第92話


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「…リーンはお兄様に会ったことあるんだよね?どんな人なの?」
 ルクレスティードが訊ねた時、リーンは指先の感覚を取り戻すかのように身近なものにゆっくりと手を伸ばして触れている最中だった。
 リーンに用意された美しい部屋の、大きなベッドの上で。ルクレスティードもごろんと仰向けに寝転がっている最中だ。
 母がいたら注意されている体勢だが、リーンは優しく微笑むだけに留めてくれた。
「どちらの兄を知りたい?」
 訊ね返されて、うーんと唸る。
 ニコルだけでなくコウェルズも父の息子であると気付いた日、ルクレスティードはそのことをリーンに訊ねていたのだ。
 それから今まで、リーンとゆっくり二人きりになれるチャンスがなかったので訊ねられなかった。ようやく巡ってきたチャンスを逃さないように、父に似て格好良い兄のことを知りたがった。
 今までルクレスティードにとって兄はニコルだけだったが、コウェルズも父によく似ているので気にはなる。
 それでもやはり、長く憧れ続けてきたのは一人だから。
「ニコルお兄様のこと!」
 何度も千里眼を通して見続けた兄を、もっとよく知りたかった。
「初めて出会った時とか、どんな感じだったの?」
 リーンやアリア、妹に当たる彼女達ばかり兄と親しくてずるいとも思うが、ニコルはリーンも妹であることを知らないし、当時のリーンもニコルが兄だとは思っていなかっただろう。
 そんな二人の初めての出会いは、一体どんなものだったのか。
「初めて、か…ああ、あの日は、絡繰り妖精達が私と兄を引き合わせてくれたのだ」
 思い出す為にしばらく手を止めてから、リーンは一番手近にあった木製のつるりとした置き物を膝の上に置き直してまた触り始める。
「絡繰り妖精がエル・フェアリアで?どうして?」
「その日の私はバインドから贈られた髪飾りで髪を纏めていたのだ。…髪飾りに妖精達が付いていたのだろうな。護衛と共に散歩をしている途中に突然知らない場所に飛ばされ、そこにニコルがいたのだ」
 過去を思い出すようにゆっくりと、次第に饒舌に。
「城の奥にある森の中だったと思うが…ニコルと会った瞬間に、安心感のようなものが芽生えたのを覚えている」
「安心感?」
「そうだ。おかしな話だが当時の私は異常に他者を恐れていてな。身近な騎士達と家族以外に心を開いておらんかった。…だというのに初めて見るニコルには恐怖も何も感じず、彼のそばに居れば安心だと直感したほどだった」
 まだ互いに血の繋がりがあるとは知らない時だというのに、リーンは無意識にニコルを家族と理解したのだろうか。
「…ニコルお兄様も、リーンに安心感を感じたのかな?」
「どうだろうな?あれのその後の私に対する対応も、他の王族と何ら変わりなかったように思える」
 ぽろ、とリーンの手の中から木の置き物が落ちてしまって、ルクレスティードは寝転がったままその置き物をリーンの膝の上に戻した。
「そっか…あんまり兄妹っぽくはなかったんだね」
「王族と騎士の関係でしかなかったな」
 思っていたよりも淡白だった関係に、少し不満に感じていた嫉妬心が薄らいだ。
「リーンは他のお姫様達とは半分しか血が繋がってないんだよね。コウェルズ王子様とも半分ずつで…というか王子様はほかのお姫様達とは真っ当な兄妹じゃないよね?違和感とかは無かったの?」
 コウェルズ王子の父母はルクレスティードと同じファントムとガイアで、リーン以外の王家の姫達はデルグ王とクリスタル王妃の子供だ。
 ファントムの子としては、リーンだけが母親がクリスタル王妃となる。
 奇妙で歪な家族関係。
「その頃はまだ、彼の流れに沈められてはいなかったからな」
 いっさい気付きはしなかったと、リーンは愉快そうに笑う。
 だがリーンが口にした言葉に、ルクレスティードは笑うことは出来なかった。
 彼の流れ。
 全容を全て知りはしないが、ルクレスティードも教えられたものだ。
 リーンは魔術兵団によって捕らえられ、五年間も土中に埋められていた。
 エル・フェアリア王城内の、遥か昔から存在する七色宮のひとつである新緑宮の下に。
 ルクレスティードが捕らえられていれば埋められていたかもしれない場所。そこには龍脈のような流れが存在しているという。
 エル・フェアリアのあらゆる場所に流れる龍脈は、エル・フェアリアの中心である王城に繋がっていると。
 その流れは恐ろしく、おぞましく、五年間もリーンにあらゆる絶望を見せつけて。
