第94話


第94話

 何やらワチャワチャと楽しげな気配を背中に感じながら、少しだけ表情を緩ませていたニコラは戻ってきたミシェルに片手を上げた。
「そっちは行けそうか?」
「父上なら上手くジュエルの助けになってくれるはずだ」
 幼くして大会のサポートという名誉職に就いたジュエルは、兄にどれほど愛されているか知らないだろう。
「私情で席を外して悪かった」
「真面目だな。お前がどれほどジュエル嬢を守ってきたか、間近で見てきたんだ。この程度で謝るな」
 気楽な笑みを浮かべると同時に、背後の楽しげな気配がさらに沸いた。
 背後にあるのは豪奢な扉。その向こうは本来、ニコラ達が守っているミモザ姫の個人応接室となるが、今は治癒魔術師護衛部隊に貸し出されており。
「あいつらまた…仕事中だろう……」
 職務に就いているとは思えないほどの楽しそうな気配に、ミシェルの眉間に皺が少し浮かんだ。
「真面目すぎだぞ。俺達だって、ミモザ様や隊長達がいない時は羽目を外すだろう?」
「時と場合による」
 扉の向こう側の肩を持てば、ミシェルはフン、と不貞腐れてしまった。
「時と場合ねぇ…妹の為に持ち場を離れた奴の言葉とは思えないな」
 ニヤリと笑えば、返答は無く。
「今日から大会の本試合開始だが、ルードヴィッヒ殿はお前の目から見てどうなんだ?良いところまで行けそうか?」
 ニコラはあまりルードヴィッヒと関わってこなかったので話を変えるついでに訊ねるが、ミシェルの眉間の皺がさらに深くなってしまった。
 これにも答えるつもりが無いのか黙り込むので、あの噂が原因なのか、と考えを巡らせて。
「…そんなに不機嫌になるってことは、本当なのか?ジュエル嬢とルードヴィッヒ殿が恋--」
「それ以上続けるなら藍都への侮辱と受け取るぞ」
「首を締めるな!」
 ガッと首元を掴んでくるものだから、仕方なくそれ以上話すことはやめておいた。
 デルグ王の死で城内が慌ただしくなる前までは、二つの噂があらゆるところから耳に入り込んできていたのだ。
 一つは、淫らなアリアの噂。
 こちらはアリアをよく知らない者、良く思わない者の仕業であることは聞いた瞬間にわかった。
 特に侍女達が騎士の近くで声高々に噂するものだから、尚更だ。
 もう一つは、城全体がほんわかとしそうな噂だ。ただ一人を除いてだが。
 我が儘だった藍都のお姫様を生まれ変わらせた、紫都の公子との恋の噂。
 我が儘放題に振る舞い続けていたジュエル嬢が仕事熱心で思いやりある健気な淑女へと変貌したのは、ルードヴィッヒと恋を始めたからである、と。
 勿論そんなはずがないことはニコラも気付いているが、ルードヴィッヒが大会出場者に決まり、ジュエルがそのサポートについて訓練を見守る姿を、周りは温かな眼差しでさらに見守っていたのだ。
 ジュエルのサポートは甲斐甲斐しく、周りの目の誤解をさらに助長させてしまった。
 ミシェルだけは面白くなさそうだったが。
「ジュエル嬢が我が儘放題じゃなくなったのも、お前がちゃんと話したからなのにな」
「煩い。口を閉じていろ」
 幼い少女の変化は、二人の兄の影響だ。
 慰霊祭後の晩餐会で、黄都の前領主バルナ・ヴェルドゥーラの悪行を服毒までして止めようとしたワスドラートと、その後昏睡した兄のそばで回復を見守るジュエルに言葉をかけたミシェルの。
 ミシェルがどれほどジュエルを大切にしていたかは知っている。
 侍女として王城に勤め始めたジュエルに叱咤激励をよく飛ばしていたのを見ていた。
 その後ミシェルの手の届かないところで素行の良くない侍女達の口車に乗せられて、ジュエルが我が儘放題となってしまった間の葛藤も。
 強い口調でジュエルの本来の姿を取り戻したのもミシェルだ。
 他の者なら面倒で放っておくようなことでも、ミシェルはジュエルと向き合ってきた。
「お前の役目もそろそろ終わりなんじゃないか?」
 向き合ってきたからこそ、ジュエルの成長は目覚ましかったのだから。
 これ以上はただの過保護だぞ、と諭してみるのは、ミシェルがジュエルを見過ぎているとニコラでもわかるからだ。
「…二度は言わない」
 仲間へ送る、せめてもの忠告。だがミシェルは受け取ろうとはせず、声を掠れさせながら吐き捨てるだけだった。
 やれやれとため息を吐いて、大会にいるジュエルとルードヴィッヒを案じる。
 二人がどういう関係かなどわからない。だがもし噂通り恋に発展するなら。
 ミシェルは絶対に許さないだろうな、と。
 ニコラの少ない言葉だけでここまで怒り心頭のまま不貞腐れてしまったのだから、ジュエルの将来の相手が誰であれ哀れむことしか出来なかった。

