第59話


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 レイトル、セクトルと共に城内の鳥小屋に訪れたニコルとアリアは、中で飼育されている伝達鳥の多さに圧倒されて同時に息を飲んだ。
 色とりどりの伝達鳥は性別と身体のサイズで部屋を分けられており、ひと部屋は兵舎内周の一室ほどの広さがあり、天井の高さはかなりのものだ。
 セクトルの伝達鳥は中型だが、幼い子供の上半身ほどもある大きさの鳥達が総出でこちらに目を向けてくる姿はちょっとした恐怖を植え付けられそうだった。
 アリアの肩に留まる小鳥も自分より大きな伝達鳥に怯えるように縮こまっている。
 小屋の規模は大きいが、王城内の伝達鳥はここにいるだけではないのだ。
 今ニコル達が訪れているのは城内で働く者達の個人の伝達鳥であり、王城の伝達鳥は別にいる。そして王族の伝達鳥はさらに特別な場所に小屋を設けられているのだ。見たことはないが、噂では王族の寝室並みの豪華さだとか。
「…すごい数だな」
 色とりどりの伝達鳥に息を飲みながら思わず呟いた言葉には、え、とアリアの意外そうな声が返された。
「兄さんは来たことないの?」
「伝達鳥はこいつだけで充分だったからな。わざわざ来ないさ」
 ニコルが伝達鳥に仕事を頼む機会はアリアや村長以外にはなかった。それ以外で何かを送るとするなら城内の配達機関を使っていたのだから。
「お前、誘っても来なかったしな」
 セクトルは何度かニコルを誘ったことがあるとアリアに教えてやりながら、自分の伝達鳥の元に向かった。
 部屋の中央の木に堂々と陣取る青い伝達鳥は飼い主であるセクトルが近付くことにも動じずにふんぞり返っている。
「ほら、行くぞ」
 セクトルが腕を出しても胸部をアピールしたまま動かなかった。
「…何やってんだよ、来い」
 嘴を軽くつまんで、小刻みに揺らして。
 そうすれば渋々といった様子でようやくセクトルの伝達鳥は飛び上がるが、留まった場所はセクトルの腕ではなく頭の上だった。
「…こいつ」
「あははは、定位置じゃないか!」
 いつものようにセクトルの頭でリラックスする姿はレイトルの言う通り定位置と言って構わないほど見慣れたもので、ニコルとアリアも思わず笑ってしまう。
「それじゃあ移動しようか。アリアの鳥も怖がってるし」
 用が済んだならと四人は小屋を後にして、すぐ近くに設けられていた木のテーブルを挟む長椅子に腰掛けた。
 ニコルとアリアが隣合い、テーブルに小鳥がちょこんと飛び乗る。
 レイトルとセクトルは向かいに座るが、セクトルの伝達鳥は頭の上から降りないだろうと思われたのになぜかテーブルに飛び降りていた。
 体格の違いに怖がるから、アリアが両手の平で被うように小鳥を包んでやって。
「名前をつけるっていっても…どういう名前がいいんでしょうか?」
 鳥達に名前をつける為に集まりはしたが、いざ名前をとなると難しいもので。
「俺は一応昔から決めてた名前はあるからな」
 セクトルがいつになく饒舌なのは、自分の伝達鳥に名前をつけてやれる機会が訪れて嬉しいからだろう。
 村長夫人から伝達鳥が譲られていなければ、セクトルも自分の伝達鳥の引退まで名付けることを待っていたはずだ。
「名前決めてるんですか?なんていうんですか?」
「私も初耳だよ」
 アリアとレイトルに身を寄せられて、セクトルは照れを隠すようにわずかに俯きながら伝達鳥の身体を撫でる。
「こいつ、身体が青いからな」
 何度も身体を撫でられて伝達鳥はくすぐったそうに身震いするが、やがて慣れたのかアリアの手の中にいる小鳥にじっと目を向け始めた。セクトルはその姿を眺めながら嬉しそうに表情を緩めて。
「茜にする」
「え、意味がわからない」
 レイトルの制止は間髪入れずに放たれた。
 ニコルとアリアも予想だにしなかった名前に口を開けるが、セクトルは本気の様子だ。
「名前はいいよ。いいと思うよ。だけど身体が青いから茜っていうのはちょっとわからない」
 名前に文句はつけないが、過程が理解できないと。
 セクトルは最初こそ否定されたことに不満顔になっていたが、やがて自分自身でも言葉が足りていないことに気付いたように「あぁ」と声を上げた。
