第90話


第90話

 アクセルがヨーシュカを呼んでほしいと頼んだ時、リナト団長は当然のように拒んでいた。
 それでも何度も頼み込んだのは、あの異常な光景が脳裏に焼き付いて離れないからだ。
 エルザ姫を覆った、禍々しい闇の糸。
 あれが何なのか知るのは、ヨーシュカだけだろうから。
 リナトがアクセルを宥めようとしてくる間にクルーガーが医師団長と共に戻り、目に異常がないか診察を受けて。
 異常があればよかったのに。
 そうすれば異常のせいだと自分を納得させて、安心できたのに。
 アクセルの目は当然のように、異常など見つからなかった。
 どうかお願いします、とヨーシュカを呼んでほしいと頼み込み、クルーガーは最初こそ静観していたが、やがて共にリナトを説得してくれた。
 ヨーシュカと話したい理由がエルザ様だと、伝えてすぐだった。
 他の者達には見えない黒い糸のことをどう説明すれば良いかも分からず、それでも懸命に伝えて。
 折れたリナトによってヨーシュカが連れてこられた時、室内にいたのはアクセルとクルーガーだけだった。
 アクセルと三団長が揃った救護室内。
 物々しい空気は、どうあがいても消えはしないだろう。
 本来ならアクセルの魔術師階級では呼び出せるはずもない三人を前に気持ちが負けようとするが、強く己を奮い立たせる。
 ヨーシュカに最初に伝えたのは、昨日潰れた眼球は無事に回復したということで。
 ヨーシュカは原子眼についてなにも話してくれなかったので、何も分かってはいないのだと察した。
「ーーそれで、エルザ様から何が見えたんだ?」
 リナトとクルーガーが間に入って警戒を露骨に現す中で、ヨーシュカは動じもせずに訊ねてくる。
 リナトがここに訪れるまでに簡単に説明してくれていたのだろう。無駄な言葉は不要だと鋭い眼差しが告げていた。
 何が見えたのか、伝える前にもう一度だけ、アクセルは強く集中してヨーシュカを見つめる。
 昨日は一本の黒い糸が幽棲の間の地中深くとヨーシュカを繋げるのを見た。
 ヨーシュカにぐるぐると絡みつき、心臓に繋がるように胸部へと。
 まだ力を使うのは怖かったが、あらゆる波長を感じ取り、不要な波長は取り除き、見たいものを真剣にたぐる。
 そうすれば、最初はぼんやりと、やがてすぐにヨーシュカに絡まる糸が目に映った。
 ぐるぐると絡まる、髪の毛のような細さの糸。
 だがヨーシュカへの絡まり方は、エルザの時のように全てを黒く潰すほどではない。
 チク、と昨日のように目が痛み始めて、慌てて目を閉じた。
「アクセル…」
 リナトが心配してくれるのを制して、チリチリと痛む目をヨーシュカに向けて。
「…あなたに絡まるその黒い糸は何なのですか?…それと同じものがエルザ様に…絡まるなんてものじゃなくて、エルザ様には覆い隠すように糸が……」
 問いかけに、返事はなかった。
 ただ息を呑むようにヨーシュカが目を見開き、凝視してくる。
「待て、エルザ様に何があると?」
 最も困惑を見せたのはクルーガーだが、アクセルにも説明など上手く出来はしない。
 それでも、自分の目に見えたものをありのままに伝える努力はした。
「…昨日、幽棲の間の床から黒い糸が見えて、それがヨーシュカ団長に絡まっている所まで見たんです。…その糸が、今日…エルザ様にも」
 恐ろしかった姫を思い出して、背筋がゾクリと震える。
「黒い糸はエルザ様の全身に絡みついて、真っ黒になってしまっていたんです」
「その黒い糸とは何なんだ」
「わかりません!わからないからっ…だから、ヨーシュカ団長を呼んでもらったんです!!」
 近付いてくるクルーガーへと、恐怖を払拭したくて思わず叫んでしまった。
「同じ糸でした…絶対に同じものです!…あの変な短剣の呪いの波長みたいな、とにかくとても危険なものです!!」
 ヨーシュカは未だに口を閉じたままで、語ろうとはしてくれない。
 たがリナトとクルーガーが共に聞いているのだから、必ず糸の正体がわかると思っていた。
 王族に奇妙なものが絡みついているなど、許されることではない。
 それにもしあの糸がエルザが病んでしまっている理由ならば、取り外せば普段通りの美しい姫に戻るはずだ。
 だが。
「…ワシからは話せん」
「貴様!!」
 ヨーシュカは口を閉ざし、クルーガーが胸ぐらを掴んだ。
