第93話
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「ーー全て終わらせてくださったのですか。感謝いたします」
クルーガーが話しかけたのは、昼に近い明るい時間帯だというのに薄暗い部屋の窓辺のソファーに腰掛けるエルザだった。
こちらを見上げてニコリと微笑むエルザだが、その表情に日向の似合う明るさは見当たらない。
部屋の薄暗さがさらに病的に見せるほどだ。
ミモザがエルザに頼んでいた書類仕事の進捗を確認する為にエルザの私室に訪れたのだが、すでに終わらせているとは思っていなかった。
普段なら終わっていても不思議ではないが、今のエルザは心が折れている状況なのだ。
なので与えられた仕事も手につかないだろうと思っていたが、エルザは健気だった。
最終確認とサインのみではあるが、元々は国立事業を統括していたエルザの仕事ではある。
それをエルザの代わりに負担していたのはミモザで、この書類仕事も本来サインするべき者の元へ戻っただけではあるのだが。
クルーガーから視線を離して、エルザは開け放したままの窓の向こうを見る。
エルザとニコルが恋仲となったわずかな日数、ニコルは窓辺からエルザの元へ訪れていたはずだ。
ニコルがエルザの部屋の扉から堂々と姿を表したのは、別れを告げた最後の日だけ。
その日を拒むように、エルザは窓辺だけに目を向け続ける。
ニコルがまたここから訪れてくれると信じているのだ。
ニコルの新たな恋人のことをエルザが知ってしまったら、どうなってしまうのか。
考えたくもないが、エルザが知ってしまう前に、エルザにはニコルの恋心を忘れてほしくはあった。
ニコルは遊女とは別れないだろうから。
それはかつてのメディウム家の男達を知っているクルーガーには痛いほど理解出来た。
あまり多くは産まれなかった、メディウム家の血を引く男達。治癒魔術を産まれつき扱えない彼らは女性達とは違って天空塔から離れて暮らすことも許されていたが、ひとたび一人の娘と恋に落ちると、生涯その娘だけに深く執着した。
愛されすぎた娘が怯えて逃げ去ってしまうと、気が狂れてしまうほどに。
ニコルはエルザに対してそうなるのではないかと考えていた。
だがそうはならなかった。
ニコルの中にあったはずのエルザへの想いが恋心などではないと気付いたのは、アリアが王城に到着してからだ。
アリアと同い年のエルザ。
ニコルにとってエルザは、愛おしい妹のような存在だった。
それにニコルが長く気付かなかっただけのこと。
特別な存在では確かにあった。
だが、エルザの欲しがる特別などではなかった。
悲しい現実。
そして、もう一つの気がかりは、原子眼を持つ可能性のあるアクセルが、エルザを覆う呪いの糸を見たということだ。
クルーガーの目には映らない、エルザの異変。
呪いの糸に絡まれているというなら、今のエルザの病的な様子はその呪いの糸が原因なのか、それとも全く別物なのか。
「…それではエルザ様、後はゆっくりとお休みください。後ほど侍女達が昼食を運びに参りますが、エルザ様の好きなものばかりを用意すると意気込んでいましたよ」
クルーガーなりの穏やかな話題も、エルザは窓辺から視線をクルーガーに戻してくれるが弱々しく微笑むだけだ。
不安はあるが、頭を下げてエルザの部屋を出る。
扉の向こうに待機するのは、エルザの護衛部隊全員だった。
緑姫リーンの護衛の証となる手袋をはめるガウェもが揃っている。
揃わせたのは、隊長のイストワールが命じたから。揃わせた理由は、ニコル達と鉢合わせない為に。
階の異なる場所に、ニコル達がいるから。
「…エルザ様が食事を摂るときは、お前達も中に入って共に食事を摂りなさい」
エルザの気分転換の為にそう銘じれば、ガウェ以外の全員が頭を下げた。
ガウェは完全に背中を向けて、こちらを見ようともしない。
クルーガーはそれを咎めもしない。
リーンが生きていたとしても、リーンを手にかけたクルーガーを絶対に許さないというガウェの意志を、深く受け止めて。
「イストワール、今夜の会議は出席しなくていい。護衛に勤めてくれ」
「わかりました」
護衛騎士にとって定期的に行われる会議よりも大切なものはエルザだ。
イストワールも最初からそのつもりだった様子で異論など口にせず、他の護衛騎士達もクルーガーに不満の目は向けるが、何も言ってはこなかった。
エルザとニコルの件をクルーガーに言っても無駄だとようやく悟ったのだ。ミモザに書類を渡す為に彼らに背を向けて足早に離れて。
静まり返っている王城内。
