第93話
第93話
「楼主、おはようございます」
まだ日の登らない早朝ではあるが、朝食支度に静かな忙しなさが見られる遊郭内で、支度の者達と共に準備に勤しんでいた楼主をテューラは小声で呼んだ。
「ああ、お早う。どうしたんだ?手伝ってくれるのか?」
手を離してこちらに来てくれる楼主に、テューラは実は…と少し言いにくそうに辺りをちらりと見やる。
「…移動するか」
その様子にすぐさま気付いてくれて、場所を変えてくれて。
移動先はすぐ隣の小さな食料庫で、先に入った楼主が灯りを付けてくれる。
「それで、どうしたんだ?」
改めて問いかけられて、無言のまま手紙を渡した。
それは夜中にニコルから届いた手紙のうちの一枚だ。
マリオンの書いた手紙にはテューラがすでに返事を書いていたが、それとは別にニコルから質問が書かれていたのだ。
その内容は。
「…騎士団のユージーン様って、以前までマリオンの元に通っていた人ですよね?出禁の理由とかって…教えても大丈夫なんでしょうか」
マリオンを匿っている件で、ユージーンがモーティシアに近付いてきたという。
なのでユージーンとマリオンに何が起きたのか知りたいと書かれていたが、知りたがっているのはニコルではなくモーティシアなのだろう。
遊女と客の情報を部外者に話すことは御法度だが。
「…状況が状況だからな…仕方ない。伝えても構わないぞ。俺の方から王婆には話しておく」
「ありがとうございます。…でも何があったのかは私も詳しくは知らないので…教えてもらっても?」
訊ねてみれば、楼主は「知らなかったのか」と少しだけ驚いてみせた。
遊女同士が客の話をすることはよくあったが、マリオンはユージーンのことに関してはあまり話したがらなかったのだ。
悪魔喰らいとして働いていたマリオンに、悪魔は何をして出禁となったのか。
「マリオンは借金を返し終えた後は悪魔喰らいを止めていただろう。今までの客達も、普通に遊ぶならマリオンを着かせると話していたんだがな…ユージーン様だけは約束を守らず、悪魔喰らいをやめたマリオンに悪魔を見せたんだ。…それだけじゃなく、今までで一番きついやつをな。自警団の者が違和感に気付いて助け出してくれたんだが…そのことがあったからユージーン様はうちでは出禁扱いになったんだよ」
当時を思い出して疲れた表情を見せる楼主に、テューラもここにはいないユージーンへと眉を顰めてしまった。
テューラがマリオンから聞いたユージーンは、悪魔喰らいとしてこの店で働くことになった当時の初めての客だったというくらいだ。
騙された親の多額の借金を返済する為に選んだ悪魔喰らいの仕事。
遊郭の世界に産まれた娘でさえ嫌がることの多い悪魔に、マリオンは処女を与えたのだ。
その金額は莫大だったと聞いている。
「十年ほど前に一度、遊女を殺しかけた客への制裁として遊郭が門を閉めたことがあるらしいんだがな…その客っていうのが、ユージーン様なんだ」
「え、あの酷い事件の?」
当時まだテューラ達は王都に移る前だったが、遊郭が門を閉じるほどの事件だった為に話には聞いていた。
聞くのもおぞましい事件。
遊郭側が門を閉じた理由を「王城騎士団員」と世間に公表した為に、当時は騎士達へのバッシングが凄まじかったと聞く。
「…そんな人をよくマリオンに当てがいましたね…」
「俺含めて全員が反対したさ…だがかなりの金を積まれて、マリオンが了承したんだ。最初の日は他区画の自警団だけじゃなく、中央警備隊まで来てくれたよ」
自警団は遊郭を区画分けした中で遊郭を守っており、基本的には自分が所属する区画の自警団が中心となって見回ってくれている。それが他区画だけでなく、遊郭全体を守る中央警備隊まで出て来てくれたとするなら、本当にユージーンは遊郭内で危険人物と見なされているのだろう。
「じゃあ、出禁になった時にマリオンを助けてくれた自警団も、万が一を想定してたってこと?」
