第59話
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空を進む飛行船の中は王城内に慣れたコウェルズからすれば比較的狭くはあったが、その狭さは息苦しさなどは感じずむしろ落ち着けるものがあった。
部屋数も皆が集まる談話室を除けば二室と少なく、必然的に男女に分ければ紅一点となるジュエルがコウェルズを差し置いて一人で部屋を使うことに悲鳴を上げた。
自分はどこででも寝られるからなどと上位貴族の娘にあるまじき発言をしたが、ミーティングを兼ねて男で一部屋を使うと命令のように告げてようやくしぶしぶ納得してくれたのだ。
コウェルズの口にしたことはあながち嘘でもない。
大会に出場する自分とルードヴィッヒ、そして出場経験のあるジャックとダニエル。
経験者の話は深く聞いておいて損はないだろう。特にルードヴィッヒは。
飛行船に乗ってエル・フェアリアを出発してから数時間。
夕食は持ち込まれた食料からジュエルが拙いながらの逸品を用意してくれて、皆で囲みながら楽しんだ。
それが終わればジュエルが片付けを始め、ルードヴィッヒが手伝い。
ジャックとダニエルを残してコウェルズは先に部屋に戻ったのだが、落ち着ける空間で行ったのは休憩ではなく資料の黙読だった。
大会に関するものではない。
出発の数時間前にコウェルズが早急に持ち出したその資料は、資料というよりも歴史文献に近く、宝物庫から持ち出すのだから絶対に無くさないようにと用意をしてくれた者から厳重に注意をされている。
その歴史文献は、歴代のエル・フェアリア王、そして王妃に関する文献だった。
王と王妃の生涯が政務から性格に至るまで細かく書き出された文献を至急用意させた理由はただひとつだ。
歴代王妃の身体の異変について。
“真実”をひた隠す魔術兵団長ヨーシュカから語られたのは、サリアの身に異変が起こる可能性だった。
ヨーシュカは真実に近い内容を、精神を削りながら語ってくれたのだ。
エル・フェアリア王妃の身体を蝕む何か。
コウェルズが王座につけば、婚約者であるサリアに危険が及ぶ。
まるで呪いのように。
サリアの身が大切ならば、サリアをあまり愛するな。
その言葉の意味が知りたくて、知識を丸飲みにするように文献に目を走らせて。
そして、気付くのは。
「…母だけではなかったのか…」
脳裏に浮かぶ、身体の弱い母の姿。
故王妃クリスタルは、国政に一切関われないほど身体が弱かった。
病弱で、座ることすらままならない時もあったほどだ。
クリスタル王妃が唯一国の為に行えたことといえば、王家の血を引く子供達を八人も産んだということだろう。
コウェルズと、七人の妹達。
いずれも母に似ず健康で、父に似ず聡明で。
病弱な母親。コウェルズにはその程度の認識しかなかった。
だが文献の中の歴代王妃達は。
差違はあれど、いずれも虚弱で、薄命だった。
治癒魔術を操るメディウム家が多く揃っていた時代ですら。
健康だったはずなのに王妃となった途端に病に伏せるようになった王妃も多くいる事実に、コウェルズは強く身震いをしてしまった。
サリアは健康的な娘だ。だから選んだ。
使えないほど病弱だった母を知っていたから、弱い血を受け継がせない為にもサリアという娘を選んだというのに。
このままコウェルズが王座を手にしたら、サリアの身にも変化が訪れるというのか。
真実を手に入れる、その代償のように。
父は最愛の妻が亡くなってから全く政務を行わなくなってしまった。
多くの者達が王座をコウェルズに譲れと進言してきた。しかし父は、政務を行わないというのに王座だけは頑なにコウェルズに譲ろうとはしなかった。
もしそれが、コウェルズを思っての事だったとしたなら。
「--馬鹿な」
この手で殺した父王。
ふと浮かんでしまった父の優しさだったかもしれない事実に、思考を止めるようにコウェルズは文献を閉じて小さなベッドに放り投げた。
使えない父王。器の小さい、無意味な存在だったろうが。
