第94話


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 モーティシアがミシェルを名指ししてクルーガーの元へ向かうと伝えた時、ミシェルの表情は驚きよりも想定していたかのような眼差しをしていた。
 先にアクセルの抜けていた応接室内で改めて話し合っていたのは、今後の為にも城下にいるビデンス・ハイドランジアを城内に呼ぶ為の細かな理由付けで。
 それを纏めて手書きの即席資料とし、ミシェルと共にクルーガーのいるだろう政務棟へと向かう。
 モーティシアがミシェルを名指しした理由はただひとつ、アリアのことだけだ。
「…あなたは今のアリアを取り巻く動きを、どう見ていますか?」
 数日間のニコルとアリアの休暇の後、多くの出来事に城内が慌てふためく中で。
 治癒魔術師としてのアリアを中心に、新たな渦が巻かれ始めた。
 それは新たな治癒魔術師を確保する為の重要な政策だ。それをミシェルはどう受け止めているのか。
「…お前はどう考えているんだ?」
 国の上層部はミシェルをアリアの夫として位置付けた。
 ミシェルにもその話はされているはずだ。
「どう考えている、とは?」
「元々アリアの夫の選定はお前に任されていたんだろう?」暗に、敵か、味方か、と。
 隣り合いながら歩き、ミシェルは挑発するような笑みを浮かべてくる。
 軍配が自分に上がると信じて疑わない笑みだった。
 いつだか何人かがミシェルはレイトルと雰囲気が似ていると話していたが、今のミシェルが浮かべる笑みに穏やかさなど微塵も存在しない。
 穏やかな一面が偽りというわけではないだろう。ジュエルに向ける過保護な面、ガブリエルに見せる荒ぶる面、任務中の生真面目な面。
 ミシェルにはいくつもの表情がある。
 それでもその中で、一番大元に近いのは今浮かべている笑みなのだろうと思えた。
 傲慢にも見えるほどの、余裕にあふれた笑みだ。
 以前モーティシアは、ミシェルに「アリアの害となるなら夫候補から外す」と伝えた。だが上層部が動いた今となれば、もはやモーティシアに権限はない。
 むしろ上手く使われたと考えた方が妥当だろう。
 ミシェルをアリアの夫候補とする為に最も動いたのはモーティシアなのだから。
 だから。
「…私が与えられた任務が何であったのか、お忘れでしょうか?」
 微笑み返して、ミシェルの余裕を煽る。
 そのまま、ミシェルの少し前を歩いて。
「治癒魔術師の次代の確保。その為に動く事が私の任務。私も頭が足りていませんでした…夫候補など、所詮は産まれる数に限りのある危険な綱渡りでしかないのですから」
 敵が味方か。
「なので、次代の確保の為にも…今の私はあなたの敵と言えるでしょう」
 振り返り、足を止める。
 ミシェルはもう笑ってはいなかった。
「…言葉の矛盾に気付いていないのか?」
「なぜです?」
「アリアに早く子供を産ませることこそが」
「妊娠を軽く見過ぎではありませんか?」
 わざとらしく肩をすくめながら、ぴしゃりとミシェルの言葉を遮る。
「下手をすれば母子共に死ぬ可能性を秘めているのが妊娠と出産です。あなたがアリアと子を成して、無事に生まれてくる保証は?アリアが無事である保証は?王すら亡くなった今のエル・フェアリアで早々に妊娠したとして、無事に産まれるまでに国の情勢が変わってしまう事は頭にありませんか?」
 早口で捲し立てる。
 普段は誰にでもわかりやすいよう温厚に話すモーティシアの、これが本来の口調だ。
 ミシェルは眉を顰めて黙るだけだった。
「こうは考えませんか?アリアが無事に妊娠できるよう、まずは上質な魔力を持つ者や魔力操作に長けた者を新たな治癒魔術師として訓練し、アリアの子が無事に産まれる為の土台を作っておくべきだと。そうしておけば、天空塔でのコレー様の魔力の暴発や、城下で起きた児童施設での事件の時のように万が一治癒魔術が必要な状況に陥ったとしても、アリアは指揮棒を振るうだけで治癒魔術を使う必要は無くなります」
 ミシェルに考える隙を与えないかのようにつらつらと語り続けて。
「まさかとは思いますが、あなたの子を妊娠したアリアを酷使しようなど考えてはいませんよね?」
 ミシェルとアリアが結ばれたと仮定して、とどめであるかのように問う。
「アリアの子供だけで次代を賄おうとすれば、最低でも十年はアリアはひたすら妊娠と出産を繰り返すことになるでしょう。その効率の悪さを考えたことはありませんか?」
 モーティシアもビデンスの言葉をレイトルから聞くまでは考えもしていなかったことではある。
 そもそもエル・フェアリアは先天性の治癒魔術師ばかりだったのだから。
