第90話
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ミモザの応接室内がようやくある程度片付いた夕暮れ時、少し大きめのポットに新たなお茶を作りながら、ジャスミンはミモザの分だけカップに注いだ。
あまりの仕分け量の多さに、午前中こそ皆で何度か手を止めて休憩していたが、次第に各々自分が休みたい時に軽くお茶を飲んで休憩し、仕分けを再開するようになったのだ。
気を遣ってくれるジャスミンがいつの間にか準備係となり、唯一ミモザにだけは淹れたてを用意して。
扉の向こうで待機するミシェルとニコラと隊長のジョーカーにまでお茶を持っていくものだから、感動したニコラが妙な熱視線をジャスミンに向け始め、トリッシュの婚約者だと改めて教えられて肩を落としていた。
「ニコラにもそろそろ相手が現れてもいいのに」
そうミモザは自分の護衛騎士を評価するが、レイトルとセクトルが真顔で彼の浮気症な一面を教えてしまい、ミモザの中でのニコラの評価がグンと下がったのは本人に教える必要はないだろう。
コレーとオデットに強い治癒魔術を施して疲れが濃かったアリアも、応接室の隣の控え室で少し仮眠を取らせると何とか回復してくれた。
アリアは他国の指南書に目を通しながらも使える所、省く所をそれぞれメモしており、アリアなりに効率を考えた作業にモーティシアが感心していた。
「ーーではこれをリナト団長に持って行ってください」
「え、もう出来たのか?」
夕暮れ時、モーティシアが手渡した分厚い書類の束に、呆れた声をトリッシュは出す。
「ミモザ様がいて下さいましたので、早く済んだのですよ」
「……はは…」
何やら別作業も同時進行していたモーティシアに、内容を知るトリッシュが呆れたような笑いを浮かべた。
「見てみろよ、この短時間でほぼ完璧に仕上げてきてるぞ。こっわ…」
ミモザもいるというのに、トリッシュは手渡された書類を気楽な言葉と共にニコルに向けてくる。
「……トリッシュ“殿”、ミモザ様の前だ」
小声とはいえラフすぎる、と注意するニコルに向けて、トリッシュはハッと我に返るように口を手で押さえた。
悪い、と苦笑いを浮かべながら、改めてトリッシュは分厚い書類をペラペラとめくり。
「これは?」
「治癒魔術師の拠点を天空塔に移す為の説得資料とミモザ様のお墨付きサインです。さすがに数日はかかると思っていましたがね…」
仕事の速さに呆れているトリッシュと共にモーティシアへと目を向ければ、全員もつられるように手を止めてモーティシアへと目を移していた。
「早いも何も今日始めた訳ではありませんからね。治癒魔術師が戻った頃から少しずつ治癒魔術師と天空塔の繋がりについては研究していましたし、ジャスミン嬢が見つけてくれた治癒魔術師に関する資料文献も非常に役に立ちました。先ほどミモザ様にも説明しましたし、これで通らなければ貴族主義者達の怠慢ですよ」
自信満々のモーティシアと、満足そうに頷くミモザと。
というか今日のいつ頃ミモザと二人でそんな重要な話しをしたというのか。
優雅に別の資料に手を伸ばしながら、ミモザは本当に満足そうに微笑んで。
「以前は猛烈な反対を受けましたが、説得材料が少なすぎた為です。私も今日はあえて批判的な目線でその書類に目を通しましたが、ここまで完璧に揃えたなら、誰にも文句は言えないでしょうね」
少しイタズラっぽく微笑みながら、ミモザは書類に満点を与える。
ニコルがペラペラとめくっていれば、アリアとレイトル、セクトルも書類を覗きに訪れた。
内容はどれもこれも濃密で、天空塔とメディウム家の長い歴史から、二つが共存する必要性、現在の天空塔の感情、今まで受けた反対意見に対する反論など、事細かに記されている。
書類の最後にはミモザを含め、政務に携わる重要人物の同意サインまで。
アリアを狙っていた大臣のサインも見つけた時は全員の目が点になっていた。
「…この……文字?みたいなのは誰の……」
書類最後の一枚はミミズがのたうったような、幼児の落書きのような謎の一枚で、アリアが首を傾げる。
「これは天空塔からの同意サインですよ。きちんと説明した上で、サインもいただきました」
モーティシアの説明に、マジか、と誰もが驚いた。