優秀なコウェルズからすれば、愚鈍な父は邪魔なだけの存在だった。
そんな父の優しさなど、今さらだろう。
今さらのはずだ。
大切なリーンを五年間も苦しませた悪鬼。
真実を隠し続ける、大国エル・フェアリアの面汚し。
そういてくれなければ。
コウェルズは、父を殺したのだから。
優しさなど今さらだ。今さら気付きたくもない--
「--コウェルズ様?」
突然響いた自分を呼ぶ声に、コウェルズはハッと顔を上げた。
いつの間にかはわからないが、俯いて頭を抱えていたらしい。
扉に目を向ければ、立っていたのは双子騎士のジャックで。
「やあ、一人かい?」
「ええ。頭を押さえていたようですが、痛みますか?」
「いや…考え事をしていただけだよ」
「そうでしたか。ノックをしましたが返事がなかったもので」
勝手に開けてしまい、申し訳ございません、と。
ジャックは自分も使う部屋だというのに、コウェルズに遠慮しているようだった。
「エル・フェアリアに戻るまで細かく気を使う必要は無いと言ったはずだよ?向こうに到着したら私はルードヴィッヒと同じく若騎士という設定になるんだからね」
「あ、いえ…まあ、そうなんですがね」
やけに歯切れ悪く、ジャックは部屋に足を運びながら苦笑いを浮かべていた。
「座りなよ」
「ありがとうございます」
気楽にしていろという命令に、ジャックは自分が使うベッドにゆっくりと腰を下ろした。
薄い緑の髪が揺れて、苦笑いを浮かべたままジャックは顔にかかった髪をかき上げる。
「コウェルズ様もお疲れでしょうからね。寝ていたら悪いですし、まあ疲れてるからこそのコトもあったでしょうし…一応気を使ったまでです」
苦笑いと共に軽口のようにはぐらかした言葉を使って。
意味深な言い回しにコウェルズはきょとんと首をかしげたが、すぐにジャックの言いたいところに気付いて先ほどの迷いも忘れて大笑いした。
「いや、君ね!いくら私でも、場所を選ぶよ!」
「まあそうは思いますがね」
笑いすぎで苦しいお腹を抱えながら、男として仕方の無い生理現象を思い出す。
疲れたから眠いは生命共通だが。
「あれ何で疲れてるのにやりたくなるんだろうね?」
「色々と疲れてるからでしょう」
開けっ広げに話すコウェルズに、ジャックはやや頭を抱えながら返してくれる。苦笑いはそのままだ。
「君の歳でもある?」
「また言いにくいことを聞きますね…まあ、否定はしませんよ」
精神的に疲れるから、癒しが欲しくて。
その癒しの矛先は、多くが女の柔らかな肢体に向かうのだ。
それが叶わない時は自分で処理をすることもある。ジャックは室内に早々に戻ったコウェルズのその点を危惧して入室をわずかに躊躇ったのだろう。
「ファントムとの戦闘の後もね。寝ずに政務やらを終わらそうとした私も悪いんだけど、みんなが私を休ませようとサリアを連れてきてね」
疲れが一周回って眠気は吹き飛んで謎のテンションに陥っていた夜、こともあろうに騎士達がコウェルズを休ませる最終手段としてサリアを連れてきた挙げ句、部屋に二人きりにされた。
「わかるかい?こっちは眠くはないんだけど疲れてはいたんだよ?それも色々考えるから精神的に来てたんだ。そこにサリアを放つとか、まだ触れない子と二人きりにするとか」
夜も逢瀬に都合のよい時間帯。心配して近付き、そっと腕に触れてくれたサリアの柔らかな身体を、優しい香りを覚えている。
それでなくとも抱けずとも寝室は共にしていたのだ。
コウェルズも年頃だ。眠るサリアが起きない程度に触れてみたことは数える程度にはある。どんな思いで自制してきたことか。
抱き締めたことも何度もあって、サリアの温もりから何から思い出せるというのに。
「拷問ってこういうことなんだなって切実に思ったよ」
拳に力を込めて力説するコウェルズに、今度はジャックが大笑いする番だった。
「最悪の拷問でしたでしょう!!」
笑いながら、お腹を抱えながら。
愛しいと感じる娘に手を出せないのだ。
すぐにでもサリアの全てを自分のものにしてしまいたいのに、他の誰が許しても、サリア自身が許してくれない。