「…俺が初めてこいつを飛ばしたのが夕暮れ時でさ。こいつ青いはずなのに、夕暮れのせいで身体が茜色に光ったんだよ。それ見た時から茜って決めてたんだ」
 それは初めて伝達鳥を飛ばした日。
 幼いセクトルの手を離れたまだ小さな伝達鳥は、夕日を浴びて身体の色を変化させた。
 光の加減によるものだったのだろう。だがセクトルはその光景が今でも忘れられないほど貴重な体験として目に焼き付いているのだ。
「…まあ、それなら納得できるな」
 ニコルも名前の由来にようやく頷いて、いいんじゃないか、と肯定する。
 綺麗な空色の身体だから正反対の色を名前に選んだというひねくれた理由ではないのだ。
「あたしもいいと思います!そういう名前もありなんですね」
 アリアも茜という名の理由を喜んで、自分が名付ける小鳥にも考えをめぐらせる。
 名前は人間に似せたものでなくてもよいのだと認識を改めたのだろう。
「何も知らない人が聞いたら少し驚く名前だろうね」
 レイトルも納得した上で冷やかすように伝達鳥をつつく。
 茜と名付けられた伝達鳥はその指に一度だけ嘴を向けたが、すぐに視線はアリアの手元に戻った。
「よし、お前は今から茜だぞ。呼んだら来いよ」
 セクトルの呼びかけにはひと鳴きだけ返して、目は向けない。
「…なんだよ、態度悪いな」
 こちらに注意を向けない茜にセクトルは少しムッとしたが、茜の見つめる先にいる小鳥に同じように目を向けて首をかしげた。
「まあそのうち自分でも名前を覚えるよ。次はアリアとニコルの鳥の名前だね」
 いとも簡単にセクトルの伝達鳥の名前は決まり、次の番が回ったことにアリアが背筋を正した。
「名前は…うーん」
「今絶対に決める必要もないだろ。いくつか案を出す程度に考えとけばいいんじゃないか?」
「あ、そうだね」
 セクトルと違い、アリアは名前など考えてもみなかったはずだ。
 そもそもこの小鳥はニコルとアリアの伝達鳥ではなかったのだから。
「村長さんは、何か名前を考えてたのかなぁ」
 風にかき消されてしまいそうなほどの小さな声で呟かれた言葉は、染み渡るようにニコルの胸をも苛んだ。
 考えても仕方無いことだろう。
 しかしそう割り切るには、あの村で村長と夫人の存在はあまりにも偉大だった。
 辺りが哀悼の静寂に包まれる。
 初冬の風は心地好い冷たさがあり、ここが極寒の村でないことを告げて。
 エル・フェアリア王都から最も離れた、辺境の村。そこには冷たさも温もりも、身に染みるほど存在した。
 凍え死ぬほどの寒さを癒してくれる家族の温もりが確かに存在したのだから。
 家族の。
 ニコルの脳裏に浮かんでしまう実父の言葉が全身を締め付けていくようだった。
 ファントム。彼は家族を欲するニコルを不要と切り捨てたのだ。
 息苦しくなる思いに駆られてニコルは拳を握りしめたが、ふと視線を感じて無意識に顔を向ければ、隣にいたアリアが優しく笑いかけてくれるところだった。
 父の言葉を思い出して凍てつこうとしていた心がアリアの笑顔に暖まり。
「あったかい名前がいいよね」
 まるでニコルの胸中を知るかのように、アリアはたったそれだけの言葉で全身に広がろうとしていた息苦しさを消してしまった。
 代わりに身体を満たそうとする愛しさは、アリアをどう愛しているというのか。
 大切な妹だ。邪な心を向けてはいけない。
「…そうだな」
 力を抜くように笑いながら、ニコルは静かに視線を下げた。
 アリアの優しさを少しも逃がさないように、自分の心をこれ以上壊さないように。
「天気にちなんだ名前もいいし、花とかもいいよね。あ、春に咲く小さな花とかいいかも!」
 アリアは迷ったり微笑んだりと表情をくるくる変化させながら手元の小鳥に沢山の案を出し始めるが、小鳥はどれもこれもわからないというように困惑じみた声で鳴き返していた。
「うーん、何がいいんだろう?」
「あせることないよ。何なら書物庫で花の図鑑を開くのも有りだからね」
「あ、そうですね」
 あれこれと案は出ても、決め手となるような名前は出てこない。
「二人のいた村に咲く花とかは?」
