第93話


-----

「--あら、お兄様。お一人で何を?」
 呼びかけられたと同時にミシェルの手から離れた伝達鳥は、このまま飛び立っても良いものか迷うように旋回し、ミシェルの表情を読み取ってから大空へと羽ばたいていった。
 場所は王城内ではあるが、人の気配のいっさい無い小さな露台。
 王族の為に働く者達に用意された休憩用の露台で、ミシェルは呼びかけてきた者のいる扉側へと身体を向けた。
 今この城内でミシェルを兄と呼ぶのはたった一人だ。
「お前こそここで何を?侍女の仕事はどうした」
「本日はお休みですの」
 ガブリエルはニコリと微笑みながら、露台へと出てくる。
 その後ろには付き人の二人の娘が控えていた。
 ニコルに付きまとった挙げ句エルザに強引に話をつけようとしてきたイニスと、アリアにとって因縁の娘が。
「…やあ、シーナ嬢。ようやく結婚出来たというのに、顔色は悪いままだな」
 シーナ・スルーシア。
 アリアのかつての婚約者の本当の恋人だった、下位貴族の見窄らしい娘。
 僻地で貧しく暮らしていたはずのアリアの方が断然美しいのは、ミシェルの惚れた色眼鏡というだけではないだろう。
 顔色が悪いと言われて、シーナはカッと羞恥に頬を赤くする。
 蔑みの言葉だと気付いているのだ。
「あらお兄様。シーナを虐めるなんて心外ですわね。元はお兄様が仕掛けたことでしょう?」
 含みのある笑みを浮かべながら、ガブリエルはイニスとシーナに下がるよう合図し、自分だけがミシェルの隣に訪れた。
「それで、あの方の見張りを命じられたはずのお兄様が、どうしてここに一人で?」
 外はもう昼間でも寒さが強いが、ガブリエルの纏うドレスは寒さなど微塵も感じさせないほど豪華だ。
 忙しく駆け回る七姫達より豪華なドレスだろう。普段着としてはおかしいほどの豪華さだが、まだまだ裏若い侍女達が羨望の眼差しを向けているのは知っている。
「見張りじゃない。摩擦を回避する為の護衛だと言っただろう」
 ここにいる理由を問われて、その問いの中にあった間違いを先に指摘して。
 エルザと恋仲になったはずのニコルが早々にエルザを酷く振ったせいで、騎士達のニコルへの苛立ちは激しいものになっている。
 同時にデルグ王の死が一部の者達のアリアへの批判に繋がっており、この二人を守る為にミシェルはニコラと共に護衛を務めているのだ。
 任務に対する侮辱は許さないとばかりに睨みつけるが、ガブリエルは伝達鳥の去っていった方角を見上げるばかりで気付きもしない。
 ミシェルがここに一人でいる理由を知っているのだ。
 ラムタルにいる藍都の者達に命じて調べさせた、大会にサポートとして向かってしまったジュエルの動向や周りの国々の態度。
 遥か遠い地の現状を緻密に知ることは叶わないが、伝達鳥を使ってミシェルなりにジュエルを守っているのだ。
 ジュエルが出発してすぐの頃はガブリエルと何度も激しく口論をしたが、今はガブリエルも何とか落ち着いてくれた。
 ジュエルを危険な大会に行かせたくなかったガブリエルの言い分も理解出来る。ミシェルだって許されるならジュエルを大会などに行かせたくはなかった。
「…お前が優秀なら、ジュエルでなくお前が大会サポートに行っていたはずだ。自分の不出来を大いに恨め」
「お兄様が女として産まれていても、サポートには選ばれなかったでしょうね。苦手な分野からは小賢しく逃げ回ってばかりですもの」
 激しかった口論も、今では単なる悪口止まりで。
「…それで、ジュエルはどうなのですか?」
 心配の行き着く先は同じで、伝達鳥から届けられた手紙を渡してやる。
 文を追うガブリエルの表情はみるみるうちに怒りで険しくなるから、それなりに整っているはずの顔が不細工になっていく様子は思わず笑ってしまうほどだった。
「父上にバオル国への輸出を制限するよう伝えておいた。バオル国周りの弱小同盟国も同じようにな」
 ラムタルから届いたのは、ジュエルが大勢の人々の前でバオル国の者達に蔑まれて涙を流したという許せない報告だった。
「あら、相変わらず私以外にはお優しいのですね。いっそラムタルへの輸出を止めるよう伝えればよかったのに。バオル国が原因であると暗に知らしめれば、大会の最中に何が起きたか大々的に報じられるでしょう?」
「我々は一応、虹の七家の“第七位”だぞ。勝手をすれば他の虹色から何を言われるか」
「臆病ですこと。それで騎士だなんて」
 藍都の特産のお陰で世界的には藍都は非常に名高いが、エル・フェアリア国内においては鉄の産出が唯一出来ない虹の下位だ。
