第93話
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「ーー無事に戻りましたぁー…」
ミモザも揃った応接室内で作業を進めていたニコル達の手を止めさせた声は、どこか頼りなさそうに笑いながらゆっくりと顔を見せてくるアクセルのものだった。
姫の為の応接室だというのに扉を叩かなかったのは、扉の向こうで待機するニコラの悪巧みだろう。
手順を踏まずに扉から顔を出す羽目に陥ったアクセルの半笑いに、手を止めた全員が表情を一瞬で安堵に染めていた。
「もう大丈夫なのかーーーですか、アクセル殿!」
トリッシュが真っ先にアクセルに近付きながら、ミモザがいる手前あわてて言葉を正す。
仕事の手を止めてその後に続くのはセクトルだ。
アクセルの両目が潰れた瞬間を、セクトルは目の前で見ていたという。
その不安を払拭するようにアクセルの目の周りを凝視して、ホッと肩を撫で下ろしていた。
「もう大丈夫…です。ミモザ様、ご配慮ありがとうございました」
アクセルはまずミモザに頭を下げて、ミモザも微笑み返して。
「無事なら何よりです」
アクセルはミモザの護衛部隊長であるジョーカーに連れられてここへ来たのだ。
万が一ほかの騎士達に絡まれないように、という配慮にアクセルは少し顔を引き攣らせており、巨漢であるジョーカーに怯えている様子があった。
「では私は一度、政務棟に戻りますわ。私がいるとゆっくり話しも出来ないでしょう?」
凛とした笑顔の中に茶目っ気を含ませながら、ミモザが戻ったばかりのアクセルと皆の為に気を遣ってくれる。
申し訳ないとばかりにニコル達は慌てたが、向こうで行う仕事もあるの、とミモザは去ってしまった。
仕事が山積みなのは確かだろうが、場所を借りている身で気まで遣わせてしまったことが心苦しい。
「…そんな顔をしていても何も進みませんよ。お気遣いを有り難く頂戴しましょう。アクセル、無理はしないでくださいね」
「あ、うん。昨日は休んでごめん」
「ニコルとアリアでは纏められないリストを一晩でまとめてくれたのです。非常に役立ちました。充分仕事はしてくれていますよ」
アクセルがしたことといえば、怪我をした一昨日の夜に治癒魔術師育成の為の大まかな訓練の流れを書き出したことだ。
確かに細やかに書き出されて、アリアでさえ首を傾げた準備物や費用なども細かく算出していたのを思い出す。
「あなたがいなければ今に至っても提出されていないでしょう」
大まかに、と言いながらも緻密さを求めてくるモーティシアの性格を熟知しているアクセルがいてくれて本当によかったと、モーティシアの小言を聞いてニコルはアリアと顔を見合わせる。
「ではミモザ様に甘えて少し休憩にしましょうか。アクセルの状況も聞きたいですし、我々がどこまで進めているかも話しておきたいので」
手にしていた分厚い資料を机に置きながら、モーティシアが皆を呼び寄せる。
「あ、俺も手伝うぜ」
休憩の為のお茶を準備しようと動くジャスミンにすぐさま気付いたトリッシュが、資料をセクトルに押し付けていった。
押し付けられたセクトルは少しムッとしながらも、アクセルと共にモーティシアのいる窓辺に歩いていく。
ニコルも続き、アリアはレイトルと共に少し後ろの方に来た。
部屋の中央に置かれたソファーに誰も座らないのは、姫の応接室という手前さすがに気が引けたからだ。
「これ全部集めたんだ…すご」
アクセルは広い応接室を覆い尽くすかのような資料群に苦笑いを浮かべ、自分が手にしていた真っ白な紙束とペンを隣に置いた。
「そちらは?」
「俺の目に何が見えてるのか全部書き出せって、リナト団長からの指示。…原子眼が何なのか、何もわからないからだって」
アクセルが一日半離脱することになった原子眼という特異な能力に、全員が神妙な面持ちとなる。
「昨日は三団長とフレイムローズ殿も来てくれたんだけど、団長達も原子眼の詳しい能力はわからないみたいで…」
それで、とにかく書き出せと指示が出た、とアクセルはまた苦笑いを浮かべる。
「原子眼なんて能力、確かに聞いたことも無いけど…アリアは聞いたことある?」
「無いです…」
レイトルとアリアも互いに顔を見合わせて首を傾げて。
