第91話
第91話
朝日と雪により純白の世界が広がるエル・フェアリアの土地に降りる寸前、パージャはポツンとたった一人でこちらを見上げてくる人間に気付いた。
まるで待っているかのような様子で、ファントムの生み出した巨大な龍型の生体魔具に驚きもしない。
極寒の世界から身を守る為の厚手の外套は深紅で、長い髪の色は緋の混ざる淡くも鮮やかな赤。
エル・フェアリアの人間だと瞬時にわかるが、この土地は藍都の系統に任されたカリューシャ地方のはずだ。
ニコルとアリアが育った、エル・フェアリアで最も凍てつく場所。王都から最も離れ、大戦中は別の国の領土だった。
愚かにもエル・フェアリアに挑み、いとも簡単に滅国となり、エル・フェアリアに吸収された土地。
ファントムは無言のまま龍を急降下させ、降りると同時に雪が舞い上がり、待っていた者の赤い髪を強く揺らした。
龍はすぐに消え去り、身体がぐらつくのをファントムに腕一本で押さえられる。
ミュズの癒しの効果はすでに薄れ、パージャは傷の痛みから立っているのもやっとの状況に戻っていた。
「…お待ちしていましたわ」
舞い上がる雪が落ち着いていく中で、乱れた髪を直しながら待っていた人物が口を開く。
ゆっくりと目を向ければ、五十代に差し掛かったほどの女が無表情のまま頭を下げた。
歳を重ねた美しさを持つ、落ち着いた色香を滲ませる女だった。
女は頭を上げてからファントムへ、次にパージャへと顔を向ける。
その目には何の感情も見当たらなかったが、口元だけは微笑みを浮かべていた。
いったい誰なのか。名乗らないまま女はくるりと背を向けて、先を進み始めた。
それに続いてファントムがパージャの身体を支えながら歩くから、従うしかなくなり。
傷口から全身へと響く引き裂くような痛みに、何度も顔を強く顰める。
ファントムの歩みはパージャに合わせるように普段より遅かったが、それでも痛みが減るわけではなかった。
女は平気で先へ先へと進んでいき、やがて突然歩みを止める。
龍から降りた場所からここまで、対して代わり映えのしない場所。
一面の銀世界が広がるだけ。
そのはずだった。
「ーー…」
何なんだよ、ここ。
そう言いたかったのに、声を出す力すら無かった。
メディウム家の者達が眠る墓に来たはずなのに、ここには雪しかない。
それともこの雪の下に埋もれてしまっているのだろうか。
激しい痛みの連続で頭はあまり働かないが、女のすぐ近くまでようやく辿り着いてから、ファントムはパージャから手を離した。
「……っ」
ぐらつく身体が、そのまま雪の上に倒れ込む。
激痛に身を捩らせる中で女が少し驚いたようにパージャの元に来てくれたが、傷の状況に気付いて唇を引き結び、身体を支えるだけに留めてくれた。
やはりこの雪の下に墓があるのだろうか。
そう思いながら見上げれば、闇色の赤い髪を靡かせながら、ファントムは右手に黒い魔力の玉を生み出した。
魔力の玉は漆黒に近いほど凝縮されてから、突然パン、と弾けるように霧散する。
たった一瞬の出来事だった。
「な…」
たった一瞬で、世界が激変する。
一面を雪で覆われていた極寒の世界が、柔らかな涼しさに様変わり、足元には草丈の低い花がちらちらと咲く美しい広野となる。
冬から春へと一瞬で。
だがこの場所が元いた雪の積もる場所とは何かが違うことに、空を見て改めて気付いた。
淡い金色に満ちた空。まるで星々のように、白金が粒となり瞬いている。
こんな美しい空など知らない。
あまりの美しさに、数秒ではあるが痛みすら消え去った。
「こ……」
ここは、そう訊ねようとして、痛みがぶり返し、言葉が消える。
「…ここはメディウム家の皆様とそのご家族様が安らかに眠る土地です。土地一帯に彼の魔力が施され、守られ続けています」
パージャの言葉の掠れた問いかけに女が答えてくれて、改めて見渡す。
果ては見えない。というよりも、四方は一定の距離から霞むように白く消えていた。
墓標は見当たらないが、ファントムは一本の金色の百合が咲く前まで進み、その百合にゆっくりと触れた。
慈しむかのような指の動きの後に、百合の隣に咲く薄桃色と黄色の百日草にも目を向ける。
「…ここにクィルモアは眠っている。隣は息子と、その妻の二人だ」
説明されて、言葉は喉に詰まった。
