第90話


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 部屋の明かりは薄暗いまま、モーティシアは夜の闇が漂う自室に静かに立ち上がる。
 ベッドで眠るのは裸体のマリオンで、まるで身を隠すように小柄な体をさらに丸め、息を潜めるように微かな寝息だけを静かな室内にゆるく響かせていた。
 彼女を起こさないように離れたつもりだったが、突然頭をグイッと後方に引かれ、痛くはなかったが少しだけ強い眼差しで背後に目を向けて。
「…髪を引っ張らないでください」
「ごめ…なさい」
 見れば、慌てて飛び起きたのだろうマリオンが、モーティシアの長い薄紫の髪の毛先を束で掴んで縋っている。
 怯えた眼差しが「離れないで」と伝えてくるから、ため息を吐きそうになるのを我慢しながら隣に腰を下ろした。
 それでも、マリオンは髪を掴んだ手を離さない。
「…傷むので離してください」
「ふふ…髪を気にするなんて、女の子みたい」
 小さな手にそっと触れて、握りしめている指をゆっくりほぐして。
 モーティシアの言葉にマリオンがクスクスと笑うから、表情ではムッとしながらも、内心ホッと胸を撫で下ろした。
 昨夜もそうだった。
 モーティシアが家に戻ったとたんに、マリオンは不安な表情を浮かべたまま抱きついて離れなかったのだ。
 マリオンなりに頑張ったのだろう。ほんのわずかに片付けられた部屋と、あまり量の減っていない食料。
 ジャスミンが用意してくれた、机の上に乗る小さな小箱のタンス周りだけが、玩具箱のように少しだけ散らかって。
「…さあ、もう室内でも寒い季節なんですから、せめて上は羽織りなさい」
 モーティシアの髪を小さな手のひらから取り上げながら、ベッドの枕元にふわりと置かれた二着の寝間着の片方を自分で羽織り、もう片方をマリオンの肩にかけてやった。
 それは、マリオンの身体に合わせたサイズの白の寝間着だ。
 モーティシアの衣服はマリオンにはどれも大きかったので、彼女の為に改めて買ったものだ。
 購入したのは昨日。
 城を出てすぐに商業区に向かい、頼まれていた花束と、手近なものを選んだだけの買い物。
 本当はもう少し選んでやりたかったが、マリオンの好みなどまだ知らず、そして選び悩む時間が惜しかったのだ。
 不安定なマリオンと、いつ出くわすかわからないユージーンと。
 特にユージーンに見つかってしまうことだけは阻止したかったので、買えた衣服は寝間着二着と部屋着二着だけだった。
 家に戻ってマリオンに手渡した後に改めて見てみれば、四着とも似たり寄ったりのシンプルな前ボタンのワンピースで。
 それでもマリオンは花束と衣服を喜んでくれたが、次はもう少し気の利いたものを贈りたいと思ってしまった。
 マリオンは昨夜着た寝巻きとは色違いの白の寝巻きに袖を通し、前を留めることはせずに見上げてくる。
 一糸纏わぬ姿とはまた異なる、扇情的な姿。
 昨日も今日も、マリオンに求められるがままに抱き合ったというのに、まだ身体が反応しようとしていた。
「…ちゃんと前くらい止めなさい」
 胸元に手を伸ばして、ボタンを留めてやる。
「せっかくセクシーな姿でモーティシアさんを誘惑しようと思ったのに」
「はいはい、もう充分誘惑されていますよ」
 適当に相手をしながらきちんと全てのボタンを留めれば、少しだけ気分が和んだかのようにマリオンは離れようとするモーティシアの腕に両手を絡めた。
「もう少しだけ、一緒にいてほしいよ…」
 胸をすり寄せて、少しだけ不安そうな表情でじっと瞳を見つめてきて。まるでどうすればモーティシアがわがままを聞いてくれるか分かっているかのようなあざとさ。
 以前のモーティシアなら、こんな頭の悪そうな誘いなどに乗らなかったが。
 まだ王城に戻るまで時間はある。
 そう自分に言い聞かせて、わざと大きめのため息をついた。
「あなたが眠るまでは一緒にいてあげますから、もう一度眠りなさい」
「……そんなことしたら、私が寝てる間に王城に帰っちゃうでしょ?」
「今朝は起こしたでしょう…」
「今朝と明日は違うわ」
 だから眠らない、と、眠りそうな声で。