「ジャスミンはどうだ?色んな本読んでるけど、それらしい能力が書かれた本とかなかったか?」
茶盆に全員分を乗せながら器用に歩くトリッシュが、溢しもせずに後ろのジャスミンへと目を向ける。
「目に宿る能力よね?…魔眼と千里眼は読んだことがあるけど…」
沢山の本を手にしてきたジャスミンも見たこともない、と申し訳なさそうに首を振った。
「三団長でも言葉でしか知らないから、本当に今まで見つかってないんだと思う。俺だってずっと、自分の目にしか見えてないなんて考えもしなかったから。手探りになるのは仕方ないよ。…それよりもっと問題なことが……」
原子眼の能力については何も説明出来ない、とアクセルは話題を変える。
「…昨日リナト団長に、原子眼がアリアの治癒魔術にどんな影響を与えるかわからないから護衛から外すって言われたんだけど、アリアに気持ちがあるって伝えて何とか護衛には留まれたんだけど…」
そこでアクセルがチラリとレイトルの方を見たが、レイトルも理解している、と伝えるかのように少し弱く微笑み返していた。
「それで、その時一緒にいたフレイムローズ殿が、アリアはレイトルに気があるからってリナト団長がいる前で言っちゃったんだ…」
何がどうまずいかなど、誰もが瞬時に理解した。
「もう付き合ってるとまでは言わなかったし、その時はその後すぐにクルーガー団長が来たから話しが終わったんだけど…リナト団長の表情、かなりやばかったから…」
最も知られたくない人物に、知られてしまった。
リナトなら、レイトルを護衛から外す為に動くだろう。
「レイトルは今後は治癒魔術会得の為の実験……修行に入るところなので、もし護衛から外されたとしても、修行の名目があればアリアから離すことは出来ないでしょうが…」
「……実験って言ったの聞き逃してないよ」
モーティシアの言い間違いを指摘しつつも、レイトルも少し考え込むように腕を組む。
「クルーガー団長には正直に伝えてみるか?」
皆の難しい表情を眺めた後で、ニコルは自分の経験を思い出してそう伝えた。
「…危険ではありませんか?リナト団長とも親しいですし…護衛と護衛対象が恋仲だと分かれば、団長として放置は出来ないでしょう」
モーティシアの言い分は正しい。
それでも、ニコルはクルーガーに恩がある。
「…俺には、まだ皆に言えてない問題がある。…その問題を知っていながら変わらず接してくれたのはクルーガー団長だけだった…」
クルーガーだけが、王族と判明したニコルを、それでもニコル個人として扱ってくれた。
どれほど心の救いだったか。
「団長なら、アリアとレイトル…俺たちが考えていること全部聞いてくれるし、理解して支えてくれると思うんだ」
クルーガーなら、リナトを止められるとも思うから。
「……俺はとりあえず様子見がいいと思うけどな…リナト団長がどう動くかもわからないし、いくつか案を練っといて、リナト団長が動いた時にこっちも動けるようにした方が確実じゃないか?」
トリッシュの意見も的を得たものではある。
トリッシュの言う「様子見」はただ動かないというわけではないのだから。
その後新たに口を開くのはセクトルで。
「俺はニコルに賛成だな。クルーガー団長は実力主義だし、人の気持ちを蔑ろにする人じゃない」
「なんだよ、リナト団長だって思いやりは充分持ってる人だ。アリアへの配慮がズレてるだけで、蔑ろにしてるわけじゃないんだぞ」
リナトを冷徹扱いするようなセクトルに、トリッシュは眉間に微かに皺を刻んで反論した。
「トリッシュやめて…」
「不要な口論はやめなさい」
すぐにトリッシュの袖をつまんで止めるジャスミンと、ピシャリと二人を窘めるモーティシアと。
また少し静かになる応接室内で、ゆっくりと手を挙げたのはレイトルだった。
「ガウェの邸宅にいるビデンス・ハイドランジア殿に相談できないかな?ニコルとアリアが城に戻る前に、ビデンス殿が言っていたんだ。リナト団長はビデンス殿を怖がっているって。…治癒魔術師について色々教えてくれた人だから、詳しく聞けば何かしら糸口にはなるかもしれない」
レイトルの提案に、確かに、と表情を明るくしたのはアリアだけだった。
「ビデンス殿って、あのちょっと怖そうな人だよな?」
