
少しリラックスしてくれた様子のジュエルへと、衣服のポケットから取り出したものを差し出す。
朝から準備していた、長年ルードヴィッヒが愛用していたものを。
今となっては不要となってしまったそれは。
「…あなたの髪紐ですわよね?」
髪が長かった頃、束ねる時に愛用していた髪紐。
自分の髪色よりは濃い薄紫の絹に、さらに薄い紫と白銀の糸で補強の刺繍を施した、見た目より頑丈な髪紐だ。
「……持っていてほしい」
ジュエルは今日のルードヴィッヒの試合を見に来ることは出来ないだろうから。
困惑するジュエルは、手を伸ばそうともしてくれない。
それがもどかしくて、少し腹が立って、髪紐を器用にリボンの形に整えた。
ガウェ直伝の二重リボンの形だ。
「付けさせてほしい…」
「え…」
ジュエルは困惑したままだが、嫌そうにはしない。
それを良いことに、ラムタル王から贈られた白百合の髪留めに触れた。
少しだけ気に食わなかったラムタル王の守護の髪飾り。
外して、上手い具合にルードヴィッヒの髪紐を合わせて、またジュエルの髪に戻した。
さらりとした触り心地の良い薄藍の髪がルードヴィッヒの指先を満たしていく。ふわりと香る甘い匂いは、好物のお菓子のようだった。
「よろしいのですか?この髪紐は、あなたが騎士を目指すと決めた時に願掛けとして特注したものでしょう?」
大切な髪紐が特別である理由を知ってくれていた事実が、また胸を高鳴らせた。
「今は君がくれたアンクレットがある!…それに、しばらくこの髪紐を使うことはないだろうから…持っていてほしいんだ」
今のルードヴィッヒの髪型は、数年は髪紐を必要としないだろうほど短くなった。
それに。
「それに…私はもう騎士になれた。…後はさらに強くなるだけだ」
特別なものだから肌身離さず持っていたが、今はジュエルに持っていてほしかった。
「…大切にお預かりしますわ」
ジュエルも、ルードヴィッヒが言いたいところを理解するように大人びた微笑みを浮かべて。
「ーーお前ら、準備はもう出来ているか?」
話し合いが終わったらしいジャックに呼ばれてそちらに目を向けて、もう一度だけ顔を見合わせて。
大会に向かう為に、ルードヴィッヒはジュエルと共に三人の元へと進んだ。
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