 それを彼の流れとリーンは口にして、だが何を見せられてきたのかは、誓約をかけられた、と言い教えてはくれなかった。
 彼の流れも誓約も、口にする時のリーンは少し苦しそうで。
 苦しそうなのに父ですら助けられないのは、誓約が邪魔をして他者に伝えられないという奇妙な状況があるからだ。
「…彼の流れ、僕の千里眼で見ることは出来る?」
 自分に出来ることが限られている中でせめて何か力になれるとすれば、ルクレスティードの特別な能力を使う以外にはないだろう。
 そう思い訊ねてみたが、リーンは難しい表情になってしまった。
「ラムタルの土地は完全に彼の流れから外れている。もしかすると千里眼の能力で私の脳を見ることは出来るかもしれないが、それでお前にも誓約がかかってしまうことは避けたい」
「でもここがラムタルなら、誓約がかからないかも!もし掛かっても、お父様ならきっとなんとかしてくれるよ!」
 父は万能だから。
 無条件に慕うルクレスティードを、リーンは少し困ったように笑って誤魔化そうとした。
「少しだけ試すのも…ダメ?」
「駄目だ。原子眼の時を忘れたか?」
 返事は即答で、シュンと項垂れてしまう。
 原子眼の一件は本当に怖かった。でもあんなことは滅多にないとも思うから。
「…彼の流れっていったい何なの?それが色々と教えてくれたんでしょう?お父様ですら知らないことも」
「あまり深入りはするな。いずれ全て終わる時が来る。…多くを失うだろうがな」
 含みのある言葉。そんな言葉を使うのに、何があるのかは教えてくれない。
 ルクレスティードがまだ子供だから教えてくれないのだろうか。
「……ねえ、リーン」
 不安と、不満と。
 リーンは今後も父の為に何か役立つ仕事を与えられているというのに、自分には何も命じられていないことが悔しくて。
「何だ--」
 こちらに目を向けてくれたリーンの闇色の緑の瞳の奥を、覗き込んだ。
 グン、と、引き摺り込まれるような感覚。
 リーンの脳内に張り巡らされた闇がルクレスティードの脳裏に焼き付いていく。
 それは。
 戦乱の世だった。
 いや、戦乱というには、あまりにも原始的で知性のない争い。
 気のふれたような人間達のおぞましい姿。
 誰もが目を剥き、何かを求めて争っている。大地は赤黒く染まり、所々に落ちるのは肉片か。
 争いの中心で泣いているのは一人の女性だった。
 誰の手も届かない高い場所で、ただ静かに泣いている。
 地上に広がる、女性を求める争いのおぞましさにただ泣くことしかできない。
 そんな彼女に、唯一伸ばされた理性的な救いの手があった。
 その大きな優しい手に導かれるように、女性は顔を上げる。
 その顔は--
「ルクレスティード!!」
「ぅ、わあああああ!!」
 たった一瞬の間に叩きつけるように脳裏にこびりついた恐ろしい映像に、ルクレスティードは心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖を味わいながら、ベッドの上から転がり落ちた。
 リーンの声が無ければ戻れなかったかもしれない。
 それほどの恐怖。
 いや、恐怖を感じたのは、見せつけられた争いのおぞましさなどではなく。
 争いなど千里眼で何度も見てきた。
 気のふれた人間達も何度も見てきた。
 見るに耐えない死体すら、ルクレスティードは見慣れているのだ。
 だから、その程度の恐怖で今さら怯えはしない。
 そんなルクレスティードが恐怖を覚えたのは、ただひとつだ。
「ルクレスティード!…どこまで見えた」
 緊張した声でリーンが訊ねてくる。
 どこまで見えたのか。
 何を見たのか。
 リーンから無理やり見たものは。
「……お、お父様、と…」
 ベッドの隣に立ち上がって、震える声で見たものを口にする。
 女性に救いの手を伸ばしたのは、紛れもなく父だった。
 だが何か違和感はあった。
 父だが、父ではないような。
 それでも父と断言できるほど似ている人と。
「…………アリア?」
 虹色の美しい髪の女性が泣いていたのだ。
 父に手を差し伸べられて顔を上げた女性。
 その泣き濡れた美しい顔は、アリアのものだった。
「……全て見る前でよかったな。でなければ今頃お前にも誓約が掛けられていたかもしれぬ」
 リーンの安堵の声が、ひどく遠い気がした。
「……何で…どうしてお父様とアリアが?…ううん、あれは誰?アリアなの?」
 父は父だと言えるほどだった。だが女性の方はアリアのようで、何かがアリアとは違う気もして。