「怖そうっていうか怖い人だったけど、芯がすごく強くて頼りになる人だよ。治癒魔術師について色々なアドバイスもくれたから、もしかしたらリナト団長を説得できる手段を教えてくれるかもしれない」
どうだろうか、とレイトルがモーティシアに訊ねる隣ではアリアも何度も頷いていて。
アリアはともかくレイトルもビデンス・ハイドランジアを信じて慕う様子に、ニコルも強い同意の気持ちが芽生えた。
まるで大地に深くめり込んだ巨大な岩のような存在感と安心感は、そうそう出会えるものではない。
上辺だけの言葉など絶対に使わなかった、真に強い人。
「ビデンス殿なら俺も賛成だ。治癒魔術師がわんさかいた頃に王族付きだった人だから、色々教えてくれるはずだ」
ニコルも同意すると頷けば、ビデンスを詳しく知らない面々も興味を持ったような表情に変わっていく。
「メディウム家がいた頃に?王族付きって、誰付きだったんだ?」
トリッシュの質問には、少しだけ言葉に詰まってしまった。
「…ロスト・ロード王子付きだった人だ」
かつて父を守っていた人。
事情を知るアリアは心配するようにニコルに目を向け、レイトル達は何も知らないながらも、暗殺された悲劇の王子の名前に言葉を詰まらせていた。
静まり返りそうになる室内だったが、セクトルが「あ、」と何か思い出すような声を上げて。
「聞いたことあるぞ。昔王子付きだった人で、隊長達がそろって逃げ出す人がいるって」
不穏な内容に、全員の視線は一気にセクトルに集まった。
「隊長達?リナト団長じゃなくて?」
「確かニコラが話してたやつだと思うんだよな……ちょっと呼んでくる」
レイトルはビデンス自身からリナトが逃げ出すと聞いていたと話したのだが、セクトルはとっとと扉を開けて、見張りとして立っていたニコラとミシェルも中に招き入れてしまった。
元々の話の内容が内容なのでレイトルやトリッシュ、アクセルは少し慌てるが、モーティシアは何事もないかのように静観している。
レイトルがアリアをニコルの隣に寄せている間に、セクトルは招き入れた二人に“恐ろしい人”について訊ねて。
「…確かに私も聞いたことがあるな。隊長達も逃げ出す人物がいる、と…誰だかまでは…」
ミシェルは首を傾げて思い出そうとしていたが、その隣でニコラは思い当たる人物に苦笑いを浮かべていた。
「覚えてないか?俺らが入団した頃に一回だけ来てくれた人だ」
「……………………あの人か」
二人だけに通じる会話の後に、ミシェルも思い出したのか似たような苦笑を口元に浮かべた。
「「ビデンス・ハイドランジア」」
ニコラとミシェル、二人同時に互いを指差しながら、その名前を上げる。
「王都で起きた事故もビデンス・ハイドランジアの邸宅なんだろ?あの人なら何かしら巻き込まれても仕方ないってジョーカー隊長も他の隊長達と話してたぞ」
ニコラはその名前をよく聞いている様子で、隊長達のぼやきを面白そうに話してくれる。
「その人がどうかしたのか?」
ビデンスに興味があるのか、ニコラは最も近くにいたセクトルと距離を縮め、セクトルが嫌そうに数歩離れるが二歩でまた距離を戻されていた。身長差がゆえの足の長さの違いにセクトルがさらに嫌そうな顔になる。
なぜビデンスの名が出たのか、こちら側からの説明にはモーティシアが当然のように前に出て。
「メディウム家についてよく知ると教えてくださったので、今後の任務の為に話を聞ければと」
新しい治癒魔術師を育てる任務は、この二人も知るところだが。
ミシェルはこちらの動きにどう思っているのか、皆の気配は必然的にミシェルを探るようだった。
だが当のミシェルは誰もが思いもよらなかった行動に出る。
「--失礼するぞ」
窓の向こう側の空に目を向けたかと思うと、無駄のない動きで窓に近付いて勝手に開けてしまう。
手を伸ばしたミシェルの腕に留まるのは、小型にしては少し大きな伝達鳥だった。
「…ニコラ、悪いが……」
「わかってるさ。行ってこいよ」
伝達鳥を連れて、ミシェルは窓を開けたまま応接室を出て行ってしまう。通常なら見られないような焦る様子が珍しかった。
「…何かあったんですか?」
アリアの問いかけに、ニコラが「あれさ、」と笑い。
「ラムタルに行ったジュエル嬢の状況報告だ。ラムタル国で働いてる藍都特産の納品部門に頼んで逐一報告させてるらしい」