 だが治癒魔術師は、努力次第でなれるものだ。
「アリアが生死の縁を彷徨いながら得る十年後の十人と、今から三十人ほど治癒魔術師候補として見繕い得られる十年後の三十人。どちらが国の最善でしょうか。アリアの子供はその後になったとしても充分です」
「十年後にアリアに子供を産ませる気か!?」
「そこが問題だと?では私も問いましょう。あなたの妹であるジュエル嬢は、あなたのご両親が何歳の時に産まれましたか?フェント様は、コレー様は、オデット様は、クリスタル王妃が何歳の頃にお産まれになりましたか?」
 年齢を言い訳にするというなら、ミシェルの親はどうなるのだと。
 勿論アリアが望むなら今すぐの妊娠は望ましいものではある。その場合、相手はレイトルのはずだが。
 ビデンスが教えてくれたメディウム家の妊娠率については、まだ憶測の域を出ない為に口にはしないで。
「…とにかく、私は治癒魔術師護衛部隊長としても、訓練を積ませた新たな治癒魔術師の獲得を優先するべきだとお歴々の皆様には説明させていただきます」
 その時に同時に、アクセルとセクトルがアリアに興味を示したとも話すつもりだ。
 当然それも今ミシェルには話さない。夫候補の最有力が今も自分だと信じて疑っていない間の勝負どころだ。
「…足を止めてしまいましたね。進みましょうか」
「待てーー」
 ミシェルの現状も確認できたので余裕の笑みを浮かべながら歩みを再開し、ミシェルに腕を掴まれたところで。
 前から現れた騎士に、ミシェルと共に歩みをまた止める。
 モーティシアが一気に警戒心を強める相手。 ミシェルもモーティシアの突然の気配の変化に眉を顰めながら、手を離してから前から訪れる騎士に頭を下げた。
「…ユージーン副隊長…クレア様は政務棟にいるはずですが…」
 ミシェルの問いかけに、ユージーンは無表情のまま「わかっている」と告げる。
 こんなところでこの男と会うとは。
 手紙で教えられた遊郭でのユージーンの所業を思い出して背筋に悪寒を走らせる。
 遊郭街での危険人物であり、マリオンを怯えさせる男。
「モーティシア殿、少し話しをしたいのだが」
 ユージーンはまるでミシェルなど見えていないかのようにモーティシアだけを目に映すが、ミシェルも任務には忠実な男だ。
「ユージーン副隊長。申し訳ありませんが、騎士団と治癒魔術師護衛部隊は現在、隊長以下の階級の者達との私的な会話は止められています」
 知らないはずがないと少し困惑の様子を見せながら、モーティシアとユージーンの間に入って盾となる。
「…ではここで訊ねよう」
 どこまでも表情は変わらないまま、視線もモーティシアから外さないまま。
 ミシェルは状況が掴めないことに困惑しつつも、ユージーンがモーティシアに掴みかかる気配がないので一歩ほど下がってしまった。
 姫付きの副隊長を務めるユージーンが、血の気の多い騎士達のような行動には出ないだろうと考えたのだろう。
 モーティシアとしては、ミシェルに盾のままいてほしかったところだが。
 ユージーンが何を聞き出そうとしているのかも、手に取るようにわかる。
 他人がいる手前あまり話したくはなかったが、対話をすぐに終わらせる為にもモーティシアは挑発することを選んだ。
 ユージーンが口を開くより先に。
「以前も言いましたが、あなたを招待するつもりはありません。家の場所も教えません。あなたがどこで何をしてきたか教えていただきました。そして私の家で何をしようとしているのかも想像が付きます。消えてください。我が家にとって、あなたは醜い害獣でしかありません」 自分自身とマリオンを我が家と言い換えて、ユージーンをケダモノと見下して。
 モーティシアの言種にミシェルは眉を顰め、ユージーンもわずかに表情を不機嫌そうに歪める。
「あなたと対話をするつもりなど全くありません。その必要もありません。我が家に関わろうとしないでください。あなたは無関係の他人なのですから」
「……貴様…」
「…ここまでおぞましい人間を、見たことがありませんよ」
 口調に穏やかさなど見せない。
 本当に危険人物であるのだと、ミシェルなら察する事ができるだろう。
「…ユージーン副隊長…どうかお下がりください」
 上官相手に穏便な姿勢を見せつつも、ミシェルは察してくれた様子で改めて盾として間に立ってくれた。
「…行きましょう」
 もう話すことはないと、モーティシアはミシェルに一度だけ視線を向けてから歩みを再開する。
 じきに王城を抜ける。政務棟まではもう少し歩かなければならないが、とっととユージーンから離れたかった。