「ルクレスティード…ここまでにしておけ。お前の千里眼は、こんな事の為に使う能力ではない。…時が来れば全てが暴かれる。それまでは…その力を大切に使え」
 ルクレスティードがリーンの脳から無理やり見たものが何であるのかを、リーンは教えようとはしない。
 無理やり見てしまったのだ。それがいけない事だとはルクレスティードもわかっている。
 でも、こんなものが見えるなど思いもしなかった。
「ねえ…あの人は誰なの?」
 どうしても気になってしまうほど、アリアに似ていた人。
 リーンはルクレスティードが見えた以上のものを知っていて、その為に誓約をかけられたというのなら。
「あの女の人がリーンを苦しめてるの?」
 直感で、あの女性が原因だと悟る。
 泣いていた人だ。
 きっと、とても可哀想な人なんだとは思う。
 だがルクレスティードが見たものはほんの一部分にすぎない。
 リーンの様子からもそれは察した。
 恐らくは、ルクレスティードが見ていない前後に、何かがあったのだ。
 彼女は何者なのか、そして父に似た人は誰なのか。
 怖いが、知ることを恐れるほどではない。
 原子眼の時は、逃げたくなる恐怖があったが、今は違う。
「リーン…教えて。教えられる所まででいいから。…じゃないと僕…………ほっとけないよ…」
 大切な姉を守りたい気持ちがあるから、心から伝える。
 そうすれば、リーンはルクレスティードの瞳を真剣に見つめた後で、小さなため息をついた。
「…エル・フェアリアの地下にある、幽棲の間に封じられた魂の持ち主だ」
 ため息の後に、静かに聞かせてくれるのは。
「…え、魂?」
「そうだ。あの女は、全ての始まりであり、全ての元凶でもある……七つの古代兵器によって封じられた、哀れな女だ」
 幽棲の間を知らないわけがない。
 ルクレスティード達はいずれ、魂を被う呪いを解く為にその場所に古代兵器を突き立てるのだから。
「…じゃあ僕たちは、幽棲の間にいるあの女の人の魂を解放してあげるってこと?」
 古代兵器によって封じられたものを、解放することが父の目的なのだろうか。それが、ルクレスティード達の呪いを解くことに繋がるというのか。
 首を傾げて訊ねるルクレスティードに、リーンは苦しげに目を閉じて答えをくれなかった。
「…もしかして、解放するんじゃなくて、壊してしまうの?」
 リーンの様子から改めて訊ねてみても、リーンはやはり答えをくれなくて。
 誓約がリーンを苦しめているのだろうか。
 不安になりながらも静かに待っていれば、苦しそうなまま目を開けてルクレスティードを見つめてくれた。
「…エル・フェアリアの創始の物語を書いた本に目を通したことはあるか?」
「創始の物語…絵本なら」
 それはエル・フェアリアに産まれた者なら誰もが知る、初代の王ロードと虹の女神エル・フェアリアの恋物語だ。
 エル・フェアリアを奪い合う男達によって争乱が起こり、ロードがそれを鎮めた。
 ロードは国を治める王となり、虹の女神エル・フェアリアを妻に迎えて世の中を平和へと導いた、と。
 誰もが知る恋物語のお伽噺。
「その物語の、前半は合っている。後半は--」
 そこで、リーンの喉はヒュ、と鳴った。
 まるで喉を潰されているかのように苦しそうに両手で押さえ、顔色も青白く変化していく。
「リーン!」
「っ…大丈夫だ。……いや、大丈夫ではない、な…残念だがこれ以上は私では話すことが叶わん」
 話すことを諦めてようやく呼吸が戻ってきたのか、脂汗を浮かべながらリーンは苦しそうなまま笑う。
「…遠いラムタルの地にいるというのにこの力か…ここには魔術師達の結界も貼られているというのに…」
「リーン…」
「ここまで話せたことは朗報かもしれぬ…私では父には話せない。お前から伝えてくれ。そうすれば…少しはまた未来が良い方向へと変わるはずだ」
 苦しそうに呼吸を整えながら、リーンはルクレスティードに笑いかけてくる。
 その笑顔に安堵など出来るはずもなかった。
「…僕が見たもの、お父様は知らないの?」
「……恐らく」
 何でも知っている父ですら知らない真実。
 ルクレスティードにとって父は全てを把握している人だったからこそ、そんな父が知らないあの映像を思い出して背筋が凍った。
 父によく似た人と、アリアによく似た人。
 父とアリアだと断言してしまえるほど。
 創始の物語の前半は合っているとリーンは言った。
 絵本で読んだ物語の前半は、女神エル・フェアリアを求める男たちの争い、エル・フェアリアの悲しみ、そしてロードとの出会い。
 物語に書かれおらず、リーンが教えてくれたのは、幽棲の間に封じられた魂。