ミシェルにとって今現在最も重要なのは、妹の安全を知ることなのだとニコラは話す。
「お前らは治癒魔術師の育成に必死で忘れてるかもしれないが、今日から大会の試合開始だからな」
コウェルズ王子とルードヴィッヒが出場する大会。
共に向かったのはジャックとダニエル、そして幼いジュエルの三人だけ。
もしファントムの件でエル・フェアリア国内が騒然としていなければ、その何十倍もの者達がサポートとして共に向かっていたはずだ。
「そうでしたね…すっかり頭から抜けていましたよ」
「こっちはこっちで大変だったからな。お前達のこともあるし、デルグ様の事もあるから」
大会を忘れていたらしいモーティシアに、ニコラが仕方ないとばかりにフォローをくれる。
「あの、国王様のこと…大丈夫なんでしょうか?」
目の負傷が原因で少しの間離れていたアクセルは、デルグ王の死についてほとんど聞かされていない様子でニコラに不安そうな顔を向ける。
何が大丈夫なのか、詳しくアクセルは聞こうとはしなかったが。
「……七姫様達なら表面上は大丈夫だ。政務も滞りは全くない。近隣諸国との応答も各領主達がそれぞれ隣接する国を担ってくれているから、王都では報告書を読む程度で済んでいる」
恐らくミモザから伝えられたのだろう詳細に、質問をしたアクセルが一番表情を固めていた。
何も問題がないはずがない。それでも何とかそつなくこなせてはいる。
国王が亡くなったというのに、あまりにも普段と変わらない。大国でこれほどまでに存在価値の薄れた王はいないだろう。
だが心の内側までは誰にもわからない。
頼りになる兄もいない中で、姫達がどれほど表面上を取り繕っているのか、わかるはずもない。
「ミモザ様を思ってくれるなら、心配ではなく目の前の仕事に取り組んでくれ。それがお前達に出来るミモザ様の一番の気分転換になる」
この中でミモザ姫を一番理解しているニコラの言葉に、誰もが頷きを返した。
「じゃあ、ビデンス・ハイドランジアのこと以外でもう聞きたい話がないなら俺も廊下に戻るぞ」
先に出たミシェルを心配する様子を見せるニコラが廊下に戻るのを全員で見送って。
扉を閉める瞬間に見たニコラは、ミシェルの肩に手を置いて不安を取り払う言葉を送っているところだった。
「…ビデンス殿のことを聞きたかったけど、どこもかしこも“それどころじゃない”って感じだね」
呟くようなレイトルの言葉に、ああ、と頷くのはセクトルだ。
エル・フェアリア中が“それどころではない”状況に陥っていることを、改めて実感して。
「…ニコラ殿の言う通り、私達は私達に出来ることをしましょうか。王城内でのビデンス殿の存在は恐らく今も大きいのでしょう。どれほど影響力があるかはわかりませんが、一度ビデンス殿に王城に来ていただけないか、クルーガー団長に聞いてみましょう。もし来ていただけない場合に、クルーガー団長に我々の心情を聞いていただくことにしませんか?」
どうだろう、と訊ねるモーティシアに、反対意見は誰の口からも出てくることはなかった。
「ではアクセルには今朝まで私たちが進めた仕事の要点だけお話ししますよ。その後休憩が終わり次第、私がクルーガー団長に話してきます」
とっとと進めていくモーティシアにニコルは少しだけ眉を顰めた。不満があるわけではなく、心配があったからだ。
「…一人でか?俺も一緒に行こうか」
ニコラかミシェルのどちらかが共に行ってはくれるだろうが、モーティシア一人で騎士団員ばかりの場所に行かせることはレイトルとセクトルも良い顔をしていなかった。
それはモーティシアも理解している様子で。
「…少し気になることがあったので、ミシェル殿と話したいだけですよ。安心してください」
クルーガーの元へはミシェルを伴う、と。
ミシェルの名を出しながらのモーティシアの含みのある微笑に、だが、と反論する者はいなかった。
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「…………読んでも構わないのですか?」
問うてきたモーティシアに、ニコルは苦笑する。
「俺もサラッと見た」
モーティシアに手渡したのは、たった今テューラから届いた手紙だ。