そしてサリアが来て以来、コウェルズは年頃だというのに必然的に女体から切り離されたままだ。
「サリアが成人するか正式に私の元に嫁ぐまではおあずけかぁ…あと何ヵ月でサリア18歳だっけ」
エル・フェアリアの成人は15歳だが、サリアの産まれた島国イリュエノッドの成人は18歳だ。
嫁ぐのは祖国で定められた成人の歳を迎えた後になるが、サリアがエル・フェアリアに残り続けるならば言いくるめれば成人後すぐに何とかなるかもしれない。
椅子に項垂れながらサリアの誕生月を指折り数えてみれば、ジャックからは溜め息まじりの失笑をされて。
「コウェルズ様、ぎらつかれてはサリア様も逃げ腰になってしまいますよ」
「…逃げられるのはたまらないなぁ」
ジャックの忠告も、すでに一度逃げられたコウェルズからすれば他人事ではなかった。
父を殺したあとすぐに、サリアはコウェルズに怯えて逃げたのだから。
それがあったから、コウェルズにとってサリアがどれほど重要な娘であるかに気付けた。
傍にいて当たり前だと思っていた娘が離れてしまう未来を想像して、生まれて始めて愛欲に気付き焦がれたのだ。
「なんかもう、最近男として自信ないよ。サリアは頑なだし、捕らえたエレッテ嬢には顔見て思いっきり眉ひそめられたし…もしかして顔は良い方たど思ってたけどそうでもない?」
眉目の良さは自覚していた。それだけで落とせない女などいないと思えるほどには。
だがサリアは最初嫌われていると思えるほど冷たかったし、捕らえたエレッテは完全にコウェルズを嫌っている。もうひとつ挙げるならアリアもコウェルズに対して意識するような目を向けてはこなかった。
大国の王子というフィルターがかかったから自分は女性に苦労がなかったというだけで、それがなければ平凡なのだろうか。
問いかけた先にいるジャックは考える暇もなく「あり得ませんね」と言い切った。
「私がコウェルズ様の容姿を持っていたら、今頃美人で気立ての良い女性を妻に迎えていますよ」
少し不機嫌そうなのは、コウェルズの容姿を羨んでのことか。
「君が結婚できないのは見た目じゃなくて、新しい女性を昔の恋人と比べてばかりいるからだと思うけどね」
「……」
何を言い出すかと思えば自分自身わかっているだろう理由を隠すから暴いてやって、ジャックが言い当てられた事実に静かに目を閉じた。
「とっととビアンカ嬢と元の鞘に収まりなよ。王城中が祝福するよ。特に昔の君達を知っている隊長副隊長クラスがね」
王城では公認だった二人の破局。当時を知る者達は二人の仲を覚えているはずで、今度こそ共になることを願うだろう。
しかし当の本人は乗り気の様子はなく。
「いえ…ビアンカは昔の男を忘れられない様ですから…私ではありませんがね」
私ではない、と強く。
ジャック自身が彼女に未練があることを告げる言い方に、本人は気付いていない様子だ。
「…ああ、スカイだね」
「え…」
そんなジャックにビアンカの心に住む存在の名を教えてやれば、驚きの眼差しはすぐに向けられた。
「三年くらい前かな。スカイとビアンカが恋仲だったのは。ビアンカが侍女長になる前後のはずだよ」
たった数ヵ月というわずかな期間の中で。
たったそれだけで、スカイとビアンカは激しく互いを愛した。
しかし、愛し合っているというのに二人は別れてしまった。
いくらコウェルズでも、別れた理由まではわからない。ただ、別れたというのに未だに互いを愛していることは明白で。
「スカイも引きずるから、こっちは少し困っているんだよ」
ビアンカについては構わない。賢い女性だから失敗することもないだろうし好きにすればいい。だがスカイは。
「スカイの魔力は質が良いからですか?」
「そうだよ。ガウェやフレイムローズみたいに国の管理下に置きたいほどじゃないけど、とっとと子供は作ってもらいたいからね。でもビアンカが他の男と結婚してくれでもしないと諦めそうにないんだよ」
スカイは後世にその血を受け継がせたいほど優秀な男だ。