「んー…あたしたちのいた村、ほんとに寒い地方だったせいか、草は生えても可愛い花は…咲いても暗い色だったりでしたし」
 村を思い出しているのか、アリアの少し困ったような苦笑はレイトルの口を止めるには充分だった。
「まあ、そのうちこれだって名前が見つかるだろ」
 その止まる様子を知ってか知らずかうまい具合にセクトルが茜に注目しながら言葉を続ける。
 セクトルの視線を独り占めしているというのに茜はアリアの手元にだけ注目している。
 正確にはアリアの手に守られた自分より小さな鳥にだろうが。
「茜…お前、さっきから見すぎだぞ」
「そういえばそうだね…」
 セクトルが注意して、レイトルが同意して。
 アリアも茜と自分の小鳥を交互に見てから首をかしげた。
 アリアに守られた小鳥は、茜の視線から何とか逃れようとアリアの手に身を隠すが、アリアの手のひらほど小さなわけではないので身体は見えてしまう。
「…エサに見えてるんじゃないか?」
 ふとそう思ってしまいポツリとニコルは呟いたが、三人の気配が一気に凍りついて冗談と笑えないような状況が突如出現した。
「…こいつ昔から鳥肉好きだったんだよな」
「…やめなよ、アリアがいるんだよ」
 茜を一番よく知るセクトルが茜の好物を告げて、レイトルが肯定そのものの制止をする。
「えっと……こっちにおいで」
 アリアは小鳥を自分の膝に移動させようと恐る恐る両手を動かして、小鳥がアリアの意図に気付き自ら膝に向かおうとした瞬間の事だった。
「--うわ!」
 茜が突然翼を開いて胸をはり、飛び上がるわけでもないのにばさばさと羽ばたき始めたのだ。
 あまりに突然のことに小鳥が悲鳴のような鳴き声を発して飛び上がる。
「あ、待て!!」
 パニックに陥って逃げてしまったら大変なことになる。ニコルは大空に逃げる小鳥めがけて慌てて魔力を放ち、小鳥を包む丸い格子籠を生み出した。
 実体となった形の不慣れな魔具は小鳥を捕らえたまま一気に落下し、墜落する光景にアリアの悲鳴が一帯に響き渡る。
「くっ」
 だが間一髪で魔具は操作され、小鳥は籠ごとニコルの胸に収まって地面にぶつかることは避けられた。
「兄さん!!」
「ニコル!大丈夫かい!?」
 すぐに駆け寄ってくるのはアリアとレイトルで、セクトルは茜の身体を拘束している。
「俺は大丈夫だ…おい、もう大丈夫だぞ」
 ニコルはすぐに腕にした格子籠の中に目を向け、いまだにパニックを起こして逃げようとしている小鳥に優しく話しかける。
 格子に自ら何度もぶつかる小鳥の姿にアリアが口許を押さえるが、ニコルが何度も話しかけて、ようやく声に気付いたように小鳥は動きを留めてくれた。
 しかし痛みに耐えるように震える姿はつらく、すぐにアリアが格子籠ごしに小鳥に治癒魔術を施す。
「治るか?」
「鳥の身体の作りは知らないから…治癒力を高める程度にしかできないけど…」
 墜落は免れたといっても、格子籠に身体をぶつけ続けたのだ。人間でいうならばひどい打撲傷は出来ているだろう。
「それにしても、急に襲うなんて…らしいといえばらしいけど」
 小鳥の無事な様子に安堵の溜め息を付きながらレイトルはセクトルに向けて棘を放つが、セクトルは「いや…」と茜を抱き押さえながら困惑の表情を浮かべていた。
「襲ったというか、こいつ、たぶん襲いたかったわけじゃない…」
 伝達鳥を慮って近付かずにいてくれながら、セクトルは茜の様子のおかしさを説明しようとする。
「…何かあった?」
「何かってか…こいつのさっきの動き…求愛行動だ」
 簡単にしてわかりやすい説明。だが理解しがたい単語にニコル達はいっせいに動きを止める。
 いったい今何と言ったのか。
 頭の中を白く染めていれば、セクトルはまた口を開いて。
「…茜、その鳥に惚れたみたいなんだ」
 腕から逃れて伝達鳥の側に向かおうともがく茜を抱き押さえながら、セクトルが滅多に見せない最大級の困惑の表情を浮かべていた。

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「--ビアンカ嬢!」
