第91話


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 時刻は夕暮れ近くなった。
 ジャックが歩く場所はラムタル城内の解放された庭園で、まだ濡れている髪が風に揺られて心地良い。
 ここを歩いている理由は、人の声を聞く為だ。
 今日は全員がほとんどの時間を賓客室内で過ごしているが、それでは他国の情報を得られない。
 術者を使い、割り当てられた他国の室内に耳をそばだてて重要な情報を聞き出そうとする国もあるだろうが、エル・フェアリアはそんなことをする必要などない。
 重要な話をする時はコウェルズが室内に術をかけていたが、今日に限っては今に至るまで明日の段取り程度の話しかしていないので術式すら組んでいない。
 ジャックが一人で風呂に向かいがてら耳をそばだてたのは、単に他国がエル・フェアリアについてどんな噂をしているか知っておく程度のものだ。
 悪意によっておかしな噂を流されていた場合は、早々にラムタルに出てきてもらわなければならないから。
 しかしそれも杞憂で、むしろエル・フェアリア王の訃報のお陰で周りの目は遠巻きとなり、噂話も何もあったものではなかった。
 バオル国もジュエルの涙の一件以来大人しく、このまま大会が無事に終わればと心から思う。
 ルードヴィッヒとジュエルに関しては別だが、本来の目的は大会ではないのだから。
 そんなわけで久しぶりに一人きりでゆっくりと落ち着くことが出来た入浴時間だった。
 ゆったりとした足取りで進む庭園はそろそろ奥まってきており、人の流れも途絶えた。
 木々は整然と並ぶが多種多様で、絡繰りの小さな風車が付いているのも面白い。
 風の力で明かりがふわりと灯っており、夕暮れ時という深いオレンジの空と相俟ってとても美しかった。
 リーン姫が好きだった世界だ。
 無事に成長出来ていたなら、成人を迎えた今年にラムタルへ輿入れし、ラムタル王と共に剣武大会を見守ってくれたはずなのに。
 虚しさが込み上げて、少しだけ頭を振って。
 行けるところまで行ってみようかと足を進め続ければ、ふと聞き慣れた風の切れる音が響いてきた。
 あまり遠くない場所で、誰かが戦闘訓練をしているのか。
 訓練場ではなくこんな場所で誰が訓練中なのかと木々の合間を進み続ければ。
「ーーーー」
 突然人型のシルエットがジャックの目の前で重力を無視するように浮かび上がった。
 思わず見上げて、
「ーーうわ!」
 向こうも驚いたように声を上げて、ジャックの頭上で姿勢を崩した。
 このままでは頭から落ちる。
 思わず両手を伸ばして、空を舞う彼を庇うように引き寄せた。
 地面に衝突する寸前で何とかジャックも体勢を維持して彼を守って。
『大丈夫か!?』
 掴むように庇った相手は、マガだった。
『…………あ…大丈夫、です…』
 腕の中でマガは驚いたままの表情で見上げてくるから、怪我は無さそうな様子に安堵する。
『マガ!大丈夫か!』
『マガ様!!』
 マガを離してやると同時に聞こえてきたのは二人分の声で。
『ジャック様!?』
『…イリュシー嬢』
 駆け寄る二人のうちの一人だったイリュシーが、ジャックの姿に驚いた声を上げた。
『え…ジャック様?本当に?』
『ああ。俺がジャックで合っているぞ』
 イリュシーと共にいる青年が驚いたようにイリュシーとジャックを交互に見てくるから、立ち上がりながら改めて当たっていると告げた。
『本当に…………』
 青年は呆けながらも嬉しそうにジャックを見つめてきて、しかしすぐに表情を改めた。
『失礼しました…私はマオット家長子、イデュオと申します。ラムタル国の剣術試合に代表として参加させていただきます』
『マオット家…イリュシー嬢の兄なのか』
『『はい』』
 返答は二人分が揃った。
『えっと…兄の訓練にマガ様が付き合ってくださっていたのです』
『そうだったのか。邪魔をして悪かった』
『いえそんな!!』
『邪魔だなどとあり得ません!!大会の生きる伝説にお会い出来て光栄です!!』
 イデュオは歳の頃ならガウェやニコルと同じくらいだろうが、初めて会うというのにジャックを慕ってくれていそうな様子が見た目より少し幼く見せた。
『そうか。マガは本当に怪我はないか?』
『あ…俺は……どこも』