 他との兼ね合いもあるのだと優しく教えてやったというのに、ガブリエルは不満を隠そうともしなかった。
 藍都の財力だけなら紫都を越すので三位に就けるというのに、七位に甘んじ続けなければいけない歯痒さは二人とも持っている。
 だがこの国では、鉄こそが最も価値があるのだ。
 上質な鉄と、それを加工する技術。
 事実、エル・フェアリアの武器はどこよりも優れている。
 それが無いというだけで家の力は七位に落とされ、他家の顔色を窺わなければならないとは。
 藍都ガードナーロッド家の者達は皆そろって傲慢だと言われるが、ミシェルからすればそれを口にする者達の方が傲慢だ。
 藍都は世界的に人気のある産業を発展させ、流行の最先端を走り続けるのだから。
「…まあ、私は私で動きたいことがありますので、この件はお兄様にお任せしますわ。お兄様と違って、私はコウェルズ様やサンシャイン家のお二人を信じていますもの」
 ニコリと微笑んで、ジュエルと共に大会へと向かった者達がいれば安心だと告げて。
 そこにルードヴィッヒの名前を足さなかったのは、愚妹にしては良い判断だ。
 そして、ガブリエルが個人的に動いている件については。
「……やめ時を見誤るなよ」
 また空を見上げるガブリエルに、同じように空に目を向けながら忠告する。
 妹が何をしようとしているのか。
 この馬鹿な妹の世話を長くしてきたものだから、漠然と察することは出来た。
「元はお兄様から始まったことですわ」
 そしてガブリエルも、自分が兄の駒として使われていたことに気付いている。
 踏み留まらせる為の言葉など不要だと、妖艶に微笑んで。
「あんな小娘ごときを健気に助けておきながら、存在すら忘れられた可哀想なお兄様。復讐心から私を巻き込んでおいて、今さら正しい道を説かれるの?」
 ミシェルの苦い過去を嘲りながら、さも自分は巻き込まれた被害者であるかのように表情を困らせて。
「存在を忘れられたのはお前も同じだろう?」
 にやりと笑い返せば、ガブリエルの瞳が一瞬にして冷め切った。
「お前はまだ良いじゃないか。虹の七家に名を連ねるガードナーロッドの姫でありながら自ら道端で純潔を散らしたなんて醜聞、ニコル殿が覚えていたら、広まっていたかも知れないんだぞ--」
 言い終わると同時に、弱い力で頬を叩かれた。
 一拍置いてからジクジクと熱を持ち始める軽い痛み。
 この可愛くない妹の醜い怒りの顔を見るのも久しぶりだ。
 ジュエルの為に怒り狂った気の強い表情とはまた別の、己の全てを憎しみに染めるような憤怒の形相。
「…怒るほどなら過去のお前自身の過ちに怒るんだな。お前が」
「煩い!!!」
 言葉を激しく遮られて、続ける替わりにため息を溢す。
 ガブリエルが酷い憎しみと悲しみに泣きじゃくったのは、そろそろ七年を超えるか。
 当時はそれなりに仲良く、他者の目からは仲悪く見えていた若騎士ミシェルと新米の侍女ガブリエル。
 王城内では顔を合わせる度にほどほどの嫌味を言い合っていた日々の中で、成人してから初めてガブリエルがミシェルの腕の中で泣きじゃくった夜があった。
 その年に王城勤めが決まった者達の為の王家主催の夜会で、ガブリエルはこっぴどくニコルに振られたのだ。
 皆の見る前で、ニコルに容赦なく突き飛ばされたガブリエル。ミシェルはガブリエルのエスコートとして共に会場に訪れていたが、他の若騎士達に話しかけられた為に少し離れていた時に起きた出来事だった。
 当時のニコルは平民出ということで貴族達との仲が悪く、ガブリエルを突き飛ばした後は早々に会場を後にして。
 ガブリエルは他の参加者の侍女達に支えられながら立ち上がり、立ち去るニコルに激しい怒りの言葉をぶつけていた。
 その後駆け寄るミシェルに気付いたガブリエルは、その場で表情を無くして大粒の涙を溢した。
 様子のおかしさに、ガブリエルを連れて会場から最も離れた休憩室に二人きりで入って。
 そこで、ただひたすら涙を溢し続けるガブリエルを抱きしめて説得して、何が起きたかを聞いた。
 ガブリエルがニコルに好意を抱いていることは知っていた。
 相談もされたし、アドバイスも与えていた。
 ガブリエルやニコルが王城勤めとなってほんの三ヶ月程度の中で、ガブリエルの存在は平民のニコルを疎ましく思う者達への牽制となっていたはずだ。
 そんな中で、ガブリエルは昼頃に、ニコルを追って城下に降りたという。