墓標の代わりに花が咲くのか。
なら、この場所の花々の数は。
改めて見渡し、百合の花を中心に、いくつもの種類の花が咲いていると気付いた。
恐らくは百合がメディウムの女達。そしてその周りに咲く多種の花は伴侶や子供達なのだろう。
季節感を無視した色とりどりの花々に、美しさとは別の物悲しさを覚える。
メディウム家の女達はガイアとアリアとミュズを残すだけになってしまった。特にミュズは血が薄れ、魔力としての能力は存在しない。
なぜここまで数を減らす結果になってしまったのかわからない。
パージャを匿ってくれたクィルモアのように、他の者達も魔術兵団の手にかかったのだろうか。
ファントムはゆっくりと花から離れると、そこに魔力を柔らかな霧のように緩やかに落とし始めた。
パージャ達の纏う闇色の魔力ではない。
金色の、美しい。
それが本来のファントムの魔力の質なのだと瞬間的に理解出来たのは、コウェルズ王子も同じ色の魔力だったからだ。
不思議なのはニコルの魔力だった。
エル・フェアリア王家の魔力は他国とは異なると聞いた。コウェルズや七姫達のように、今のファントムのように虹色や金色をしているというなら、そうなのかもしれないと思えた。
だがニコルの魔力は、他の者達と同じ黒いものだった。
なぜなのだろうか。
わからないまま、目の前で黄金の霧が大地に染み渡り、そして金色の百合をサラサラと砂のように消滅させた。
ファントムの魔力と溶け合うかのように美しく。
その後、土が静かに盛り上がり始めた。
まるで下から何かが這い出てくるように。
まさか、クィルモアの死体が動いているとでも言うのだろうか。
緊張したまま見守っていたが、土は重力を忘れたかのように浮かび上がり、剥き出された土中には何もありはしなかった。
何も。骨すら。ーーいや、
土とは別の何かが浮かび上がっている。
手のひらに収まる程度の球体が二つ。
それは。
「……っ」
それが何かわかった時、パージャは強く唇を噛んでしまった。
眼球だ、と。
予測していたかのように二つ。
二つである理由は。
「…微かにクィルモアの魔力を感じる。死ぬ寸前に、お前達の為に残したのだろうな」
クィルモアは占いが出来たと聞いた。
未来の一部も見えていた、と。
見えていたのだ。
パージャと、ウインドが。
ミュズによって、メディウム家の人間の身体そのものに他者を癒す力があることはわかった。
パージャの呪いの傷すら抑えたのだから。
クィルモアは知っていたのだ。メディウム家の不思議な体質を。
知っていたから、残してくれた。
ファントムは眼球を手のひらに乗せたままその場から下がり、重力を無視して浮かび上がっていた土はファントムの魔力に導かれるようにゆっくりとまた下に降りていった。
そこにもう金色の百合は咲いていない。
これからまた新たに咲くのかもわからない。
墓標代わりの花が、もう一度咲いてほしいと。
切実に願うパージャの前に、ファントムは眼球の乗る手のひらを差し出した。
干からびてなどいない、新鮮なほどの銀色の瞳孔の眼球。
隣で女に支えられながら、パージャはその一つに手を伸ばした。
どうするべきかはわかっていたが、ただじっとクィルモアの目を見つめ続ける。
涙は自然とこぼれた。
パージャを助けてくれた人。
死んでなおパージャを助けてくれる人。
全身に響き渡る呪いの傷の痛みは気力すら根こそぎ奪っていたというのに、涙は止まらなかった。
パージャの為になぜここまでしてくれるのだ。
息子を殺されたのに、孫を苦しめられているのに。
涙で世界が歪むように視界がかすれていく。
罪悪感に全身を責められるようだった。
それでも、ここでじっとしているわけにもいかなくて。
パージャは戻らなければならないのだ。
ミュズの元へ。
大切な彼女を助ける為に。
その為なら。
「ーーっ…」
自分の為に残された眼球を、パージャは口に入れ、強く噛み締めた。
今まで味わったことのない奇妙な食感、味、匂い。
噛み締めて、飲み込む。
その間も涙はあふれ続けて。
どろりと身体の中へと落ちていく感触の後、変化はすぐに訪れた。
パージャを苦しめ続けた痛みが薄まり、消えていく。
同時に黒い魔力の霧が現れて、いつも怪我をした時に勝手に治っていったように、パージャの呪いの傷を完全に消し去った。