オヤジ騎士などと冷やかされて実力を軽視されがちだが、彼の騎士団入りは10代の若い頃で、王族付きに任命されたのも早かった。
なるべく早く、そして多くの子供をもうけてほしいものだが。
「だからいっそ君がビアンカを奪ってくれたら楽なんだよね」
「…簡単に言わないでください」
ビアンカの心に残り続ける存在を知り消沈するかと思ったが、ジャックはやや疲れた様子は見せたがそれだけだった。
その反応はジャックが年を重ねた男であることを物語っており、コウェルズには少し面白くなかった。
「互いに思い合っているなら、元の鞘に収まるのはビアンカとスカイの方でしょう。スカイならビアンカも幸せになれますよ」
「それじゃあ君だとビアンカを幸せに出来ないみたいじゃないか」
まるで身を引くような発言は、コウェルズには到底理解できるものではない。
まだ愛しているなら捕まえればいいじゃないか。
コウェルズからすれば、身を引くとは愛していないも同然だ。
理解できないと眉をひそめる表情はジャックにも見えていたらしく、まるで子供を前にしているかのようなぬるい眼差しが返された。
そして。
「私がなぜビアンカと別れたか、知っていますか?」
ジャックの問いかけに、わずかに頭を働かせる。
二人が別れた頃のコウェルズは10にも満たない子供だったから、当時を詳しく知りはしない。
しかし身近な者達からは未だにその話を聞かされていて。
「…藍都の長女の嫌がらせがあったからだと聞いているけど」
傲慢な藍都ガードナーロッド家の長女アンジェがジャックとダニエルに思いを抱き、当時の二人と恋仲にあった侍女を苦しめたおした。
ダニエルは酷い苛めに耐えきれず王城を去った娘を追いかけて妻に迎えたが、ジャックは。
「それはきっかけに過ぎません。私達には決定的な価値観の違いがあったんですよ…なので、嫌がらせの件が無かったとしても結婚には至らなかったでしょう」
凄惨な苛めをただのきっかけでしかないと。
価値観の違いなど、互いに擦り合わせていけばよいのではないのか。
ジャックの話にそれでも納得はできないと首をかしげるコウェルズに、ジャックは苦笑を浮かべた。
「コウェルズ様も色々と経験されたならわかりますよ」
23になるこの歳でもまだわからない世界。
そんなものがあるとは思いたくないが、ジャック達からすればコウェルズなどまだまだ若造なのだろう。
「あんまり納得したくないけどね」
「今は納得されなくていいんですよ。そのうち嫌でも納得させられますから」
「それは嫌だね…今のままいたいよ」
知識はほしい。だが苦い経験は、できる限り避けて通りたいものだ。
コウェルズは気を紛らわせるために立ち上がると、自分が使うベッドに放り投げた文献を拾い上げた。
大切に扱えと何度も言われた文献だ。
「そちらは何の文献ですか?」
「これかい?これは歴代の王と王妃の資料だよ」
出発の直前に持ち出した文献に興味を示すジャックに軽く振り上げながら見せれば、なぜそんなものをわざわざ持ち出したのかとばかりに少し呆れる表情を向けられた。
資料とはいっても、大半の者が興味を持たず手にすらしないだろう代物だ。
コウェルズも、魔術兵団長ヨーシュカから意味深な言葉を聞かされていなければその文献を一生手にすることはなかった。
しかし今は重要な文献で。
「気晴らしの読み物ですか?」
「いや、少し調べておきたいことがこの中にあってね」
歴代の王でなく王妃の死亡した年齢や健康状況を調べていたが、それを上手く説明するにはコウェルズの頭は冴えきってはいない。
軽くはぐらかして文献をテーブルに置き直し、今度は自分がベッドにダイブする。
「お疲れですね」
「…かなり」
丸二日寝ずにいて、おかしな目の冴え方をしていて。
小さな一人用ベッドはコウェルズには珍しすぎる代物だが、面白がるほどの元気はどうやら無いらしい。
「眠りますか?」
「あー、そうした方がいいか…明日起こさないでほしいかもしれない」
「わかっていますよ」
ジャックは言う前に部屋の照明を弱くしてくれるから、体は一気に睡眠を求め始めて。