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『…ねえ、ガウェ、少しだけでいいんだ…おねがい』
 ガウェに話があると呼び出してきた魔眼蝶姿のフレイムローズは、パタパタと顔の前で羽ばたきながら何度も同じ頼み事を願ってきた。
 エルザ姫の私室の前で護衛部隊達と待機中に訪れるものだから、姫と共に摂るはずだった昼食を逃しつつ。
 魔眼蝶姿のフレイムローズが訪れた時点で隊長のイストワールからはガウェだけこの場を抜けても構わないと指示をもらいはしたが、フレイムローズの頼み事には頭を抱えてしまった。
『エレッテ、本当に今まで何も口にしてないんだ。ガウェがそばにいてくれたら安心して食べられると思うから』
 エレッテとまた会おうと昨晩ニコルと話していたところではあったが、まさかフレイムローズがガウェを呼びにくるとは。
 食事を摂っていないとはもちろん知っているが、ガウェはエレッテなどよりも調べたいことが山ほどあるというのに。
「…なんで俺なんだ。警戒されるのが目に見えているだろう。…呼びたいならニコルやアリアを呼べばいい。前のように会える場所を何とか確保してやるぞ」
『いや、前にエレッテを出したのが薄々バレてるみたいで…今かなり警戒されてて外には連れ出しにくいんだ。それにニコルやアリアを呼んで、エルザ様の耳に入ると怖いし…』
 フレイムローズなりに考えた結果としてガウェが最適なのだとまた頼まれて。
 無下に断れないのは、エレッテがリーンと被るからで。
「…食事に毒など盛られていないと話すだけでいいんだな」
『来てくれるの?ありがとう!!』
 ガウェの優しさに甘えるように額にくっ付いてくるものだから、ため息すら出てこなかった。
 そのままパタパタとエレッテの元に向かうフレイムローズを追って、王城内の端まで歩いて。
 扉の前には魔術師が二人立っていたが、魔眼蝶とガウェが近付くと警戒しながらも扉の前を阻まずにいてくれた。
 どういう風の吹き回しなのかはわからないが、エレッテが逃げ出さないのなら多少の面会も許されるようになったのだろうと憶測で勝手に納得する。
 二人の魔術師の強力な結界が解かれて、扉が開かれて。
「--え…」
 中に入れば、扉のすぐ近くにいた若い魔術師がガウェの登場に混乱した。
「…ガウェ・ヴェルドゥーラ殿…」
 美しい分類に入るだろう男だが、ガウェを前に怯むのはガウェの容貌が男の上を行くからだとその表情から理解する。
 同じような女顔。
 向こうがガウェを上から下まで凝視してから勝手に敗北の表情を見せてくるものだから、尊大に微笑み返してやった。
「が、ガウェ殿!突然来られては困ります!!」
 その笑みを挑発と受け取ったのか、男はエレッテへ向かう道を阻むように立ち塞がってきた。
 男の名など知らないし興味も無いが、阻まれた挙げ句に睨みつけられて良い気はしない。
 こちらは多忙なところをフレイムローズに頼まれて来ているだけだというのに。
「少し用があるだけです」
「お引き取りください。彼女が怖がってしまいます!」
 頑として進むことを許さないという態度だったが、物音がしようともベッドの上から顔を上げなかったエレッテが二度目に呼ばれたガウェの名前に反応するように視線をこちらに合わせてきた。
「……ガウェ、さん?」
 疲れ切るような声と表情。
 断食が気力ごと身体を苦しめているのだろう。
「…どうしてここに?」
「フレイムローズに食事を摂らせるよう頼まれただけだ」
 男を無視して、エレッテと話す。
「ガウェ殿!!早くお引き取りを--」
 その男の背中を、エレッテの近くにいた護衛蝶がドスンと押した。
 予想もしていなかっただろう衝撃に、男が倒れてしまう。
 ガウェの肩に留まる魔眼蝶よりも数倍大きな護衛蝶に押されれば、鍛えたガウェでもひとたまりもないだろう。
『…食事が安全だってガウェからちゃんと話してもらうだけだから…』
「彼女の身の回りの世話を任されたのは私です!!」
 護衛蝶は男の腕を掴んで引き上げながら頼み込んでくるが、立ち上がった途端に男は腕を振り払って拒否した。
「その世話が充分に出来ていないから私が呼ばれたのです。席を外してください」
 出て行けと訴えてきた男に、同じ言葉を返して。
『…少しだけでいいんだ。お願い…』
 フレイムローズも同じように頼み込み、男は表情を悔しそうに歪ませながらも退出してくれた。
 扉が閉まる瞬間に見えたのは、廊下にも待機している魔術師達の警戒するような表情だ。
 エレッテを外に出した前科があるので当然といえば当然なのだろうが。
 豪華な室内はガウェとエレッテ、そして魔眼蝶と護衛蝶のみになるから、魔眼蝶はガウェの肩から霧となって消えた。
