第95話
第95話
空中庭園に戻るパージャとファントムを迎える為に船のデッキに訪れていたのは、ガイアとウインドの二人だけだった。
回復した姿を一番に見せたいミュズの姿が見えず、乗っていた花の生体魔具から飛び降りながら、デッキを全て見回す。
不安そうなガイアと、壁に背中を預けて侮蔑の眼差しを向けてくるウインドと。
ルクレスティードがいないのは、早朝だからか。
訳があるのだとわかったのは、ガイアが不安げな眼差しのままファントムに走り寄ったからだ。
「ロード!!」
龍の生体魔具を消して飛び降りたファントムに、ガイアがすがる。
何があったのか。難しい説明を混乱したまま懸命に話すガイアの言っている意味などパージャには理解できなかったが、ルクレスティードの目に異常があったのだと察した。
原子眼。
聞いたこともない単語に眉を顰めていれば、ファントムは冷静さを保ったままガイアと共に早足でデッキを後にしてしまう。
パージャ達がいない間に何があったのかは知らないが、デッキに残されたウインドがパージャにわかりやすく説明することは無いだろう。
「……花なんか抱えて、何気取ってんだよ」
風の強いデッキの上を、ウインドは床を踏み潰すような勢いで近付いてくる。
パージャが大切に抱えた二輪の百日草を鼻で笑い、そして傷のあった肩を無遠慮に掴んできた。
痛みはもう走らない。
「…なんだよ。本当に治ってんのか」
つまらなさそうに手は離れて。
「お前が治ったように、俺にも何かさせるんだろ?教えろよ。どうやって治しやがった」
永遠に続く痛みからの解放を求めて、ウインドは詰め寄ってくる。
態度は最悪だが、瞳には焦りが。
それほどの苦痛なのだ。
ウインドはパージャより遥かに長く、この苦痛と共に生きてきたのだから。
百日草を抱えていた腕の手のひらにそっと握りしめていたものをウインドに見せる。
パージャにとって命の恩人でもある人の、
「……目玉?なんだよこれ」
パージャの為に残してくれていた眼球の、もう片方。
ウインドは眉間に皺を寄せて気持ち悪そうに見つめてくるから、その態度と表情に激しい苛立ちが生まれた。
「…食べろ」
「…………は?」
言われた意味を理解できないかのように、ウインドは困惑する。
なぜこいつの為にも眼球を残しておいたのか、クィルモアが生きていたなら、きっと責めていた。
こんな馬鹿の為に最後の力を振り絞って眼球を残す必要などないと。そんな力があるなら生きて逃げてほしかったと。
パージャの為にも、残しておく必要なんてなかったのに。
「…食べろ。お前なんかの為に、あの人は力を使ってくれたんだ」
言葉は怒りが混ざり、低く呻くような音になる。
「……ふざけんなよ!!目玉なんて食えるわけないだろ!!気持ち悪い!!」
動揺して逃げようとするウインドの腕を強く掴んだ。
二輪の百日草がデッキの床に落ちるが、タイミングを見計らうように強風は落ち着いて。
「…マジふざけんなよ…絶対に食わねぇからな」
ウインドは掴まれた腕を何とか離そうと振るうが、パージャの動きの方が強く早かった。
容赦なく引き寄せて顎を掴み、慌てて閉じようとする前にその口の中に大切な人の眼球を滑り込ませる。
「----っっ」
そのままのしかかって全身で頭と顎を押さえて、床を背にしたウインドを見下ろし続けた。
ウインドは激しく暴れるが、離しはしない。
気持ち悪いのだろう。必死に逃れようと暴れ、瞳には涙が滲んでいく。それでも離さなかった。
飲み込もうとしないから、馬乗りになったまま、ウインドの腹を思い切り踏みつけて。
「っグゥ…ゲ、」
ウインドの喉が不愉快に鳴り、その隙を逃すまいと頭を抑えていた手で首を強く締め、すぐに緩めた。
あまりの衝撃に、ウインドはとうとう眼球を飲み込む。が、拒絶するように吐き戻そうとして。
「…ふざけんなよ。絶対に吐くな」
ウインドなど足元にも及ばないほど崇高な人の、大切な身体の一部なのだ。