「…寝れるかな?」
眠い、が、眠れそうにもない。
不安は多方面に散らばっているのだから。サリアのことも、ミモザのことも。
コウェルズの切実な声色に対するジャックの返答は、子供を見守る親のような静かな笑い声だけだった。
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「ゆっくり話せて楽しかった。久しぶりだったよね」
夕暮れ前、鳥達の名前を決める為の集まりの後で一人離れようとしたニコルの袖を掴んだアリアがくれた言葉は、ニコルの心に家族の温もりを注いでくれた。
ニコルがアリアに劣情を抱いてからはなるべく離れ続けてきたのだ。それが、伝達鳥を通じて久しぶりに兄妹仲良くいられた。
アリアとその背後に立ったレイトルとセクトルに笑みだけを返して、心に注がれた温もりを離さないように大切にしながら、ニコルは最近の自分の居場所となっていた宝物庫に訪れた。
ニコルが最初に調べるよう言われていた44年前のロスト・ロード暗殺の事件。
もはや今以上に調べられるものは宝物庫に残ってはいないだろう。
後は捕らえたエレッテから話を聞くくらいしかニコルには先に進む方法がわからない。
なぜ父がファントムとなったのか。
今となっては、知りたくない。
父の真実など。
宝物庫最奥の長テーブル上に纏めていた資料を意味もなく開いて、頭に入れることもなく流し見る。
命じられるままに、そして自分でも知りたかったから調べた44年前の真相。
ロスト・ロードの暗殺を命じたのは、当時の後妻の王妃ではなくエル・フェアリア王で決まりだろう。
ニコルからすれば祖父に当たる人物となるのか。
なぜ暗殺しようとしたのか、なぜ暗殺場所が地下の幽棲の間だったのか。
幽棲の間には何があるのか。
今はもう知りたくない。
溜め息をひとつついて、資料から手を離す。
エレッテに会いたくはないが、会わなければコウェルズが帰ってから煩いだろう。いや、それを言うならフレイムローズも煩そうだ。そして自分自身の出生についても。
知りたくて、しかし怖くて。
どうすれば上手く躱すことが出来るのか。
鈍く広がる鈍痛に頭を押さえながら静かに考えるニコルの思考がふと遮断されたのは、宝物庫が開く音が響いたからだった。
誰かが侵入したようだが。その誰かは扉を閉めると同時に声を発した。
「--ニコル、いますか?」
小さな鈴を転がすような可憐な声色。
エルザが訪れたのだと気づいた瞬間に、ニコルの肩には鉛のような重石が置かれた気がした。
無意識に息をひそめてしまったが、エルザの足音は迷うことなく最奥に向かってくる。
物は多いが大の男が上手く隠れられる場所など存在しない宝物庫内、ニコルは諦めるしかなかった。
「…こちらですよ」
已む無く姿を現せば、エルザがパッと表情を明るくして駆け寄る姿が見えて。
「ニコル!」
嬉しそうに近付いて、ニコルの手を取る。
もはや決まりきったことのように、エルザは一人だけだった。
恐らく宝物庫の扉の向こうに護衛の誰かがいるのだろうが。
誰でもいいから一緒に宝物庫内に来てくれたらよかったのに。ニコルはアリアから与えられた優しい温もりが急速に冷めていく心を感じながら、やんわりとエルザの手を離してテーブルに置かれた資料へと逃げた。
「まだまだ調べることは沢山ありますの?」
エルザは何も気づかず無邪気なままニコルの隣に訪れて、ニコルが手にした資料に視線を向ける。
腕にエルザの白い手がそっと置かれ、花の香りの溢れる緋色の髪がさらりとニコルに傾いだ。
以前なら胸が跳ねただろうに、今はもう。
「…そうですね。捕らえているファントムの仲間に話を聞いてから、改めてまとめ直す必要があります」
堅苦しい言葉遣い。
エルザはその口調に、ムッと唇を尖らせた。
「…ニコル、今は二人きりですのよ?」
前回のように外ではないのにと拗ねるエルザはニコルの腕の服をくしゃりと掴む。
「…仕事中ですので」
どう返せばと数秒考えた後に口からこぼれたのは、吐き捨てるような苦さを含んでいた。