ミシェルが開けたままにしてしまった窓から上手い具合に小鳥がテューラからの手紙を持って来たのだ。
休憩を終えて仕事に戻る皆から少しだけ離れた壁側で、ちらりと手紙を読んでからモーティシアを呼び寄せて。
小鳥はアリアの膝の上に留まり、ニコルとモーティシアの妙な雰囲気には誰も構わずにいてくれた。
手紙を受け取ったモーティシアは、次第に口元を引き結ぶような険しい表情にかわっていく。
数枚ある手紙のうち、テューラがモーティシアに向けて書いてくれたのは一枚だ。
一枚とはいえ、上から下までみっちり書かれているのはユージーン・ラーブルについて。
第三姫クレア付きの副隊長であるユージーンの遊郭内での評判が、最初の数行はわかりやすく簡潔に、一行開けてから詳しい内容が書かれていた。
曰く、危険人物。
遊郭内において、トップレベルの監視対象者だった。
「……こんな人が騎士団の姫付き副隊長ですか…」
ぼやくように呟いて、モーティシアはちらりとレイトルとセクトルの二人に目を向ける。
アリアを守る以前はユージーンと共にクレア姫を守っていた二人だが、ユージーンの裏の顔は知らないのだろう。
「何考えてるかわからない人だったが、女にも興味無さそうだったのにな」
「普通の女性には興味がないのでしょう。悪魔喰らいの遊女達にしか相手にされないのですからね」
わずかに含まれる言葉の棘に、モーティシアがマリオンを特別に思っていることに気付く。
「…モーティシアが借金完済の最後の客だったって聞いたぞ?ユージーン殿と同じ“悪魔“だったんじゃないのか」
「私は上司に無理矢理連れて行かれて、勝手に性癖を悪魔にされただけですよ」
モーティシアが“悪魔”ではないことをわかった上でいじれば、心底嫌そうに当時マリオンが相手となった理由を聞かせてくれた。
「悪い悪い。わかってる」
性癖など誰にでもあるだろうが、女性の多くに嫌がられる性癖だなどと誤解されて良い気はしないだろうと素直に謝るが、半笑いだったせいでジロリと睨まれてしまった。
「…情報は有り難く頂きます。口外もしませんからご安心を」
「言われなくてもわかってる」
口の軽い男だったならこの手紙を見せてはいない。そう暗に伝えれば、先ほどまでの不愉快そうな表情を緩めてくれた。
「……それでアクセル、あなたはいつまでこちらをジッと見つめているつもりですか」
手紙を折りたたみ直して手元に仕舞い込みながら、モーティシアはずっとこちらに視線を送り続けていたアクセルに理由を訊ねる。
ニコルも気付いてはいたが、アクセルはニコルとモーティシアだけでなく全員をジッと見つめていたので何かしら目の能力を試しているだけなのかと思っていた。
どうやらモーティシアはそこまでは気付いていない様子で、もう一度理由を問うていて。
「ごめん…理由とかは特にないんだけど、何か見えないかな、と思って」
ニコルの読み通りだったらしく、アクセルは気付かれたことに申し訳なさそうにカクンと頭を下げた。
「突然始められると恐怖を感じますよ…何か見えましたか?」
「いつも通り。…たぶん」
「たぶんですか」
あはは、と笑うアクセルに、モーティシアも釣られて少し笑っていた。
「あとニコルだけなんだけど見ていい?」
アクセルが見つめていたのは二人ではなくモーティシアだけだった様子で、改めて問われて思わず両腕を開いて待機してしまった。
「何もしなくて大丈夫だよ…」
突っ込まれて、ドッと周りも笑ってきて。
「…急に言われたら身構えるだろ!」
「モーティシアが突然始めるなって言ったから了承得ようと思っただけだよ!!」
どっちなんだと憤慨するアクセルに、皆の笑いの的が移った。
ニコルも両腕を開いてしまった手前、今さら立っているだけというのも逆に格好を付けているような気になってしまい、そのままアクセルを待って。
アクセルが見つめ始めるが、ニコルの身体にこれといった変化はない。
もちろんアクセルも、見た目にも何の変化も見られなかった。
ただじっと、見つめて、見つめられて。
「…これで何かわかるんだ?」
トリッシュの呟きに、アクセルはニコルを見つめながらウーンと唸った。
「俺には何が普通で何が異常かなんてわからないんだ…今まで見てきたものは俺の普通だったから…」
それは、アクセルが何度も繰り返した言葉だ。