 少し離れた場所に移動して立っていたマガは昨日の件もある為か居心地悪そうにしており、ジャックの問いにすぐに目を逸らした。
 初めて会った頃とは大違いだ。
 マガの様子に気付いたように、イリュシーはジャックにマガとイデュオが訓練をしていた経緯を話してくれる。
 ラムタル国の代表ではあったが今まで姿を見せなかったイデュオは、何やら別件の任務が今まで押していたらしく、ようやく昨日から大会準備に入ることが出来たらしい。
 準備はまだしも訓練にあまり参加出来なかった不安から訓練相手を探していたところ、イリュシーがマガを紹介したと。
 今もラムタル預かりとなっているマガはあまり外に出る機会もないらしく、イデュオとマガ双方の気分転換も兼ねて人目につかないこの場所で訓練を行い、同時に最終調整も済ませていたらしい。
 イデュオが手にしているのは鞘に収めたままの双剣で、マガは持ち前の身体能力で攻撃はせず躱すに徹して。
 しかし躱すだけにしてもマガの身体能力には素晴らしいものがあった。
 ジャックの身長を軽々と越すほどの跳躍力があったのだから。
『ダニエルが一緒なら、君の訓練を見ることが出来たんだがな…残念だが俺の剣術の腕前は平凡なんだ』
『そんな、とんでもないことです!!ジャック様と会えただけでも光栄です!!』
 拳を握りしめながら興奮したようにジャックを讃えてくれるのは、嬉しいより気恥ずかしい方が強い。
『嬉しいことだな。俺でも良ければ少し見てやろうか?剣術は教えられなくても、武術と通じる所は指導してやれるかもしれない』
『本当ですか!?』
 興奮するイデュオは強くマガに目を移し、同意を得ようとしている。
『えっと…俺はどうすれば…』
 マガは自分がイデュオの相手になるべきなのかジャックに譲るべきなのかわからない様子を見せるから、ジャックはイリュシーと共に下がって二人が訓練を始めやすいようにした。
 同時にイデュオも鞘に収まったままの双剣をマガに向けて構える。
 マガも状況を察したように、イデュオに目を向けながら少しだけ腰を低く構えた。
『……本当によろしいのですか?ジャック様』
『構わないさ。若い奴らにはこれも大会の醍醐味だ』
 イリュシーが申し訳なさそうに訊ねてくるから、気にするな、と笑いかけて。
 訓練が始まる、その一瞬早く。
「ーーマガはまだ戻ってこんのか!?」
 あまり遠くない場所から突然しわ枯れた異国語の罵声が響いてきて、ジャック達は全員瞬時にそちらに目を向けてしまった。
 あまり遠くはないはずだ。だが薄闇の中、人の形はすぐには見つからない。
『…どこの国の言葉だ?』
 異国語だった為にジャックには何と言ったのか聞き取れず、イリュシーが不安そうに少しだけ身を寄せてくる。
『…バオル国の言語でございます……マガ様を探している様子です』
 ジャックとイリュシーを守るように前に出るのはイデュオで、名前を出されたマガにはジャック達のさらに後ろにいるよう指先で指示を出す。
 突然のことだというのに、イデュオの冷静さには感心した。
 先ほどまで無邪気にジャックを慕ってきた幼さは見当たらず、沈着冷静で年齢よりも大人に感じさせる。
 命をかけた戦闘の経験がある者の気迫だった。
 ジャックが思い出すのは、コウェルズが教えてくれたマオット家の家風だ。
 マオット家は全員がバインド王個人に深い忠誠を誓っていると聞かされた。
 なら、イデュオの実年齢はわからないが、長子だというならバインドと肩を並べて前王を共に討っていてもおかしくはない。
 もしそうなら、大会ではかなりの強敵になるだろう。
 大会開始直前まで別任務を与えられていたのも頷けるほどの実力者。
 大会に出場出来るのは戦士達の人生で一度きり。大会の開催国は、自国の者が必ず優勝できるように優秀な手練れを調整するものだから。
 もしコウェルズと当たれば、一番の強敵になるかもしれない。
 ジャック達の安全を測りながらゆっくりと罵声の方へと近付いていき、木々を数本越えたところで人の影が幾つも見え始めた。
ーーあいつは…
 酷い声で怒鳴り散らしているのはマガの実父に当たる老人で、連れている女に支えられながらも杖を振り回している。その杖の先は老人の前で両膝をついて頭を下げている者達に容赦なくぶつけられており、あまりの暴力現場にイリュシーが身体ごと目を逸らした。