ニコルの返答をエルザがどう受け止めたかはわからない。しかしエルザはそれ以上責めるようなことはしなかった。
ニコルと一緒に仕事をするかのように、ニコルの手にある資料を眺めて。
流れる静寂の時間はあまりにも身に刺さるものだった。
「…ファントムの仲間の女性の所に行くのですよね?」
沈黙は数分は続いただろうか。
ようやく口を開くのはエルザだが、今度はエルザが苦そうに声を震わせていた。
「…今すぐではありませんが」
エルザが何を言い出すのか。
わからないまま静かに待てば、また一分ほどの間が空いて。
「わ、私もご一緒してよろしいですか!?」
すがるようにニコルを見上げて、涙に滲む瞳を向ける。
「私なら…彼女と歳も近いですし、気を許してくれるかもしれませんし…」
向けられた瞳に宿る不安の意味は、ニコルには理解できないものだ。
「…申し訳ございませんが、私の一存では決められませんし、他の者達も強く反対するでしょう」
いくら術で絡めた娘だとしてもエレッテはファントムの仲間なのだ。
敵である人物に国の宝を近づけるわけにはいかない。
「…そうですか」
エルザもそこは理解している様子で、しおれながらも素直に従ってくれた。
「…ですが、前にも…その、無理矢理…会いに行かれたのですよね?」
従いはするが。
「…何を話されましたの?」
エルザが何を気にしているのかようやく少し悟り、ニコルはエルザを安心させようと伸ばしかけた手を、半ば無意識に留めた。
エルザはニコルのそばに自分以外の娘が近付くのが嫌なのだろう。
恋をする者なら誰でも考えてしまう不安。
恋人ならば、安心させてやるべきところだが。
「…機密事項ですので」
言葉で振り払うように、ニコルはエルザを突き放した。
「…そうですか」
エルザの手がするりと離れて、ニコルとの間にわずかな空間が生まれる。
とたんに熱が奪われていく感覚は、とても心地好いものだった。
エルザを直視しないよう視界の端だけで気にすれば、彼女は俯いたままでいて。
「…今晩、会いに来てくださいませ」
まるで叱られることを恐れる子供のようにくぐもった声で、エルザはさらに一歩離れながら告げた。
今晩。それは仕事の面を外してほしいという遠回しな願いでもあるのだろう。
「…申し訳ございませんが」
「ニコルが会いに来てくださらないなら、私が会いに向かいます!」
忙しいと断ろうとして、しかしエルザの押しの方が強かった。
「お願いします…我が儘は、もう言いませんから…」
エルザがニコルの変化のどの辺りまで気付いたか。
涙をこらえて、鼻づまりの声が庇護欲を掻き立てようとする。
今までなら、騎士としてのニコルの精神がエルザの涙を許さなかったはずだ。
ニコルはそれほどまでに長くエルザの側に仕えていたのだから。
しかし。
一瞬生まれた庇護欲が、また一瞬のうちに跡形もなく踏みにじられた。
エルザを愛せないと気付いてしまった心は頑なだった。
「…わかりました」
了承の言葉に、エルザがパッと顔を上げる。
「…今晩、そちらに伺います」
エルザの部屋に。
ニコルの口から紡がれた約束にエルザはみるみるうちに喜びに表情を緩めていき、頬も愛らしく染まっていた。
「ま、待っていますわ!」
喜びすぎて裏返る声。
エルザはニコルの胸の中に飛び込むと一度だけ強くすがって、自ら離れてくれた。
「露台の扉は開けておりますから…」
ニコルがいつも訪れる経路の障害は無いと告げるのは、初冬の寒さを気にかけてのことだろう。
「で、では、私は戻りますわね!」
嬉しそうに笑ったままエルザはニコルに手を振って、パタパタと軽やかな足取りで背中を向けて宝物庫唯一の扉へと去ってしまった。
扉はエルザが近付くと同時に開かれて、騎士が顔を見せるより先にエルザがするりと後にして閉められる。
再び訪れる一人きりという穏やかな時間。
しかし、今夜。
「…いい機会、だな」
うだうだと逃げ続ける方が精神に悪いと。
小さく呟いたニコルは、今夜の約束をけじめと位置付けるように強く拳を握り締めた。
第59話 終