「話せん理由がある…話したくてもだ。……それにしても、エルザ様だったとはな…」
 ヨーシュカの言葉は、奇妙な所で途切れた。
「エルザ様が何だというんだ!話せ!!」
「話せん理由があると伝えただろう…知りたければ、知る術はあるがな」
 クルーガーの腕を軽々と弾いて、ヨーシュカはアクセルに改めて目を向ける。
「小僧…知りたいというなら、お主なら魔術兵団に入れてやっても良いぞ」
 言われた意味を理解できず、不愉快さに眉を顰めた。
「ヨーシュカ!!魔術師団員には指一本触れさせんぞ!!」
「貴様が阻もうとも、小僧がこちらに来たいと願えばワシは歓迎しよう。どのみち魔術兵団入りを果たせば、貴様達も小僧の存在など忘れるだろう。ワシやナイナーダを忘れているようにな」
 ヨーシュカの意味深な発言に、今度はリナトとクルーガーが言葉を飲み込む番だった。
「運良く思い出したとして、それで何か出来たか?何も変わらん。彼の流れも、何も変わっとらん。また緩やかに忘れていくだけだ」
 ポツリと、まるで虚しさがこぼれる様だった。
「万が一話せていたとしても、結局貴様らは闇を否定するだけだ」
 過去に何があったのか。
 リナトとクルーガーが旧知の仲であることは知っている。ヨーシュカも年齢なら二人と同じ頃のはずだ。
 なら、この三人は親しい間柄だったのだろうか。
 もしそうなのだとしたら、今の関係の溝の深さはひどく悲しいものに思えた。
「小僧、一つだけ教えてやる。ワシら魔術兵団には、誓約が心臓に施されている」
 意味深な言葉を残して、ヨーシュカは静かに去ってしまった。
 結局黒い糸の正体はわからないまま。
「あやつ…勝手なことばかり」
 リナトは去ったヨーシュカに悪態をつき、クルーガーは疲れたようなため息をひとつ。
「誓約…心臓に?」
 アクセルには、ヨーシュカの最後の言葉が強く引っかかった。
 誓約というには、何かを誓ったのだろう。
 何を、何に、それは全くわからないが。
 だが心臓にその誓約が施されているというなら、もしかしたらアクセルの目に映ったあの黒い糸がそうだというのだろうか。
 なら、なぜエルザには黒く塗りつぶすほどに絡みついていたのか。
 魔術兵団入りすれば、ヨーシュカが話せないと告げたその真実が知れる。それは、アクセルもヨーシュカのように、エルザのように、あの恐ろしい糸に絡みつかれるということなのか。
 黒い、暗い、闇色の恐ろしい波長。
 想像しただけで、全身を氷に漬けられたような恐怖に苛まれた。
「…アクセル殿、エルザ様にその黒い糸が覆っていたと言っていたな。その糸の正体は何だかわかるか?」
 姫を守る最たる存在であるクルーガーが、アクセルに答えを求めてくる。
 わからないままであることはクルーガーも理解しているはずだが、仮説でもいいからと、その目が告げてくる。
 そしてアクセルにも、あれが何であるのかの仮説は立てることが出来て。
 誓約だとヨーシュカは言った。
 だがあれは。
「……呪い…です」
 人の憎しみが生み出す、ざらりと動き回る怨恨などではない。
 糸として、形として、人にまとわりつく呪い。
 それが、姫に絡みつき、覆いかぶさる。
 ニコルのせいで心が病み、つけ込むように呪いに苛まれたのか。それともあれに絡まれたから、心が病んでしまったのか。
「……もう一度、幽棲の間に降りてもいいですか?」
 恐怖心は身体の芯まで苛んでくるが、このまま見過ごすことも出来なかった。
「…原子眼についてもう少し調べてからにしよう」
 リナトの返答に、クルーガーも強く頷く。
「これからは原子眼で見えたものは出来るだけ紙に書き記して残しなさい。どんな些細なものでもだ」
「え、ですが…どれが私にしか見えてないかなんて」
 今まで見えてきたものは全て、アクセルの日常だったのだ。何が他者にも見えて、何が見えていないかなどわからない。
 それでも、リナトは書き残すよう念を押す。
「とにかく残すんだ。周りに聞いてもいい、片っ端から残してもいい」
 原子眼を詳しく調べる為にも、と。
 自分の能力には前例が存在しないのだと、アクセルは改めて困惑することしか出来なかった。

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