 王城から出る時は必ず伝えろと強く注意していたのに、ガブリエルはミシェルに伝えることなく、それどころか護衛も付けずに地味な衣服でニコルの後を追ったという。
 王城勤め達の為の夜会が開かれる為に城内は浮き足立っており、誰もガブリエルを気にも留めなかった。
 城下でニコルを追って、見失って、案の定。
 貴族の娘を狙う者達に捕まった。
 だが、攫われる寸前でニコルが助けに入ったという。
 まるで物語の王子様だ。
 普段なら着ないような地味な服で身分を偽り城を抜け出したお姫様を救い出す、正義の王子様。
 ガブリエルの目にもそう映っただろう。
 薄暗い小道、悪党を蹴散らしたニコル。ドラマチックな展開にガブリエルは酔いしれてしまった。
 ミシェルも後で知ったことだ。
 ニコルが性欲を発散させる手段に、金を払って遊女を買うのではなく、自分の美貌に惚れ込んだその辺の手頃な女を捕まえて適当に発散させていたことを。
 ガブリエルにとっては正義の王子様だったとしても、ニコルからすれば丁度良いカモだった。
 適当に助けただけの娘が、自分に惚れた。これほど都合の良い事はない。
 後はそのまま。
 人気の無い薄暗い小道。自分に惚れて従順な娘。
 産まれながらに高貴なガブリエルは、それが平民にとっては普通なのだと受け入れてしまった。
 外で、適当に、後ろから、などと相手を見下した一方的な行為を。
 それが、昼間の出来事。
 行為が終わればガブリエルはその場に置いて行かれて、それでもガブリエルにとってはニコルと結ばれた大切な出来事だった。
 結ばれたと本気で思ったのだ。
 若すぎたガブリエルの思考では、ニコルが自分を認識していないなど考えもしなかった。
 その夜の夜会で美しく着飾ったガブリエルは、堂々とニコルの前に現れた事だろう。
 エスコート役だったミシェルから離れて、ニコルの腕に触れて。
 初めての経験に傷付いた秘部を庇いながら近寄ったガブリエルは、軽く振り払われただけでも突き飛ばされたように床にころげた事だろう。
 それが、感情を決壊させて腕の中で泣きじゃくるガブリエルがミシェルに話した全てだった。
 ミシェルの目の届かない所で、憎たらしいながらも大切な妹は汚され、もてあそばれたのだ。
 今後どうするべきなのか。
 ミシェルは抗議するべきだとガブリエルを説得した。
 徹底的に抗議して、責任を取らせるべきだと。
 だがガブリエルは嫌だと頑なに首を横に振り続けた。
 自分が何をされたのか理解した上で、上位貴族としての誇りを優先したのだ。
 上位貴族の娘を汚したのだ。訴えてさえいれば、ニコルはガブリエルのものになっただろうに。
 どれだけ正しさを解いても泣き寝入りを選んだガブリエルを見て、ミシェルの身にひそむ悪魔が口を開いた。
 ニコルには辺境に妹がいる、と。
 それだけを教えてやったのだ。
 その後の数日間、泣き寝入りを選んでおきながら悔しさから時おりひどく泣きじゃくるようになったガブリエルに、それだけを。

「…私、正義ぶるお兄様のことは大嫌いですの」
 頬を叩かれて過去を思い出してしまった後で、怒りを収めた表情を向けてくることに気付いた。
 正義ぶるなどと言われて腹は立ったが、言い返すより先にガブリエルはまた口を開いて。
「でも…己の欲に忠実になさるお兄様は…とても醜くて大好きですわ」
 傲慢に微笑む様子はさながら魔女のようだ。
「ニコル様に妹がいると教えてくれた時のお兄様の表情、とても歪んでいたのですよ?」
 気付いていましたか?と。
「周りには正しい事ばかり口にして聖者のように振る舞うお兄様は本当に大嫌い。でも私には欲望に忠実な醜い本心をよく見せてくださいましたわね」
 クスクスと笑い続ける様子は、ミシェルの全てを見透かすようにも思えた。
「私は私なりに調べましたのよ?お兄様とあの女に何があったのか…どうしてお兄様が、私にニコル様への報復をさせるような言葉を言いながら、自分の報復を私にさせたのか。…きちんと、全て」
 兄妹の中で最も長く行動を共にしたのは、歳の近いガブリエルだった。
 だからこそ、ミシェルがガブリエルをよく知るように、ガブリエルもミシェルを。
「ならここまでにしておけ。お前は私の為に充分やってくれた。ここがお前の止め時だ」
 ガブリエルは駒として十分すぎるほど優秀な結果を見せてくれた。これ以上は危険度合いが段違いに上がってしまう。
 だが優しさが故の説得の言葉などガブリエルには届かなくて。