 半ば強引にマリオンをベッドに横にさせて、額にかかる柔らかな前髪を指先で撫でるように梳いた。
 そうすれば、気持ちよさそうに目をとろけさせる。
「…このまま眠りなさい」
「えー…じゃあ、モーティシアさんも…」
 くい、と弱い力で袖を引かれるが、応じはしなかった。
「…モーティシアさんだって、疲れてるんでしょ?忙しいのに、私の世話までして」
 拒んでも諦めないマリオンの瞳が、現実的な不安に揺れる。
 彼女なりに罪悪感を感じていたのかと、愛おしさが込み上げた。
「王城での仕事はそこまで忙しくはありません。細かく休憩を挟みますし、肉体労働というわけでもありませんからね」
 仲間であり部下でもあるニコル達は妙に疲れた顔をしていたが、恐らくは気疲れなのだろう。自分が部下に慈悲深い性格でないことはわかっている上に、ミモザ姫までもが滞在する姫の応接室での作業だったのだから、どんな任務より気を遣ったはずだ。
 特にニコルはせっかくの休日で回復した気力をまたごっそりと削られている気がしてならない。
 それを思えば、少し肩が重い程度、何の負担でもない。
「疲れた時は、そのベッドを開けてもらうだけです」
 だから気にするなと暗に伝えても、マリオンの表情は浮かないままだった。
「…あなたには自分を優先する時間が必要なのです。今は自分を大切にしなさい」
 回復することにだけ頭を使え、と。
 それでもマリオンはモーティシアから手を離さなかった。
「だったらなおのことだよ…私の隣にいて…お願い」
 自分を優先させる為にも、モーティシアに隣で休んでほしいと。
 それはマリオンの優しさがゆえのエゴ。
 自分が安心する為に。
 縋る眼差しにゾクリと悪寒のように背筋が震えたのは何故だろうか。
 自分がマリオンに好意と同等の感情を持っていることは理解した。
 自分だけを頼ってくる姿がたまらなく愛おしいことにも。
 もし悪寒の原因が罪悪感だというなら、自分と彼女の罪悪感の在り方に雲泥の差を感じたからか。
 純粋な優しさからくるマリオンの罪悪感と違い、モーティシアが彼女に行っていることは褒められたものではないから。
 マリオンを保護してくれる安全な場所があることを、モーティシアはまだ伝えていないのだ。
 ガウェ・ヴェルドゥーラの個人邸宅なら、マリオンは心からの安心を得られただろう。
 防御結界術なら誰にも負けない自負がある。
 それでもガウェの家なら、頼れる人がいる。親身になってくれる人もいる。
 マリオンを殺そうとした男だけでなく、ユージーンからも安全に守られるだろう。
 モーティシアだって、他人事だったならマリオンをガウェの邸宅に預けることを強く勧めた。
 でも、彼女との関係はもはや他人事ではない。
 自分だけを慕い縋る存在の心地よさを知ってしまったのだ。
「…あなたが眠るまではそばにいます。私が家を出るときに眠っていたら、絶対に起こしますから」
 だから、眠れ、と。
 自分の中にある邪な感情を自分自身の手で否定するように、マリオンの瞼に優しく触れた。
 マリオンの選択肢を奪い閉じ込めている自覚があるから、せめてもの償いで自分の心を軽くする。
 そして思い出すのは、昨夜マリオンがテューラに向けて書いた手紙の内容。
“モーティシアさんにはとても良くしてもらっている。私は大丈夫だよ。テューラこそ、あまり思い悩まないでね”
 手の力の弱そうな少し細い筆跡で、そう書かれていた。
 みんなの元に戻りたい、そう書かれていたらどうしようかと不安だった胸中から、手紙を読んでしまった。
 手紙の内容に安堵して、しかし他者の手紙を勝手に読んだことへの罪悪感も心に付け足されて。
 トントン、と。
 幼い子供をあやすように、横たわるマリオンの身体に触れて、ゆっくりと優しくリズムを打つ。
 優しいモーティシアだけを見せて、薄暗い胸の奥深くは隠して。
 マリオンはモーティシアの衣服を掴んだまま目を閉じる。
 眠っているようには見えないが、モーティシアの方に身を寄せる姿に、なにより気持ちが救われた。
 同量の罪悪感には蓋をして。
 今はマリオンの為に。