あまりにあっけなく、いとも簡単に
身体に残るのは、気力を奪われていたことによる凄まじい脱力感だ。
隣で心配そうに見つめてくる女が、ゆっくりとパージャから手を離した。
一人にしてほしいほどの虚無感に気付いてくれたかのようで、思わず目を閉じる。
目を閉じた向こう側で、女が立ち上がる気配を察した。
「…そちらはどうするのですか?」
「ラムタルにもう一人、同じ呪いに侵されている者がいる」
やはり二つのうち片方はウインドの為に残されたものだった。
「クィルモアの為に花を植えてくれ」
「…では、今度こそあの方の好きだった桜の木を」
桜。
その花の名前に、強く目を見開いて顔を上げた。
「ばーちゃんを知ってるのか!?」
女の細い腕を掴んでしまい、慌てて離して。
桜は、パージャにとって重要で大切なものだ。
ハイドランジア家の老夫婦が与えてくれた優しい名前で、ミュズの髪色で、パージャの心の支えになってくれた植物。
クィルモアも好きだったのか。
目の前に立つ女はそれを知っているというなら、クィルモアと会ったことがあるのか。
「クィルモア様は…私の命を救ってくれた恩人です」
老い始めてなお美しい女に、クィルモアとは別の真の強さが垣間見えた。
「……私はベラドンナ。カリューシャ地方を治めるルシア領の主ですわ」
妖艶に微笑みながら、今まで名乗らなかった女は改めるようにパージャに手を差し出した。
その手に、挨拶のように触れる。
握手まで行かなかったのは、疲れきったパージャの気力が追いつかなかったからだ。
それでも耳にしたことがある。
元は藍都ガードナーロッドの分家だったルシア家は、大戦により急速に広がってしまった土地を治める為に、上位貴族の下七家として改めて地方領主となった。
そして現在のルシア家を統べる領主は女。
夫を亡くし、子供もいなかった為だ。
エル・フェアリア国内において今なお戦火の残る土地を守る主は、幼いニコルに全てを教えた。
魔力の扱い方も、戦闘経験も、薬草の知識も、闇の世界の現実も、女の扱いをも。
「ルシア家に嫁いだばかりの私は、滅国の民の急襲に会い、命を落としかけました。その時に救ってくれたのがクィルモア様でした」
過去を懐かしむように、ぽつりぽつりと語り始める。
瀕死の重症を負ったベラドンナを、クィルモアは治癒魔術により癒した。
それからベラドンナが完全に回復するまでの数日の間だけ共にいてくれて、その後は忽然と消息を絶ったと。
魔術兵団から逃れる為だと知ったのは、ファントムが訪れた時だという。
ファントムはベラドンナに現状を伝え、今後を伝え、亡くなっていくメディウム家の者達を弔う為の特別な土地を守る役目を与え、ニコルの成長の助けとなるよう命じた。
クィルモアの与えてくれた薬草の知識を全てニコルに与えたのもベラドンナだ。
思い出すのは、騎士として潜入した時に王城の食堂で毒を盛られた皿をパージャから離してくれたこと。
ニコルを介して、ベラドンナを介して、パージャはまたクィルモアに守られていたのだ。
たった数日間でクィルモアの全てを知るわけではない。だが命の恩人は、不完全な予知能力を上手く扱い、今後ベラドンナの身に起きることを教えてくれた。
薬草の知識も、完璧に覚えるまでに長い年月をかけた。それでも最短の道を進めたのは、クィルモアの残してくれた薬学書があったからだと。
その中で知ったクィルモアの好きな花。
桜は、クィルモアにとっても大切な花だった。
パージャが桜を好きなように、パージャの恩人も。
「…クィルモア様が去る前日、不思議なことを言っていました」
ベラドンナはポツリと語る。
「大切な人から多くを分け与えられた子が来るかもしれない。その子はまた、その大切な人に与えられたものを返すでしょう、と。…あなたのことなのかしら」
まるで子供の運命を告げてくるように。
だがクィルモアは、パージャを子供扱いばかりしていた。
もし生きていたなら、パージャが大の大人になっても子供扱いしただろう。
そんなクィルモアらしい予言。
大切な人とはもう、ミュズ以外にいない。
いつの間にか止まっていたはずの涙がまた大量に溢れ出した。
早くミュズの元へ戻りたい気持ちが全身を苛むというのに、クィルモアの墓前から足は動かなかった。
クィルモアだけではない。