「ああ。ユージーン様は遊郭に入った時点で見張りが付くから、俺の元にすぐ伝えに来てくれてな。そのあと腕の立つ者には来てもらっていたんだ。…なんせ相手は騎士様だからな…本気を出されたら俺達じゃどうすることも出来ない」
楼主の言葉に、テューラも背筋をゾッと震わせた。
ニコルが魔力で巨大な鷹を生み出しのは目の前で見ている。
あんな特別な力を持つ者に本気を出されてしまったら、誰にも何も出来ないことは目に見えている。
「身請けされなかっただけマシなんでしょうか…ユージーン様がマリオンのご両親の借金を肩代わりすると伝えていたら、マリオンは受けていたかも…」
「いや、それは無理だな」
即答で否定されて、テューラは眉を顰めてしまった。
借金が無くなった後のマリオンは自由を謳歌しながら働いていたが、それこそ初期の頃のマリオンは他の遊女の太客を奪おうとするほど貪欲だったのだから。
「ユージーン様からは初日が終わってすぐに打診があったんだ。それほど気に入ったんだろう。…お前はもう正規の遊女じゃないから話すが、王都の遊郭では悪魔喰らいには身請けさせられない決まりがあるんだ」
「え…そうなんですか?……知りませんでした」
「…“何でも出来る女”なんて、最悪なことを考える人間からすれば、金の成る木みたいなものだからな…」
王都遊郭で働いていたというだけでも、地方では別格扱いなのだ。そこからさらに“何でも出来る”という肩書きがついてしまったら。
働いていたテューラには、結末が容易に想像出来た。
「でもどうして身請け出来ないことを公表していないんですか?」
「身請けを打診してきた者を調べる為だ。まともなら丁寧に断るだけ。腹に何か隠しているなら、危険人物として扱う、ってな」
長く働いてきたつもりだったテューラでも、まだ知らなかった深い取り決め。
遊郭がどれほどテューラ達遊女を守ってくれていたか改めて理解する。
「…どうしてそこまでして一人一人を守ってくれるのかしら…」
手厚すぎるほどの庇護は働く者からすれば嬉しくはあるが、遊女などいつの時代も減りはしないだろうに。
王都ほどではないとはいえ、地方の遊郭も遊女を大切に守ってくれてはいた。
その理由は。
「大戦時代の功績と、いつまた戦争が起きても対応出来るようにな」
「…戦争?」
「ああ。月に一度は負傷者や病人を手当てする訓練があるだろ。あれは大戦の名残りなんだよ」
またも知らなかった理由を聞かされて驚いた。
確かに月に一度、中央警備隊と王都の医師達を加えた手当ての講習は決まりとしてあったが。
「なんで風呂と一体化した部屋なのかわかるか?」
「え…っと……その方が効率が良いとしか…」
「大戦時代は、重症患者を何人かまとめて部屋で診てたそうだ。手近に洗い場があると衛生面でも楽だろ。当時の遊女達は看護団としても活躍してたんだ。その名残りさ」
そんな事情があったなんて。
月に一度の講習は、客が急病となった時に適切に対応できるようになる為としか思っていなかった。
「看護もしてくれて、抜いてもくれて、心身共に安らげるようにってことらしいがな。ま、良い話ってだけで終わるわけもないから、話半分にしといてくれ」
影に潜んだ部分は教えてはくれなかったが、過去を知れたことは少し自分の為になったような気がした。
「話しは逸れたが、ユージーン様については何も隠す必要はない。ただ、関係のない者には知られないよう注意してくれ」
「わかりました」
話しが済んだならと楼主は朝食の準備に戻っていく。
テューラも食料庫から出て、ユージーンの件をどう手紙に書こうかと頭をひねった。
手早く書き終えて朝食の準備を手伝いたいとも思うが、簡単に書ける内容でもない。
ユージーンがどのような性的嗜好を持つのかはわからないが、知らない方が良いのだろう。
今は何よりもマリオンの安全を優先するべきだから、モーティシアの家で厳重に守られているなら有り難い限りだが。