 その柔らかい身体を思い出しそうになる感情を押し殺して、モーティシアも座ったまま少しだけ目を閉じた。

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 飛び回る伝達鳥の中に、この場所にそぐわない褪せた色合いの小型の子を見かけて、エレッテはじっと窓の外を見てしまった。
 昨日から異常なほど飛び回る伝達鳥達。
 小型のものから中型までさまざまだ。
 その中で、闇に包まれた夜空の中に一羽だけ。
 王城という御立派な場所に似つかわしくない小型の鳥だった。
 すぐに飛び立ってしまったので数秒しか眺めることはできなかったが、場違いな小鳥が王城を出ていく様子が、まるで今の自分と重なるようで。
 エレッテはここから出られないのだが。
 自嘲の笑みすら浮かべられないまま、視線はまた足下へと戻った。
 ここへ連れて来られてから、何日経ったのだろうか。
 ニコルとアリアの二人に会った日から数えても、あまり日にちは経っていない気はする。でも何も口にしていない身体が、ひどく残酷に時間の遅さを伝えるようだった。
「…エレッテさん」
 呼びかけられて、無視をする。
「起きられたなら、せめて何か召し上がってください」
 カタン、と小さな音を響かせながら、見目の麗しい青年がベッドに座り込むエレッテの前へ食事の乗った盆を置く。
 エレッテの世話係として用意された彼に何の役目が与えられているのか、聞かずともわかっていた。
 捕らえたはずのファントムの仲間を、豪華な室内で優しく囲い込んで。
 見事なものを過分に用意し、話し相手は美しい青年一人。
 彼にエレッテの心を開かせようという算段なのだろう。
 だが。
「…エレッテさん…無理はなさらないで下さいーー」
 彼の手がエレッテの身体に触れようとする寸前で、赤子ほどの大きさのあるフレイムローズの護衛蝶がエレッテと彼を遮った。
「…フレイムローズ殿…私だって彼女が心配なのです。……わかってくれませんか?」
 青年はフレイムローズにも優しく話しかけるが、護衛蝶はエレッテから離れることはしなかった。
 有り難い、と切実に思う。
 もし青年と二人きりにされていたら、不安でたまらなかっただろうと思うから。
 男性がまだ怖い。
 震えるほどではなくなった今でも、近寄られることは本能にすり込まれた恐怖でしかなかった。
 近寄らないでと、それすら話したくない。
 青年も一日中張り付いているわけではなかったが、エレッテとの対話を諦める様子は見せなかった。
 何とかしてもう一度アリアと話したいとは思うが、向こうからまた会おうと思ってくれない限りは無理なのだろう。
 空腹から朦朧とする意識の中で、銀の髪の美しいアリアを思い返す。
 ガイアとよく似た美貌と優しさ。
 隔離された小さな白い繭の中で、こちら側の味方になってほしいと伝えたことは、フレイムローズには筒抜けのはずだ。
 恐らくフレイムローズはそのことをエル・フェアリア側に伝えてはいない。
 アリアも返答などしなかった。
 だからもう一度会って話したかった。
 エレッテが逃げる為ではなく、自分達の呪いを解く為に。
 呪いを解いて、心を苦しめる闇を振り払って、そして。
ーーウインド
 彼と二人で静かに暮らしたい。
 乱暴者の恋人。
 彼が望むから、無理矢理恋人関係となっていた。
 離れてようやく、エレッテもウインドのことが好きだと理解出来た。
 理解出来たのに。
 会えないつらさが、肩を強く冷やしていくような感覚。
 空腹よりも、その冷たさの方がつらかった。
 会いたい。
 会いたくて、たまらない。
 きっと今ウインドが現れたら、人目など気にせず抱きすがって、大声で泣いてしまうだろう。
 でも、ウインドが助けに来てくれるなんて、空想でしかないから。
 自分で自分の身を守るようにベッドの上で縮こまりながら、自分の足元を睨みつける。
 フレイムローズすら本当は味方ではないのだと自分を律しながら。
 もう夜空に目を向けなかった。
 ただ静かに、機会をうかがう為に。

第90話 終
 
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