再び喉を押さえつけ、吐こうとする口元も顎ごと強く掴み続けた。
吐き戻ろうとしたものを、再び飲み込ませるまで。
そして、ようやく。
「ーーてめえ!!ふざけんじゃねぇぞ!!ぶっ殺してやる!!」
完全に飲み込み落ち着いた頃合いで手を離してやれば、ウインドは全身でパージャを弾き飛ばし、一気にデッキの柵まで逃げた。
引き攣った表情と、血走った涙目。だが何より、眼球を食べさせられたおぞましさに自身の胸を押さえて。
「絶対に殺ーー」
言葉が、そこで途切れた。
ウインドはバンダナに包んだ頭を押さえ、動揺するように固まる。
そしてすぐに、術式の込められたバンダナを頭から引き剥がした。
目に煩い色合いのバンダナが、ウインドの手から離れ、そのままデッキの柵を離れ、風に巻き上げられて雲の中へと消えていく。
「……傷が…」
ウインドを長く苦しめ続けた不完全な呪いの傷が、完全に癒えていた。
闇色の青い髪が見事に揺れるばかりで、痛ましい傷があったなど信じられないほどだ。
呆然と立ち尽くすウインドは、自分が眼球を飲み込んだことも忘れた様子だった。
そんな彼を放っておいて、足元の二輪の百日草を拾い上げて。
クィルモアが残してくれた眼球は、クィルモアが望んだであろう通りに使った。
パージャとウインドの為に。
パージャにも傷は存在しない。
あとは、もうひとつ。
クィルモアはベラドンナの元を去る前に、予言を残していた。
“大切な人から多くを分け与えられた子が来るかもしれない。その子はまた、その大切な人に与えられたものを返すでしょう”
パージャにとってもう、大切な人はミュズだけだ。
いまだに呆けているウインドなど気にすることもせず、空中庭園内へ続く扉を開けた。
百日草を胸に抱いて、慌てるようにミュズの部屋へ向かう。
ここにいないなら、ミュズの部屋だと。
幸いデッキからミュズの部屋は近い。
すぐに向かって、足も止めずに部屋の扉を開けた。
「ーーミュズ!!」
だが、静かな部屋には何の気配もない。
ベッドに駆け寄っても、そこにいるべきミュズの姿は無かった。
「…ミュズ?」
なぜここにいないのか。
一瞬で血の気が引く。
そこへ。
「…お前の部屋に寝かせてる」
聞こえてくるのは、扉に立ったウインドの声だ。
眉間に皺を寄せながらも冷静さを取り戻した様子だが、気持ち悪さも忘れられないのか顔色は少し悪い。
ウインドの言った意味は頭で理解するより先に身体が反応して動き、すぐにミュズの部屋を出た。
扉の前に立っていたウインドを振り払って、廊下を挟んだ向かいの扉を開ける。
バン、と、強く扉が弾け飛びそうなほど音を立てて、飛び込むように自室に入って。
「ミュズ!!」
深く深く傷つけてしまった愛しい彼女は。
まるで人形のように、パージャのベッドに寝かされていた。
ミュズがいたことに安堵して、眠りを妨げないように息を殺して近付いて。
だがミュズは、まるで生きていないかのように静かで。
「……ミュズ」
よく観察すれば、呼吸の為に胸部が上下している様子は見えた。
よく観察しなければ見えないほど。
あまりに静かで、ゾクリと背筋に悪寒が走る。
死んでなどいない。絶対に。
でも、これでは生きても…
そこまで考えてしまい、自分の思考が許せなくて唇を強く噛み、ベッドのすぐそばに身を落として間近からミュズを見つめた。
恐る恐る手を伸ばして、額に触れる。
恐怖から冷え切っていたパージャの指先よりもさらに、ミュズの額は冷たかった。
「…………そいつ、もう魂が無いんだとよ」
絶望的な体温に固まるパージャへと、話しかけてくるのはウインドだ。
パージャの部屋の扉に背中を預けて、普段の喧嘩っ早さの全く見えない様子でミュズの現状を教えてくれる。
パージャを嫌い、何かにつけて嘲笑ってくるウインド。だが今は、淡々と現状を伝えてくるだけだ。
魂がないという言葉の深い意味までは、ウインドではわからないだろう。