「あの女を助けてあげたのに、ほんの少しも覚えてもらえていないなんて、私より憐れではなくて?」
 ガブリエルがニコルに覚えられていなかったように、ミシェルもアリアに覚えられていなかった。その憎らしい過去をほじくり返される。
 ガブリエルは命の危機をニコルに救われた。
 同じようにミシェルもかつて、アリアの危機を救ったことがある。
 当時は未成年だったというのに、成人済みであるかのように美しかったアリアの危機を。
 救ったミシェルも、アリアとの出会いを運命のように感じていた。
 病気の父親の為に自らを犠牲にしようとした身を救い、諭し、涙を拭ってやったのに。
 一年後、再会したミシェルをアリアは覚えていないどころか、その辺のナンパ男と同じ扱いで躱して逃げたのだ。
 当時まだ若かったミシェルにとって、これほどの侮辱など受けた事がなかった。
 いや、今に至っても、あの侮辱を越す怒りに巡り合ってはいない。
 ミシェルのプライドをひどく傷付けた憎い相手。
 だというのに、可憐な美しさを忘れることが出来なかった。
 その後ニコルによってガブリエルが傷付けられ、上手くいけばアリアが手に入る可能性があると気付いた。
 アリアが治癒魔術を扱えることは、初めて出会った日に能力を見せられたので知っていた。
 国に報告しなかったのは、確実に手に入れる為だ。
 その為に傷付いたガブリエルを使い、そして予想以上の働きを見せてくれた。
 どこからか見つけてきたシーナ・スルーシアとその恋人を使い、アリアを貶めて。
 まだ若い頃にアリアが治癒魔術師として王城に迎えられていたら、ミシェルよりも優秀な者達がアリアの夫候補に挙げられていただろう。
 だが今は違う。
 ミシェルの邪魔になる優秀な者達は既婚となり、ミシェルは国に認められるほどの実力者となった。
 そして天が味方に付いていると思えるほどのタイミングでアリアは城に訪れてくれた。
 充分すぎるほどの結果だ。
 だというのに、ガブリエルはまだ動いていた。
 今となっては、アリアにもニコルにもメディウム家の血筋であるという強い後ろ盾が出来上がってしまっている。それだけではない。ガウェの突然の領主継承により、ニコルを蔑ろに出来なくなってしまった。
 これ以上は本当に危険となる。
 ガブリエルは愚かで未熟で、可愛くない憎たらしい妹ではあるが、情がないわけではないのだ。
 だからこそ伝えるせめてもの忠告だというのに。
「私、あの方の秘密を知りましたの」
 軽やかに、楽しそうに、ガブリエルはミシェルの耳元に唇を寄せた。
 あの方の秘密。
 小さな声で、耳元で、ニコル様の、と可愛らしく呟いて。
「あの方のお父様は、ファントムなのだそうよ」
 楽しそうに話すには、あまりにも重すぎる事実をいとも簡単に口にする。
 ファントム。
 禁句に近いその名前に、強い怒りを込めてガブリエルを睨みつけた。
 リーン姫を救い出したなどと言う者もいるが、ファントムは各国から宝物を奪い、仲間達を殺し、生きていたリーン姫をも攫った誘拐犯だ。
 それが、ニコルの父親だなどと。
「…何を言っているんだ」
「あら、事実ですわ。私が直接聞いたわけではありませんが、ファントム襲撃の後、ニコル様がエルザ様にそう話しているのをイニスが聞いたのです」
 必然的に低くなる声を気にも留めずに、ガブリエルはクスクスと笑い続ける。
 ニコルの弱点を握っているのだと信じて疑わない笑顔だった。
「お兄様、もう無駄な忠告は必要ありませんわ。報復を私にさせた時点で、終わらせる時を決めるのも私なのですから」
 まだ終わらない、と。
 欲深い妹は話は済んだとばかりに離れていこうとする。
「…待て」
「口出しをするくらいなら、最初から自分で行動しておくべきでしたわね」
 豪華なフリルに彩られた手首を掴もうとするがスルリと逃げられて、では、と優雅にお辞儀をしながらガブリエルが背中を向ける。
 露台と城内を繋ぐ扉はイニスが開けて、ガブリエルは堂々とミシェルの元から去っていく。
 イニスは人形のようにガブリエルに従い、シーナは物言いたげに扉の前からミシェルを窺って、その後すぐにガブリエルの後を追っていく。
 何をするつもりなのか。
 いつの間にかミシェルの思考から逸脱してしまったガブリエルの行動が全く読めなかった。
 それは成長なのか。そしてミシェルの手から巣立つつもりなのか。
 いずれにせよミシェルが出来ることは、ガブリエルが何をするつもりなのかを改めて調べることからだった。

第93話 終
 
4/4ページ
スキ