 コウェルズ王子達の出発後に少しずつ解散を始めたメンバーに交ざるように侍女長としての職務に戻ろうとしていたビアンカは、自分を呼び止める声に微かに心臓を跳ねさせた。
 驚いたわけでも、脅えたわけでもない。
 もういい歳だというのにビアンカの胸を疼かせるのは、この世にたった一人だけだ。
「何でしょうか?」
 振り返り、表情を崩さずに問いかける相手。
 かつて恋仲にあった年下のスカイは、周りからオヤジ騎士などと称される普段の様子からは嘘のように身を小さくしていた。
「話があるんだ…いいか?」
 口ごもる言葉が示すのは、最近自分の周りに流れ始めた噂が原因だろう。
 ただの噂だと割り切るには、スカイの表情はあまりにも真剣で、そして同時に傷付いていた。
 傷付かれてもビアンカにはどうしようもないのに。
「少しだけなら構いませんが」
「悪い。あっち行くか」
 スカイに時間を許したとたんに、急かされるように裏庭に植えられた木々の合間に連れていかれる。
 一同から離れて、木漏れ日の少ない薄暗い中に二人だけの空間が現れて。
 少し戻ればまだ人は多い。だがこの空間がたまらなく心地好くてならなかった。
 このまま寄り添えたなら幸せだったろう。しかしその幸せは、ビアンカが自ら投げ捨てたのだ。
「何かありましたか?」
 もうスカイと自分を繋げるものは職務以外に存在しない。そう口調の中に含ませて問えば、スカイの視線は躊躇うようにビアンカから離れて下を向き、数秒経ってからようやくまた戻った。
「…あ、その…」
 しかし言葉はかじかむように先に進まない。
 彼にしては珍しい姿だろう。
 ビアンカを取り囲む噂がそれほど不安にさせているということだ。
 それはなんて嬉しくて、同時につらいことなのだろうか。
「…私とジャック様に関する噂ならお気になさらないでください」
 あまり長くこの場にいてしまったら情に流されてしまう。そう感じたビアンカは、自分の口からスカイが気にしているだろう噂について話した。
 そうすれば思っていた通りみるみるうちに表情は強張って。
 最近ビアンカの周りに立ち始めた噂。それはビアンカと双子騎士の片割れであるジャックとの関係を示すものだった。
 ビアンカがジャックと恋仲にあった頃、当然だがスカイもビアンカも全く互いを認識してはいなかった。
 それほどに若い頃のビアンカとジャックの関係は、当時は周知の事実で。
 紆余曲折あって別れることになり、ジャックに至っては五年前に王城を追放されてしまった。
 ビアンカとスカイが恋仲となったのは、ジャックがいない王城でのことだ。
 だが結果的にスカイとの関係も終わり、ビアンカは独身のまま今を生きていて。
 そこに、同じく独身のままのジャックが戻った。
 恋の話にいとまがない侍女の娘達は、かつてビアンカとジャックが恋仲にあった事実だけを知って想像という名の噂を始めたのだ。
 互いに独身でいたのは、まだ互いを思っているからだと。
 そして再び巡りあったのだから、きっと進展すると。
 まるで祝福するような噂。
 スカイとビアンカの仲は知られていなかったので、スカイがまだビアンカを思ってくれているなら胸中穏やかにはいられないだろう。
「…その、本当なのか?」
 傷付いたスカイの表情がビアンカの全身をもどかしさで締め上げる。
 ここで涙ぐみながら慌てて言い訳ができるほど、ビアンカは他人に弱さを見せられる性格ではない。
「ジャック様との関係はすでに終わっていますから」
 さらりと、何も感じていないと告げるように。
 かつてジャックと恋仲にあったことはスカイも知っている、そればかりは変えられるわけがない。
「でも…その、侍女達がお前とジャック殿がよく行動してるって」
「職務上、私は沢山の方と会話をしますわ。ジャック様とダニエル様はコウェルズ様と共にラムタル国へ向かわれるので、話し合う機会が多かっただけです。侍女達はその様子を見たのでしょう」
 まだ戻ったばかりの双子騎士の世話も確かにあったが、そこにはジャックだけでなくダニエルもいたのだ。
 時折ダニエルが気を使うように離れる事があったが、それをわざわざ告げて不安を煽る必要などない。
 噂など自分には関係ないと切り捨てるビアンカに、スカイの沈黙はチクリと刺さるようだった。
