第90話


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 夜も更け、時間相応の静まり返る闇のような世界の中で、ニコルは露台から夜空を見上げていた。
 見つめる先に、目当ての小鳥はもういない。
 モーティシアから預かった手紙を持たせて夜空へと飛び立たせたから。
 マリオンからテューラへの手紙。それとは別に、ニコルからも質問をひとつ。
 自分ははたして夜空に溶けた小鳥を探す為に見上げているのか、それともテューラを思って夜空から目が離せないのか。
 ただ、奇妙なほど心は穏やかだった。
 ミモザの応接室隣の控え室で休んでいるアリアと、自分はそこから繋がる露台で。
 レイトルとセクトル、トリッシュも城内の自室に戻り、モーティシアはまた自宅へと帰って行った。
 穏やかとは程遠いはずの場所で、なぜこうも穏やかでいられるのか。
 心休まるほどの静かな時間。
 感じ慣れた気配を背中から察したのは、ひたすら夜空を眺め続けて無心となっていた頃だ。
 部屋と露台を繋げる扉がゆっくりと開いて、姿を見せるのは。
「…アリア起こさなかっただろうな」
「寝ている。安心しろ」
 ニコルの注意にも、ガウェは普段通りだ。
 互いに小声ではあるが、それでも響くほど。
「邸宅に残っていたお前達の荷物、俺達の部屋に運んでるぞ。アリアのベッド近くにあった本だけは持ってきた。控え室の机に置いている」
「持ってきてくれたのか。…助かる」
 ガウェもニコル達の新たな任務を耳にしている様子で、今後の主軸となる母の本を持ってきてくれたことには感謝しかない。
「少し中を見せてもらったが…本当にもう読めないな」
 母の形見の本は、アリアが王城に訪れている途中で、暴徒と化した市民に襲われて潰されてしまった。
 元々古い本ではあった。それでも大切にしていた本が。
 父の形見の木箱と共に、泥に塗れて、踏み潰されて。
「…本の内容はアリアの頭の中にほとんど残ってるみたいだからな。形だけでもあればいい」
 夜空にまた視界を戻して、ため息のような返事をして。
「…領主達の方は、赤都と紫都は快諾してくれた」
「もう動いてくれたのか」
 隣に訪れて地上を見下ろすガウェも、出来ることをしてくれていた。
 黄都に戻る準備や黄都領主としての仕事もあるはずだというのに、アリアとレイトルの仲を後援する為に。
「黄都は前の代までは貴族主義だったが、赤都と紫都は根っからの実力主義だからな。レイトルの実力を知ってもいるから否定なんてそもそもしないだろう。上位三家が揃えば後の家もこちらに続くだろうが、どこから情報が漏れるかわからない。ひとまず藍都に関しては紫都領主の元で勉強中の嫡子から様子を伺わせて、後も周りから少しずつ固めていく予定だ」
「緑都も、とか言ってなかったか?」
「緑都はどうも今、先代領主の不調が続いている様子なんだ。恐らくもう長くはないだろうから、あまり負担をかけたくない。全体がまとまってから話そうと思っている」
「……そうだったのか」
 確かに身内の不幸がありそうな状況で、こちらにも目を向けろ、とは言えない。
 ただでさえデルグ王が亡くなった報告を受けている状況で、各領主達は仕事が山積みだろうから。
「…城内はどうなんだ?こっちは静かに指南書作成してるもんだから、あんまり忙しさが伝わってこないんだ」
「……そうだな。…政務に関してはそもそもコウェルズ様とミモザ様が執り行っていたから問題はいっさいない。領主達と他国とのやり取りくらいのものだ。ほとんど普段通りに戻っている。後は姫様方だが…考えないようにしている様子だな」
 まるでそもそもデルグ王などいなかったかのように。
 王を嫌っていたガウェは口元を歪めて笑い、だがすぐに強く引き結んだ。
「ミモザ様はお前達の方がよく知るだろう。クレア様はサリア様と共に国立の児童施設によく赴いているな。後はスアタニラに向かう為の準備か。フェント様は書物庫に篭ってファントムの持つ古代兵器を調べているし、コレー様とオデット様はひたすら新緑宮の結界維持だ」
「…今日もしてたのか?」
「ん?……ああ、そういえば午後からは見ていないな」
 疲労が蓄積していた幼い姫達をアリアが癒したのは昼前のことで、それ以降は休んでくれている様子に安堵する。
 アリアが少し強い口調で休ませるよう伝えたと話せば、ガウェもしばらく黙り込み、やがて小さく肩を落とした。