その隣に眠る、ミュズの両親からも。
パージャのせいで苦しみながら死んだ人たち。
パージャとさえ出会わなければ、きっと今も幸せだったはずの人たち。
パージャが甘えてしまったが為に、あるはずの未来を奪われた。
残酷なのは、運命か、国か、パージャか。
エル・フェアリアへの、魔術兵団への激しい恨みに、自分自身への強い罪悪感が含まれる。
それでも、パージャはミュズを諦められない。
そばにいてほしい。パージャの近くで。
笑っていてほしい。
なんて浅ましくて、身勝手なんだろう。
笑顔を奪っておきながら。心を潰しておきながら。
こんな最低な自分が、ミュズの家族の墓前に立つなんて。
「ーー来い」
パージャの後ろで、ファントムが呼んだ。
ファントムと共にベラドンナが離れていく気配を感じ、呼ばれたのは自分ではなかったと心のどこかで気付いた。
そもそもパージャが呼ばれたのだとしても、動けなかったのだが。
気配が静かに離れて消える。
一人にしてくれたのかと、どこか他人事のように考えていた。
金色の空が美しい綺麗な世界に、花の墓標達とパージャが一人きり。
ここはとても穏やかだ。
だが花の下に眠る者達は、はたして穏やかな最期だったのだろうか。
ガイアが産まれると共にメディウム家の者達が王城から姿を消したのなら、長い年月があったとしても、人が産まれて死ぬほどに長くはない。
穏やかだったなら、まだ生きている人々ばかりのはずだ。
それでも現実は今だ。
みんな死んだ。
死んでしまった。
クィルモアのように、アリアの母のように、名もわからないメディウムの女性達が。
パージャは土ばかりになってしまったクィルモアの墓前から少しだけ離れ、ミュズの両親の元に行く。
薄桃色と黄色の百日草。
それぞれ何輪かずつ咲く百日草を一輪ずつ、茎から貰った。
黄色の百日草の方が少し大きいから、黄色が父親なのだろうか。
二輪をそっと手で包むように持って、自分の魔力で覆った。
何もかも失ったミュズの為に。
それがただの気休めだったとしても。
ミュズの両親を胸に抱いて、改めて周りを見回した。
メディウム家を示すのだろう百合達、そして季節感の異なる色とりどりの花々。
人を殺すほどの極寒の世界に守られた、穏やかな場所。
離れがたかったが、戻らなければならない。
分け与えられた多くのものを返す為に。
ミュズの為に。
ひとしきり見渡して、また最後にクィルモアの墓前に立った。
土だけになっている場所。
きっと身体は土に帰った。
パージャの為に眼球を残して。
「…また来るよ、ばーちゃん」
ミュズに全てを返してから、一緒に来る。
絶対にまた。
そう心に深く刻み込んで、パージャは墓前に背を向けた。
二輪の花を大切に胸に抱きながら、ファントム達が向かったであろう方向へと足を進める。
美しい世界は果てしなくどこまでも続くようで。
白い霧の向こうにさえまた別の穏やかな場所が待つようで。
でも、突然。
パン、と弾ける音がして、全身を強烈な寒さが襲いかかってきた。
日は高い。空も雲ひとつなく青い。
だが大地は深い雪に閉ざされて、銀世界が広がっていた。
白い地獄のような場所で、ファントムはベラドンナと共にパージャを待っていた。
何も話しはしない。
ファントムも何も話しかけてはこない。
ベラドンナは数歩離れ、ファントムが龍の生体魔具を生み出すまでを見つめていた。
異形の龍はここに来た時と同じようにファントムとパージャを待つが、パージャは龍には近寄らなかった。
自らの魔力を解放して、美しい白い花の生体魔具を生み出す。
「……エンジェルオーキッド」
パージャをすっぽりと覆えるほどの巨大な花の魔具。
その名前を、ベラドンナは呟いた。
自力で戻れるという無言の意思表示にも、ファントムは何も言ってはこなかった。
先に空に上がるのはファントムで、その後に続く。
「また、お待ちしておりますわ」
見上げてくるベラドンナはすぐに小さくなり、やがて白い世界にぽつんと落ちた赤い雫のようになった。
ミュズの元へ早く帰る。そしてまた、ここに戻ってくる。
もう痛みの消え去った身体に二輪の花を大切に抱きながら、パージャは雪の世界から空へと目を移した。
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