 早まる歩調にミシェルが付いてくる気配を察するが。
「…ユージーン副隊長、どうか今は穏便に…」
 後ろに続くのはミシェルだけではないと、ミシェルの戸惑う声で察した。
 モーティシア達と話す時とは異なる困惑した口調が、相手の立場を知らしめる。
 仕方なく、モーティシアも再び足を止めて振り返った。
 ユージーンは副隊長、モーティシアは隊長ではある。だが階級として考えれば、立場はユージーンの方が上だろう。
 モーティシアではユージーンに命令は出来ない。
 同じように足を止めて奇妙なほど無表情のまま見つめてくるユージーンに、今度はどのような侮蔑の言葉を投げつけようか。
 そう思考を一瞬巡らせて。
「ーーお前達、こんな所でどうした」
 新たな人物の声に、全員同時にそちらに目を向けた。
「…団長」
 安堵の声はミシェルから。
 声をかけてくれたのは、政務棟にいるとばかり思っていたクルーガーだった。
 モーティシア達が歩いてきた方向とは真逆の廊下から現れるのはクルーガーだけではない。
「なんじゃお前達…話し合いという訳では無さそうだが?」
 クルーガーの後ろから数秒遅れて現れるリナトが、奇妙な気配を察するようにジロリとユージーンを睨みつけた。
 騎士団自体を目の敵にしていそうなリナトにクルーガーが睨み返していたが、二人同時に落ち着く為にため息をついて。
「…ユージーン、この二人に用があるのか?」
 クルーガーの低い声に、流石にまずいと悟ったのだろう。いえ、と忌々しそうに告げてから、ユージーンは先に王城を離れていった。
 去っていく背中をしばらく眺めてから、ようやく肩の力を抜く。
「…助かりました」
「あやつに何かされたのか!?」
 思わず呟いた言葉に、リナトがクワッと目を剥いてモーティシアの両腕を掴んだ。まるで孫を心配する祖父だ。
「いえ、そういうわけでは……」
 王城に関係のないことなのでどう説明すれば良いかも分からず、曖昧に誤魔化そうとするが。
「まさか、お前の家で匿っている娘のことが?」
 腕を掴まれたままリナトに問われ、ぎくりと頬が引き攣った。
 隣のミシェルが怪訝な表情を浮かべているが、リナトはお構いなしだ。
 すぐに否定しなかったせいで、クルーガーもため息と共に「すまないな」と謝罪をくれた。
 その謝罪は、モーティシアに関する報告を国から受けていることを示している。
 モーティシアの魔力も質量共に上質だ。
 国の監視下に置かれるほど。
 だから、マリオンの件もすぐに知らされたはずだ。
 そうだろうと理解していたが、改めて口にされると肝が冷えた。
 監視されているのだと、言いようのない怖気が背筋をふるわせる。
 クルーガーに合図されてリナトはモーティシアから手を離すが、目線は外してくれなかった。
「…モーティシアよ、報告は受けておる。お前は理不尽に巻き込まれただけの身だ。義理のない娘を庇う必要などないだろう。暴漢から救ってやっただけでも充分なんだぞ」
 不満を隠そうともしない口調でリナトは諭してくるが、いえ、とすぐに拒絶する。
「無駄に首を突っ込んだ自覚はあります。それに、十年前に王城が起こした遊郭街との軋轢を考えるなら、ここでしっかり恩を売っておいても良いのではないでしょうか」
 十年前の。
 その言葉に、強く眉を顰めたのはクルーガーだった。
 当然だろう。
 十年ほど前に遊女を瀕死に追いやったのは騎士団員のユージーンなのだから。
 その件に関しては今も頭が痛いかのように、クルーガーの眉間の皺は深い。
「私が匿っている女性は王婆候補です。その女性を王城の者が匿うのですから、恩を売るまで行かなくとも、少しは遊郭を絆せるのではないでしょうか。それに私個人としましても、防御結界の実験に彼女が付き合ってくれて感謝している所です」
 我ながら口が動くものだと感心しながら、それらしい説得ができたのではないかと笑顔を浮かべる。
 リナトは不満そうではあったが、モーティシアの実験が関わっているならと口を閉じてくれて。
 ミシェルだけは話が繋がらず困惑しているが、あまり話せるものでもないのでその困惑顔に目を向けることはやめておいた。
「話しが変わるのですが、ちょうどクルーガー団長に頼みたいことがあって政務棟に向かう途中でした。少しお時間をいただけますでしょうか?」
 向かうつもりだったが王城内で会えたのなら都合が良いとばかりにとっとと会話を進めれば、今度はリナトの眉間に皺が寄った。
「なんでこいつに頼みがあるんだ」
 自分でなくクルーガーに用があることがお気に召さない様子だが、あはは、と笑って誤魔化して。
「…すまないが、こちらも急いでいる最中でな。少しなら構わないが」