「…俺たちは姫様方にばかり苦労をかけているな」
 ガウェの呟きに、ただ無言の同意を。
 自分達が怠けているつもりはない。
 それでも、特に成人前の姫達に苦労をかけている状況が居た堪れなかった。
「せめて夜に俺が新緑宮の結界維持を出来たら、って話したんだけど…モーティシアに怒られたんだ」
「……今の城内を考えると、そうなるな。お前はまだ歩き回らない方がいい」
 ニコルのせめてもの償いも、今はやめろとガウェもモーティシアの肩を持つ。
「新緑宮は安心して魔術師団に任せていろ。お前が千人いるとでも思えばいい」
「っはは…そりゃ一生安全だな」
 ニコルの正体を知るからこそのガウェの軽口が、どこか滑稽で面白かった。
「それで、お前達の方は話が進んでいるのか?」
「…そうだな。アリアの拠点を天空塔に移したいんだが、そっちはどうにかなると思う。後はアリアの休暇事情だな」
「ああ、それならビデンス・ハイドランジアからも聞いている。アリアだけでなく今後増えるだろう治癒魔術師達のためにも、俺の邸宅を使えばいい」
「つったってお前、もうじき出て行くだろ。あの家も潰すって」
「潰す必要はないと考えを変えただけだ。俺の邸宅の規模なら治癒魔術師達とその護衛達の城下での拠点に都合が良いし、あの土地はそもそもヴェルドゥーラ家に割り当てられた場所だからな。使用人たちも、希望する者はそのまま邸宅で雇うことに決めた」
 決めた、と軽々しく言うが、あの場所は王城で働く者達限定の区画だったと思うのだが。
 ニコルも正確に知るわけではないので訊ねることが出来なかったが、ガウェが大丈夫というなら、そうなのだろうと思考を放棄した。
「そういや、ジョイは大丈夫だったのか?」
「あいつなら何の心配もない。アリアの治癒魔術を受けられなかったことだけ残念がっていたが、多額の慰謝料を貰えることになって嬉しそうにしていたな」
「…そうか」
 あまり彼を知るわけではないが、ジョイらしさに安堵した。
「ビデンス・ハイドランジアの邸宅も、これを機に強化する事になった。万が一を想定して、俺の邸宅の次に治癒魔術師の城下拠点になるようにな」
「……いいのかよ。そんなことして」
「大丈夫なんだろう。ビデンス・ハイドランジアの子供や孫も武術や魔術に長けた実力者揃いだ。ビデンス殿に何かあったとしても、後を継ぐ者が揃っている。長い目で治癒魔術師に城下から仕えることは可能だ」
 アリアの為に力を貸してくれる者達がいる。
 とても心強くて、同時に申し訳なくて。
「アリアのことはあまり心配するな。ミシェル殿のことを気にしているなら、こっちから無理やり婚約者を充てがえばいい話だからな」
「それはそれで問題あるだろ…ミシェル殿がアリアに気があるのは前から知ってたし、アリアがミシェル殿を選んでたなら俺は何も思わなかったからな…」
 ミシェルが悪いとは思わない。ニコルにとっての敵は、勝手にアリアの結婚相手をミシェルだと決めて進めようとする国なのだから。
 ミシェルを進めていたモーティシアがミシェルに不信感を抱いた事は気にかかるが。
「ミシェル殿も今まで婚約者がいなかったわけじゃないんだぞ?恋人もいたからな」
「そうなのか?」
「ああ。妹情報だがな」
 ミシェルの妹ということは、ジュエルかガブリエルか。
「ガブリエル嬢がよく恋人探しの世話をしていたみたいだ。ミシェル殿も“選んでくる女性のセンスはいい”と誉めていたが…ミシェル殿が完璧主義だったらしくてな。向こうが全員逃げていったとガブリエル嬢が何度かすごく怒っていた」
「…なんだそれ」
 ガブリエルの名前を出されて一瞬だけ不愉快な気分に陥るが、話の内容に思わず笑ってしまう。
「姫付きの騎士達は女への理想も高くなるって聞いてたが、それか?」
「どうだろうな…あー、一度聞いたのは、そもそもミシェル殿が自分で何でも完璧にこなすのに、相手の女性にも同レベルを容赦なく求めてくる、とか」聞いた話を思い出すように語るガウェに、今度こそ強く笑ってしまった。
 まさかそんな一面があるとは思いもしなかった。
「そっちは兄のワスドラート殿から聞いた話だから、事実なんだろうな」
「完璧主義か、そりゃ嫌がられるだろうな」
 ミシェルがどれほど仕事の出来る男かはわかっている。それを私生活でもとなると、相手の女性達はさぞ気力を削がれたことだろう。
 結婚相手に申し分ない虹の七家の次男坊だとしても、逃げ出したくなるほど。
「…ワスドラート殿はもう完全に回復したのか?毒を飲んで、かなり危険だったんだろ?」