「…あの、何の用なんですか?」
 不安そうにエレッテが訊ねてくるものだから思わず眉を顰めてしまい、エレッテがガウェの表情の変化にビクリと肩を震わせる。
『食事を食べてほしいから俺が呼んだんだ…それだけ』
 護衛蝶姿のフレイムローズはエレッテの隣に留まり、理由を改めて聞かされたエレッテも弱々しくも驚いた様子を見せた。
「…それだけ?」
 本当に用などないのかと困惑しているエレッテ。その隣に接するテーブルに用意されていた食事を覗くために近付いて、冷めて膜の張っている味の薄そうなスープにため息を吐いて。
「これだけしか用意されていないのか」
 部屋は豪華だが食事は粗末なものだと呆れ返るが、違うよ!と護衛蝶が羽を羽ばたかせて抗議するようにガウェの元に飛んできた。
『本当に何も食べてないんだ。だから、急に食べるようになったら身体にも悪いからって、今日から重湯だけに…』
 粗末な食事の理由を告げられて、改めてエレッテを眺めて。
 不老不死だとは聞いた。
 食事を摂る必要も無いのだろう。だがその頬や腕の細さはエレッテを捕らえた当初より遥かに痩せ衰えている。
 まるで、ファントムの襲撃後に救出されたリーンのように。
 フレイムローズも食事が重湯だけになったことで危機感を持ち、ガウェを呼んだのだろう。
「……せめて食事くらいは食べろ。毒なんて入れるほどお前の存在に迷惑などしていない」
 そもそも殺すことすら出来ない存在だ。
 身動きを封じたいなら最初から四肢を切り離して保管しているのに、それをしないのはこちら側の温情だ。
 温めた方が食べやすいかと魔力で温めてみるが、エレッテはテーブルに近付こうとはしなかった。
「…いらない」
「口に無理やり流し込むぞ」
「……それでも食べない」
 頑ななエレッテに、護衛蝶は不安そうに寄り添って。
『…どうして食べないの?』
 フレイムローズもファントムの襲撃後に捕らえられた時は断食をしていた身だ。食べない苦しみはよくわかっているだろう。だが食べない理由まではわからない様子で。
「絆されない為だろう。少しの隙も見せないという単純な意思表示だ。死なないなら簡単に出来るだろうな」
 ガウェが同じ立場ならば、食べない理由は一つだけだ。
「死なないんじゃない!死ねないの!!」
 そしてエレッテも同じ考えだったようで、怒りの言葉は死に対する間違いへの指摘だけだった。
 多くの者が求めるだろう不死を、心から拒絶するような。
 ベッドの上に改めて顔を伏せて小さくなってしまったエレッテに、フレイムローズは少しだけ空間を開けて隣に留まる。
 どうすればよいのかと羽を所在なげに動かし続けているから、ガウェはその大きな蝶の羽を掴んでエレッテの足元の方に放り、エレッテの腕を掴んだ。
「っ!?」
『ガウェ!乱暴はやめて!!』
 誰が見ても、非力な娘に暴力を振るうような状況。
 だが殴るつもりなど当然有りはしない。
「いつまでもここでうずくまるつもりなど無いんだろう?その時の為に食べておけ。たかが用意された食事に絆される理由などない」
 驚いているエレッテと目を合わせたまま、いつか必ず助けが来るはずだと、その時をエレッテは待っていると確信して語る。
 息子であるニコルを傷付けてでもエレッテを助けようとしたファントムだ。ガウェに囁いてきた言葉を吟味しても、このままエレッテを放っておくはずがない。
 そしてそれはエレッテもわかっていることだろう。
 唇を引き結んでまた俯くから、エレッテの手を離して隣に腰を下ろし、重湯の入ったスープ皿とスプーンを膝の上に置いてやった。
「食べろ。食べたところでお前が逃げやすくなるだけだ」
 ガウェからすれば、エレッテなど逃げようが構わない存在だ。
 逃げてくれる事でガウェがリーンに近付けるというなら、喜んで手も貸そう。
 エレッテは再びガウェを見上げて、足元の護衛蝶にも目を向けて。
『本当に大丈夫だから、食べて…お願いだよ』
 フレイムローズも不安そうに見上げて語りかけるから、エレッテはとうとうスプーンを手に持った。
 細すぎる手首は力が入らなさそうなほど弱々しいが、重湯をすくい、口に運ぶ。
 少し経ってから飲み込む微かな音が聞こえてくるから、ガウェはフレイムローズと共にほっとしてしまった。
 まるでリーンを見ているような気持ちになって、それは有り得ない、と自分の眉間を強く摘んで。
 エレッテはゆっくりと食事を続けていく。
『ガウェ…来てくれてありがとう』
 目的が果たせたことに安堵するフレイムローズが、護衛蝶ごと気を抜いた。

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