 まるで自分が暴力を振るわれているかのように怯えるイリュシーを背後のマガに任せて、ジャックはイデュオの隣に向かい、二人で木陰に隠れた。
『…あいつらは何て?』
『……マガを早く見つけろ、何としてでも取り返せ、という話のようです』
 ジャックにはわからないバオル国の言語を、イデュオは小声で訳してくれる。
 それ以外にも頭を下げている者達の会話などがあり、イデュオが真剣に聴き入る様子にジャックはそれ以上聞くのを今はやめた。
 ここにいる中でバオル国の言葉が分からないのはジャックだけだが、イデュオや後ろのマガとイリュシーの表情から、奴らが危険な企みを話し合っているのだと察する。
 マガは申し訳なさそうな表情のまま聴くに耐えないと俯き、イデュオは相手を殺しそうな形相のままひたすら息を殺して会話を聴き続ける。イリュシーは怯えながらも、腕に装着した金糸の絡繰りを微かに稼働させていた。
 それがどんな絡繰りかはわからないが、マオット家の二人が静かながらに行動に移しているから、他国人であるジャックが口を挟む時は訪れないだろうとわかった。
 老人が何度目かの怒鳴り声を響かせた後、とうとう耐えきれなくなったかのようにマガが両手で顔を押さえて泣き出してしまった。
 イリュシーは絡繰りの操作がある為にマガを庇えず慌てるから、ジャックが後ろに下がってマガの肩に触れながらしゃがませた。
「ーーーっ…」
 母国語で何かを呟き続けながら泣き続けるマガが、自分の肩に伸びたジャックの腕をすがるように掴み寄せる。
 木々の向こうではまた老人が怒り狂うようにがなり続け、人を殴る杖の音にも威力が増したていた。
『ジャック様、ここは私達に任せて、マガを城内へ戻していただけませんか?右手側に進み続けると柵があり、さらに右へと沿って歩いていただきましたら城内に通じる門があります。護衛の兵が立っていますので、彼らにマガを託してください』
 イリュシーが小声でマガを託してくるから、素直に従いマガの腕を掴んで何とか立たせた。
 マガは見るのも痛ましいほどにボロボロと泣き崩れ、項垂れ、全身に力が入らない様子だ。
 仕方なく俵のように持ち上げて、イリュシーが見守ってくるから片手で「大丈夫だ」と合図を送ってから指示された場所へと歩いた。
 担がれたことに流石にマガも呟くのをやめるが、代わりとばかりに嗚咽が響き始める。
 ジャックに縋るように身を丸めて、図体の大きな幼子のようだった。
 ジャックも話しかけることはせずにただ城門を目指し、進んだ先に柵を見つける。
 大小異なる絡繰りの歯車が回転を続ける木の柵を見かけた所でゆっくりと右方向へと進み続ければ。
『…………下ろしてください』
 微かな声だったが、ジャックの耳に確かに聞こえた。
 どうしようかと考えたが、ゆっくりと労わるように下ろしてやる。
 マガはしばらくの間は地面にへたり込んで項垂れていたが、何とか自力で立ち上がってくれた。
 頬にいく筋も残る涙を拳で削るように強く拭い、目も合わせないまま『すみませんでした』と謝罪をしてくる。
 その後はそのまま、途方に暮れるように立ち尽くして。
 マガが何を思って立ち尽くしたままなのかはわからないが、全身から醸し出される痛ましさは放っておけるものではなかった。
『俺はバオル国の言語がわからないから、あのじいさんが何を話したのかは知らないが…相当なことを言ってたんだな』
 マガが泣き咽ぶだけなら内容など知れていた。だがバインド王に忠誠を誓うマオット家の二人が捨て置けないと動いた。
 明らかに大会を逸脱した会話だったのだろう。
『お前が望むなら城門の兵の所までは一緒に行ってやるが、どうする?一人で戻れるか?』
 一人になりたいか、それとも一人は嫌か。
 言葉の裏に隠した優しさに気付いたのか、それとも無意識なのか。
 わからないが、マガはジャックの腕を掴んだ。
 ルードヴィッヒと同じ年頃だろうに、まるで途方に暮れた迷子だ。身長なら同年代より高い方だろうに。
 最初の印象と随分かけ離れる。はたして無礼すぎた最初の彼と、今のか弱い彼と、どちらが彼の本質に近いのか。
『……俺…は………』
 呟くような小さな声は弱々しいが、芯がないわけではない。
 それでも、今は弱さの方が勝った。
 またぼろぼろと涙が溢れ始めて、ジャックの腕を掴む手に力が込められる。
 痛いほどではない。それでも、切実に。