 これ以上は侍女でいられる自信がない。
「…あの人とはもう終わったの。私があなたと出会ったのはそのずっと後のことよ」
 これ以上スカイの苦しげな表情を見たくなくて、ビアンカは諭すように見上げて強く話した。
「私のことを調べているならわかってるはずでしょう?あなたと別れてから、私は誰にも自分を許さなかったわ」
 スカイがまだビアンカに未練を持っていることは重々承知している。そしてその未練が嬉しいと思ってしまう自分がいることにも気付いているのだ。
 その未練が気持ち悪いと思えたなら、まだ楽だったかもしれないのに。
「…最初の男だったんだろ?」
 嫉妬の言葉に、鼻で笑うような失笑はすぐにこぼれた。
 その様子にスカイはムッと眉をひそめるが、数歳年下というだけの大の男を可愛いと思ってしまうのだから、自分も相当スカイに未練を持っているのだ。
「最後じゃ不満?」
 質問を質問で返して、困惑する表情を見つめる。
 まだ愛しているし、まだ愛されているという自覚がある。
 それでも別れを選んだのはビアンカ自身なのだ。
 スカイと一緒になってしまったら、仕事など手につかなくなってしまうとわかってしまったからだ。
 スカイが絡めば、ビアンカは周りに思われているほどの思慮深い大人ではいられなくなってしまう。
 スカイの周りにいる娘達に嫉妬して、スカイを恋慕う幼いコレー姫に嫉妬して。
 その嫉妬で仕事が手につかなくなってしまうことが耐えられなかった。
 別れる当時はぐちゃぐちゃになる自分の心を守ることに必死で。
 そして時間をかけて心を落ち着かせた今でも、やはり侍女職をまだ辞めるわけにはいかないと。この国の侍女たちは、まだ未熟だからと。
「なあ、俺はまだお前を」
「やめて」
 スカイが一歩近付いて触れてこようとするから、ビアンカは二歩離れて愛しい手のひらを拒絶した。
「…ビアンカ」
「お願い、わかって…あなたの傍にいたら…私はまた仕事が出来なくなってしまうわ」
 いっそビアンカをすっぱり忘れて他の女性を愛してくれたなら、ビアンカもしっかりと身を引くことができるのに。
 悲しくても、前を見ることができるのに。
 ビアンカはもうスカイ以外に恋はできない。
 これほどまで愛した人はいないから。だから、スカイが他の女性を選んで。
「…ビアンカ」
 いつの間にか滲んでしまった涙のせいで視界が遮られていたから、ビアンカはスカイが近付いたことに気付けなかった。
 頬をぬぐわれて、そのまま優しく引き寄せられる。
「…わかってたまるかよ」
 頭上から響く低い声が、全身に緩い電流のように流れて消える。
 装備ごしでもわかる、力強くて熱い身体。
 ビアンカを押し潰すことなど容易いはずの逞しい身体が、壊さないようにと優しく抱き締めてくれるのだ。ビアンカはその心地好い腕の中から逃れようとはしなかった。
 自分からは逃れられない。だから。
「…離して」
「…嫌だ」
 我が儘なのはどちらなのだろうか。
「愛してるんだ…」
 いつもは煩いだけの声がビアンカにだけ聞こえるように小さく囁いて、抱き寄せていた腕に力をこめられる。
 いっそこのまま身を委ねてしまえたら。
 それが出来たら幸せだった。
「…これ以上は職務妨害ですわ、スカイ様…どうかお離しくださいませ」
 それが出来ないから、ビアンカは自ら仮面を何重にも重ねるのだ。
 そっとスカイの身体を押して離れて。
「ビアンカ…」
「何か不便が御座いましたら仰ってくださいませ。侍女の職務範囲内でしたらすぐに解決いたしますので」
 離れて、見上げて、俯いて。
 最後に深くお辞儀をして、ビアンカはスカイから逃れるように、瞳を閉じたまま身体の向きを変えた。
 来た道を戻れば、スカイが後を追ってくる気配はせず、ビアンカはひたすら涙をこらえて足を動かし続けた。
 これでいいと自分に言い聞かせながら。
 まだ統率のとれないエル・フェアリアの侍女達を束ねる自分は必要な存在だから。
 ただの女にはなれないのだから、と。

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