自分の見えているものが他の者には見えていなかったなど、思いもしていなかった、と。
「国内の空に掛かる防御結界の虹も、魔力を持つ我々には見えますが、魔力を持たない平民にはわからないと言いますからね…平民達の中で暮らしていたら、もう少し視界の違和感に早く気付けたかも知れませんね」
「…でもそれじゃ、ただの変人にならないか?俺たちは魔力や魔眼を理解してるからアクセルの目の能力にも気付けたんだろうが、何も知らない平民の中にいたら、下手すると異常者だぜ」
モーティシアは場所が悪かったと考えるが、トリッシュはそれは違うと軽い反論をする。
「…もしかしたら、その異常者達の中に、アクセルと同じ原子眼を持っていた人もいたかも知れないね」
見つからなかったのは、いなかったからではないと。
レイトルの見解に、アクセルが少し青ざめた。
下手をすれば自分は異常者として扱われていたかもしれないなどと、想像もしたくはないだろう。
「アクセルさん、兄さんには何か見えましたか?」
アリアはそんなことよりもニコルに何か見えるかどうかが気になる様子で、レイトルの隣からその腕に触れながら身を乗り出して聞いてくる。
「みんなと同じかな……あれ?」
首を傾げつつ異常などないと言おうとしたアクセルの口から、疑問符がこぼれた。
「ニコル、首に何かある?」
指差された場所は首元で、一瞬ギョッとする。
「あ…ああ……これか?」
首にかけているのは父がくれた赤石のついた古臭いネックレスだ。
わざわざ伝えてはいなかった石のことを指摘されるとはと驚きながら、首元からネックレスを引っ張り出して赤い石を皆に見せる。
「あたしも同じの持ってます!」
アリアも少し慌てたように石を首元から出して、皆に見せて。
「親父からもらったもんだ。共鳴石っていうやつで、片方に何かあれば、もう片方が緊急事態を教えてくれるらしい。これが何かあるのか?」
父が渡してきた石がただ古いだけなどあり得ないだろう。もしアクセルが何かしら解明してくれるのならと首から完全に外してアクセルに見せようとするが。
「いや、その石じゃなくて……」
首飾りじゃない、とアクセルは両手を振って、またニコルの首元に指を差してきた。
「ケガしてない?何かあった?」
心配するような声で、ニコルの首の異常を告げる。
「……え」
「首いっぱいがアザになってるから…それって、アザ?」
アクセルも、途中で更なる違和感に気付いた様子を見せて。
思わず自分の首に触れて、周りの視線もニコルの首に集中して。
恐らくアクセル以外にはアザなど見えていない。そもそもアザなど存在しない。
この首にあるのは、幼い頃の恐怖だけ。
「--っ…」
幼い頃から何度も見た夢を思い出す。
目の前で泣く美しい女性に話しかける夢。
どうして泣いているの?
そう訊ねれば、美しい女性は泣き濡れたまま、ニコルの首に両手を掛けて、
強く、締めるのだ。
「兄さん!」
動揺するニコルのそばに、アリアが寄ってくる。
「え、俺、また変なこと言ってる?」
アクセルも同じく動揺するが、困惑の色の方が強い。
アリアがすぐそばで不安そうに見上げてくれるから、少しだけ気持ちは落ち着いて。
「…悪い。ガキの頃から変な夢を何回か見てるんだ。女に首絞められる夢…それ思い出しただけだ」
説明は簡単に。というか、それしか言えなかった。
アクセルはどうすればよいのか分からず周りに助けを求めるように視線を動かし続けて。
「私達にはアザなんて見えてないよ」
レイトルの言葉に、セクトル達も同意した。
「…アクセル、あなたにしか見えないものがあったと、一応書いておきなさい。あなたは他人の悪夢まで見えるんですか…」
「こんなの何て書けばいいか分からないよ…」
アクセルにだけ見えた、ニコルの首のアザ。
まるで悪夢が実在するかのような状況に、首回りが一気に硬くなるような、痛むほど肩が凝るような嫌な感覚に苛まれて。
「…兄さん、平気?」
「……ああ、気にすんな」
悪夢など、夢でしかない。
そう思わせてもらえないような状況で、言葉とは裏腹に吐き気のような気持ちの悪さに苛まれた。
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