「ああ。妻の世話もあって、今はもう完全に回復している。第二子までお腹にいるんだからな」
 子供まで。
 順調に回復していたことにほっとしてしまった。
 初めて会った時は気味の悪い男だと思ったが、最終的には前黄都領主の罪を認めさせる為に自ら進んで服毒までしたのだから。
「紫都でも順調に領主のいろはを学んでいるみたいで、俺が黄都に戻る際に一緒に黄都に行く予定なんだが、このままだともうしばらく紫都領主の元にいそうだ」
 ガウェの伝えたいところがいまいち理解できず、だがすぐに納得できる理由に気付いた。
「…優秀だから手放したくないってことか?」
「ああ」
 元々は前黄都領主バルナ・ヴェルドゥーラの元で領主のいろはを学んでいたワスドラートだ。
 王城に訪れた際にミシェルと剣術の兄弟対決を行っていた様子もニコルは覚えている。
 ミシェルには一歩及ばなかったが、なかなかの素質を持っていた。騎士としての素質も充分にあったはずだ。
「…ジュエル嬢がミシェル殿に“ガードナーロッド家の膿”なんて言ってた時には、最低な家だと思ってたがな」
「……ああ、晩餐会の時か。ジュエル嬢もあそこから随分と人として成長したな」
「まさか大会のサポートに唯一の侍女として行くんだからな」
 ぽつぽつと思い出しながら語る、少しだけ過去を遡る昔話。
 ほんの少し前のはずなのに、あの頃が懐かしいほどに自分達も変わってしまった気がする。
 ガウェは黄都領主の座を奪ったし、ニコルは、その出自が発覚した。
 あの頃に戻れたら、自分はどうするだろうか。
 良いことばかり考えそうになって、だが本当にそうなってしまったらテューラとは出会えていないのだと気付き、思考を止めた。
「……そういや、あの女はどうなった?」
 ふと気になったのは、エレッテのことだ。
 ニコルがアリアと共に数日の休暇に出る前に話をした、父の仲間。
「名前…エレッテ、だったか?」
 忘れかけていた名前を思い出せば、ガウェもああ、とニコルの言いたいところに気付いてくれる。
「魔術師団員には全く何の応答もないらしい。話しかけても何をしても無視を決め込んで、食事も摂らないと聞いた」
「食事もって…」
 そんな無理な話が、とは思ったが、彼らは不老不死なのだ。食べずとも生きていけるのなら、不可能ではないのだろう。
 それでも何の影響もないとは思えないのだが。
「フレイムローズが護衛蝶姿で話しかける時だけ、少し反応を見せるらしい、申し訳なさそうに笑うだけだとはフレイムローズも言っていたがな」
 結局は何もわかっていないままだと。
「そうか…」
「あの女に会ってもいいとコウェルズ様から言われてるんだろ?会いに行くか?」
「……いや、いい」
 ガウェのエレッテへの態度には不器用な優しさが見えるから、妙な感覚だった。
 まるで敵とは認識していないような。
 そしてそれは、ニコルも同じ様子で。
「……やっぱ、どこかのタイミングでまた会った方がいいのかもな。次は親父の居場所も聞き出せるかも知れない。…そういや、お前に渡した礼服はどうなんだよ。何かわかったのか?」
 エレッテから手に入れたい情報の大半はファントムの件で、そしてもう一つ、ファントムと繋がる為の情報となるものをガウェに貸していることを思い出す。
 父親が与えてくれた二着の礼服からは、何かわかったのだろうか。
「……ラムタルで作られたことは確実だろう。それも恐らく、ラムタルの神殿で、だ」
「神殿で?」
「ああ。ラムタルでは今、エル・フェアリアの藍都のレースや刺繍が爆発的に人気なんだ。どんな衣服にも布地として、少量だろうが取り入れられている。…ラムタルの神殿で作られる衣服用にも藍都は布地を輸出していてな…アリアの礼装の一部に、その布が使われていた」
 繊細な礼装のドレスの一部に。
「ラムタルの布地の繊維は、エル・フェアリアより精密なんだ。その裾の中に使われていたのを見つけた」
 ラムタルを拠点としているだろうとは以前から話していた。そこからラムタルの神殿にまで目星を付けていたとは。
「どこの神殿かはわかるのか?」
 ラムタルは国土が広い。そして神殿も各所に点在している。
「……闇市側に探させているところだ」
 ガウェは静かに告げる。
 だがその声には、以前のような切実さはもう見当たらなかった。

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