気を遣って離れていたジャスミンまで見に来る始末だ。
「本人の同意は最も必要でしょう」
「え、でもあたしはまだサインしてないんですけど…」
「あなたのサインならすでに頂いてますよ。王城に到着した翌日に。お忘れですか?」
「え!?」
モーティシアが書類を何枚かめくり、アリアのサインを見つける。
今と違って少し字が汚いが、確かにアリアの文字だった。
「え、いつの間に…」
「あの時はあなたも大変な時期でしたからね。覚えていないのも無理はありません。改めてサインし直しますか?」
「うーん…字がすごく汚いから…やり直していいですか?」
アリアも以前の字の汚さが恥ずかしい様子で、モーティシアにすぐに新しい書類を作成してもらっていた。
「…いつから準備してたんだ?」
思わず呟いたトリッシュに、皆頷いていた。
それほど以前から準備していたのなら、今日完成してもおかしくはないだろう。
リナト団長に渡せば後は団長が全て済ませてくれるだろうが、それにしても行動が早い。
少し離れた場所に行ったアリアとモーティシアは、改めて作成された用紙に先にモーティシアが術式を施し、アリアがゆっくりと丁寧にサインをしていく。綺麗に書く為か姿勢が前のめりになってはいるが、王城に訪れてまだ数ヶ月程度であることを考慮すれば凄まじい成長速度だ。
「見違えるほど文字が美しくなりましたね」
「ありがとうございます!」
褒められて、アリアは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
モーティシアはアリアのサインも書類の中に収めて、トリッシュに持って行くよう改めて手渡す。
では、とトリッシュも素早く応接室を後にし、残されたメンバーはひと息つくように少し姿勢を緩めた。
「天空塔の件はすぐに片付くでしょうが、移れるのは早くてもお兄様が戻られてからでしょう。それまでは気にせずここを使ってちょうだいね」
優しいミモザの言葉には感謝しかない。
「騒がしいばかりで申し訳ございませんが…」
「賑やかなのも楽しいわ」
レイトルは眉尻を下げるが、ミモザは楽しげに笑ってくれる。
姫の優しさは有り難いばかりだ。
本当なら政務棟に缶詰め状態になっていただろうに、ニコルやアリアの為にここまでしてくれるのだから。
その為にミモザの騎士達が政務棟と応接室の往復をしている状況だが、ミモザの騎士達は煩わしがる様子はなく、同時にミシェルやニコラを羨ましがっていた。
なんで暴力事件当事者のお前がここなんだよ、とは扉の向こう側から聞こえてきた会話だ。
確かにニコラはセクトルに怪我を合わせたクラークを殴っているので、他の者達からすればその点においては納得できないだろう。
「コウェルズ様が戻って、本当に天空塔に移れたら、ここに持ってきたものも全部また移すんだよね?」
「そうなるな」
ニコルとアリアは起こりうる未来を想像して目を遠くするが、書物庫から応接室まで実際に移動させたレイトルとセクトルとジャスミンは、考えないようにする為か視線をそれぞれ三方向にそらした。
「休憩はもうお終いですよ。トリッシュ殿が戻る前に最後の整頓を終わらせてしまいましょう。それさえ済めば、今日の任務もお終いですよ」
モーティシアの改めての指示に重い腰を動かしながら従う。
アリアとジャスミンも最後と聞いて仕分け作業の手助けに来てくれて、ミモザが見守る中で全員でラストスパートをかけた。
ここで綺麗に仕分けていれば、天空塔に移る時も移動だけで済むはずなので、楽なものだろう。
後はアリアの休暇や、新たな治癒魔術師育成の過程についてか。
考えるのはモーティシアが大半してくれるのだろうが、ニコルも考えないわけではない。
それに、エルザだ。
エルザは独学で治癒魔術を会得しようと努力を続け、ようやくほんの少しの傷なら癒せる段階にまで辿り着いている。
アリアもエルザに治癒魔術を教えていたので、エルザが共に学びたいと強く願えば、通ってしまうのではないかと思えた。
想像して、気が重くなって。
勝手であることは重々理解しながらも、エルザには治癒魔術師育成の計画が伝わらなければいいのに、と強く願ってしまった。
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