階を降りても数える程度の侍女達としか遭遇せず、ミモザのいるであろう政務棟に向かう道中すら人の影はほとんど見られなかった。
それでも流石に政務棟内に入れば政務官達が慌ただしく駆けずり回っており、まるでここだけが時間を早められているかのようだった。
政務官に混じりながらクルーガーの隣を忙しそうに駆け抜けていった魔術師の二人が、クルーガーに気付いて慌てて頭を下げ、また駆けていく。
普段なら忙しかろうが誰も走りはしない。
いくら人前に出ず政務も行わなかったとしても、国王の死去はこれほどまでの緊急事態なのだ。
コウェルズがいないので、尚更。
それでもミモザの采配は素晴らしいのひと言だった。
「--クルーガー団長!」
向かいから騎士がこちらに気付いて駆けて来る。
それはミモザ付きの騎士で、クルーガーというよりもクルーガーの手にある書類に気付いて近付いて来た。
「そちらはエルザ様に確認をお願いした書類ですよね!ありがとうございます!預かります!!」
慌てた様子でクルーガーを見もせずに書類を奪い取ってさっさと離れていく。
「あ!それと先ほどリナト団長が来られて、団長を探していましたよ--うわぁリナト団長っっ!!」
走り離れがてら伝えて来る途中の廊下の十字路でちょうどリナトと出くわしたらしく、書類を持ったまま騎士は猫のように飛び上がってリナトとは反対側へと転げて行った。
そのまま出てこなかったので、走り逃げたのだろうとリナトに近付いて。
「…なんじゃあいつは!」
足を止めて騎士の去った先を眺めながら、お化けでも見たかのような声を上げられたリナトはプリプリと怒っていた。
「悪かったな。後で注意しておく」
代わりに謝罪をするが、フンッと首を逸らして返事をしてくれなかった。
「私に用があったんじゃないのか?」
「ああ、そうじゃ。アクセルの元に向かうんだが、お前も呼ぼうと思ってな」
最近覚えたばかりの名前に、わずかに身を緊張させる。
恐らく原子眼を持つであろう若者は、エルザ姫の身に呪いの糸が絡まるのが見えると告げた。
大切な姫が本当に呪いに侵されているというなら、放っておくことなど出来ないが。
「…ニコル様を原子眼で見るように命じておいた。結果はどうだったか今から聞きに行くぞ」
近付いてきたリナトが、ボソリと囁くように話してくる。
ニコルを王族の一員であるかのように話す口調に、すぐ返事はできなかった。
「…リナト、あいつは騎士だ」
「……うるさい。それくらいわかっておる」
「あいつは騎士団員だ。自分が何者であるか認めるまでは、騎士以外の何者でもない」
腹から重く声を出して、真正面から見据えて。
未熟な騎士達なら思わず視線を逸らすほどの眼光を、リナトは睨み返すように見つめ返した。
「……何度も言うな。もうわかっておる」
ニコルが自分の出自を認めるまではただの騎士として扱うと、話して決めたのはニコルがアリアと共に城を出た日だ。
ニコルを王族のように扱おうとするリナトの言動も、ひどくニコルを苦しめていたから。
リナトのロスト・ロードへの忠誠心は痛いほど理解している。クルーガー自身も同じ思いだから。だが、ロスト・ロードとニコルは違う。
それを、リナトはまだわかっていない。
ニコルが自身の身体に流れる王族の血を認めるには、まだまだ時間がかかる。
今回リナトがアクセルに原子眼でニコルを調べるよう告げたのも、エルザ姫に絡まる呪いの糸と同じものがニコルにも絡まっている可能性が大いにあるからで、ニコルを王族として結びつける為のものではない。
だとしても、リナトの今の様子ではニコルを無意識に王族として扱うことは目に見えていた。
「…私が一人でアクセル殿に訊ねに行こう」
「何をいう!アクセルは魔術師団の所属だぞ!」
「ニコルは騎士団の所属だ。部下の心身の安全を考慮するのも私の仕事だ」
「貴様っ…」
一触即発の状況に、偶然誰もいないとはいえ辺りの空気が電流を帯びるような張り詰めたものに変わる。
こんな状況の場所に、誰も足を踏み込みたくはないだろう。そう思えるほどの空気の中を、
「ーーならワシが行こう」
悠々と歩き近付くのは、一人しかいない。
リナトと同時に背後へと振り向き、その姿を目に留める。
「頭を冷やすのはお前達二人共だろう?」
まるで幼子を諭すような口調で、ヨーシュカはクルーガーとリナトに笑いかける。
その後ろに待機していた一人の魔術兵団員が、目深に被ったフードを外し、こちらに向かって深く頭を下げた。
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