『……どうしたんだ?』
 涙が止められないほどの何があったのだ。
 空いた方の手で肩に触れれば、マガは弾かれたように顔を上げた。
『あいつ!……あの、糞爺………』
 噛み潰すように、吐き捨てるように。
『………やっぱり…俺の名前なんて知らなかった……』
 涙腺が決壊する。
 まるで眼球すら溶かしたように、マガは泣きじゃくった。
 思い返すのは、頭を負傷したことで救護室に運ばれたマガが意識の朦朧とする中叫んだ言葉。
 ジャックにはわからなかった。しかしジュエルが後で教えてくれた。
 母国語で、俺は紛い物ではない、と。
 紛い物だからマガ。
 名前などではなく、侮蔑でしかない蔑称。
 マガの生い立ちや、なぜマガをエル・フェアリアに託したいかなども聞いてはいたが、マガの心の奥深くに潜む感情まで聞かされたわけではない。
『俺はっ……俺…、なんで……アン様…………』
 ジャックの腕から身体へと、縋って、そのまま力なく膝をついて。
 混乱したようにひり潰された声で、アン王女への謝罪を口にし始める。
 まるでジャックがアン王女であるかのように。
 その姿にジャックも片膝を付いて背中をさすってやる。
『……名前を教えてやるから、王女に毒を飲ませろと言われたんだな』
 マガの言葉から、バオル国の王女暗殺未遂の一部を知る。
 ジャックの言葉は当たっていたのだろう。マガはわぁっ、といっそう強く泣き始め、何度も何度も謝罪を続けた。
 アン王女が服毒したのが何年前の話なのかまではジャックも詳しく知らないが、アン王女よりは数歳歳上だったとしても、その頃のマガは親に見守られているべき子供のはずで。
 そんな分別もまだ付け難い子供に、カス共は大罪を犯させたのだ。
 適当に付けられただけの酷い蔑称などではなく、本当の自分の名前を知りたがった幼い心につけ込んだ。
 しかし他ならぬマガがオリクス達に毒の件を伝えたが為に暗殺は失敗に終わり、今に至るまで名前を教えてくれなかったのだと思っていたのだろう。
 実際は、そもそもあの老人はマガの本当の名前など知らなかったのだ。
 つけ込むだけつけ込み、虐げるだけ虐げ、全ての罪をマガに背負わせる算段だったのか。
 自分の幼さがアン王女を酷い目に遭わせた。
 マガが縋るべきものをあの老人は持っていなかったというのに。
 発狂に至りそうなほどの絶望が、リーン姫を亡くした当時のジャック自身を思い出させるようだった。
 立っていられないほどの混乱、自責、絶望。
 ジャックが立ち直れたのは、父がいたからだ。
 五年前、リーン姫を亡くした絶望から廃人に近くなったダニエルを支えたのは妻と子達だった。
 同じく絶望に覆われたジャックの為に、老いた父はジャックの首根っこを引っ張り歩いた。
 各地を、近隣諸国を、ジャックを支えながら。
 だからか、目の前で泣きじゃくるマガが自分と被る。
 ジャックとダニエルには救いとなってくれる人がすぐそばにいた。
 なら、マガには?
 今はラムタル側で保護されているが、その後は。
 マガを思っているだろうオリクス達ではマガを救えない。
 マガの母親は、そもそも居場所もわからない。
 物理的に助けとなってくれる者が見当たらない。
 上部だけの優しさも、マガをさらに苦しめるだけだ。
 マガに待ち受けているのは、害悪にしかならない屑の父親の元で絶望のまま殺されるか、オリクス達という優しい者達の元で心の救いだけでも少しは得られながら殺されるか。
 そんな人生、あまりにも酷すぎではないか。
『……お前、何か得意なことはあるか?』
 マガとは呼べなくて、無愛想にも聞こえる口調でそう訊ねてしまう。
『……ぇ』
 意味がわからず見上げてくるマガの目元は、まだ涙が止まってはいない。
『得意なこと…特技だな。何が出来る?知識でも構わない。自分を最大限活かせるものは何だ?』
 戸惑うマガは、混乱するように眉を顰めていく。
 まだ未熟な若者に飛び抜けた才能など求めはしない。それでも訊ね続けたのは、マガを生かす為だった。
 せめてマガにエル・フェアリアで役立つ特技があるなら。
 それは、彼を知ってしまったジャックの責任の取り方だった。

第91話 終
 
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