 全ての始まりであり、全ての元凶。
「……エル・フェアリアのお城に封じられているのは…女神様?」
 物語では、女神エル・フェアリアはロードの妻となった。
 しかし真実は。
「リー…」
「ルクレスティード…私からはもう何も話せない。…お前が、父に話すのだ。そうすれば、私が見た悲しい未来もきっと変わる」
 リーンの様子に、静かに頷いた。
 漠然と察した。
 ルクレスティード達の魂に刻まれた呪いの元がどういったものなのかまではわからないが。
 幽棲の間に封じられた魂を、父は救うのか、壊すのか。
 ルクレスティードが伝えることによって、変わるのかもしれない。
 良い方向へと変わるなら、早く伝えなければ。
「…良い子だ。しばらく会えないだろうが、頼んだぞ」
「え?」
 会えないとはどういうことなのか。
 わからないままベッドの隣に立ち尽くすルクレスティードの耳に、扉の開く音は異常なほど大きく響いた。
 思わずベッドの隅に隠れてしまうが、ルクレスティードはこの部屋に入ることを昨夜許してもらっている。
 静かな足音は二人分で、親しいアダムとイヴだとわかり、すぐに姿を見せた。
 だが先ほどのリーンの言葉が胸につっかえてしまい、ベッドのシーツを強く握りしめて。
「ぼ、僕、ここにいても良いって、昨日バインド様から言ってもらったよ!」
 昨日ルクレスティードの身に起きた原子眼の件があったから、ラムタルの魔術師達の結界に包まれたこの部屋で身を守る許可は得ている。
 だというのに出て行けと言われるのだと思っていたが、アダムとイヴは困った様子で互いに顔を見合わせ、イヴがルクレスティードのそばへとやって来た。
 シーツを掴む手の力を強くすれば、イヴはさらに困ったように眉尻を下げて。
「あなたはここにいて。何があるかわからないから。…ガイア様が戻るまでは、私も一緒にいるわ」
「……え…どういうこと?」
 首を傾げるルクレスティードとは反対となるベッドの向こう側にアダムが回り、リーンの身体をゆっくりと抱きかかえた。
「リーン!?」
 ルクレスティードをこの部屋から離すのではない。
 リーンを移動させるのだと気付いた。
「どうして!?なんで連れていくの!?」
 リーンも察していたかのように大人しく、アダムに抱き上げられるがままだ。
 思わずアダムの元へと走っていき、リーンを抱き上げる腕に縋る。
「僕がここに来たから?」
「…それは違うよ。エル・フェアリアから大会の為に訪れている方々が、この場所に気付きかけているんだ。万が一のことがあるからリーン様には移動していただくことになったんだよ。今朝バインド様がお決めになり、リーン様にも承諾を得ている」
 準備が出来たから、リーンを迎えに来た、と。
「待って、僕も…」
「ルクレスティード…心配せずとも大丈夫だ。しばらく経てばまた会える」
 リーンに促されて、アダムが多少強引ながら部屋を出て行こうとする。
 一瞬その腕を離してしまったが、ルクレスティードはすぐにアダムの前に立ちはだかった。
「しばらくってどれくらい!?」
 不安に押しつぶされそうになる声は、お腹から出しているというのに弱々しい。
「どうして僕ばっかり、お兄様やお姉様と一緒にいられないの!?」
 ニコルとアリアは一緒にいるのに。コウェルズだって血のつながらない妹達と一緒に暮らしているのに。アダムとイヴだって、いつも二人一緒なのに。
 やっとリーンという姉が近くにいてくれるようになったのに、なぜ離れなければならないのだ。
「…ルクレスティード。私と一緒にいましょう」
 イヴに背中からそっと抱き寄せられて、ぐっと両手を握りしめながら、アダムがリーンを連れて行ってしまうのを見送って。
 扉が閉まった後、ルクレスティードは苛立ちを抑える為にリーンのいなくなったベッドに走り伏した。
 リーンが言ったことは全部覚えている。
 それでも、こんな風に突然居なくなってしまったら。
 ルクレスティードにとっては女神エル・フェアリアなどより、兄や姉の方が重要なのだ。
「…ルクレスティード……ごめんね」
 伏せるルクレスティードの隣に腰を下ろしたイヴが、姉であるかのようにそっと頭を撫でてくれる。
 その温もりはルクレスティードの本当に欲しい温もりではなかったが、手が離れないようにイヴの方へと身体を少しだけ身じろがせた。
 なぜ自分ばかり兄姉と共にいられないのか。
 胸が苦しくなる不満に、視界は涙でゆらりと滲んだ。

第92話 終

 
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