パージャはミュズを見つめる。
ギリギリだろうが生きているが、魂とは生者と死者をどう分けるというのだろうか。
そもそも、魂とは何だというのだ。
死んで生まれ変わるものだというのなら、自分達はどうなる。
ファントムは死んではいないが、パージャ達の魂は、元はファントムだったのだから。
ファントムは、生きる為に魂を無理矢理裂き分けたのだから。
無理矢理ーー
「……おい」
ウインドの方を見ないまま、ウインドに話しかける。
「……ミュズの魂は戻るのか?」
一つの方法が頭に浮かび、だがそれはしたくなくて、救いを求めるように訊ねた。
魂が戻ってくれるなら、このまま、何とか。
だが。
「…お姫様が言うには、戻ったとしても、それが本当にミュズの魂なのかはわからないらしい。コップの水が蒸発して、新しい水を入れても、それは蒸発前の水じゃない、とか?」
途中から声がくぐもったのは、自分の発言に不安があったからだろう。
頭脳派でないウインドに答えを求める方が酷なのはわかっている。
それでも、得られた回答は今のパージャにとっては充分なものだった。
悪い意味で。
魂が何であるのかなんて、きっと永遠に誰にもわからない。
現状のミュズを見る限り、生命が生命体として生きていくのに必ず必要なものであることだけは確かだろう。
ミュズの魂がこの世のどこかにあるならば、探し出せばいいのだ。
それまでの間は。
魂が身体のどこに存在するかなど知らない。
わからないから、パージャはミュズの額に自分の額を付けた。
「…何やってんだよ」
困惑したウインドなど放っておいて。
パージャがミュズの為に出来ることは、今はこれだけなのだ。
クィルモアは、パージャがミュズに多くを返すと預言した。
きっとそれは今だから。
瞳を閉じて、ミュズの薄い鼓動を全身で感じて。
目を閉じていてもわかるほどの闇色の緋の光が全身を包む。
それはゆっくりと薄く広がり、ところどころで千切れ、刃こぼれの激しい刃で擦り削るような激しい痛みとしてパージャの全身に響き渡り。
伸びて、出ていく。
手を伸ばすように、縋るように、多い包むように、守るように、
ミュズへと。
ーーミュズ
俺の大切な、大事な、唯一の女の子へ
返すのだ。
ミュズが与えてくれた多くを、ミュズに。
魂として。
「ーーもうやめろ!!」
肩を強く引かれて、目を開ける。
全身が酷く痛い。皮膚から、身体の最奥まで、鈍く、激しく。
それでも何よりも先に、目の前で眠るミュズを凝視した。
パージャの特別な花である桜と同じ髪色を無くしたミュズを。
「何…やったんだよ……お前」
ウインドは問うてきながらも、答えはわかっている様子だ。
だからわざわざ答えなかった。
目の前のミュズは、その見た目はもはや、パージャやウインドと何ら変わらない。
パージャと同じ、闇の緋色。
「こいつ…ミュズなのか?……お前なのか!?」
ウインドは混乱したままパージャの肩を激しく揺さぶるから、強く振り払った。
パージャの魂を分け与えたミュズは、ミュズのままなのか、それともパージャなのか。
そんなことはどうでもいい。
「…ミュズの魂を見つけるまでの繋ぎだ」
生命維持に魂は必要不可欠。だから、自分の魂がミュズの魂を取り戻す為の繋ぎの役割を果たすなら、これ以上の幸福はない。
こんな魂でも、ミュズの為の一時凌ぎになるのなら。
「はぁ!?ふざけんなよ!!俺達の魂はーー」
ウインドの言葉が、不必然な箇所で止まった。
その理由は、ミュズから目を逸さなかったパージャにもすぐ理解できた。
パージャの魂を分け与えたミュズが、彼女のままなのか、パージャなのかはわからない。
それでも、ただ薄い呼吸を繰り返すだけだったミュズが、重かった瞼を自ら開き、闇色の瞳をこちらに向けてくれていた。
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