マリオンを殺そうとした闇市の男からは守れても、共に王城で働いている人間から守ることは本当にできるのか。
不安ばかりが胸に溜まっていく。
何と書けば上手く伝わるのか。そんなことだけを考えながら階段を上がり、自室に向かう途中で。
「--テューラ…」
壁に背中を預けながら待っていたらしい青年が、テューラを見つけて少し慌てながら近付いてきた。
「…エリダ…あなたまだいたの?」
彼が遊郭に訪れたのは昨夜だ。
訪れた理由はテューラと話す為だったが、ニコルから来た手紙を理由に避けていたのに。
「…頼む、少しでいいから話したいんだよ」
「手紙書かなきゃダメだから無理よ。帰って」
「夜からずっと書いてるなんておかしいだろ!」
テューラの事情など汲まずに、エリダは腕を掴もうとしてくる。
その手をさらりと躱して、強く睨みつけた。
「あんたが私と話したい内容って、どうせ“平民騎士が相手なんて遊ばれてるだけだぞー”でしょ?同じことしか言えないのならもう帰って。時間の無駄だから」
前回はニコルが来てくれた朝にわざわざ忠告してきた。
今回も同じだろうと言えば、当たっていた様子でたじろいで。
「お、俺はお前が心配なんだよ…ただでさえ変な状況なのに、お前まで何かあったら…」
「……ん、どういうこと?ただでさえ変な状況って何?」
苛立って、さらに睨みつけて。
「だからマリオンが…」
「危険だから?マリオンに何かあった後で私も捨てられてボロボロになったらってこと?」
「……別にそこまで言ってないだろ…」
動揺したエリダの視線が、揺らぎながらテューラから逸らされた。
そこでテューラも落ち着く為に深呼吸をする。
「ニコルさんの噂も広がってるみたいだけど、私が選んだ男よ。私に男を見る目が無いと思ってんの?」
ため息と共に出た言葉に、エリダは苛立ったように頬を一瞬ひくつかせた。
「…何回も会ってない男を選ぶ奴に人を見る目なんかあるかよ」
「自分が選ばれなかったからって否定しないでくれる?少なくとも自分の気持ちを伝えないで気付いてもらおうとするだけで動かない男より“他の男に触らせたくない”って莫大なお金出して独占してくれる男の方が誠意あるでしょ」
気持ちを言い当てられて、エリダはさらに動揺を見せてくる。
「あんたの気持ちに気付いてないって本気で思ってる?気付いてたから私はあんたを素っ気なくあしらってきたの」
王都に移ってきた頃、テューラはまだ成人前だった為に遊女として働いてはいなかった。
その頃からエリダはテューラに特別に良くしてくれていた。
その頃から、エリダは自分の気持ちを伝えることはしてこなかった。
働き始めてからも、テューラに近づいてくる男がいれば牽制するが、気持ちを伝えてくることはしない。
それはテューラがエリダに絆されていないことを彼本人も気付いていたからだ。
そうやって肝心な要点からは逃げ続ける男にテューラがいつか心を開くと思っていたのだろうか。
誰にも絆されない、とはかつて伝えたことのある言葉だ。
それはエリダの気持ちを知る中央警備隊の男達がテューラに「男はいないのか」と聞いてきたからだった。
テューラ自身も楼主と共にアエルを探していて、アエルを見つけるまでは誰にも絆されないとその当時は本気で思っていた。
何もかも、ニコルと出会う前の話しだ。
「…ニコルさんは噂されてるような人じゃないから、安心して」
エリダの表情に怒りと虚しさが垣間見えたから、話はここまでだとテューラは彼を通り過ぎる。
自分の部屋に戻る為だ。
「……痛い目に遭うぞ…絶対に」
「当たって砕ける勇気のない男は言うことも違うわね」
最後の言葉にはテューラも怒りがまた湧いたから、嫌味を激しい侮蔑で返した。
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