「お時間は取らせません。ただの頼み事ですので」
 クルーガーとリナトが政務棟でなく王城にいた理由が何か急ぎの用がある為だとわかり、モーティシアも仕方なく至急の頼み事だけを伝えることにする。
 リナトがまだ不満そうな表情の前で、即席資料をクルーガーに渡して。
「以前騎士団に在籍していたビデンス・ハイドランジア殿を王城に招待しても構わないでしょうか。治癒魔術師の件でいくつか相談に乗っていただきたいのです」
 本当はクルーガーに呼び寄せてもらおうと思っていたが、急ぎの用があるならこちらで呼び出すことにしても構わないはずだ。
 呼び寄せる理由などを書いた資料は渡したので簡潔に要件だけを伝えたのだが。
「………な……」
 資料に目を通すクルーガーの隣でわなわなと震え始めるのはリナトで。
「なんであいつの名前が出てくるんじゃーーーーー!!!!!!」
 発狂に近い凄まじい声量を間近で浴びて、思考はスコンと吹き飛んでしまった。

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「ーーまだ書いてるの?」
 静まり返るほどの時間となった深夜帯に、机に向かって頭を抱えるニコルに話しかけてくるのはアリアだった。
 兄妹二人で仮の寝室として使っている、ミモザの応接室隣の控え室。
 アリアが眠っているからと薄闇の中でビデンス宛の手紙を書いていたのだが、アリアはどうやら眠ってはいなかった様子で覗き込んでくる。
 ビデンス・ハイドランジアを王城に呼ぶことについて、護衛部隊側で好きに呼べばいいとクルーガーから了承を得たモーティシアに、ニコル自ら招待の手紙を書くと手を挙げたのだが。
 己の文才の無さに頭を抱えていたところで、文章を読んだアリアが憐れむような笑顔を浮かべてきた。
「…やっぱり明日モーティシアさんに書いてもらお?」
「…………そうする」
 ただ単に呼び出す文章だけでは駄目なのだと全員に再三言われたのだが、ニコル自身も休暇中の感謝の言葉を文にしたかったのに、改まって文にしようとすると文章はほとんど出てこなかった。
 対面ならきっと言葉は出てくれたはずなのに。
 手紙を書き進められなかった理由は不慣れだけではないこともわかっている。
 モーティシアがクルーガーとリナトから受けた注意も関係しているのだ。
 ビデンス・ハイドランジアは現在王城で捉えているエレッテを、ファントムの仲間と知らなかったとはいえ匿っていた人物だ。
 会わせられない旨、個人的に歩き回ることは禁じる旨も伝えなければならないと言われて、余計に文章を考えることが難しくなってしまった。
 それでも書きたいと言ってしまったが、深夜になっても未完成なのだから諦めるしかないだろう。
 ニコルの頭の限界だ。
「…ねえ、兄さん」
 隣にしゃがみ込んで、椅子に座るニコルを見上げてきて。
「……あたしから、エルザ様に話そうか?」
 思い詰めた表情で口にするのは、忘れていたい相手のことで。
「お城全体が落ち着くまでは兄さんはエルザ様に会わない方がいいだろうけど、少しずつでもエルザ様に兄さんのこと諦めてほしいから」
 エルザがアクセルに会いにきたことは聞かされた。同じ城内にいる以上、いずれ必ずニコルの元にも訪れるとは想像できることだ。
 そうなった時、逃げるつもりはない。だが対話できるかどうかもわからない。
「テューラさんのことを話すわけじゃないよ」
「…大丈夫だ。お前が気にすんな」
「……気にするよ。それに誰かに話すことで気持ちの整理が付くこともあるし。…今のエルザ様の周りには、そういう人はいなさそうだし」
 話し相手という意味では、たしかにエルザの周りには良い相談相手はいないだろう。
 普段なら上位貴族の娘や婦人が相手として訪れただろうが、今はそれも難しい。
「…それに…好きな人に振られて苦しい気持ち…あたしなら分かるし」
 同じ経験をしたから、と。
「……悪い。俺からは何も言えねぇ」
 駄目だ、とも、頼む、とも言えなかった。
 情けないほど視線が下がる。
 アリアを苦しめた元婚約者を殺したいほど恨んでいるのに、ニコルはそいつと同じことをエルザにしたのだ。
 テューラとの出会いはエルザを拒絶した後だと説明しても、誰の耳にも届かないだろうから。
「…もう寝ろ。俺も休むから」
 アリアの目を見れないまま呟いて。
 数秒経ってから離れていくアリアの足跡が、悲しいほどゆっくりと胸を締め付けていった。

第94話 終
 
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